ホテルに訪れた魂は三つの道を無自覚に選ぶこととなる。ホテルの住人になるか、さまよえる魂となるか、元の世界へ帰るか。多くはさまよえる魂となり、この世界をたゆたうこととなる。喜ぶのはグレゴリーと、その母親だ。他の住人達は他人に興味を持たない。それゆえ、誰がさまよえる魂になろうと、その後食べられようと関係ない。
時折、やってきた住人をさらに追い詰めるようなことをする彼らだが、悪意はまったくと言っていいほどないのだ。好きなことをしていたら、客人が勝手に精神力をそがれた。というだけにすぎない。
「ボクの名前を知ってるかーい」
つい先日ホテルにやってきたゲストの耳に、陽気な音楽が聞こえてきた。薄暗いこのホテルの中で、明るい声は救いの音色にも聞こえた。ゲストは声の聞こえる方へと足を運ぶ。このホテルは恐ろしい。誰も彼もが黒い何かを抱えている。初日に血を吸い取られたのは思い出したくもない記憶だ。
誰でもいい。何でもいい。まともな何かに会いたかった。
「審判小僧と言うんだよー」
ノックもせずに扉を開ける。いくらなんでも無礼すぎると、ゲストはすぐに思ったが、部屋の主は気にした風もない。
「おや、キミはつい先日やってきたゲストだね?」
頷く。部屋の主は楽しげな笑みを浮かべていた。彼の部屋は無駄に広く、なのに家具は一つもない。ほんの少しの恐怖を覚えたが、今まで見てきた恐怖と比べればなんてことはない。ちなみに、ゲスト一押しの恐怖は、簡単な料理をしようと厨房に行ったら身の丈ほどの包丁を持った男に追いかけまわされたことだ。その時助けてくれた者は誰一人いない。
ここは一体何なのだと、ゲストは問いかけようと口を開く。だが、彼の言葉を遮るように審判小僧が声を発した。
「それでは、キミをジャッジ!」
ゲストは目を丸くする。審判小僧はハートとダラーをゆらゆらと揺らしながら問いを口に乗せる。
「キミは骨董品を集めるのが大好きな男性。
ある日、欲しかった品が高値で売りに出されていた。家族は反対するものの、手に入れる絶好のチャーンス。
さあ、キミならどうする?」
真っ直ぐ向けられている目が恐ろしい。ゲストは今すぐにでも逃げ出したい心情になるが、足が動かない。まるで縛りつけられたようだ。
恐ろしいのは目だけではない。何故、目の前の男がそのことを知っているのかということもある。ゲストは骨董品を集めるのが趣味だった。欲しいものがあった。それを手に入れたくて、でも反対されて。その時とった行動は今でも忘れられない。
唇が震える。審判小僧はじっと待っている。
ようやくのことで出した答えは、諦める。というものだった。骨董品と家族。どちらの方が大切かと問われれば、答えは決まっているはずだ。
審判小僧は笑う。いや、ずっと笑っていた。
「それでは真実の天秤に聞いてみよう!」
二つの光が遠心力でぐるぐると回る。その光はゲストの心をざわつかせた。審判小僧が回転を止めると、光達はゆらゆらと上下し、一つが落ちた。
「はい、カックン」
ガラスが割れる音が聞こえる。残った金色の光はゲストに己の存在を主張するかのように輝いていた。
「キミは家族の言葉を無視して骨董品を手に入れました。
その結果、家族とは離れ離れになってしまいました。
これが真実。はい、おしまい」
ゲストは首を緩く左右に振る。これは違う、と心が悲鳴を上げる。脳内にある家族の冷たい表情など存在しているはずがない。自分は正しい選択をしたはずだ。帰れば家で家族が待っているはずだ。
視界が歪む。涙が溢れているのだとすぐに気づいた。
「残るか、帰るか。キミはどっちを選ぶ?
どっちを選んだとしても恥じることはないよ。キミ自身が選択していく道なんだから」
自分自身の選択。それは重い。誰のせいにもできず、誰のせいでもない。全ての責任は自分に降りかかってくる。それくらいならば、誰かが道を示してくれるほうがずっと楽だ。ゲストはふらつく足で前へ進む。腕を伸ばし、審判小僧の肩を掴んだ。
弱々しいとは言えぬ力が審判小僧の肩を軋ませる。それでも彼は笑みを崩さない。心の中を覆い隠すその表情は気に喰わない。
「どうしたんだい?」
何がわかる。ゲストは声を荒げ、審判小僧の首に両手をかける。ギリギリと締め付けても彼の表情は変わらない。多少苦しげな雰囲気ではあるが、口角は相変わらず上がっている。
気に喰わない表情を見ながら、ゲストはこの首を飾ってみたいと思った。愛しい骨董品達と並べてみるのも一興だ。集めて集めて、眺めて眺めて、それだけで幸せになる。ゲストは恍惚の笑みを浮かべる。
ゲストはこのホテルの住人となるために必要なものを持っていた。
狂気と執着。
「キミはそれを選ぶんだね」
聞こえてきた声は審判小僧のものではない。ゲストの背後から聞こえてきた。思わず審判小僧の首にかけていた手を離し、後ろを振り返る。
「それでは真実の天秤に聞いてみよう」
背後にいた男は、審判子増とよく似た笑みを浮かべ、ゲストの頭を鷲掴みにする。何の感情も移していない顔なのに、怒っているのだということだけはハッキリと理解できた。
助けて、と声を出す前にゲストの意識は薄れ、消えていく。自分が自分でなくなる間際に、全てを失った男の姿が見えた。それはゲスト自身だ。家族を失い、得た骨董品は偽者で、残った借金にコレクションは全て奪われた。
重いジャッジにゲストの魂は消える。耐えることができなかったのだ。
「……親分、まだ早かったんじゃないッスか?」
ゲストは間違いなく、このホテルの住人となれる素質を持っていた。足りなかったのはこの世界への適応だ。もうしばらくもすれば、真実を見ても壊れることはなかっただろう。喉を抑えながら審判小僧は上半身を起こす。
首を絞められたことなどなかったかのようだ。
「いいのだよ。ところで、大丈夫かい」
「はい。平気ッス」
この世界に死はない。あるのは消滅だ。息を止められたところで死にはしない。だから審判小僧は平然としていられる。
だが、簡単に割り切れるものではないはずなのだ。息ができなければ死ぬ。それは生きている限り引きずり続ける事柄であり、払拭できるものではない。それができているのは、彼が未熟とはいえ『審判小僧』であるからだろう。
人の真実を見抜くような者が、簡単に心を揺らしてはいけない。そうでなくては、真実を知ったとき、己の真実をもさらけ出すことになる。
「ならよろしい」
その理屈が通用するのは己に対することだけだ。ゴールドは名無しと呼ばれる審判小僧ができてから、そのことを痛いほど思い知った。
「では訓練に行こうか」
「あっ」
「キミは何度言ってもサボる。そろそろお仕置きが必要かね?」
「いえ……」
例えば、首を絞められたのがゴールドであったなら。やはり彼は笑っただろう。
審判小僧が首を絞められたからこそ、ゴールドは怒りを覚えた。消滅しても当然だと思うほどに。
END