いつでも月が出ているような世界に雨は降らない。しかし、だからといって明らかに壊れている屋根や壁を放置しておくことはできない。ホテルの管理人であるグレゴリーは、ため息をつきながらも修繕が必要な場所を見て回る。
すぐにでも直すべき場所を確認し、地図にチェックを入れていく。多少のヒビならば彼にでも直せるが、それ以上のものとなると専門の人物を呼ぶ必要がある。ホテルの住人の中に、そうした能力を有した人物がいないというのは頭の痛い事象だ。同時に、破壊の原因になっているものは大勢存在している、ということもグレゴリーの頭痛の種である。
「頭が痛いなら、頭痛薬をオススメするよ」
「……薬よりも、お前達の鉄球を始末する方が建設的じゃ」
軽い足取りでグレゴリーに近づいてきたのは名無しの審判小僧だ。
彼ら、審判小僧は籠だけでなく鉄球までも具現化することがある。それだけならばいいが、鉄球を振りまわすことがあるのだから始末に終えない。一応、彼らの親代わりであるゴールドを通じて説教をしているのだが、効果が現れたことはない。
「それより、またサボりか?」
目の前にいる審判小僧はサボリの常習犯だ。ゴールドが怒声をあげながらホテルを歩き回っている姿は珍しくない。
「やだなぁ。ボクだっていつもサボってるわけじゃないよ。
今日は正真正銘のお休みさ」
口角をあげ、嬉しそうにくるくるりと回る。彼らは何かにつけて回転するが、それに何か意味があるのだろうか。この世界の事象をおおよそ知っていると自負しているグレゴリーにもそれはわからない。
数回転した後、審判小僧は再びグレゴリーと向きあう。
「そういえばさ」
三白眼が鋭く光る。
グレゴリーは眉をひそめた。あの目は、人の心を読もうとしている時のものだ。けっして気分の良いものではない。
「キミはこの世界の事象を知ることができるんだって?」
先ほど、うんざりとして考えていたことを見透かしたのだろうか。そう思えるほどのタイミングの良さだ。審判小僧は真実を覗くことができるだけで、他者が現在考えていることまでわかることはないはずだが。
苦虫を噛み潰したような顔をしているグレゴリーを無視して審判小僧は言葉を続ける。
「それって、どんな気分なんだい?」
純粋な好奇心だけが彼の瞳に溢れていた。
この世界の住人にしては珍しく、良心めいたものを持ち合わせている者のそうした瞳は面白くない。特に、グレゴリーのような存在からしてみれば、忌々しいとすらいえる。
「知るか」
端的に言い放ち、審判小僧に背を向ける。
彼は生まれたその瞬間から、この世界のことならば大よそ知ることができた。グレゴリーからしてみれば、わからぬというのはどのような気分だ、というものだ。当たり前のようにもっている能力について尋ねられたところで、答えることなどできない。
「羨ましいなー。
ボクも知りたいよ。
ねぇ、どのくらいならわかるの?」
審判小僧は好奇心の塊だ。そうでなければ、他者の真実に目を向けるような住人に生まれるはずがない。正義感も平等心も持っているのだろうけれど、結局は好奇心の賜物でしかないのだ。
面倒な奴に捕まってしまった。グレゴリーは心の内でため息をつく。
「大したことはわからん。一人一人の気持ちや行動なんぞ知りたくもない。
ワシがわかるのは、大きな出来事とゲストがやってきたかどうか、ということくらいじゃ」
好奇心さえ満たしてやれば離れていくだろう。そんな算段をつけて言葉を返してやる。だが、その程度で満たされるような好奇心ならば、このホテルに住まうことはなかった。
審判小僧はなおもグレゴリーの傍で質問を投げかけ続ける。
世界の広さ、地方の存在、世界に住まう人々。その一つ一つに答えてやるほどグレゴリーの気は長くない。
「喧しいわ! 訓練が休みだというのならば、自主訓練にでも励まぬか!」
グレゴリーの怒声に、審判小僧は目を丸くする。
一瞬の沈黙の後、彼は残念そうに肩をすくめた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。
ボクはただ、好奇心のままに質問しただけなのにさ」
「受け入れられると思うほうが間違いじゃ」
この世界では、大抵のことは受け入れられる。非人道的な行為であったとしても、周りは大よそ無視してくれる。だが、彼らとて意思のある生き物だ。己の行動や考えを邪魔する者には容赦しない。
無論、グレゴリーも彼らとそう変わらない。住人の身勝手さは好ましいものでもあるが、こうして己へ牙をむくというのならば話は別だ。鬱陶しい好奇心をねじ伏せるために、多少の無茶ならばしてやってもいいとさえ思えてくる。
「仕方がないなぁ。
今日は部屋に戻るとするよ。また、次は暇なときにでも話を聞かせてよ!
キミの話も面白からね」
否、とグレゴリーが告げる前に審判小僧は背を向けて歩きだしていた。耳に染みついてしまったメロディーを鼻で鳴らしならが軋む床を踏みしめていく。蝋燭のかすかな明かりに照らされただけの廊下で、グレゴリーはそっとため息をついた。まだ面倒事は残っている。
一難去ってまた一難。と、いうよりも、先ほどからじわりじわりと感じていた圧迫感が近づいてきただけだ。
「何のようですかな。審判小僧ゴールド」
己の背後に立っている男へ言葉を向ける。視線を向けずとも、ゴールドがどのような顔をしているかなど手に取るようにわかった。すっかり腰が曲がってしまっているグレゴリーの背中に、鋭い視線が向けられている。穴が開いてしまいそうだ。
返答をよこさないゴールドに、グレゴリーは仕方ないと再び体を振り向かせる。
思っていたよりも遠い距離にゴールドはいたが、かろうじて彼の表情が読み取れた。想像に違わぬしかめっ面だ。子供がお気に入りの玩具を取られてしまったかのような、切なくも嫉妬に満ちた表情。
グレゴリーは口角をあげる。
喧しいことも、面倒くさいことも嫌いだが、この表情は悪くない。負の感情を悪循環させている。世界の象徴であり、負の権化でもあるグレゴリーにとって、それは何よりも芳しいものとなる。
「その表情、実にイイ。
しかし、あなたにその表情をされるのは、少しばかり困りものですな」
平等を司るゴールドが、一つのものに執着するというのは喜ばしくない。下手をすれば、世界のバランスを崩壊させかねない事態に陥ってしまう。彼に限って、そのようなヘマを犯すことはないだろうけれど、念には念を入れておくべきだ。
咎めるようなグレゴリーの言葉に、ゴールドがようやっと口を開く。
「――あの子にずいぶんと懐かれているようだね」
名に相応しく、金属の冷たさを持った声色だ。聞く者によっては、腰を抜かしてしまいかねない。
「そうですかな?
カクタスガンマンとも仲が良いでしょう」
比較的、住人との交流が多い審判小僧は、それなりの交友関係を築いている。
友人としてならばミラーマンやシェフがいる。また、年上としての意識を持ってしてカクタスガンマンなどとも仲が良い。こうした分類の中にグレゴリーを当てはめるのであれば、年上としてのカテゴリーになるだろう。
そして、ゴールドとしては最もおもしろくないカテゴリーだ。
「カクタスガンマンは間抜けなお兄さんってところさ。
だが、キミは違う。彼は、キミのことを頼れる大人だと思ってるんだ。底のない好奇心を満たすことのできる、素晴らしい大人さ」
ゴールドは危惧していた。
いずれ、審判小僧は己の元から離れ、一人立ちする日がくるかもしれない。その時、審判小僧の中で、ゴールドは確かな立ち位置を築き上げられているのか。馬鹿馬鹿しい心配かもしれない。それでも、ゴールドは思いを払拭することができなかった。
「哀れですねぇ。弟子の心一つ見抜くことができない、真実の天秤ですか」
あざ笑うように言ってやる。
ゴールドのこめかみに青筋が浮かぶが、その程度のことで怯むグレゴリーではない。
「怖いのですか?」
目を細めて光る男を見る。
グレゴリーには真実を見抜く目などありはしない。だが、ずっと長い時間を生きてきた経験は確かに蓄積されている。嫉妬という欲に足を引っ張られているゴールドを手玉にとることなど容易いことだ。
「早く手に入れてしまいなさい。
それであなたの乾きが少しでも癒えれば、私は何も言いませんよ」
例え、その結果がどのような終末へと転がり落ちたとしても、彼らの中だけで完結してくれさえすればいい。
「あの子は自由だ」
「あなたもそれは同じですよ」
誰かの自由は、時として他者の自由を踏みにじる。ゴールドはそれが恐ろしかった。
彼が好いているのは、隣にいる審判小僧ではない。ころころと表情を変え、楽しげに笑う審判小僧なのだ。閉じ込めることも、泣かせることもしたくはない。己の感情を抑えるがあまり、胸の乾きが増したとしても構いはしなかった。燃える炎に身を焼かれることくらい我慢できた。
ゴールドは右手で額を抑える。
「キミは恐ろしい」
グレゴリーが笑った。
自制により欲を押さえ込んでいたゴールドだが、この世界の象徴の前では何も意味をなしはしない。醜い欲望が増幅され、胸から溢れて口から零れていくのが感じられる。
「何時まで意地を張れるのでしょうなぁ」
意地悪気な声を残し、グレゴリーはゴールドの隣を通り過ぎる。
足音が数度聞こえて、ゴールドはその場に膝をついた。息は荒いが、先ほどまで感じていた欲望の疼きは収まっていた。
「――私が望むままに」
柔い自制心ではないと自負している。自分が望めば、そのままに耐えることができるはずだ。それが、数百年の時でも。
耐えることにしか目が向かぬ彼は、グレゴリーの心も弟子の心も見抜くことができない。
「一言で、全てが丸く収まるというのに」
誰に聞かれるでもない言葉は独特の笑い声の中でかき消えた。
END