恋に落ちた瞬間を覚えているほど短い生ではない。
 もはや記憶は風化しており、その瞬間を思い出すことはない。おそらく、甘酸っぱい気持ちだったのだろう。と、思うのは、ホテルにある小説にはそういったことが書かれていたからにすぎない。
 審判小僧にとって、親であり師であるはずのゴールドを恋愛感情を持って見てしまうのは、日常であり普通のことになってしまっている。
 褒められれば嬉しい。自分を見てくれれば幸せ。しかたないと言いつつ探しにきてくれるその姿が見たくて、サボることも多い。
 許されない思いなどないこの世界で、それでも彼が告白というものをしないのは、そこに勝機がないとわかりきっているからだ。彼程度の力では、ゴールドの真実を見通すことなどできないが、彼の心にある天秤は審判小僧への恋愛感情に傾くことはない。
「親分!」
「おや。今日はちゃんと来たようで何よりだ」
 訓練をサボらなければ、優しい笑みを浮かべたゴールドと会うことができる。
 優しい先輩達に囲まれ、辛くも楽しい時間を過ごすことができる。こんな幸せを捨てる者がいるというのならば、審判小僧はその者の正気を疑う。同意に、捨てても自分を保っていられるのかを尋ねる。
 審判小僧は自分を保っていることができない。
 思いを告げたところを想像してみる。
「ほら、集中しないと」
 迎え入れてくれたときよりも少しだけ厳しい赤い目が審判小僧を映している。
「はい」
 ハッキリと返事をして、訓練に勤しむ。
 もしも、思いを告げれば、ゴールドはあの赤い目を悲しげに細めるのだろう。答えに迷って、どうするべきかを考えて、それできっと謝るのだろう。どう頑張ってみたところで、彼は審判小僧のことを、子供のようにしか思えない。
 その状況を想像するだけで、審判小僧は気が重くなる。まだ想像だから耐えられるのであって、想像が現実になってしまえば、自分の心はあっさりと折れてしまうだろう。そうして、魂だけを残して消えてしまう。
「名無し、その調子だぞ」
 優しい手が審判小僧の頭を撫でる。
 たったそれだけのことが、嬉しくてたまらない。同時に、ありえないほど高鳴ってしまった心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になり、素早く身を引いてしまう。
 弟子に逃げられたゴールドは、目を丸くして審判小僧と自分の手を交互に見た。
 傷つけた。審判小僧はひしひしと感じた。優しいゴールドは、弟子に嫌な思いをさせたのだろうと感じただろう。申し訳ないことをしたと思うだろう。そして、嫌われているかもしれないという可能性に、少しばかり傷ついただろう。
「す、すみません」
「いや、急に触れた私も悪かった」
 ニコリと笑ってくれるその優しさが、審判小僧を傷つける。
 ゴールドは悪くない。しかし、審判小僧が悪いわけでもない。彼はただ、誰かを好きになってしまっただけだ。
 彼に背を向けて、他の審判小僧への指導を始める。その背中を見ながら、審判小僧は自分の頭に残っているゴールドの手の感触に、そっと息をもらす。ずっとこの感触を覚えていられたらいいのにと半ば本気で考えた。
 そんな馬鹿なことを考える自分に呆れながらも、審判小僧は今日見た夢を思い出す。
「もっと大きな声を出して」
 指導をしている彼が、自分にキスをしてくれた夢だった。
 たったそれだけの夢ではあったが、目が覚めたときに夢だと知って悲しくなるほど幸せだった。
 柔らかい感触も、暖かな吐息も全てがリアルで、朝から顔を真っ赤にしたのは誰にも知られてはならない真実だ。
「親分、ボクとってもいい夢見たんッスよ」
 訓練が終わってから、審判小僧は喜びを分かち合うように言葉を紡いだ。
「すっごく好きな人からキスされる夢」
 一番大切なところは伏せて、無邪気な子供がまだ見ぬ世界を夢見るような感じを意識して言葉を口にする。特別な反応を期待していたわけではなく、自分の思いに気づいて欲しかったわけでもない。
 自分の幸せを好きな人と分け合いたいと思うのは普通の感情のはずだ。
「……そうかい」
 赤い目がわずかに悲しい色を浮かべた。
 審判小僧はそれに気づいてしまった。
「ボク、カクタスガンマンのところに行くッス」
 逃げるように審判小僧は訓練場から飛び出した。ゴールドは何も言わなかった。
 審判小僧の心臓は激しく脈打つ。走ったからではなく、悲しげな色を持った赤い瞳のせいだ。
 その悲しみの色が、謝罪の意味を持っていることに、気づいてしまった。まだ上手く制御をしきることのできない審判小僧の目は、悲しげな色の奥に隠された意味合いに気づいてしまった。だが、詳しいことはわからない。
 何故、ゴールドが謝罪の気持ちを瞳に乗せたのだろうか。
 もしかすると、自分の気持ちを知っているのではないかという不安が、審判小僧を襲う。
 ありえないことではない。あのゴールドだ。何もかもを見透かすことのできる瞳をもっている人だ。普段は他人の真実を見ないように制御していることは知っているが、それでも、見えてしまうことがあるのかもしれない。
「どう、しよう……」
 ホテルの隅に手をつき、ずるずると座りこむ。
「わかんないッスよ……。親分。ボク、わかんないッス……」
 はっきりと言葉にされていない。だから、違うかもしれないという期待を持つことができる。審判小僧はギリギリのところで自分を保っていた。
 彼は今までにない恐怖を感じていた。いつか、謝罪の言葉を聞くことになるのかもしれない。そんな、もしもの可能性が何よりも恐ろしい。
 まともに働かない頭で、ぐるぐると真実を解明するために何かを考え続ける。思考を止めてしまえば、途端に自分が消えてしまうのではないかと思った。
「優しさ、なんッスか?」
 明言をしないことが、優しさなのかもしれない。
 大切な子供のために、弟子のために、ゴールドは口を閉ざした。
 ならば、審判小僧はそれに応えなくてはならない。
 何もかもに気づかないフリをして、今まで通りに振舞う必要がある。
 彼の心の中で、天秤が傾く音がした。
「――好きッス」
 小さく呟く。決して本人には伝わらないであろう言葉。
 好きな人の願いを叶えたい。彼が気づかれぬことを願うのならば、己の存在を望んでくれているのならば。
 真実から目をそらすことだってしてしまえるのだ。

END