シェフは子供達にお菓子を作ってやるのが日課だった。
いつもは悪戯ばかりしている子供達ではあるが、お菓子をほうばっている姿は可愛らしい。
「今日は何がいい?」
誰かが陰口を叩いていないか巡回していたとき、偶然ジェームズとすれ違ったので尋ねてみた。すると、意外な返事が返ってくる。
「今日はいらなーい」
表情には出さなかったが、シェフは内心ショックを受けた。
新しくきた客などには料理を拒否されることはあるが、このホテルの住人に拒否されたことはない。それも、毎日のようにお菓子を要求してくる子供がだ。手にしている大包丁を振り上げる気力すら湧いてこなかった。
「へへへー。今日はねぇ、審判小僧の兄ちゃんが、クッキーくれたんだぁ」
気力どころの話ではなかった。手から力が抜け、愛用の包丁が音を立てて床に落ちた。
「じゃあねー」
茫然としているシェフの表情を見て、ジェームズはスキップをしながら去っていく。シェフの絶望した表情を見ることが一番の目的だったのだろう。冷静な思考を持っていれば、シェフもジェームズの様子に気づいたかもしれない。しかし、今はそれに気づく余裕すらなかった。
まず一つに、このホテルの住人が自分の作ったもの以外を口にしているということ。第二に、誰かが勝手に厨房を使ったということ。そして、審判小僧が作ったというクッキーが自分の手元にないということ。この三つがシェフにダメージを与えた。この三つの中で最も大きなダメージを与えたのは三番目の事実だ。
他人の悪口など、途端にどうでもよくなった。
包丁を掴み、廊下を早足で歩いていく。ジェームズがきた方向にあるのはロビーだ。
乱暴に扉を開けると、そこには色とりどりの袋を持った審判小僧と、周りに群がる住人達が見える。
「……審判小僧」
地を這うような声を出せば、全員がシェフの方を見る。そして次の瞬間には、審判小僧を置いて逃げてしまった。
目が本気だった。料理に悪戯をされたときの怒りっぷりが可愛いものに見えてしまうほど、シェフの目は恐ろしかったのだ。
並大抵のことでは動揺しないホテルの住人達が我先にと逃げ出す姿が、その恐ろしさを明確にしている。
「やぁ、シェフ。どうしたんだい?
ボクに何か用かな? 今日はジャッジの訓練もあることだし、できれば早急に帰りたいんだけど……。
もちろん、無理にとは言わないけどね。でも、キミだって知ってるだろ?
親分は怒ると怖いんだ。キミならボクをそんな怖い目にあわせたりしないよね?」
持っていた色とりどりの袋を後ろに隠し、言葉をまくしたてる。
その体が徐々に後退していることをシェフは見逃さない。
審判小僧が一歩下がれば、シェフは二歩進む。シェフの手が審判小僧の腕を掴むのにそう時間は要さなかった。
「シェ、フ」
不安げに揺れる瞳で上目づかいで見つめる。己の身を守るための術を理解しているつもりだった。しかし、今回のシェフには通用しない。
腕を振り上げ、審判小僧の顔の真横につける。あとほんのわずかでも動かせば顔が真っ二つにされかねない。
「……あの、さ。
勝手に、厨房使ってごめん、ね?」
下手な言い訳しても泥沼になるだけだと判断し、素直に謝罪の言葉を並べる。
「何故……」
重い口が開かれる。瞳は見えない。
「ジャッジの訓練サボって書庫で本を読んでたら、偶然クッキーのレシピを見つけちゃってさ。
ボクの知的好奇心が疼いちゃったんだ。せっかくだからみんなにおすそ分けしようと思って」
怯えた声で言葉を紡ぐ。できることならば、一刻も早くこの恐ろしい空間から逃げ出したい。
「違う」
必死の言葉がたった一言で切り捨てられる。
何故否定されたのかがわからず、首を傾げそうになったが、すぐ横にある刃がそれを良しとしなかった。
「オレにはないのか」
告げられた言葉に審判小僧は反応することができなかった。
何せ、あのシェフだ。料理に関しては理解の範疇を超えた執着と執念を持っているあのシェフが、他人の料理を求めた。よく見てみれば、殺気を宿していた瞳も切なげに細められている。
「えっと……」
「クッキーを隠し、オレから逃げようとする」
目の前にいる想い人を見つめる。
それなりの時間を一緒に過ごしてきたつもりだったが、こんな一面は始めてだった。
「キミは他人の料理は食べないって聞いてたから」
横に添えられていた大包丁がゆっくりと下げられる。
「好きな奴からオレだけ貰えないほうが嫌に決まっているだろ」
「うん。ごめんね」
まだまだ学ばなければならないことは多そうだ。
END