立ち聞きと料理。この二つだけは欠いたことがなかった。シェフの生活には、この二つがあれば十分だった。時々、この生活の中に審判小僧が入ってくる。シェフはそれを好ましく思っていた。
ホテルの住人であれば、大半が知っていることだが、シェフと審判小僧は、いわゆる恋人という関係であった。
その割に、シェフは冷たいというのは第三者で、審判小僧は「シェフだからねぇ」と、他人事のように言うのが常であった。
周りはそんな二人の様子に、脱力するやら、心配するやら、不満に思うやらと、大忙しだ。
「あー。シェフおじちゃんだ」
日課の立ち聞きをしていると、よく知っている声が足元からした。目を向けてみると、小柄なジェームズが立っていた。
その顔には、どことなくいやな笑みを浮かべており、彼の祖父の血を感じずにはいられない。
シェフは少しの間、口を閉ざしてジェームズを見ていたが、彼も口を開かず、立ち去る様子もない。ただ笑みを浮かべてシェフを見ているだけだ。
ジェームズが何を考えているのかわからないのはいつものことだが、今日はことさら意味がわからない。シェフは首を少し傾げ、片膝をついた。
目線を合わせてやると、満足したらしく、やはり祖父と似た笑い声をあげる。
「ねぇ、いいこと教えてあげようか」
擬音語をつけるのであれば、ニタリ。と、いったものが適切だろう。ジェームズは粘着質な笑みを浮かべて知るかどうかの二択を迫ってくる。選択を提示するのは、審判小僧達だけで十分だ。
首を横に振ろうとして、シェフは思いとどまる。
相手はジェームズだ。何を知っているのかわからない。自身に関することならば、口止めをしておく必要があるだろう。彼にかかれば、このホテル中にあることないことをばら撒くことなど容易いことなのだから。
「……何だ?」
他人の秘密であるならば、掴んでいて損をするようなものではない。どう転んだとしても、聞かぬよりも聞いたほうが得であるはずだ。
わずかな不安を胸に、シェフはジェームズの言葉を待つ。
「しょうがないなぁ。あのね……」
ジェームズは楽しげに笑い、シェフの耳に口を寄せる。
このまま、大声でワッと言ってくれた方が、心安らかにいられることだろう。けれど、そこは天下の悪戯小僧のジェームズだ。他人が頭に思い浮かべることができるようなことはしない。
「審判小僧のお兄ちゃんって、ゴールドおじちゃんと付き合ってるらしいよ!」
弾むような声。人の不幸は蜜の味。と、言ったところだろうか。
「ショック? 悲しい? 今、どんな気持ちなの?」
追い打ちをかけるようにジェームズは体を揺らし、問いかけをする。心の底から楽しげな彼は、間違いなく悪魔だ。
シェフは赤い目でジェームズを一瞥し、ゆっくりと立ち上がる。
「どうしたの?」
立ち上がった彼の表情は、いつもとなんら変わりない。
怒っている風でもなければ、嘆き悲しむ様子もない。期待はずれの様子に、ジェームズは唇を尖らせる。
「ちぇー。もっと驚くかと思ったのに」
「審判小僧はそんなことをしない」
拗ねた顔をしたジェームズの頭を軽く撫でる。
「信じてるの?」
問いかけに、シェフは無言で頷いた。
「ふーん……」
信じることを選択したことが気に食わなかったのか、ジェームズは不機嫌そうに目を細める。こうした仕草を見ていると、彼の存在を恐ろしく感じる。このホテルに住んでいるどのような住人よりも、彼は純粋な悪意に満ちている。
「でも、それが正しいとは限らないよね」
口角が上げられ、細められていた目に楽しさが宿る。
シェフは不覚にも、背筋が凍るのを感じた。
「はい、カックーン。なんちゃって!」
ハートが落ちたときのように体を傾け、ジェームズはよりいっそ楽しげに笑う。そして彼の心と同じように軽く弾みながらその場を去っていく。
性質の悪い嵐のような子供だ。
残されたシェフは、知らずに包丁の柄を強く握った。
「審判小僧……」
シェフは彼を信じていた。いつも笑い、真実をこよなく愛する彼が、自分を騙すとは思えない。
他人を疑い、こうして立ち聞きをして、己の悪口が誰かの口から零されていないかと歩き回っているシェフだが、審判小僧だけは信じているのだ。
それが、たった一人の子供によって揺らぎかけている。
揺れるシェフの心に呼応するかのごとく、彼の炎は不安定に揺らめいた。
残念なことに、彼には愛想を尽かされる心当たりがあったのだ。同じ敷地内に住んでいるにも関わらず、数日に一度会うか会わないかでしかない。それも、会うのは大抵審判小僧がシェフのもとへ訪れていた。食物を食べる必要がない彼に、ため息をついたことがあった。彼は申し訳なさそうに笑っているばかりだった。遊びに行こうと誘われたときには、食事の支度があるといって断ったことがある。
「ふむふむ。キミが悩みを抱えるなんて珍しいね」
背後から聞こえてきた声に、思わず肩が揺れた。
「ボクがきてたことも気づいていなかったみたいだね」
審判小僧はいつもと同じ笑みを浮かべている。
「どうだい? 何ならキミをジャッジしてあげようじゃないか!」
「いや……。必要ない」
「そうかい?」
ジャッジを断れば、審判小僧は残念そうに肩をすくめる。ジャッジ狂とも言える彼にジャッジをさせれば、碌な結果が待っていないことは知っている。第一、悩みというのは目の前にいる審判小僧に関わりのあることだ。
真実の天秤にかけられては困る。
「じゃあ相談くらいなら乗るよ?
ボクにどーんと言ってごらん」
顔を寄せ、笑みをさらに深くする。彼が泣いたり怒ったりしているところを、シェフは見たことがない。
「……いらない」
「シェフがそう言うなら、無理にとは言わないけどね」
審判小僧は手を握り、シェフの顔の前へ出す。
何かわからず、拳をじっと見つめていると、そっと手が開かれた。
「ボクはキミの味方だよ」
手の中には、小さなハートがあった。
大きさこそ、いつも彼が籠に入れているものよりも小さいが、輝きはあれらと比べても何ら遜色ないものだ。
「ああ。わかっている」
そのハートを見た途端、シェフは全てが軽くなったのを感じた。
「……お前を見ていると、安心する」
「え?」
先ほどまで感じていた不安が、ただの塵だったと気づいたような軽さだ。不安も、疑心も、審判小僧の前では意味をなさない。正しく全てを曝け出す彼に、シェフは安堵するのだ。そして、小さく笑う。
「うん。ボクもシェフといると安心するよ」
珍しいシェフの笑みに、審判小僧は幸せそうに返した。
END