いつからそうだったのかわからない。もしかすると、始めからそうだったのかもしれない。
「私の言うことが聞けないのか?」
 拳を握ったゴールドが言う。審判小僧はすでに殴られ、壁にもたれかかっている。頬は赤くなっており、明日には青くなっているだろう。それでも審判小僧はゴールドから目を背けなかった。
「すみません……」
「ん。よろしい」
 素直に謝れば、ゴールドは優しく抱きしめてくれる。この優しさが何よりも好きだった。
 審判小僧はゴールドのことを愛していたし、ゴールドもまた審判小僧を愛していた。その思いが暴力という形をとっていても、何ら問題はない。
「早く立て。訓練を再開するぞ」
「はい」
 返事をしたものの、体が悲鳴を上げて立ち上がることができない。
「待たせるな」
 腹を踏みつけられ、呻き声が上がる。
「……お、や……ぶん」
 かすかな声でゴールドを呼ぶが、それに答える声はない。
「しかたない。ほら、手をかせ」
 審判小僧の手を握り、立たせる。
 手の温もりは優しく、審判小僧を安心させる。
「明日、青くなっているかもな」
 赤く腫れている頬に触れて悲しげに言う。キャサリンに見てもらうかと尋ねられると、審判小僧は静かに首を横に振る。この返答を望んでいるということはわかりきっている。
 青くなった痣を見て、ゴールドは優越感に浸る。あの傷を作ったのは自分で、審判小僧は自分の所有物だと主張したいのだろう。
「そうか」
 治療を拒否する仕草に、満足気に笑う。
 痛む体を無理矢理動かしながら、前を歩くゴールドに続く。
 遅刻すれば殴られる。言い訳をすれば蹴られる。口を開けば引っ叩かれる。歩けば、近づけば、笑えば、泣けば。暴力は日ごと数を増し、審判小僧の体に刻まれた。
 さすがの住人も、心配の言葉をかけてくれた。その度に二人はこれが愛なのだと言う。
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。平気だよ」
 肌が見える部分だけでも、かなりの傷があった。服の下に隠された肌にはさらに傷があるのだろう。カクタスガンマンは過保護なほどに審判小僧に声をかけた。
 いつか、あの暴力に耐え切れなくなったときに、すぐに相談できるように。
「キミはいつもカクタスガンマンといるね」
「え、親分?」
 心配と優しさは全て裏目に出る。
「何を話してるんだい?」
「傷、大丈夫かって……」
「ほう」
 目が細められた瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
「お前は私のものだ」
「――っ」
「どこにもやらない。誰にも渡さない」
 蹴られる。殴られる。それでも幸せだと感じる自分が少しだけ怖かった。



 訓練の時間になっても審判小僧がこないことは、最近では珍しいことだった。
「ふむ。少し探してみるか」
 他の小僧達に自主訓練を促しておき、ふらふらと審判小僧を探しに出た。
 自室にはおらず、食堂や地下にもいなかった。いつものパターンならばそろそろ見つかってもよさそうなものだ。見つけたらとびっきりのお仕置きをしてやろうと、顔を緩ませながら廊下を歩く。
 冷たい鉄の扉の前を通ったとき、かすかに聞こえた声は探している者の声だった。気に喰わないと思った。この部屋の住人といることが。
「私の訓練をサボるなんて、いい度胸だね!」
 音が五月蝿く響くほど強く扉を開けた。
 予想していた風景は怯えながらも謝ってくる子分の図。現実に見えた風景は体を小さくし、頭を抱えて怯えている子分の姿だった。
「……帰るニャ」
 部屋の主が静かに言う。
「なっ」
「今は帰るニャ」
 有無を言わさぬ威圧感がそこにはあった。
「本当は二度と審判小僧と会わないで欲しいニャ。
 でも、それは望まれていないことニャ」
 だから今は帰れと続ける。
 ゴールドには理解できないことばかりだった。
 審判小僧がここで頭を抱えて怯えている理由も、ネコゾンビが彼を庇う理由も。
「……帰ろう。今日は訓練を休んでいいからさ」
 ネコゾンビを無視し、審判小僧い歩み寄り手を伸ばす。
「――っひ」
 手を見た途端、審判小僧は小さく悲鳴を上げ、部屋の角へと逃げて行く。
 唖然としているゴールドには目も向けず、ひたすらに何かを呟いていた。耳を澄ませてみると、その言葉が聞こえてくる。
「ごめんなさい。殴らないで。叩かないで。ごめんなさい。いい子にするから。ごめんなさい。ごめんなさい。殴らないで。蹴らないでごめんなさい。ボクは好きです。あなただけなんです。ごめんなさい。ボクが悪いんです。叩かないで。痛い。痛いのは嫌だ。何でもします。だから、ごめんなさい。本当に。本当にごめんなさい。心の底から反省しています。殴らないでください。ごめんなさい。大好きなんです」
 ひたすらに謝罪の言葉が並べられている。
「…………」
 ゴールドは静かに自らの手を見た。
 何度も叩いた。殴った。本当は怯えているのではないか。傷ついているのではないかと思いながらも、いつしか当然のように暴力をふるった。
 他の奴らにはできないことをやりたかった。審判小僧の中で唯一になろうとした。
「ごめん、なさい」
 その結果がこれだ。
 涙で顔を歪ませ、頭を抱えて体を小さくしている。ほんのわずかな防衛本能がそこにある。
「明日になればいつも通りニャ」
「……いつからだったんだい」
「もう、ずいぶんなるニャ」
「そうか」
 真実を司る者が、こんな近くの真実に気づくことができなかったことに後悔する。
「じゃあ、また明日」
 謝罪の言葉しか知らぬ子分に声をかけ、開けたときとは正反対に、扉を静かに閉めた。
 ネコゾンビの言葉が正しいのならば、明日の審判小僧はいつものように明るく、暴力を受け入れるのだろう。
 だから、明日は優しく抱き締めてやろう。心臓の音が聞こえるほど強く抱き締め、驚かせて、今日とは違う涙を浮かべさせてやろう。


END