ホテルのロビーでいつものようにグレゴリーが仕事をしていると、外へ繋がる扉の向こう側から何やら騒がしい音が聞こえてきた。それは走りまわる足音であり、エンジン音であり、怒声であった。
 嫌な予感に、グレゴリーはそっと扉に鍵をかけようとした。
「この車マニア!」
「待て!」
 だが、行動は少しばかり遅かった。
 扉に近づいたグレゴリーを吹き飛ばし、ホテルの中に入ってきたのは赤色が目に痛いパブリックフォンだった。
 ホテルに入ったかと思えば、素早く扉を閉めてしまう。外側からパブリックフォンを追いかけていたらしいタクシーの怒声と、扉を壊すのではないかと思うほどの力で叩かれている音がしている。
「うるさい……」
「て、敵襲か?!」
 騒ぎを聞きつけて、何人かの住人がロビーにやってくる。
「文句なら外にいる馬鹿に言ってくれ!」
「馬鹿はてめぇだろ! ぶち殺されてぇのか! 開けやがれ!」
「口悪いんだよ!」
 住人達は扉を挟んで大喧嘩を繰り広げている二人の様子を少しばかり驚きながら眺めていた。
 何せ、彼らが喧嘩するところなど、見たこともなかったのだ。
「お前達も喧嘩なんてするんだな……」
 カクタスガンマンが呟くと、パブリックフォンが目をつり上げる。普段は飄々としているばかりの彼が、怒りの感情を誰かに見せることは珍しい。だが、そんなことを考えていられるほどカクタスガンマンには度胸がなかった。
 射殺さんばかりの瞳に、思わず後ずさる。
「あの車マニアが勝手に怒ってるだけだ!」
 お前も十分に怒ってるよ。とは誰も言わない。
「人の車に傷つけておいて、何開き直ってるんだ! とっとと開けろ!」
 扉を叩く手は一向に緩まず、木製の扉が悲鳴を上げ始めている。同時に悲鳴を上げたのは管理人であるグレゴリーだ。思わず、扉を開けようと手を伸ばすが、パブリックフォンがそれを阻む。彼からしてみれば、この木製の扉こそが己の命を守る最終ラインなのだ。開けさせるわけにはいかない。
 開けたが最後、この世界の端から端まで引きずりまわされ、轢かれ、ミンチになって次の日の食事にとシェフに渡されるに決まっている。
「パブリックフォンよ。タクシーが車を何よりも愛し、大切にしていることは知っとるだろ。何をしたのだ」
 グレゴリーの問いかけに、パブリックフォンはバツの悪そうな顔をする。
「……ボンネットに座って煙草吸って、車に煙草を押し付けた」
 周りの空気が凍る。
 それは殺されてもしかたがないかもしれない。と、いう雰囲気だ。
 この世界にいる者は、己の中に譲れぬものがある。それを脅かされたとき、それは相手にこの上ない殺意を抱くには十分過ぎるときなのだ。臆病者であるカクタスガンマンでさえ、その時には殺意を見せる。
「煙草は料理の敵……」
「今は吸ってないだろ。セーフだ。セーフ」
 第二の敵が出現しかけたことに、パブリックフォンは慌てて言葉を付け足す。そもそも、シェフがいるからこそ、外に出て煙草を吸っていたのだ。今はもう吸っていないというのに、殺されてはたまらない。
「んなことはどうでもいいんだよ!」
 扉の向こう側から、タクシーの怒声が聞こえる。ホテルの中にいる住人達からは、彼の姿が見えない。けれど、彼の目が血走っていることくらいは容易に想像がついた。想像するだけで寒気がするほどの恐ろしさだ。
「ちゃんと謝ったのか?」
「一応な」
 カクタスガンマンの質問に、パブリックフォンは唇を尖らせる。
 謝罪をしてあの怒声となれば、もはや助かる道は無いだろう。ここに留まり続けた場合、巻き込まれる可能性がなくはない。カクタスガンマンは逃げることを選択した。これは戦略的撤退であって、臆病ゆえの撤退ではないと自分に言い聞かせる。
 けれど、悲しきかな。決断というのはいつでも、少しばかり遅いものだ。
 カクタスガンマンがパブリックフォンに背を向けた瞬間、木が砕ける音がした。それが何を示しているのはわからぬ者はこの場にはいない。
 神よ! 思わず心の中で叫んだが、現状は変わらない。破壊音を確認するため、ゆっくりと後ろを振り返る。
「タ、タク……」
「よぉ。フォン。久しぶり。
 お前と顔を合わせられなかった数分は寂しかったぞ」
 そこにあったのは、破壊された扉と、それを突き破ったのであろう黄色の車。そこから出てきた極上の笑みを浮かべた男と、床に伏しながら彼を見上げている哀れな詐欺師。もう一人哀れな者を付け加えるのであれば、ホテルの修繕という大仕事が出来てしまい、泡を噴いているグレゴリーだろう。シェフは黙ってその様子を見ているだけだ。
「あの、な?」
「言い訳はもう聞いたぞ」
「いや、違うぞ」
「謝罪も聞いた」
「だからな」
 タクシーは始終笑みを浮かべていた。目が血走っているであろうという想像とは違っていたが、これはこれで恐ろしい。
 具体的に何処が恐ろしいのかと問われれば、笑っているはずなのに、笑っているという空気を全く出していないところが恐ろしい。
「この世界を引きずり回して最終的にはミンチにしてシェフに差し出されるか、快楽耐久二日。どっちがいい?」
 簡潔に言えば、肉体的苦痛と精神的苦痛のどちらが良いかということだ。
 しかも、快楽主義者のパブリックフォンからしてみれば、精神的苦痛はあまりにも辛い。存在が消えかねない。
 パブリックフォンは唾を飲む。
 どちらを取ったところで、その先に見えているのは真っ暗な闇だ。
「動けないように縛りつけて、そのヘッドフォンを外してやるよ。お前、体のどこよりも耳が弱いからな。それから、お前が普段嫌がることを全部してやるよ。我慢も、懇願も、全部な」
 すでに言葉攻めが始まっているかのような妖艶さがそこにはある。それを見せつけられているこちらの身にもなってほしいというのは、カクタスガンマンの切実な願いだ。
「ミンチ……」
 シェフはパブリックフォンのミンチに興味津々のようだが、彼らの様子を見るに、その選択肢は選ばれないだろう。
 グレゴリーはタクシーとパブリックフォンを交互に見て、大きなため息をついた。
 せめて、子供がいない場所でやってくれることを願うしかない。


END