神はいるのだろうかと金の天秤に問いかけたのは弟子だった。
手には一冊の聖書がある。このホテルにそんなものがあるとは知らなかった。住人の中でも長い時間をここで過ごしているつもりだったゴールドは目を瞬かせる。
「それ、どうしたんだい?」
「地下のガラクタ置き場にあったんス」
そんなところで何をしていたのかはあえて聞かない。大方、訓練をサボるために隠れていたか、子供達と遊ぶための道具でも探していたのだろう。
ゴールドは無言で聖書と取る。少し驚いている審判小僧など気にもとめず、薄い紙をめくっていく。英語で書かれたそれは神についてかかれていた。ずいぶんと薄れてしまった現世の記憶が濃い靄と共に浮かび上がる。
断片的な記憶を脳内で見ながら小さく笑う。
「いないと思うよ」
「何でッスか?」
審判小僧の問いは神を信じていないゴールドを非難するものではない。純粋にどうしてそう思ったのかという根拠が欲しいのだろう。
「そうだねぇ。真実の天秤が傾かないから。というのはどうだい?」
神がいるのかいないのか。その質問に天秤は答えを示さない。目の前にいる彼が神を信じているのかどうかならば、天秤はどちらかに傾くだろう。天秤は目の前にいる者の真実を告げるだけだ。
天秤については審判小僧もよく知っている。だからこそ、不満気な目をゴールドへ向ける。
望んでいる答えはそういうものではなかったのだろう。もっと、具体的で、根拠のある答えを欲している目だ。しかし、その望みに応えることはできない。いると断言できないし、いないとも断言できない。それが神や天使、悪魔などといった思想だ。
適当な言葉で審判小僧を丸め込むことはできるが、それはゴールドの望むところではない。
「……ああ、でも」
目の前にいる子に聞こえぬように小さく呟いた。瞳は細められている。
「運命の神、なんてものは信じてもいいかもね」
世界は広い。時間は長い。
なのに、二人は出会うことができた。場所も、時間も全て越えてこの場所にいる。
出会うための傷ならば、喜んで受けよう。今のどこかで痛む胸の傷さえも甘美なものに感じる。
「親分」
審判小僧は笑っていた。無邪気な笑みはここへきたときから変わっていない。
「ボクは信じてるッスよ」
ゴールドが手にしていた聖書にそっと触れる。触れているのはお互いに本なのに、相手の体温が伝わってくるような気がした。がらではないと思いつつも、ゴールドは自分の胸が高鳴っているのを止めることはできない。
直接触れ合っているよりも、何故か体温が上がっていく。
「こうして会うことができたんスから」
聖書が宙を舞った。
審判小僧はゴールドの腕の中にいた。
「まったく……お前は」
どれだけ魅了すれば気がすむのだろうか。
まさか同じことを考えていたなんて、一心同体のようじゃないか。けれどそれはダメだ。同じ体だと抱きしめることなんてできない。
「そうだ、以心伝心だ」
「親分?」
腕の中にいる審判小僧が小さく首を傾げた。
「気にするな」
抱きしめる力を強くする。ちょっと痛いと呻く声は聞こえないフリをした。
どこか遠くで聖書の落ちる音がした。罰があたると笑いながら言う審判小僧に、ゴールドも笑って返す。
「ここには神を愛する人はいないから大丈夫」
誰も告げ口しないよ。その言葉が空気に溶け込むまで二人は一言ももらすことはなかった。
何も聞こえなくなって、言葉が空気に溶け込んで、二人はクスクスと笑った。これは二人だけの秘密だ。神を信じながらも、その神を無下に扱う。出会ったのが神の導きだとしても、こうして今も共にいることができるのは自分達の力だ。それを否定されてたまるものか。
「今日も月が綺麗だね」
ホテルの外では満月が輝いている。
腕を解いたゴールドは落ちていた聖書を手に取る。
「月夜の焚き火、素敵だと思わないかい?」
「思います」
答えは決まっているのだ。ゴールドが是と言えば是。否と言えば否。審判小僧の世界はシンプルにできている。
「じゃあ行こうか」
「はい!」
古びた本はどのような炎を上げ、この世界から去っていくのだろうか。
END