タクシーは、あまりホテルに近づこうとしない。理由は様々だが、何となくということと、人が嫌がるモノをつきつけようとしてくる連中が多い。と、いう二つが、理由の中でも大きなウエイトを占めている。
 ホテルに住む彼の従兄弟は、嫌なモノをつきつけようとしてくる連中のことなど、何とも思っていないようで、むしろ心地良い場だとまで言っていた。タクシーとしては信じられないところではあるが、パブリックフォンの自由さは今に始まったものではないので、それについて言及したことはない。何だかんだと聞くことが面倒くさいというわけではない。おそらく。
 彼の生きかたを羨ましいと思ったことはない。なにせ、タクシーはタクシーで、自由気侭に生きている。
 危険だと言われることの多い外だが、タクシーからしてみれば、何の不安も訪れない平和な場所だ。時折襲いくる干からびた死体や、ムシャドクロは轢いてしまえばそれですむ。客を見つけたらホテルにお帰り願えばいい。こんな生活を楽しめない者は変な奴だと思っている。同時に、この世界に変じゃない奴がいるわけがないと口角を上げることも度々ある。
 また、外が心地良いと感じるのは、友人とも、知人とも呼べる者がいるからだ。
 彼の住む場所に車を止め、ボロボロの扉をノックする。
「今日は一人かい?」
 少し待つと、彼の瞳が見えた。それ以上外に出ようとしないのは、風が怖いからだろう。
「お一人様は立ち入り禁止か?」
「そんなことはないさ」
 風の当たらない穴の中に、彼はいる。湿度の高いそこへ足を踏み入れ、タクシーは酒を飲む。これは割りとよく見られる光景だ。
 テーブルを挟んで向かい合っているのは、干からびた死体。昔々は、彼もタクシーを襲っていたのだが、いつの間にか言葉を交わし、酒を飲みあう仲になっていた。今では、干からびた死体はタクシーを襲わず、タクシーも衝動的にアクセルを踏み込む程度だ。
「飲酒運転はダメだよ」
「何を今さら」
 タクシーは血のように赤いワインを一気に飲み干す。口に広がる渋み、食堂を焼く感覚。体の隅々にまでいき渡るような上物に笑みが浮かぶ。体に血液が流れていない干からびた死体は、このワインを本物の血のように扱い、ほぼ毎日飲んでいる。ゆえに、ここへ来ればワインにありつけるのだ。しかもタダで。
 外の音が届かない穴の中で、二人は言葉を重ねていく。会話の内容など、あってないようなものだ。長い間、こうした奇妙な関係を続けているのだから、話すことなどもはや何もない。
 だというのに口を閉ざさないのは、二人の言葉が無ければ、この場所はただの無音になるからだ。それはそれで心地良い静けさではあるが、普段は滅多に他者と付き合うことのないこの世界だ。誰かが近くにいるときくらいは、言葉を紡いでおかなければ、声などあっという間に消えてしまう。
「お前とこういう仲になって正解だったな」
「ボクの価値はワインと同等にしないでくれないかい?」
「ワインの方が上に決まってるだろ」
 軽口を叩きながら、タクシーは冷え切った目で干からびた死体を見た。彼はそのことに気づいていたが、知らぬふりをした。互いに知らぬふりをしあうことは、もはや当然のことになっていた。踏み込まず、踏み込ませず。それが彼らの中で暗黙の了解となっている。
 二人が言葉を隠す。口を開けば、何か余計なことを言ってしまいそうな雰囲気がそこにはあった。グラスにワインが注がれる音だけが、静かな空間に響く。
 何とも言えない静けさを破ったのは、穴に繋がる扉をノックしている音だった。
 湿気のためか、腐りかけた木でできた扉は鈍い音をたてている。
「誰だろ?」
 ここへ来る者は限られているというに、干からびた死体は疑問の色を乗せて言葉を紡いだ。彼の声色がどこか明るいのは、ここへくる者に心当たりがあるからに違いない。タクシーは心の中に浮かんだ何とも形容しがたい感情を押し殺し、再びワインに口をつける。
「はい」
 干からびた死体が扉を開ける。
「ジャッジメーント!」
 そして扉を閉める。
「おっと! 客人にその態度は酷くないかい?」
 扉が閉まる寸前、目に痛いほどの輝きを持った客人が足を穴の中へと入れてきた。無理矢理に閉めようしても、足が邪魔で扉を閉め切ることができない。どこのヤクザかと思われる手法だ。
 二人はじっと見つめあう。甘さなど微塵も含んでいない。
「……入りなよ」
 外と繋がっている場所で問答するには、干からびた死体の体はあまりにも脆い。そよ風でも体は欠けてしまう。強風が吹いたらと思うと、ないはずの血の気が引く。どれだけ考えたところで、干からびた死体が折れるしか方法がなかった。
 舌打ちを一つしながらも、穴の奥へとゴールドを案内する。
「ゴールド?」
「やあ、久しぶりだね」
 入ってきた金色に、タクシーは目を丸くする。彼も、死体と同じようにここへ来る者といえば、赤色の奴だと思っていた。そもそも、ゴールドは滅多にホテルから出ることがないので、ここへ来るという考えは脳をどうこねくり回したところで浮かばない。
 外へ越えた場所へは時々行っているようだが、こうして干からびた死体のもとへ来るというのは始めてのことだ。
「何しに来たのさ」
「いやね。キミ達があまりにも面白いから」
「は?」
 今までここへ来たこともなければ、干からびた死体とはろくに話したことがないはずのゴールドの言葉に、二人は首を傾げる。面白いと言われても、この世界の住人は誰もが個性豊かで傍から見ている分には面白い者ばかりだ。
「キミ達は他人にも自分にも嘘をつくからね。
 この世界の者達とは少し違う。それが面白くてしかたがないんだよ。私は」
 スッと細められた目は、何を映しているのだろうか。
「ねぇ。私にジャッジされてみないかい?」
 左右に浮かぶハートとダラーは、ろくな真実を暴かない。彼のような者に会いたくないから、外にいるというのに、今日は厄日かもしれないとタクシーは目蓋を閉じる。
「いらねぇよ」
 そう呟き、目を開ける。
「それは残念だ」
「腕を作為的に動かしてるって話だしな。イカサマはもう十分だ」
「心外だねぇ。未熟な者ならともかく、私は作為的に審判を下すなんてことしないよ」
 ゆらゆらと揺らされる二つの光は、そこにあるだけで人の心を揺さぶる。心の奥底に沈殿していたものが浮かび上がってくるような不快感に、タクシーと干からびた死体は渋い顔を作る。
「知らないふりも、嘘も楽じゃないだろ?」
 嫌な笑みだ。タクシーが口を抑える。吐き出しそうだ。
「誰もいねぇのかー?」
 新しい色が入り口から入ってきた。
 たったそれだけのことだったが、現在穴の中で充満している嫌な空気を払拭するには十分すぎる出来事だった。
「……フォン」
「何だ。いるじゃねぇか。扉叩いても誰も出てこねぇからよ。
 つか、ゴールドまでいるって珍しいな」
 空気を読む力がないのか、読む気がないのか。おそらくは後者だろう。パブリックフォンは緩い笑みを浮かべたまま三人のもとへと足を運ぶ。
「お前も酒を飲みにきたのか?」
「……いや、ちょっと顔を出しにきただけさ。もう帰るよ」
「ふーん」
 三人に背を向け、歩き出したゴールドが、一度だけ振り返る。その顔にはやはり笑みが浮かんでいた。
「――報われたいとすら思えないみたいだからね」
 誰かがその言葉について口にする前に、ゴールドは穴の中から出て行ってしまう。
「何だ? どういう意味だ?」
 一人首を傾げているパブリックフォンへの返事はない。
 タクシーと干からびた死体はお互いを見る。
「さあな」
「それより、また飲むでしょ?」
「おう!」
 席につき、ワインを飲む。
 タクシーは、本当は知っている。何故、干からびた死体と友人のような知人のような仲になったのかを。こうして、時折ここへ訪れるようになった理由を。そのすべてが、だらしのない笑みを浮かべている赤色が中心となっていることを。
 そして、心の底に淀んでいる何かも、きっと赤色が原因なのだろう。
 干からびた死体が体を欲しているのを邪魔するのも、きっとすべて赤色が原因だ。
 タクシーはワインを飲む。赤いワインは、彼の心に淀む赤とは違っているが、代わり程度にはなった。


END