「ふざけんな!」
怒声と共に鏡が割れる。
ふざけるなと言いたいのはミラーマンの方だった。
哀れな姿になってしまった鏡を見ながら、空いた空洞を見る。普段、そこは壁なのだが、条件が揃えば道が開かれる。鏡が割れた原因は開かれた道ではないが、道を開いた者が原因であることは明白だ。
ため息を一つ吐き、頭を抑える。
「インコ。てめぇ、ふざけんなよ」
道を通ってきたのはインコだ。サングラスの向こう側に見える目は、苛立たしげに細められている。いつも口に咥えている葉巻がないのが少し気になる。
「知らんわ! ワイはホテルに帰る! さっさと道繋げや!」
どうかんがえても理不尽だ。部屋は悲惨な状況になっているというのに、説明の一つすら認められないという。説明するまではホテルへの道は繋がない、と言ってもよかったのだが、今のインコならば怒りに任せて部屋中の鏡を割るだろう。
鏡は体の一部とも言えるミラーマンとしては、そのような事態は回避したい。
結果、舌打ち一つでホテルへの道を繋げた。インコは感謝の言葉も謝罪の言葉もなく、鏡を使ってホテルへと移動していく。ミラーマンは開かれた道をちらりと見る。あの道を辿っていけば、キンコがいる部屋だ。
普段はだらだらと無駄な時間を二人で過ごしているはずだというのに、喧嘩でもしたのだろうか。
考えてみてから、似合わないことだと思う。
インコは短気だ。だが、キンコは基本的に寝ていることが多いし、温厚で人の気を逆撫でするようなことはしない。
「オレは被害者なんだし、知る権利があるよな」
口角をわずかに上げ、ミラーマンはインコが通って行った鏡を通る。開かれた道は使いたくなかった。
ホテルの廊下に足をつけ、インコを探す。とりあえず、ロビーに向かうかと思ってから、どこにあるのだろうかと視線を右往左往させる。何せ、ミラーマンはホテルに足を踏み入れることが少ない。来たとしても、鏡を通り道とするために、直接目的の場所へ向かうことが多い。
一度鏡の中へ戻り、ロビーの鏡を使うかと頭を働かせる。
「君は確か……ミラーマン?」
鏡に戻ろうとした時、声が聞こえてきた。あまり聞き覚えのある声ではなく、興味が赴くまま視線を声の方へと向ける。
そこにいたのは一人の青年だ。青いボーダーの服とそばかすくらいしか特徴がない。ミラーマンは青年をじっと見つめ、彼のことを思い出す。
「お前はボーイだな」
青年はホテルの住人ではない。客人だ。
数度、鏡越しに真実が見たい見たくないといった類の問答をした記憶がある。
「うん。でも、君は滅多にホテルにこないんじゃ」
「そんなことより、ロビーってどっちだ」
ミラーマンの質問に、ボーイは目を丸くする。長い間ここで生活しているボーイからすれば、ロビーの場所がわからないなどありえないことなのだ。
「……丁度行くところだし、一緒にどう?」
「んじゃそうさせてもらうか。
お礼に真実見せてやろうか?」
「いりません」
間を置かぬ拒否にミラーマンは声を上げる。
彼はどこぞの審判野郎とは違い、望まれない限り真実を見せることはしない。知らぬままでいいのならば、それがいいだろうと思っているのだ。どのような手を取ったところで、結局誰も彼もがここへ戻ってくるのだから。
ロビーへ向かう道中、ミラーマンの口は閉じられることなく動き続ける。普段一人の分、話すことが溜まっているのだろう。
「ここですよ」
扉を空けると、ロビーの机に二人の人影が見えた。
「やあボーイ! ジャッジ――」
「しません」
全てを言いきる前に拒否され、審判小僧は悲しげに腕を下げる。彼の隣に見える人影はインコだ。
「そっちの人は?」
ボーイはインコに視線を向けながら問いかける。何度か顔をあわせたことのあるミラーマンと違い、インコとは全くの初対面なのだ。それに思いあたった審判小僧はいつも通りの笑顔でインコについて説明する。
今のインコでは自己紹介などできないだろう。
「彼はインコ。普段はミラーみたいに別次元にいるし、こっちには本当に出てこないからボーイが知らなくても無理ないよ。
おや、ミラーもいたのかい。君とインコが出てくるなんて、天変地異の前触れかもね」
「オレの部屋の鏡がそいつに壊されたんだよ。理由ぐらい教えてもらわねぇと腹の虫が治まらん」
なるほど、と審判小僧は頷きインコを見る。
先ほどミラーが見たときと変わらず、目は細められ苛立っているのがわかる。
「イラついてるんなら、葉巻くわえとけよ。お前、ヘビースモーカーだっただろ」
キンコと何かあった上、精神安定剤とも化している葉巻を咥えていないのだから、苛立つのも無理ないだろう。そう思ってかけた言葉だった。
だが、インコの目がギラリと光った瞬間、ミラーマンは自分が地雷を踏んだのだと気づく。
「あったら吸っとるわ! このボケが!
あのアホがワイの葉巻を取り上げよったんや! グレゴリーんとこに買いにきたら、用事かなんや知らんがおらんし。ほんま腹立つわ!」
喧嘩の原因と葉巻の不在は同じ問題だったらしい。
「ボクの煙草は嫌って言うんだ。贅沢だよね」
隣にいる審判小僧も苦笑いをするばかりだ。
「このホテルにはシェフがいるのに、勇気のある人が多いよね……」
昔、シェフの鍋に悪戯をして、死にかけたことのあるボーイはポツリと呟く。
「時と場所を選べばどうにかなるからね」
「あんな奴もう知らん!
大体、何でワイが葉巻取り上げられなあかんねん」
ボーイはこの時点でインコのことが苦手だと思った。
サングラスをかけたグラサン男。しかも普段は葉巻を吸っているという。どうかんがえてもヤクザだ。シェフやキャサリンとは違って意味で怖い。そんなインコから葉巻を取り上げることができるキンコという人物は、どのような人なのだろうか。
ボーイの考えをあっさりと見抜いたミラーマンと審判小僧は口を開けて笑い始めた。
「キンコは怖い人じゃないよ」
「いつも寝てるようなのん気な奴だ」
このホテルの住人達に比べれば、無害なことこの上ないという。
「せや。いっつも寝てばっかりおるあいつの傍で、葉巻まで取り上げられたら暇で死んでまうわ」
癖で懐を探り、葉巻がないことに気がつく。舌打ちをしてソファにもたれかかる。もう何もかもが面倒になり始めた。
「でもインコ。君はそれでいいの?」
「あ? 何がや」
審判小僧の真面目な顔に、インコは首を傾げる。
「お前がいなくなったら、キンコはずっと一人だぞ」
インコは口を閉ざす。そのことを理解していなかったわけではない。ただ、今はそれ以上に怒りが優先されているだけだ。
「ボーイ。もしも君が元の世界に戻りたいなら、きっとキンコに会うよ」
審判小僧が耳もとで囁く。グレゴリーや彼のママに声を聞かれないようにという配慮なのだ。彼らはホテルから人が消えるのを嫌う。
「キンコは心を持ってくれているんだ。それがあれば、元の世界はすぐそこさ。
ただね、それゆえにホテルの住人は彼のところに行けないんだ」
ボーイは首を傾げる。長い時間をこの世界で暮らしている彼らは、もう二度と元の世界に帰ることはないという。ならば、ハートのことなど、どうでもよいのではないだろうか。ハートが原因で誰かに近づけないという理屈がわからない。
審判小僧は声の大きさを変えず、静かに言葉を紡いでいく。
「ボクらは狂気や欲望で動いているからね。ハートを受け入れる余裕なんてないんだ。
もしも、ハートを手に入れてしまったら、精神が壊れてグレゴリーママに食べられるのが目に見えている」
だから、誰もキンコのもとへ行かない。ならば、何故インコだけは彼の傍にいることができるというのか。
「こいつはキンコと一緒にここにきた。
だから、キンコはこいつのハートだけは持っていない」
他の住人ならば、キンコよりも先にきていたとしても、ハートを得られている可能性があるという。
何故だと思わないでもないが、もとより時間の感覚など無きに等しいこの世界ではありえない話でもないのだろうなと、ボーイは自分を無理矢理納得させた。
「で、いつまでも意地張ってるわけにもいかねぇだろ」
「嫌や。ワイはもう帰らん」
「キンコはグレゴリー達のせいで君に謝りにだって来れないんだよ?」
真実を映す二人に詰め寄られ、インコはたじろぐ。横でそれを見ていたボーイは、自分はあのような状況にはなりたくなりと、切実に思った。
「正当な理由もなしに、葉巻奪われてんで? 審判、あんさんならわかるやろ」
うーん、と悩む素振りを見せる審判小僧に対し、ミラーマンは呆れたようにため息をつくばかりだ。喫煙者の気持ちはわからない。ボーイも気持ちは同じらしく、喫煙者二人をどうすればいいのかという目で見ている。
「おやおや皆様お揃いで」
何を言えば丸くおさまるのかと考えていたとき、年老いた声が聞こえてきた。その声に目を輝かせたのは、先ほどまで苛立っていたインコだ。
「遅いわ! どこ行っとったんや。
いや、そんなんええわ。葉巻くれ」
審判達を押しのけるように立ち上がり、グレゴリーに詰め寄る。今は持っていないとグレゴリーが返せば、ならとっととショップへ行けと返される。インコに背中を押されながら、グレゴリーはショップの方へと足を進めて行く。顔は非常に不満気だ。
「……そういえば、キンコが何やら泣いておったぞ」
その言葉にインコの動きがピタリと止まる。何ともわかりやすい男だ。
グレゴリーはいつも通りの嫌な笑い声を上げるだけだ。彼はホテルの管理人であるため、どこにでも行くことができる。ある意味では審判小僧やミラーマンよりも自由であり、行動範囲が広い。
「奴はあそこから出られんからなぁ」
意地の悪い笑みだ。
キンコはゲストを逃がさぬように、狭間から出られないように作られている。
審判小僧はこの状況をどうすればいいのかと眉を下げる。誰かの手助けをするのは嫌いではないが、インコ自身が意固地になっているため、キンコとの仲直りは難しそうだ。正直なところ、面倒なことは嫌いだ。このまま放置したところで、誰も咎めはしないだろうとまで考え出す。
その時だ。グレゴリーとインコを映していた目に、違う何かが映る。
いるのはグレゴリーとキンコ。彼はグレゴリーが落とした雑誌に目を通し、顔を青くしている。
「なんだろう?」
その情景が真実だということはわかる。だが、グレゴリーが普段持っている雑誌といえば、エロ本だ。顔を赤くすることはあっても、青くすることなどないだろう。
気になる。気になることはハッキリさせるべきだ。
「グレゴリー!」
審判小僧の声に、全員が彼の方を向く。ボーイは嫌な顔をしていた。
「君をジャッジ!」
手にダラーとハートの入った籠を出現させ、グレゴリーへと突きつける。
「君はとあるホテルの管理人。
ある日、部屋の掃除をしていたら雑誌を落としてしまった!
部屋の住人はその雑誌を見たがために、友人と喧嘩になってしまう。
さあ、君ならどうする?」
今、あの真実が見えたということは、雑誌がインコとの仲違いの原因になっていたということだ。内容までは理解できなかったが、ジャッジを聞いたグレゴリーが目をそらしたのだから、心当たりがあることは明白だ。
「自分、あいつに何見せたんや!」
「あやつが勝手に見たのだ!
……煙草の有害性を語るページを」
一瞬、空気が固まる。
その間、誰もがなるほどと納得した。
「キンコはインコが大切なんだね」
ボーイの言葉に、インコが顔を赤くする。人に心配されるというのは、どうにも気恥ずかしい。
「……帰るわ。ミラー。繋いで」
「葉巻はいいのか?」
わざと聞いてやる。ニヤケた口元が抑え切れず、インコに睨まれる。
「あいつがまだ持ってんねんから、先にそっち吸わなもったいないやろ」
プイッと顔をそらしてそう言う。
「そうかよ。んじゃ、オレらは向こうに帰るわ」
「また遊びにおいでよ」
「ボクもいつか遊びにいきたいな」
ボーイは軽く言ったが、彼がキンコのもとを訪れるときは、この世界から抜け出すときだ。己がどれほど重大なことを言ったのか、ボーイはいまいち理解していないらしい。説明したのにな、と審判小僧は苦笑いだった。
END