ホテルには以外にも喫煙家が複数人いる。あのシェフが恐ろしくないのかと問えば、一様に恐ろしいと返ってくる。それでもやめられないのだからしかたがないというのも彼らの意見だ。
「ちょっとー。インコ煙草くさいわよ」
「ええやん。どーせここにシェフは絶対きーひんし」
 インコは普段、世界の狭間にいる。このホテルにくる人間の大半がそこで何かを落としているのだ。キンコはそれを守り、インコもそれに付き合っている。
 けれどインコはれっきとしたホテルの住人だ。狭間にいるのはキンコに付き合ってやっているだけにすぎない。なので時々思い出したかのようにホテルに戻ってくることがあった。それを見つけたキャサリンはインコを病室に連れ込んだ。変な意味ではなく、ナースとしてたまには健康診断でも受けろということだ。
「あら、失礼しちゃうわね」
 顔は笑顔で、右手にいつもの注射を取る。
「じょ、冗談やん……」
 採血は勘弁して欲しいと言わんばかりに両手を軽くあげる。
「私だってシェフといちゃいちゃしたいのよ!」
 鋭い針がインコの隣に刺さる。血の気が引き、とても採血などできそうにもない顔色へと変わっていく。
 キャサリンがシェフに恋をしているというのはホテルの住人であれば誰もが知っている。知らない者がいるとするならば、超をつけてもいいほど鈍感なシェフ本人だろう。
 わかりやすすぎるアプローチに対する返答も料理の話ばかりだ。インコから言わせてみれば、あの男に未だ惚れているキャサリンの根性がすごい。
「あたしだってねー!」
 涙を浮かべながらまくし立てられる。
 そうとう鬱憤が溜まっていたのだろうが、それをぶつけられる方の身にもなってほしい。どうせならばフリッツにでもぶつければいいのにと、実に自分勝手なことをインコは考えた。
 今のうちに逃げ出そうと、そっと席を立つ。
 ドアノブを握った瞬間、嫌なよかんに背筋が泡立った。
「……まさか、なあ?」
 膝をつき、鍵穴を覗きこむ。
 真っ赤な瞳と目があった。
「うわあああ!」
 後ろにのけ反り、尻もちをつく。インコの記憶が正しければ、あの目はシェフのものだ。
 赤く、無感情な冷たい目。見間違えるわけがない。
「シェ、シェフ……!」
 ヤバいと思った。
 胸ポケットには煙草が一箱入っている。口はまだ煙草くさいだろうし、服からはニコチンのにおいしかしないだろう。
 心臓が悲鳴を上げる。逃げ場を探そうとする前に、扉が音を立てて開く。彼の姿が見えるまで、やけにゆっくりと扉が開いた。あの赤い目と、頭の上で揺らめく炎を見てインコは目を回す。
 死んだ。確信があった。
「シェーフゥ!」
 予想外だったのはキャサリンの行動だ。
 床に座り込んでいるインコの背中を踏みつけ、向こう側にいるシェフへと抱きついた。突然の行動にシェフも驚いているらしく、目が丸くなっている。
「今のうちや!」
 心の中でキャサリンに感謝し、インコはシェフの隣を駆け抜ける。小柄な体にも感謝した。
「やから、このホテルにくんのは嫌やねん!」
 後ろのほうで足音と怒声が聞こえる。どうにかキャサリンを引きはがしてきたようだ。必死に足を動かすが、コンパスの違いがありすぎた。あと一歩でインコはミンチになるだろう。今はただ小柄な体が憎かった。
「おっしゃー! きたでぇ!」
 そんなときに見つけたのは一枚の鏡だ。
 このホテルと狭間をつなぐ者がそこにはいる。
「ミラー! 助けてや!」
「ヤダ」
 浮かんできた人物は無情にもインコを切り捨てる。あと少しで鏡の前を通過してしまう。この機会を逃せば、インコの助かる道は見えない。
「お前の鏡全部割るぞ」
「そのまま死んでいけ」
「死ぬ前にこれだけは割ったるわ」
 拳を固く握り、鏡に向かって叩きつける。手は鏡を割らずに、その中へと入りこむ。まるで水の中に腕が入るように、自然に腕は鏡の中へと入り、体も腕に続いて鏡の中へと入っていった。
「サンキュ」
「恐ろしいことしようとしやがるぜ」
 ミラーマンがインコを助けたのは優しさからではない。彼が存在している鏡が割られれば、その痛みがミラーマンを襲う。体が一瞬でバラバラになるような感覚を味わいたいとはとても思えない。
「いややなー。ちょっとしたお茶目やろ」
「今からでも放り出してやろうか」
「勘弁してぇな」
「インコ、心配したんだな」
 軽い口調で言い合っていると、キンコがミラーマンの部屋にやってきた。いつも困ったような顔をしているが、今日の顔はどことなく心配そうであった。
「あー。すまんすまん」
「何だ、お前ちゃんと言って行かなかったのか」
「すぐ戻ってくるつもりやってん」
「早く帰るんだな」
「はいはい」
 しかたないという体で帰って行くインコを見て、ミラーマンは小さく笑う。あんな風になりたいと、久々に他人になりたいという欲望がわきあがる。適当な人物を見つくろってなり変ってやろうかと、鏡を覗く。
『どこだぁ……』
「鏡割ってやがる!」
 見失ったインコを探しているのか、シェフがホテル中の鏡を割っている。今はもう痛覚も何もないが、このままホテル中の鏡が割られてしまえばミラーマンはここに閉じ込められてしまう。
 好きで引きこもっているのと、強制的に閉じ込められてしまうのではわけが違う。
「やめてくれー!」
「インコはどこだぁ」
 また一枚鏡が割れた音がした。


END