ホテルの中でタバコを吸う人間は少ない。
 その数少ない人間の一人が審判小僧だった。
 タバコを憎むシェフにバレぬよう、自室で吸うことが多いのだが、談話室などで話し込んでいるとつい吸ってしまうことがあった。とくに、タバコを吸う人間と話していると、無意識のうちに吸ってしまうことがあった。
 談話室を出たとき、自分の服にタバコの匂いが染みついていることに気がついた。
 自室まではそう距離はない。さっさと帰って着替えようと、速足で自室へ向かう。
「……審判小僧」
 後ろから首を掴まれる。
「……シェ、フ?」
 振り向くことができなかった。主に恐怖のために。
「また吸ったな」
 大包丁を強く握る音が聞こえた。審判小僧の体に戦慄が走る。
 いるのかいないのかわからない神に問う。どうして今日に限ってシェフがここにいるのだと。自分は何か悪いことをしたのだろうか。
「確かに訓練はサボったけど……」
 小さく呟きうなだれる。料理のダシにされるのも、大包丁で真っ二つにされるのもごめんだ。どうするべきなのかを考えている間にも、シェフは厨房へ向かって歩き出す。首を掴まれている審判小僧はそれについて行くしかない。
「おや、名無し」
 焦る審判小僧の視界にゴールドが映る。
 しかし、それは事態の悪化を招いているとしか思えない。
「今日、訓練をサボったね?」
 笑顔が黒かった。
 彼が審判小僧のことを名無しと呼ぶのは、他の審判小僧がいるときや、大切な何かを伝えるときだけだ。今の状態で感じ取れる意味はただ一つ。
「お仕置きだ」
 右手に浮かびあがったダラーが投げつけられる。黙って見ているわけにもいかず、首を無理やりうごかし、ダラーを避ける。審判小僧が避けたことにより、ダラーはシェフの後頭部に直撃した。
 痛みに審判小僧を掴んでいた手が離れる。
「今だ!」
 ゴールドがいる方向とは逆の道を走る。
 一度だけ振り向くと、睨みあっている二人の姿が見えた。
「邪魔、するな」
「キミがね。彼には罰を受けてもらわなくちゃいけないんだから」
 前を向いた瞬間に聞こえてきたのは金属音だった。大包丁と、ゴールドのダラーや鉄球が舞っていることは間違いない。
 地獄絵図の始末はグレゴリーがするだろうと、審判小僧は地下室へ向かう。
「面白いことになってんじゃねーか」
 聞こえてきた声は懐かしいものだった。
「ミラーじゃないか。丁度いい、ボクをそっちに連れて行ってくれ」
 鏡に映るミラーマンに頼む。
 割れた仮面から見える右目が楽しげに歪む。
「どーしよっかなぁ」
「頼むよ!」
 頼み込んでいる間に、背後から激しい音が近づいてくる。あの二人の戦いに巻き込まれるのは死よりも恐ろしい。
「……しゃーねぇな」
 鏡の中から腕が生え、審判小僧の腕を掴む。
 腕に引っ張られ、審判小僧の体は鏡の中へ沈みこむ。上も下もない奇妙な感覚を味わい、気づけば鏡だらけの部屋に横たわっていた。
「やっぱり気持ち悪い」
「ま、慣れるしかねぇな」
 ミラーマンの手を借り、鏡の中を移動したことは何度かあったが、一向に慣れる気配がない。
「ほれ、見てみろ」
 彼が指さす先にあった鏡をのぞくと、ホテルを崩壊させたいのかと思うほどの攻防を繰り返している二人が見えた。
 グレゴリーが慌てて仲裁に入ろうとするものの、シェフの大包丁とゴールドのダラーであしらわれてしまっている。他の住人達といえば、我関せずといった風で、いつも通りの生活をしている。
「ボク、どうしたらいいのかな」
 ため息をつく。二人の前に顔を出せば、まず命はないだろう
「てかよ、お前シェフと付き合ってんだろ?
 タバコ吸うのやめた方がいいんじゃね」
 ミラーマンの提案はもっともだ。しかし、審判小僧はシェフがこのホテルに来る前からタバコを吸っている。いまさらやめろというのは酷な話だ。
「前さ、お酒があまり好きじゃないからタバコにしたって話をしたら怒られたよ」
 ゴールドに強い憧れを持っている審判小僧は、まだ弟子になりたてだったときに、少しでも彼に近づこうとした。ゴールドは酒が好きだったのだが、どうにも審判小僧は酒に強くなかった。そこで、タバコというものに路線を変更した。
 タバコと相性が良かったのか、今でもお付き合いをさせてもらっている。
「そりゃそうだろ」
 呆れた視線が向けられたが、意味のない偽りをするつもりはなかった。
「って、今はそんな場合じゃないんだって」
 これからのことを考える。ずっとこの鏡の部屋にいるわけにもいかない。しかし、ホテルの中へ戻るのも恐ろしい。
「数時間もしねぇうちに、グレゴリーママが来て雷の一つでも落ちるんじゃねーの」
 鏡の向こう側にいるシェフとゴールドは疲れを知らぬように見える。
「そうであることを願うよ」
「ジャッジしてみろよ」
「映してみてよ」
 どちらも真実を持った人間が目の前にいなければいけないとわかっていつつ、言葉を交わしあう。
「ゴールドは娘でも取られた気分なんだろうな」
「シェフといると機嫌悪いもんね」
 審判小僧もゴールドのことを親のように慕っているが、だからこそシェフを認めてほしい気もする。複雑な気持ちをため息にこめる。
「アレを止められるのもたぶんお前だけだから。しっかりしろよ」
 無責任に背中を叩くミラーの言葉を聞き、とりあえずは禁煙と訓練をしていこうと心に決めた。


END