ホテルの支配人であるグレゴリーには仕事が多い。
 協調性など皆無で、他人の迷惑など考えもしないような住人ばかりなのだからしかたがない。その世界の中心にいる人物こそ、グレゴリーなのだから、そのことは嫌というほど理解できている。しかし、それでも仕事の多さは辛いものがあるし、それに不満を持つこともある。
 彼の仕事といえば、壊れたホテルの修理に、住人同士の諍いの仲裁。さらには、特殊な住人の面倒。など、実に多様だ。毎日目覚めるのが恐ろしい。朝がこない世界だというのに、次の日が恐ろしくなることがあるのだ。だが、眠っていないからといって面倒事が収まってくれるわけではないので、素直に眠っておいた方が体にも心にも優しい。
 そろそろ代替わりを期待する年齢なのだが、それもしばらくは無理そうだ。
 次世代を担う者は孫であるジェームスだ。彼の行動や考え方は、この世界の象徴になるに相応しいものであり、素質は十二分に備えている。けれど、彼は若いを通り越して幼い。身も心も幼い彼に世界を任せるわけにはいかない。
「はあ……」
 思わずため息が出る。
 今日も、グレゴリーはホテルの掃除に勤しんでいる。
 ジェームスが散らかしたゴミを捨て、廊下の隅にたまっている埃を箒で掃く。ちりとりを使うかはその時の気分しだいだ。
「ため息をつくと幸せが逃げるらしいよ!」
 唐突に後ろから声が上がった。
 挨拶されることがないわけではないが、何の気配もなく背後から声をかけられることは少ない。心臓が喉から飛び出る気分を味わうはめになってしまった。
 グレゴリーは、驚きの目をしたまま振り返る。
 そこにはゴールド程ではないが、眩しくなるような笑みを浮かべている審判小僧がいた。ちらりと見える牙が吸血鬼を思い出させる。
「やあ! 今日も精が出るね!」
「ああ、うるさい。うるさい。一体なんの用だ」
 箒を振り回しながら聞くと、暇なのだという返事がくる。基本的に、ゴールドがいないときの審判小僧は暇を持て余している。その時間の半分でも自由な時間が欲しいグレゴリーからしてみれば、忌々しいことこの上ない。
「そんなに怒ってどうしたんだい。
 ああ、またママに叱られたんだね。でも、八つ当たりは良くないよ」
 審判小僧は笑みを崩さない。
 逆に、グレゴリーは顔を盛大にしかめた。
 事実、つい先日ママには怒られたところだ。思い出すのも忌々しいが、言葉からの連想と追憶は止められない。
 彼がママに怒られた理由は、ホテルの住人ならば誰もが知っている。そして、誰もが原因の被害にもあっている。
「あのネコが悪いのだ」
 吐き捨てるように言う。
 先日のことがはっきりと脳内を駆け回っていた。
 彼はゲストを逃がしてしまったのだ。ママは現実世界からやってきたゲストの魂を口に含むことを至上の喜びとしている。前回のゲストの魂についても、それは楽しみにしていた。ゲストは上質な魂を持っていたのだ。
 けれど、どれほど素晴らしい魂を持っていようとも、現実世界に帰られては意味がない。こちらの世界から、あちらの世界の人間へ手を伸ばすことは許されていない。
 グレゴリーにとっての不幸はゲストが逃げ出してしまい、ママに叱られたことだ。細かに言うのであれば、近頃のゲストが恒例のようになっている放火をして帰って行ったことも不幸の一部に入る。
 炎程度で死ぬような精神力の住人は存在していないが、体が溶けてしまったり、骨だけになってしまったりはしてしまう。すぐに再生するとはいえ、決して気分のいい現象ではない。
「キミも大変だね。体が燃えて、ママにも怒られる。
 良いとこなしもいいとこだ!」
 カラカラと笑う審判小僧だが、今回に限っていえば審判小僧もグレゴリーが怒りをぶつける相手になりうる。
「貴様もゲストに手を貸しておったではないか!」
「やだなぁ。ボクはいつだって真実をジャッジするだけさ」
 鼻歌交じりの言葉は嘘ではない。
 審判小僧も、ミラーマンも、TVフィッシュも、ゲストを手助けする気などさらさらない。
 真実を計ることや見ること、見せることが好きなだけの、極普通の住人だ。
「本気でボクを責めるなら、まずはネコゾンビを消してしまわないと」
 悪意のない笑みが、恐ろしい。
 ジェームスのような悪戯心からくる笑みではない。純粋に真実を述べるだけの笑みだ。
「それは……」
「できないんだよね!」
 言葉につまったグレゴリーへ、審判小僧が宣言する。楽しげにくるくると回る様子は鬱陶しい。
 もしも、彼がゴールドの弟子でなければ、グレゴリーは手にしている箒と蝋燭を使い、審判小僧を痛めつけただろう。
 グレゴリーのように、ゴールドはこの世界の初めからいる存在だ。ただの象徴であるグレゴリーより、強い力を持っているとも言える。ゆえに、彼は審判小僧の無茶をある程度許容してやらねばならない。
「だって、キミとネコゾンビは一つの存在だもの」
 息がつまるのを感じた。
 その事実は理解しているし、この世界の住人のほとんどが、漠然と理解していることだ。
 だが、誰もそれに触れない。触れるの値しないと感じる者もいれば、触れるべきでないと判断している者もいる。
「……それをワシに言ってどうする」
「別に?」
 回るのを止めた審判小僧が首を傾げる。
 またしてもグレゴリーは面喰ってしまった。
 悪意がないことはわかっていたが、意味も何もなかったとは思っていなかった。
「ボクは真実を告げるだけだもの」
「――審判小僧、あまりワシを侮るでないぞ?」
 地を這うような声がグレゴリーから発せられた。
 一度、審判小僧は目を丸くして、大人しく両手を上げる。
「ごめんなさい。少し調子に乗りました」
 逆鱗は竜にだけあるものではない。ネズミにもあるのだ。
「ふん。さっさと自主訓練にでも向かえ」
「そうさせてもらうよ」
 審判小僧はそそくさと廊下を駆けて行く。
 その背中を眺めていたグレゴリーはため息を一つ吐いた。
「まだ若いとはいえ、躾がなってなさすぎるぞ」
 真実が見えるくせに、地雷は見えないようだ。
 グレゴリーはネコゾンビがいるであろう方向に目を向ける。
 彼は善意だ。
 世界の善意であり、かつては自由に歩いていた。
「今は、いや……これからも、奴はあそこから出られん」
 一人呟く。
 いつだったか、人の悪意が善意を大きく上回った。それは一人ひとりの力ではなく、現実世界という大きな括りに存在する悪意だ。
 悪意はグレゴリーママだった。
 変わらぬ人の善意に比べ、悪意は形を変える。ママに代わり、グレゴリーがこの世界の象徴になったのは、世界の悪意が形を変えたためだ。
 ジェームスとネコゾンビを見ていると、グレゴリーは昔を思い出す。霧も靄も超えた向こう側の出来事だ。
 まだグレゴリーが幼く、ママの後ろをついて回るだけだった頃、彼もまた、ネコゾンビを共にあった。その頃はまだネコゾンビも自由だった。
「この均衡が崩されることはあるまい」
 あるとすれば、善意が消えるくらいのものだ。
 独特の笑い声を上げながらも、グレゴリーは昔のように言葉を交わしてみたいと思った。

END