「キミって、怒らないよね」
 干からびた死体の言葉に、パブリックフォンは目を丸くした。唐突で、脈絡のない言葉だった。
「は?」
 思わず聞き返してしまうのも無理はなかった。
 現在、二人は洞窟とも言える、干からびた死体の家にいた。理由は至極簡単で、金がないパブリックフォンは干からびた死体にたかりにきたのだ。彼はパブリックフォンのことを憎からず思っているので、いつも彼の来訪を心待ちにしていた。
 パブリックフォンにとって、干からびた死体は『そういう対象』ではないため、友情という形が一番しっくりくる穏やかな時間を楽しんでいた。そんな時に、干からびた死体の口から冒頭の言葉が出た。
 会話にもならない世間話をしていたときだったので、不意打ちをくらった。
「ガラは良くないけど、キミが誰かを怒鳴りつけたりしてるところなんて見たことがないからさ」
 そう言われて、パブリックフォンは普段の自分を思い浮かべる。
 確かに、彼は他人に怒りを覚えたことはなかった。面倒だ、退屈だ、傍にいたくない。そんな感情ならば、何度か持ったことがあるが、憎しみや怒りとは縁遠い。彼にとって身近な怒りというのは、従兄弟であるタクシーが愛車を傷つけられたときに見せるものだ。
 タクシーが言葉を荒げるのを見るのは楽しいが、その後は大抵車で引きずりまわされるので、最近では彼を怒らせるようなことは極力避けるようにしていた。
「別に腹が立つようなこともねぇしな」
 土でできた天井を見上げ、ポツリと呟く。
 気が長いというわけではない。ただ、他人にそれほど目を向けていないのだ。
「オレは好きなことをする。邪魔されたら面倒だと思うけど、それならそいつに関わりのないところで適当にやるさ」
「喧嘩をするのも、怒るのも面倒なんだね」
「楽しくねぇからな」
 根っからの快楽主義者は喧嘩をしない。
 喧嘩をしている間、気分が悪いままでいることすらわずらわしい。ならば、他人なんて自分の目から排除してしまえばいい。それだけだった。
 ここがまともな世界であったならば、パブリックフォンは可哀想な男だろう。大切な感情を一つ欠落させてしまった人間と烙印をおされる。だが、ここはまともではない。誰もが己の思うままに生きている。
「キミにとって、この世界は極楽なんだろうね」
「お前と違って、まともな体も持ってるしな」
 そう言ってパブリックフォンは大口を開けて笑う。
 干からびた死体は、そよ風程度の衝撃で体が崩れる。そのため、地上に姿を見せることは滅多にない。本人もそれを忌まわしく思っており、時折迷い込んでくる宿泊客の体を剥ぎ取ってやろうと考えている。残念なことに、それが成功したことは一度もないが。
「……キミの体を剥ぎ取ってやろうか。って言えば、少しは怒ったりする?」
 少しばかり声を低くして言う。力で勝てるとは思っていないが、やりようならばいくらでもある。
「もうここにこなくなるだけさ」
 淡白なんだね。という言葉を飲み込んだ。
 パブリックフォンが淡白なのは今に始まったことではない。彼にとっての価値がなくなれば、どれほど傍にあったものでも、あっさりと捨ててしまえる男だ。執着心がないのだろう。干からびた死体は、いつもそれが恨めしかった。
 どのような感情でもいい。自分にだけに向けられる感情が欲しかった。
「それは寂しいなぁ」
 いつも通りの情けない声を出す。表情は苦笑いだ。
「んじゃ、馬鹿なこと言うなよ。
 オレだって、お前と飲むのは嫌いじゃないしな」
「ならいいや。まともな体がなくても、キミからきてくれるんだろ」
「気が向けばな」
「十分だ」
 これを信頼と呼ぶのか、もっと別の名前がついているのかはわからない。しかし、干からびた死体にだけ向けられている感情ではないことを、彼は知っていた。長い時間を共にしてきた者達全員に、彼はこの言葉を吐くのだ。
 悪女。という言葉が思い浮かび、干からびた死体は小さく笑う。
「何だよ」
「いや、キミは酷い男だと思ってね」
「意味わかんねぇ」
 そう言いながら、パブリックフォンは楽しそうに口角を上げる。
「面白くもなんともない話だから。それでいいんだよ」
「んじゃ、何で笑ってたんだよ」
「キミが好きだからじゃないかな」
「ふーん」
 口から零れた好きの意味を尋ねられることはない。
 パブリックフォンにとって、それはどうでもいいことだから。


END