自分には料理しかないのだとシェフは知っていた。
とっくに忘れてしまった世界で生きていた頃から、それは変わっていない。
感情も言葉もどこかに置いてきてしまった。残されているのは料理だけ。自分が作ったそれを誰かが食べる。そして笑い、泣き、苦悶の表情を浮かべる。感情のない彼の代わりに、それらを食べた者が感情を浮かべる。それが好きだった。
だから今日も厨房にいた。大きな包丁を使い、鍋に火をかけ、フライパンを熱する。
「キミは正直者なんだね」
料理をテーブルに並べていると、今日一番の客がそう言った。
シェフは何も答えない。そのための言葉を彼は持っていなかった。なにせ、彼が持っているのは料理だけなのだから。
「心が透けて見えるよ。嘘を言わない。嘘の行動をしない。偽らない。
言葉にこそしないけど、料理が代わりに全部教えてくれるしね。キミは本当に正直者なんだね。このホテルにいるのが不思議なくらいだよ」
けれど、彼はシェフの望む表情を見せたことがない。どのようなものを出しても、美味しいと笑うのだ。例え、そのスープに猛毒が入っていたとしても、表情が崩れることはない。日課である立ち聞きをしていた時に、彼は食事をする必要がないと聞いた。毒物を口にしても平然としていられるのは、そのことが関係しているのだろうか。
疑問は尽きないがシェフは尋ねない。彼も答えない。
「みんな、それぞれ純粋で正直者だけど、透明なのはキミくらいだね」
聞いてもいないことをペラペラと喋る。よく動くその舌を引っこ抜いて、具にでもしてしまえばいいのだろうか。そんな思考を彼は容易く読んでしまう。
「あはは。ちょっとからかいすぎたかな?
ボクはそろそろごちそうさまだ。じゃあね」
見れば皿は空になっていた。残していないのならば、特に引き止める理由もない。シェフは黙って皿を引く。食堂から出て行くその後姿には目も向けない。
彼は毎日一番に食事をしにくる。そして他愛もないことを喋り、去って行くのだ。応えを知らない自分と話していて何が楽しいのかと、思わないでもない。だが、それを気にかけてやる義理はない。
きたければ来ればいい。そうでないのならば来なくていい。ただそれだけだった。
ある日、シェフは日課の立ち聞きをするためにホテルを徘徊していた。彼を目にしても、大抵の住人は知らん振りを決め込む。露骨に驚きを示すのはカクタスガンマンくらいのものだった。
「こんなところで会うなんて奇遇だね」
声に振り返れば、いつも一番にやってくる客が立っていた。こんなところ、とは言ってもホテルの廊下だ。同じホテルに住んでいるのだから、出会うこと自体は不思議でも何でもない。けれど、今までを振り返ってみると、彼と会うのはいつも食堂だった。
「ボクはね。ちょっと親分から逃げてる最中なんだ。だから、今日はお話できないんだ。ごめんね」
まるで、シェフが彼との会話を望んでいるような口ぶりだった。そんな事実はどこにも存在していない。
慌しく去って行こうとする彼の腕を掴む。それは本当に無意識でのことだった。
「……シェフ?」
シェフは言葉を持たない。引き止めたところで、どうすることもできない。
「珍しいね。キミが惑うなんて」
彼は目を細める。どれはどこか楽しそうな色を含んでいた。
「自分がわからない? 迷ってる? 透明なキミが濁ってるね。
ああ、悪いことじゃないよ。それが普通さ。透明な生き物なんてそうそういないからね。誰だって、迷ったリ悩んだりするものさ。透明ってことは、何もないってことだからね。キミは料理はあったみたいだけど、他には何もなかったから透明だったんだよ。
始めての感覚かい? それは素晴らしい」
楽しげに、弾む胸を抑えようともせずに彼は舌を動かす。輝く瞳はどのような料理を出したところで得られなかったものだ。
「なら、キミをジャッジしてあげよう」
片手にハートの入った籠を、もう片方にはダラーの入った籠を。彼はシェフの目の前に突きつけてくる。人の心を揺らすその光に思わず魅入ってしまう。二つの光はシェフの心のようにゆらゆらと揺れる。
「キミはとあるホテルの専属シェフ。
料理だけを抱えてきたキミにも、いつしか心が生まれました。
感情を得る絶好のチャーンス!
さあ……キミなら、どうする?」
シェフは感情など持っていない。胸のどこを裂いたとしても、心など転がっているはずがない。そう信じていた。それは真実なのか。
「ふむふむ。キミは心なんてない、と言うんだね?
それでは真実の天秤に聞いてみよう!」
廊下に響き渡るようなかけ声がシェフの耳に入る。同時に、ガラスが割れる音がした。
「キミは心を持っています。それを捨てることは二度とできないでしょう。
これが真実。はい、おしまい」
金色のダラーは粉々に砕け、桃色のハートが籠の中に残っていた。
「これはボクからキミへの贈り物だ」
彼は残ったハートを籠から取り出し、シェフへと差し出す。
いらないとでも言うように、シェフは後ずさる。彼はそれを許さないと、一歩詰める。
「怖くないよ。心も悪くない」
笑う彼の笑顔に、シェフの心臓は痛いほど動き続けていた。
こんなものをシェフは知らない。欲しくもなかった。今までのように、料理だけが傍らにあればそれで幸せなのだ。
彼が本当に好きなものを考えることも、いつくるのかと時間を気にすることも、他人の口から聞こえる彼の評判も、全てがシェフを揺るがす。築き上げてきていたものが崩れていく。それは恐怖で、一つの感情だということをシェフは知らなかった。
「ほら」
シェフの手が半ば強制的にハートに触れさせられる。暖かなそれは、シェフに何かを確信させる。
「どうだい?」
気分を聞いてくる彼に、シェフは口を開く。
「……名前」
「ボク? ボクは審判小僧さ!」
知らなかったのかい? と尋ねられる。
勿論、彼の名前は以前から知っていた。彼自身がよく歌っていたし、ホテルの住人の間でも幾度となく名前が上がっていた。
わかっていて聞いたのは、直接聞いてみたいと思ったから。
「明日も、来るか」
「食堂には勿論行かせてもらうよ。
ボクはキミとお喋りするのが大好きだからね! 明日からは返事も期待できそうだ」
審判小僧は笑う。シェフは小さく笑っていた。
「名無し! どこだ!」
「あ、親分だ。シェフ、また明日ね」
審判小僧は闇の中へと消えていく。その後ろ姿が見えなくなっても、シェフはずっとその方向を見ていた。
胸が痛い。始めて得た感情に付ける名前をまだ知らない。
「明日は、イチゴのタルトでも作るか」
それは甘酸っぱい感情であることは確かだった。
END