ヘビースモーカーとまではいかないが、審判小僧は煙草を好んでいる。
時折、煙草をくわえているところをシェフに見つかり、ホテル中を逃げ回っている姿が確認されていた。そのたび、住人達はまたいつもの痴話喧嘩かとあきれたものだ。
「のーすもーきんぐ」
今日も隠れて煙草を吸っていた審判小僧をシェフが発見してしまった。
愛用の大包丁は今日も鈍い光を放っている。
「ちょっと待って! 話せばわかる!」
「たばこは、料理の敵!」
振り下ろされた大包丁を避けようと、後ろへのけぞる。いつものパターンだった。
鋭い刃によって煙草は切られ、先のなくなった煙草を捨てて審判小僧は逃げ出す。
「あ」
けれど、この日は少しだけ違うことがおきた。
審判小僧は顔を抑え、シェフは目を丸くしてその様子を見ている。
「痛い……」
小さく、か細い声が耳に届いたとき、シェフは膝をつき審判小僧の腕をとった。
「乱暴だなぁ」
珍しくシェフが感情を乱していると審判小僧は笑うが、冷静になれというのが無理な話だ。
審判小僧の顔からは赤い血が流れていた。あふれだした血は顎を伝い、床を赤く汚していく。傷口を押えていた手も血で赤くそまっている。落ちた煙草の火は消えていた。
「大丈夫だよ。そりゃ、ちょっとは痛かったけどさ」
「痛くないわけがないだろ」
ようやくシェフが言葉を発する。
シェフの持っている大包丁はよく研がれている。骨だって簡単に切れてしまう。そんな刃が頬を伝ったのだ。肉はパックリと裂けていた。
「大丈夫さ。そうでしょ?」
やけに落ち着いた瞳をしていた。加害者の方が同様するというのもおかしな話だ。
「ほら、雑巾でも持ってきてよ。グレゴリーに怒られちゃう」
血で汚れた手がシェフの肩に乗る。
白い服が赤く染まってしまったが、そんなことは気にならない。気になったのは審判小僧の手の震えだった。目の前にある笑顔とは不釣り合いな震えだ。
「大丈夫だ。その程度の傷、すぐにふさがる」
できるだけ安心させるように、シェフは審判小僧の目をまっすぐ見て言う。
「……わかってるよ」
手の震えが収まり、先ほどよりも自然な笑みが浮かんだ。
雑巾をとってくると立ち上がり、歩いている途中でシェフは一息つく。なんとか審判小僧の精神を守ることができたようだ。
精神がすべてを司るこの世界では、傷も精神の影響を受ける。審判小僧がかたくなに大丈夫だと言ったのは、強がりではなく自分の精神を守るための暗示だったのだ。暗示はシェフがさらに上から大丈夫だと言うことにより、かなり強まった。
今のままの精神状態でいられるのならば、明日には治っているかもしれない。
「ボクの名前を知ってるかーい」
「……ゴールドか」
赤く染まった肩をゴールドが叩く。
シェフは嫌な奴に会ってしまったという感情を隠さない。
「刃物の扱いは気をつけなよ」
審判小僧の親分であるゴールドは静かに告げる。今回のことは見なかったことにしてくれるようだ。
「わかっている」
「それならいいんだけど」
顔を押えてうずくまった瞬間、審判小僧はどれだけ不安だったのだろうか。想像するだけでも恐ろしい。
自分のしていることに罪悪感を持ったことなどないが、あの光景を再びみるのだけは勘弁したい。
「じゃあ、これをあげよう」
裏の見えない笑みを浮かべたゴールドは雑巾をシェフに渡し、審判小僧がいる方向とは逆の方へ歩いていく。
「食えない奴だ」
目立つ後姿を見送り、シェフは踵を返す。
速足で審判小僧のもとへ戻り、黙って床を拭いた。
「あれ、もう一枚持ってきてくれればよかったのに」
血は止まり始めているようだが、見る者に痛々しさを感じさせる傷口に変わりはない。
「いい。お前はキャサリンのところにでも行ってこい」
「えー。採血されちゃうよ」
「ならミイラ親子のところにでも」
「変な薬飲まされるじゃないか」
このホテルにいる面々を思い返してみるが、他に包帯やガーゼを持っていそうな人間はいない。いるとしたらグレゴリーだろうが、この惨状をグレゴリーに伝える気にはなれない。
「大丈夫だよ」
「……そうだな」
否定するのが怖かった。
「もう少し血が止まったらカクタスガンマンにでも包帯もらいに行くよ」
心配性な彼はいつだって救急セットを持っているからと言う。
ならば今すぐにでも行ってほしいのだが、強く言うことすらできない。
「シェフ」
静かな声に顔を向けると、笑っているのに冷たい瞳があった。
「これっきりにしてよね」
「ああ」
怒っていたのかと心の中で呟く。
その感情を向けられることに対して不思議はない。けれど、その感情がわかりにくすぎた。
「もうしない」
「うん」
とにかく、審判小僧の煙草をすべて奪ってしまおうと思った。
END