夜の闇が覆う森の中、パブリックフォンは一人歩いていた。特に目的があったわけでもなく、ただ漠然と歩くだけということを彼は時々していた。
 空にいつも通り浮かんでいる月は森の暗さを緩和しない。一寸先は闇。を、体言している森の中で、パブリックフォンは妙に明るい影を見つけてしまう。見知った黄の色をしているそれに彼は目を細めた。
 そういえば、しばらく会っていなかったような気がする。
 頭の中で最後に会った日を思い浮かべながら、パブリックフォンは黄色へと近づいた。
「やあ、パブリックフォン」
 弾むような足取りは、その声を聞くと同時に音を潜める。
「――お前」
 足を止めたパブリックフォンは、目を見開き、呆然とした顔をしている。
 姿形は、最後に会ったあの日から何一つ変わっていない。趣味の悪い黄色のスーツも、深い黒色の髪も、遠い昔から何一つ変わっていない。ただ、彼の奥底を覗かせない瞳が、やけに優しげなものへと変化していた。
 見た目は同じはずなのに、強烈な違和感だけがそこに残っている。
「どうしたの?」
 パブリックフォンは拳を握り、先ほどとは違った意味で目を細めた。
 彼の知っている黄色は、あのような言葉遣いをしなかった。したとしても、それを対価を払う客に対してのみだ。間違っても、パブリックフォンに向けられる言葉遣いではない。彼に対して使われるべき言葉は、もっと粗野であり、人を小馬鹿にしたようなものだ。
 そして彼は、今の黄色が使うような言葉遣いを、口調を、自分に向ける人物を一人だけ知っていた。
 その一人が、黄色を食ってしまったのだと確信するに足りるだけの状況が、今、目の前に広がっている。
「何でだよ」
 歯を食い縛り、目の前にいる黄色へと問いかける。
 問いかけの意味を正確に受け止めた黄色は、小さく肩をすくめた。
「やっぱり怒るんだね」
 悲しげな声とは裏腹に、その瞳は楽しげに細められている。
 彼は立ち止まっているパブリックフォンの方へと足を進めた。地面を踏み締める音を聞きながら、パブリックフォンは微動だにせず黄色を睨みつけている。怒りの色をはっきりと浮かべたその瞳に、黄色は背筋が粟立つのを感じた。
 恐怖ではなく、喜びと快楽の感覚だ。
「答えろよ」
「うん。そうだね」
 黄色はパブリックフォンの頬を撫でる。
 優しい愛撫のような触れられ方に、パブリックフォンは顔をしかめ、自分の頬に添えられた手を叩き落とした。
「いい加減にしろよ」
 叩き落とされた手を少し眺めてから、黄色はパブリックフォンの両手首を掴んだ。
「おい」
 不機嫌そうな声を無視して、歪められた唇に己のそれを重ねる。
 舌を入れようとも思ったが、今の彼を相手にそれは自殺行為だろうと思いなおし、黄色はすぐに唇を離した。
「どう? 彼と何か違う?」
 楽しげな瞳を見返すのは、先ほどよりも怒りと憎悪に燃えた瞳だ。
「てめぇ……」
「違う? やっぱり中身が違うと駄目?」
 黄色が口を開くたびに見える赤い舌。パブリックフォンはそれを噛み千切ってやりたい思いに駆られる。
「オレの質問に答えろよ! 死体!」
 パブリックフォンの怒声に、世界が静まり返る。
 風の一つも吹かず、森はざわめきを潜めた。まるで、全ての動植物が二人の行く末を覗き見しているかのような空間だ。息がつまるような閉塞間の中でも、死体と呼ばれた黄色は笑みを絶やすことがなかった。
「わかってるくせに」
 死体でなくなった干からびた死体は、掴んでいたパブリックフォンの手を離し、彼が逃げてしまうまえに強く抱き締めた。きっちりと着込まれ、素肌が見えない彼の首筋に顔をうずめ、その感触と匂いを堪能する。
 腕の中で彼が暴れているのを感じたが、かつての干からびた死体とは力が違う。拘束は解かれることがなく、彼は喉を震わせた。
「何笑ってやがんだ……」
「泣かないでね。パブリックフォン」
 干からびた死体には、今のパブリックフォンがどのような顔をしているのかわからない。また、嘘ついのパブリックフォンが嘘泣き以外の涙を流しているところなど見たことがない。だというのに、干からびた死体は、パブリックフォンが泣いているような気がしてならなかったのだ。
 泣いているとするならば、原因が自分にあることはわかっていた。
「泣いてねぇよ」
「ならいいや」
「よくねぇよ」
 パブリックフォンの声から力が抜けていく。
「なあ、死体……」
「タクシーは死んだよ」
 干からびた死体の腕の中で、パブリックフォンの身体が硬くなる。
 いつもは、誰かを好きになどならないと言っているパブリックフォンだ。タクシーのことを問われたとしても、従兄弟であって、それ以上でもそれ以下でもないと言ってきていたパブリックフォンだ。
 やはり、彼は嘘つきだ。
 心の隅に湧き起こる痛みを無視して、干からびた死体はパブリックフォンとの距離をさらになくそうと、強く抱き締める。
「だってさ。ボクだってこの世界の住人なんだよ?」
 首筋から顔を上げて、ヘッドフォンごしに言葉を投げる。
「ずっと我慢してたんだ。でも、欲望を抑え切れるわけがないじゃないか。
 これから先も、終わりのない長い時間を、我慢ばっかりしてられないよ」
 強く抱き締めるだけだった手を、優しい触れ方へと変える。パブリックフォンの身体からは抵抗する気力が失せていることがわかったからだ。
「好きなんだ。ボクは、キミが。
 キミに愛を教えたいと思うし、与えたいと思う。それと同じくらい、キミをボクだけのものにしたいとも思う」
 ろくな手入れをしていないためか、ぱさついた髪に触れ、ヘッドフォンを外す。
「キミの身体を奪ってしまおうかとも思ったけど、それじゃ駄目なんだ。
 ボクはキミの心も欲しい」
「無理、って……わかってる、だろ」
 髪とヘッドフォンに隠されていた耳に触れると、パブリックフォンは甘い声を出しながら震えた声を出す。
「うん。わかってる。でも、ボクの欲望は納得してくれなかったから」
 パブリックフォンは快楽だけを求める。楽しければそれでいいという思考の彼は、ただ一人のものにはなれないし、なる気もない。無理矢理に拘束すれば、彼は欲望を解消できずに彷徨える魂となってしまうだろう。
 そんなリスクを知っていても、干からびた死体は我慢ができなかった。
 所詮は彼も、この世界の住人だ。愛するものの生死よりも、己の欲望の方が大切だ。
「好きなんだ。愛してる。
 キミはこの身体が好きだったでしょ? 中身は違うけど、外側は何も変わっていないよ」
「タ、ク……」
「大丈夫だよ。彼よりもキミのことを思って、彼よりもキミをよくしてあげるから」
 いつの間にか世界には音が戻っていた。
 風の音と草木の音、そして湿った土の匂いを感じながら、パブリックフォンは目から涙を零した。
 それが快楽から流れる生理的なものだったのか、もっと別の要因があったのか。それを知るものは、パブリックフォン本人を含め、誰もいない。

END