二人が数えるのも面倒になったほどチェスの局数を進めたときだった。腐った扉が叩かれる音が部屋に響いた。
「タクシーかな?」
干からびた死体が立ち上がり、扉へと向かう。その隙にパブリックフォンは相手の駒をわずかに動かす。洞察力の鈍い干からびた死体は気づきもしないだろう。
イカサマだらけのパブリックフォンは、今日の局だけで言えば負けなしだ。もちろん、干からびた死体もイカサマをされているということは察していたが、どのようなイカサマをされているのかがわからない。
「よお、暇か?」
「うーん。まあね。今パブリックフォンとチェスをしてたんだ」
「お前が?」
「うん。別におかしなことじゃないでしょ」
目を丸くする干からびた死体に、タクシーは深いため息をついた。ついでに頭をかき、どうしてこうもこいつはお人好しなのかと考える。
「とりあえず入りなよ」
「ああ、そうさせてもらう」
中に入ると、チェス盤の前にパブリックフォンが座っている。鼻歌交じりに盤を眺めているところから、駒を動かしたのだろうとタクシーは予測した。伊達に長い付き合いではない。彼のしそうなことは予想がつく。
「お前まーたイカサマしてるだろ」
「別にー。お前には関係ないだろ」
悪いことをしているなどという感覚はないのだろう。
「オレと一局やらないか?」
「えー」
タクシーが相手だと、分が悪いとわかっているパブリックフォンは不満の声をあげる。先ほどまで一緒にチェスをしていたはずの干からびた死体は、二人の様子をニコニコと見守っている。
流石の彼も、連敗続きには精神的なダメージがあったようだ。ここは一つ、パブリックフォンの扱いを心得ているタクシーに任せようという魂胆なのだろう。
「……しゃーねぇな」
パブリックフォンも退屈していた。ここでタクシーの誘いを断ったところで、行く当てがあるわけでもない。
「乗り気じゃねぇな」
「オレは確実に勝てる勝負がしたいんだよ」
カモにしていた本人を前に、ここまで堂々と言い切ることができるのは、この世界でもパブリックフォンくらいなのではないだろうか。
「よし。じゃあ罰ゲームでもつけるか」
「お、それいいな」
タクシーの提案にパブリックフォンはあっさりと乗る。
「オレが勝ったら酒奢れ」
提案者が言葉を放つ前に、自分の要求を述べる。タクシーもそれを受け入れた。
「ならオレが勝ったら洗車でもしてもらおうかな」
「うげー」
あからさまに嫌がるパブリックフォンを見て、タクシーは嬉しそうに笑う。同時に、チェスの駒を並べていく。黒と白の駒が綺麗に並ぶ様子は美しい。
「絶対負けられねぇ」
「オレも負けたくはないな」
二人の真剣な瞳が交差する。大した害があるわけではないが、罰を与えられるのは嬉しいことではない。会話もなく、二人が駒を進めていく音だけが狭い部屋に染みわたる。
ずっとこの戦いを見守っているのもよかったが、流石にそれだけでは退屈だった。干からびた死体は適当なカップを取り出し、二人に珈琲を入れる。酒はないが、この程度のものならばいつでも揃っている。
しばらくすると、この戦いの行方が見えてきた。
「諦めなよ」
「うるせー」
どう見てもパブリックフォンが勝てるような配置ではない。それでも彼はまだどうにか足掻こうと、爪を噛みながら盤を見つめる。けれど、それだけで正気が見えるほど甘くはなかった。
「はい、チェックメイト」
「嘘だろ……」
頭を垂れて悲しみを体全体で表す。
「明日、洗車頼むぞー」
「体で払うってのはなし?」
「それじゃ罰になってねーだろ」
服のチャックを降ろそうとしたが、タクシーの言葉で手を離す。
「ちぇっ」
「負けは負けだよ」
干からびた死体にまで言われれば、これ以上の言い逃れもできない。
「第一、お前昨日はボンサイといたんだろ」
「まあな」
二日程度連続でもパブリックフォンは平気な自信がある。疲れよりも、快楽を求めたいという欲求のほうが遥かに強いのだ。
「でも、やっぱお前との方が楽しいんだよなー」
口を尖らせる。
いつでもできるのはボンサイだが、一番楽しいのは滅多に相手をしてくれないタクシーだ。不満も言いたくなるだろう。
「んなこと言っても絆されねぇからな」
「わかってるって」
タクシーはパブリックフォンのことをよく理解している。同時に、パブリックフォンもタクシーのことをよく理解していた。外面はともかく、内面は優しい奴ではない。
「あ、そうだ」
思い出したかのような声を上げ、タクシーを真っ直ぐに見つめる。
「お前は真実の愛を知ってるか?」
「なんだそれ。審判小僧に何か言われたのか」
「そんなとこ」
顎に手を当て、タクシーはしばらく考える。しかし、答えらしい答えは見つからない。
「……ま、オレにもお前にも縁のないものだろ」
出た結論を率直に告げると、パブリックフォンは嬉しそうに口角を上げる。
「だな」
今という時以上のものはいらない。
それが愛であろうと何であろうと。
「タクシー」
返事をするまえに、口を塞がれた。
パブリックフォンにしては珍しく、触れるだけの軽いキスだ。
「お礼な」
「……珍しいこともあるもんだ」
驚きのあまり、呆然としているタクシーの表情に満足したのか、パブリックフォンは先ほどよりも嬉しそうに目を細めた。
END