ホテルの中は危険でいっぱいだ。採決を迫るキャサリンよりも、もっと恐ろしい者がいる。
 彼らは今日もホテル中を駆け回る。
「にゃははー! これボクの!」
 イタズラ小僧のジェームズを筆頭に、ホテルの子供達はハタ迷惑な悪戯を繰り返す。
 子供のやることと侮ってはいけない。時には生死に関わるようなことまでも彼らはやってのけるのだ。そこに悪意がないことがせめてもの救いなのかもしれない。
「ちょっ! それボクのおやつだよ!」
「ふーん? シェフのおじちゃんが作ったのぉ?」
 審判小僧が食べていたお菓子を奪い、口に運びながら尋ねてくる。瞳は雄弁に物語る。お前が作ったと知っていると。
 このホテルに住まう限り、食べ物はシェフが作ったものになる。勝手に厨房を使われることを彼は嫌う。そして何よりも、自分の料理を食べなくなることを最も嫌うのだ。
 だからこそ、審判小僧は自室でこっそりと食べていたのだ。それを嗅ぎつけてくるのだから、ジェームズの嗅覚は恐ろしい。
「わかったよ……。それはあげるから、シェフには黙ってて」
 降参して、自作のおやつをイタズラ小僧に差し出す。子供達は一斉に手を伸ばしお菓子を頬張る。お菓子がほしいのならば、シェフに頼めば作ってくれるだろうにとため息をつく。あれで案外シェフが子供が好きなのだ。
「審判小僧」
 古ぼけた扉がきしみながら開かれる。地を這うような声には聞き覚えがあった。
「しまった……」
 開かれた扉の先には身の丈ほどの大包丁を持ったシェフがいる。子供達は楽しげな悲鳴を上げながら部屋から出て行く。十中八九、シェフが外にいると知っての行動だったのだろう。
 審判小僧のお菓子を奪い、なおかつ恐怖を与える。さすがの非道っぷりだ。
「や、やあ」
 すべて聞かれていたのだとすぐに察しがついた。
 どうにかこの恐ろしい状況から抜けれないものかと、明るい挨拶をしてみる。
 返事は返ってこない。
 そうとう怒っているようだ。あの大きな包丁で真っ二つにされるのは望むところではない。審判小僧はどうにか脱出の隙がないかと視線を動かして探る。
「何故」
 再び聞こえてきた声は、思ったよりも怒気を孕んではいなかった。
「オレに頼まなかった」
「え……」
 予想もしていな言葉だった。
「いや、夕飯の仕度とかで忙しいでしょ?」
「間食を作るくらいの余裕はある」
 そっけない言い方ではあったが、審判小僧が予期していた最悪の事態は免れたようだ。
「じゃあさ、今度作ってくれる?」
「今じゃなくていいのか?」
 少しだけ目を丸くして聞き返す。
「うん。さっきのおやつで今は満足。
 これ以上食べると、シェフの夕飯が食べれなくなりそうだし」
 笑いながら言うと、心なしかシェフの表情が緩んだ。
「そうか。お前は何が好きだ?」
 こんなことを聞かれたのは初めてだ。シェフは自分の作る料理が至高だと考えている。どんな食材を使って、何を作っても、シェフが作ればすべて美味い。事実、シェフはこのホテルの誰よりも料理が美味い。嫌いな食材であったとしても、シェフが調理したものならば食べられる。
 そんなシェフが他人に好きなものを聞くというのは珍しい。
「うーん。ボクはリンゴが好きだよ」
 料理ではなかったが、好きな食材を答えた。長い間この世界で、シェフの料理ばかりを食べていると好きな料理など思い浮かばない。
「わかった。明日、アップルパイを作ってやる」
「え、本当?!」
 思わず目を輝かせる。
 シェフが子供達にお菓子を作ってやっていたことは知っていたが、もう青年と言っても過言ではない外見をしている自分が、その輪の中に混ざることはできなかった。だから自分で寂しくお菓子を作っていたのだ。不味いとは言わないが、シェフが作るものには到底敵わないだろうということはよくわかっていた。
「ありがとうシェフ!」
 嬉しさのあまり、目の前にいるシェフに向かって飛びつく。しかし、審判小僧はシェフを抱きしめることはできなかった。
「何をしてるんだい?」
 見ればシェフを押しのけてゴールドが審判小僧を受け止めている。
 ゴールドの腕の中に体を収めた審判小僧は目を白黒させ、突き飛ばされたシェフは怒りに打ち震えている。
「いや、シェフがアップルパイを作ってくれるって言うから」
「食べ物に釣られるんじゃない!」
 怒鳴りつけられ、思わず肩をすくめた。
「オレの料理に文句をつけるのか?」
 大包丁をゴールドの首筋に添える。
「キミの料理は認めてるけど、この子をあげるわけにはいかないんでね」
 二人の間に火花が飛び散る。間に挟まれている審判小僧はどうすればいいのかわからない。
「貴様……手を出したのか」
 眉間にしわを寄せる。
 この言葉の意味が理解できないほど、審判小僧も子供ではない。途端に顔を赤くする。その様子だけでシェフはすべてを悟った。
「このっ!」
 怒りに身を任せ、包丁を一気に振り切る。
「危ないねぇ。私はともかく、この子に当たったらどうするつもりだい?」
 軽く包丁を避け、挑発するような笑みを浮かべながらシェフを見る。
 舌打ちをするシェフを横目に、指を鳴らして天井から鉄球を下ろす。
「じゃあ、明日は私もアップルパイをご馳走になるからね」
 鉄球に飛び乗り、一言残して去っていく。
 鎖を切ってやろうかと思ったときには、二人の姿はなかった。
「くそっ……!」
 大包丁を床に叩きつける。
 以前から、ゴールドはやけにあの審判小僧を構っていると思っていたし、審判小僧もそれを嬉しそうに享受していた。だから予想はしていたが、こうも現実を突きつけられると腹が立つ。
「見てろ……」
 時間はまだまだある。長い時間の中、審判小僧がこちらに目を向けないとも限らない。
 シェフはさっそく明日のためにリンゴを調達しに行った。


END