ボーイはいつものようにホテルの廊下を歩いていた。
「ボクの名前を知ってるかーい」
 やけに耳に残る歌が後ろの方から聞こえてくる。この歌を歌う人物は複数人いるが、どいつであったとしても大差はない。かすかに金属音が聞こえるところをみると、今日はあの変な鉄球に乗って移動しているようだ。
 顔を合わせればジャッジをしかけてくる親分でなければいいと思いつつ、ボーイは振り返った。
「おや、ボーイ。
 ボクにジャッジされてみる?」
 現れたのは、親分ではなかった。小僧達の中でも『名無し』と呼ばれる者。ボーイがホテルに来た当初からいた審判小僧だ。
 ただ、いつもどおりの口調が今は異質だった。
「お前……手と足は?」
 口を開く。
 いつもならば、地面を踏みしめる足が、ダラーとハートを浮かべる腕が、そこにはなかった。
「なくなった」
 天気の話をするかのように、さも当然と言葉にする彼が恐ろしい。
「なくなったって、どういうことだよ」
 このホテルは現実世界とはかなり違う。
 簡単には死なないし、常識はずれのことも多い。だが、朝起きたら手足がなくなっているなどということは起きない。もしも、それが人為的なものによるならば、話は別だが。
「親分がね、いらないって言うから」
「は?」
 思わず聞き返す。
 審判小僧が言う親分は一人しかいない。派手で、ジャッジと訓練が好きな男だ。厳しい面も多々見られるが、残忍な者ではなかった。
 すべての部下に惜しみなく愛情を注ぎ、優しい父のような姿をボーイは何度か見かけたことがある。
「遅刻もするし、訓練はサボるし、ろくなジャッジもできないから。
 それなら腕はいらないだろ? って。ついでに足まで取られちゃったけどね」
 ニコリと笑いながら言う。
 ボーイには、他の審判小僧達と、今目の前にいる審判小僧のするジャッジの違いなどわからない。
 確かに、面倒くさがりだし、やる気のない奴ではあるが、ジャッジをするときはいつも楽しそうだった。
「じゃあ、お前もうジャッジできないのか?」
「うーん。まあ、やろうと思えばできるよ。
 何? して欲しいの?」
 途端に目が輝く。
 自分の勝手な都合でジャッジすることもあるが、やはり本人からして欲しいと言われれば嬉しいらしい。
「いや、遠慮しとく」
「なーんだ」
 肩を落とし、心底残念そうな表情を浮かべる。
 いつもと変わらないのに、そこに腕がないだけでずいぶんと印象が変わってしまう。
「痛くないのか?」
「え?」
 昨日昼までは腕があった。ということは、失ったのは夕方から今日の朝にかけてだろう。まだ痛み、血が流れていてもおかしくはないはずだ。なのに、審判小僧の腕は真っ白な包帯が巻かれているだけで、血が滲んでいるようすもない。
 この不思議で奇妙なホテルの力なのだろうか。
「あ、いた……い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い」
 審判小僧の瞳から涙が溢れ出す。同時に、白い包帯が赤く染まり始めた。
「痛い。痛い。痛い。痛い。腕、足。痛い。痛い。何で? 痛い。足は? 手は? 痛い。痛い」
 傷を抑えようとするが、抑えるための腕がない。痛みと混乱でバランスを崩した審判小僧は鉄球からすべり落ちた。
 ボーイの前に芋虫のように這い蹲る。
「痛い。痛い。痛い。痛い。痛い」
 ただ同じ言葉を繰り返すだけ。
 痛みから逃れようと暴れているが、結果としてそれは出血を促しているだけだった。
 廊下が赤く染まっていく。
「おい。落ち着け! じっとしてろ!」
「痛い! 痛い! 痛いんだ!!」
 とりあえず、審判小僧を抱きしめ、動きを抑えようとするが、どこにそんな力があるのかわからないが、暴れるのをやめようとしない。
「フリッツ! キャサリンでもいい! 誰かきてくれ!」
 ボロいホテルだ。これだけ喚いていれば誰かが気づいて、駆けつけてもよさそうなものなのに、誰もこない。
「くそっ! 何だってんだよ」
 痛みを訴え、未だに暴れている審判小僧を睨みつける。
「ボーイ。あまりうちのを虐めないでやってくれないか?」
 叫び声とよく似た声が耳に届いた。
「お前、これはどういうことだよ!」
 ようやくやってきたのは親分だった。
「ん? うちのが暴れて、ホテルに迷惑をかけてるね。
 ほら、早く帰ろうじゃないか」
 手を差し出す。
「お、やぶん……」
 暴れていた審判小僧が動きを止めた。
 ボーイの拘束から逃れ、ゆっくりと床に這い蹲りながら親分に近づいていく。
 先ほどまでとはまた違った異様さに、ボーイは何も言えなかった。呆然とその姿を見るばかりだ。
「はい。よくできました。特別に私が連れて帰ってあげよう」
 優しい笑みを浮かべ、手足のない審判小僧を軽々と抱き上げる。
 見れば、審判小僧の出血は止まっていた。
「ボーイ。彼にもう余計なことは言わないように。いいね」
 脅しにも似た色を宿した言葉を残し、親分は闇の中へ消えていく。
 ボーイは血の海で呆然と、立つこともできずにいた。
「まったく……。あやつには苦労いたしますわい」
 次に現れたのはグレゴリーだった。
 呆然とした瞳を向けると、彼はなぜ誰もここにこなかったのかを説明してくれた。
「あやつは嫉妬の塊でございます。
 審判小僧がどこかへ行ってしまわぬように足をとり、誰かを抱きしめぬように腕を落としたのでございます。
 シェフの包丁を使ったようで、よく切れたとか。ヒッヒッヒ。
 まあ、嫉妬には触れぬのが正解。お客様も、あの者達とは関わらないほうがよろしいかと」
 独特の笑い声を残し、グレゴリーも闇の中へと消えていく。
 ボーイは叫びたかった。
 あれは嫉妬などという生易しいものではない。もっと醜悪で、もっと痛ましいものだ。
「審判小僧も可哀想な奴だよね!」
 そんな言葉を楽しげに言いながら、ジェームズが横を走っていく。
「でもさ、あれだけ愛されてるんなら、まあいいんじゃない?」
 一度だけ振り向き、そんな言葉を残して行った。


END