現世の冥界の狭間にあるこの世界にも雨は降る。
「雨、キラーイ」
 火が消えてしまえば動けなくなるシェフは不満げに呻いている。風に当たることも許されていないので、室外へ出ることなど滅多にないのだから、気にする必要もないようだが、湿度の関係で気分が悪くなるらしい。こういった面を見ると、不便な体なのだとしみじみ感じる。
「不便だねぇ」
 呟いたのは、シェフの代わりに中庭のハーブをいじっていた審判小僧だ。
 雨は降っているものの、傘をさすほどではないので、ぬれるがままになっている。いつもならば元気にはねている髪の毛も、今ではすっかり力を失っている。
「そもそも、水は雨がやってくれるんだし、いじる必要なんてあるのかな?」
 誰かの真実を知ることはできても、植物に関する知識はからっきしだ。シェフに言われたことをこなしているつもりではあるが、実際のところはどうなのかわからない。さすがの審判小僧も、シェフの包丁を受ければただではすまない。真っ二つは覚悟しなければならないだろう。
「うーん……」
 自分の可愛いが、このハーブを使って食事をする人たちのこともある。何せここは普通の世界ではないのだから、ちょっとした違いから毒草が生えかねない。
「あ、そうだ」
 悩んだ末に思いついた。
 すぐさま実行するために、一度厨房へと入る。
「終わったのか?」
「いや、ちょっと待ってて」
 夕食の仕込をしているシェフに言って、厨房を出る。
「あ、グレゴリー」
「なんでございますか?」
 カウンターに座り、仕事をしていたグレゴリーに声をかける。
 人格を問えば最悪な人物と言われてもしかたない者ではあるが、管理人としては最高の働きをしてくれる。だからこそ、審判小僧は尋ねることができた。
「傘持ってる?」
「は?」
 ホテルに泊まっている住人は、あまり外へでない。例外としてゴールドやフィ
リッツなどは仕事に出て行くが、基本的には出る必要がない。ホテルの中にいるのだから、傘などを使う機会はない。そこいらの管理人ならば持っているはずもないものだ。
「……ございますよ」
「そう。貸して」
「少々お待ちください」
 本来、必要のないような物もグレゴリーは持っている。おかげでこのホテルにいても娯楽に困ることは滅多にない。
「どうぞ。破損した場合は――」
「わかってるよ」
 親分から貰っている小遣いには余裕があるので、買い取ってもよかったのだが、面倒なのでやめておいた。
「シェフー」
「なんだ?」
 厨房へ戻り、傘を見せる。
 灰色の傘に目を向けた後、だからどうしたのだと言わんばかりの視線を向ける。
「だからさ」
 コンロの火を消し、シェフの腕を掴む。
「これなら大丈夫でしょ?」
 傘をさし、厨房からシェフを引っ張りだす。
 一人用の小さな傘なので、シェフに持たせて審判小僧は先に花壇へと向かう。
「お前、ぬれる」
 赤い瞳が心配そうに揺れていた。
「ボクはぬれても動けるけど、君はダメでしょ?
 大丈夫。さ、こっちにきて教えてよ」
 心配してくれるのは嬉しいが、ぬれているという点でいうならば先ほどからずっとぬれていたわけで、今さらという感が拭えない。
 ゆっくりと審判小僧の隣に立ったシェフは細かい指示を出す。やはり、作業をしながら説明されるとわかりやすく、綺麗にできていく気がした。
「よし……あとは、っと」
 不意に体に降りそそいでいた雨がやんだ。
 雨雲が去ったのかと思い、上を見上げると、銀の骨組みと灰色の布が見えた。
「…………」
 シェフは黙っている。
 火は消えないように。でも、審判小僧も極力ぬれないように、傘を差し出してくれていた。
「ありがと」
 純粋に嬉しかった。
 自分の肩がぬれても気にせずに傘を傾けてくれている。あのシェフがだ。キャサリンにこのことがしれたら大騒ぎだろう。
 暖かい気持ちになりながら、作業を終わらせる。
「これでおしまい。
 さ、早く中に入ろう。体がすっかり冷えちゃったよ」
 雨にぬれながら土をいじっていたのだから、仕方のないことだ。なのにシェフは申し訳なさそうな表情をする。自分が頼んだことだからだろうが、審判小僧はまったく気にしていない。むしろ、いつも土いじりをしているシェフを尊敬した。
「スープ」
 厨房へ続く扉の前でシェフが言った。
「え?」
「スープ、作る。待っていろ」
 シェフの作る料理は、迷い込んできた者には毒だが、ここの住人にとってはいたって普通の、美味しい料理だ。
「本当かい? ありがとう」
 審判小僧の笑みに、シェフは小さく笑みを返した。


END