現実世界から堕ちてきたとある男。そんな存在は別段、珍しいものではない。
 時間の感覚が消え失せたこの世界だが、長くも短くもない間隔で人間という存在はこの世界に堕ちてくるものだ。彼、あるいは彼女が住人となるか、彷徨えるタマシイとなるか、はたまた現実の世界に帰ってしまうのか。それはその時々で変わるものの、多くの住人にとっては瑣末なことであった。
 だが、前回、堕ちてきた男は実に厄介な存在だった。
 執拗かつ、綿密で壮大な妄想は、世界の在りようを変えてしまったのだ。欲望の強さと能力、影響力の強さが比例する世界とはいえども、ここまで強大な力を有した存在をグレゴリーは知らない。
「お前がきてくれて助かったよ」
 少しずつではあるが、ダンジョンからホテルへと戻りつつある場所の廊下でパブリックフォンは笑う。
 あの妄想狂は関わりのあった住人達をトレースし、凶暴化させた敵をダンジョンに数多く配置していた。知り合いの姿を打ち倒すことに躊躇いを覚えるような精神を持った住人はそういないが、自身の姿となれば話は別だ。
 世界の基盤であり、確固たる概念であるグレゴリーやクロックマスター達ならばともかく、かつては現実の世界の住人として生き、ここへ堕ちてきたパブリックフォン達にとって、自己破壊は致命傷となる。
 自我を失い、自身の存在に揺らぎが生じれば、あっという間に彼らは彷徨えるタマシイとなり迷界を飛び回り、ママの食料となるのんを待つだけになってしまう。
 かといって、元より戦闘力の低いグレゴリー達だけで世界の異常を収めることはできず、住民達はほとほと困り果てていた。
 己の欲望によって他者を害することは悪ではない。少なくとも、この世界では。
 しかし、それを是として受け入れるかどうかは被害者側で決めてよい、というのもこの世界の理だ。故に、面倒事を目の前に突きつけられ、美味い飯と不気味で平穏なホテルを取り上げられたことに住人達は怒りを抱いた。
「あいつにとってのイレギュラーがいなきゃ、こうも上手くはいかなかっただろうな」
 自身以外を倒し続け、一進一退の攻防を続けていたとき、新たなゲストがこの世界に堕ちてきた。
 彼はグレゴリーからの依頼を引き受け、住人達の手助けを受けながらではあるが、見事に世界とホテルを取り戻しつつある。
「もう少しでここも元に戻りそうだし。
 ありがたい話だよな」
 ダンジョンの中でひっそりと息を潜め、その身を守っていたパブリックフォンが新たなゲストと出会ったのは、他の住人達からずいぶんと遅れてのことだった。
 しかし、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
 一応は命の恩人と言える彼をパブリックフォンは邪険に扱わなかったし、パブリックフォンの奔放さを彼は受け入れ、楽しげに会話さえしてみせた。
 性的な関係に陥ることはなく、良き友人と言うには距離感があったけれど、彼ら二人は良い顔見知りだった。それこそ、廊下で顔を合わせれば雑談を交わす程度には。
「お礼に一発ヤらせてやろうか?」
 下劣と知りながら、やんわりとした否定を知りながら、パブリックフォンは新しいゲストに告げる。
「――そうだね」
「あ?」
 意外な返答。
 今までの彼であれば、間違いなく答えは否だった。また、苦々しくその返答をする彼のリアクションをパブリックフォンは気に入っていた。
 体を交えることに嫌悪感はないものの、好んで行為をしたいかと問われれば首を横に振る。
 ただのジョークを本気で返されることほど、気分が萎えることはない。
「おいおい、なに本気に」
「一発、殺っていい?」
 不穏なニュアンス。
 背筋に氷が詰め込まれるのを感じたパブリックフォンは即座にその場から後ろへと飛び退く。
「キミが殺っていい、って言ったんじゃないの?」
「……そういう意味じゃねぇよ」
 パブリックフォンは生唾を飲み込む。
 つい数秒前までは味方だと思っていた新たなゲスト。だが、彼もこんな場所に堕ちてくるような人間だ。まともなわけがなかった。
「狂気に飲まれてんじゃねぇっての」
 暗い瞳。力なく、しかし上げられた口角は狂人に相応しい面構えだ。
「ここはそういう場所でしょ?
 狂気の場所。ボクの欲望を解放できる場所。
 壊したい。殺したい。キミを。みんなを。全てを。壊して壊して壊して壊して」
 硬く握られた拳がパブリックフォンに向けられる。
「チッ!」
 ダンジョン攻略に手を貸すことはあったものの、パブリックフォンは攻撃型の住人ではない。嘘で誤魔化し、他者を呼び出し、ほんの少しだけ手を下す。いわばサポートタイプ。
 破壊の欲望に飲み込まれた者と対峙して勝利を収められるはずがない。
「転んどけ!」
 足元に電話線を張り巡らせトラップにする。
 助けを呼ぶにも、逃げるにも、まずは距離を開けるのが先決。一進一退では追い詰められてゲームオーバーだ。
「待ってよ」
「誰が」
 進むたびにダメージを受けているにも関わらず、彼の表情は笑みから少しも変化しない。
 いくらこの世界が欲望と狂気に満ち溢れているとはいえ、気味が悪すぎる。パブリックフォンはわずかな躊躇もなく彼とから離れる。安全だと確信できる場所までたどり着ければ、ヘルプを呼ぶことだってできる。
 他者のために自己犠牲を働いてくれるような住民がいるとは思えないが、古い付き合いのある相手ならば万が一程度には可能性もあるはずだ。
「――クソったれ」
 だが、パブリックフォンは足を止める。
 そうせざるを得なかった。
「残念だったね」
 背後にある気配はトラップに引っかかりながらも進んできた男のもの。
 目の前にはダンジョンと化したホテルと、彷徨う偽者達。彼らは既にパブリックフォンの存在を認識し、攻撃体勢に入っている。
 進むも退くも、右も左も、先がない。
 偽者の一体程度ならば倒すことも可能だが、残りの敵と背後の敵をかわすことはどう考えても不可能。
「殺ろうか」
「おい、おいおい。
 ちょっと待ってくれよ。
 そうだ。お前が聞きたいって思ってる相手に電話を繋げてやるよ。
 今回だけ、特別に、タダで。
 悪い話じゃないだろ? 現実に置いてきた奴でも、死んだ奴でも、もう一度話しができる」
 顔を青ざめさせ、必死に言葉を紡ぐ。
 何か、少しでも男の気をそらすことができれば、時間を稼ぐことができれば、この状況も変わるかもしれない。上手く取引に乗ってくれるというのであれば、偽者達を倒してくれる可能性だってあるはずだ。
 狂気に飲み込まれているとはいえ、元はホテルのため、住民のために働いてくれていた男。米粒程度だとしても可能性はある。
「……だぁめ」
「だろうな」
 言ってみただけだ、と言葉を吐き捨て、すぐさま自身の周囲に電話線のトラップを張る。これで数分程度は偽者達からの攻撃を逃れることができるはず。
 ならば後は背後、すぐ傍にまでやってきている気配への対策だ。
 こちらもトラップで足止めをしているとはいえ、偽者達と違って一撃が非常に重い。数発もぶち込まれればパブリックフォンは粉々に砕け散ってしまうことだろう。
 時間に猶予はない。
 パブリックフォンは手元に赤い受話器を出現させる。
 何処にでも、誰にでも繋がるソレは、彼の持つ最大の武器だ。
「早く、出やがれ……!」
 コール音が耳元で鳴り響く。
 逃げることができないのであれば、現状を突破するための布石を作るしかない。
 ホテルの中か外か、何処にいるのかわからぬ従兄弟を呼び出す。逃亡と攻撃に優れたあの男がこの場に現れさえすれば、パブリックフォンの無事は確定すると言っていいだろう。
 電話が繋がりさえすれば、パブリックフォンの能力で強制的にこちらへ呼び出すことが可能となる。
 あとは、通話状態になれば。
「タク……!」
 後ろにいるあの男が近づいてくる音が聞こえる。気持ちが急くが、無機質な音に当り散らしたところで相手が受話器を上げてくれなければ何の意味ももたない。
 無意識のうちに息が荒れる。久しく感じていなかった恐怖だ。
 基本、欲望が具現化しているこの世界において、住人が死ぬことは滅多に起こりえない。彼らが死ぬためには、自身が死んだ、という確信が必要なのだ。それを得ることがなければ、たとえ血を辺り一面に撒き散らそうが、頭がかち割られようが当たり前のように生きていられる。
 仮に死んだしても、自己や欲望を喪失していなければ時間をかけて復活することができるため、住人達は死という概念を恐れない。
「出てくれないの?
 薄情な従兄弟だね」
 今、パブリックフォンが恐れを抱いているのは、この男の手にかかれば自分は間違いなく死ぬ、という確信があり、尚且つ復活後の世界の惨状を想像してしまったからだ。
 住人達は男がダンジョンを攻略していく姿を見ている。彼の手にかかればどのような敵も一撃で仕留めることができる、という意識が刷り込まれている状態だ。そんな男からの攻撃は、死と同等の意味を持つ。
 何処かで誰かが男を止めることができていればいいが、それが叶わなかった場合、住人達は死と復活の無限ループに陥ることだろう。とんだ地獄絵図だ。
 震えそうになる手をどうにかおし留め、コールが消えるのを待つ。
 がちゃり、通話中に移行する音が聞こえた。
「突然で悪いがこっちに――」
 受話器越しの相手を召還するため、こちらへきてもらう旨を宣言しようとしたパブリックフォンの声が途絶える。
「ちゃんと周囲を見てないといけないよ」
 楽しげな声。
 パブリックフォンは腹を押さえ、その場にうずくまる。同時に、意識が外れてしまったことで手にしていた受話器は無へと帰す。
 腹が、酷く痛んだ。強い衝撃による鋭い痛み。その後、じわりと広がる鈍い痛み。
 攻撃を受けてしまった。背後の男からではない。正面、ダンジョンと化している場所からの攻撃だ。
 パブリックフォンは痛む腹を押さえながら視線だけで周囲を見る。トラップによる時間稼ぎはまだ有効のはずだ。ならば、何故、という思いが痛みに支配されつつある脳裏をよぎる。
「スケルトン、メイ、ジ」
 いつからいたのか。
 騒ぎを聞きつけてやってきたらしい敵の中に、そいつはいた。
 自身を守るために周囲に張り巡らせたトラップをものともしない長距離攻撃型。
 パブリックフォンは魔術師からの魔法攻撃を無防備な体に受けてしまった。
「痛そうだね」
 せせら笑う声が聞こえてくるが、腹に受けた痛みが酷く、返すための声が出ない。
「――ぐ、ぁっ」
 また一撃。男からの攻撃ほどの威力はないが、戦闘型ではないパブリックフォンを痛めつけるには十分すぎる程の威力を持つ魔法だ。
 熱い炎が腹を、顔を、頭を、肩を打ちのめす。
「捕まえた」
 地に伏したパブリックフォンを男は片手で掴み上げる。
 身長に差は殆どないのだが、攻撃性を具現化した状態である男の筋力は常識で測ることはできない。
 彼は低い呻き声を上げているパブリックフォンを肩に担ぐと、そのまま前へ進み、偽者達を含めた敵を排除し始める。片手で行っているとは思えぬほどに鮮やかな殺戮模様だ。
「てめ、なに、を」
「せっかくだからゆっくり殺ってみたくて」
 何を言い出すのだ、この男は。
 パブリックフォンは眉を寄せる。
「だって、こいつらは妄想の産物だけど、キミ達は違うでしょ?」
 撫でれば壊れるような存在ではない。
 非戦闘員であろうとも、この世界の住人は皆、強かだ。共に戦ってきたからこそ、男はよく理解していた。だからこそ、つまらぬ妄想に殺されては困る。
 周囲の敵を全て殺し終えた男は、トラップも何もない地面にパブリックフォンを横たえた。
「さあ、楽しいショー……。
 キミ達は、ホラーショーって言うんだっけ?
 それを始めよう」
 淀んだ瞳に映る自身を見て、パブリックフォンは嗤いそうになってしまう。
 酷く怯えた顔をしていた。今にも助けを乞い、服従の意志を示してしまいそうな。
「あぁあああ!」
 男がパブリックフォンの右腕を掴み、力を入れる。たったそれだけの行為だが、男の手はパブリックフォンの腕を砕く。鈍い音が空気中に漏れ出し、ぐちゃり、と粘着質な音がそれに続く。
「この世界は便利だよね。
 思いが強ければ、何でもできる。
 例えば、手を刃物にするとか」
「や、めっあぁあああ!」
 手刀の形を取った男が緩やかにパブリックフォンの肩を刺す。わずかに押し込む力を入れれば、男の手は業物の刃のごとく容易くその手をパブリックフォンの身の内側へと滑り込ませることができた。
 柔いとは言い難い肌を貫き、肉を掻き分け、そのまま外へ出て行く。
 時間をかけての貫通は痛みを悪戯に長引かせる。
「ねえ、キミって色んな声真似ができるんでしょ?
 悲鳴も色々聞かせてよ」
「ぐっがああ!」
 勢いよく振り下ろされた拳によって足が砕かれる。
 早く殺せ、早く死を確信しろ、とパブリックフォンの脳が伝達を出すが上手くいかない。
 決定的な一撃ではないことを心が理解してしまっている。自身を嬲り殺すつもりなのだ、という察しがついてしまっているのも悪かった。
「駄目だよ。それはキミの悲鳴でしょ。
 違うのが聞きたいんだって」
 次は何処を砕かれるのか。切られるのか。焼かれるのか。
 喉をか細く鳴らしながらパブリックフォンは男の狂った瞳を見つめる。
「ほら、早く」
 男の指が顔をなぞり、目元へと寄せられた。
「はっ、はぁ、は……っぐあ」
 目蓋に触れ、強く押し込む。
 抉り出すための動きだ。
 この状況で視覚を奪われるのは不味い。精神的なダメージが強くなり、復活が望めなくなる予感さえ生まれてくる。抵抗しなければ、とパブリックフォンは思ったが、そのために動かせる手も足も最早ない。
「綺麗な目。
 一つくらい潰れても平気だよね」
 そんなわけないだろう。触れられていないほうの目で訴えてみるが、彼の意識は無様にさらけ出されつつある眼球にしかないようだった。
 柔らかな眼球がほんのわずか先の未来で潰される。全身を支配する悪寒にパブリックフォンは忌々しげに放置されている片目を細めた。
「うわっ!」
 不意に目が圧迫から解放される。
 パブリックフォンを甚振っていた男の姿は彼の視界から消え、代わりに派手な黄色が飛び込んできた。
「うちの従兄弟を殺されては困りますよ、お客さん」
 車から出てきたのは、先ほどこちらへ呼び出そうとしていた従兄弟、タクシーだ。
「ここの人達って他人を助けるような風には見えなかったけど……。
 やっぱり元は血の繋がりがあった相手ってのは特別なのかな?」
 せせら笑う男の声を不愉快に思いつつ、タクシーは足元へと視線を移動させる。アクセルを目一杯踏み倒してきたため、彼の下にいたであろう存在まで確認しきることができていなかったのだ。
 狂気に取り込まれた男への警戒を緩めつもりなど毛頭なかったタクシーだが、一瞬、ほんの瞬きの間だけ、男から意識が離れてしまう。
「――フォン」
 歪な形をした手足。おびただしい量の血。浅い息。ろくに開かれていない目。
 満身創痍という言葉が薄ら寒くなるような有様になった従兄弟がそこにはいた。容易く死ねぬこの世界のおぞましさを改めて思い知らされる。
「普段はそんな風に呼ぶんだ?
 新しい一面が見れて嬉しいよ」
「黙れ」
 冷たく言葉を吐き捨て、タクシーはその場に膝をつく。
 壊れ物を扱うような手つきでパブリックフォンの身体の下へ手をやり、そぅっと持ち上げる。
 一切の力を失っている身体はだらりと手足の先を不安定に投げ出していた。乱暴に扱えば千切れてしまいそうだ。この世界では体のとて治すことのできる範疇の怪我。しかし、だからといって大したことではない、というにはことは重大すぎる事態だ。
「予想以上にひでぇことしやがって」
 男を見る瞳は暗く、澱み始めていた。
 狂気。男が持つソレと似て非なる狂気がタクシーの身体をめぐり始めている。
「こいつを連れてとっとと、とんずらかますつもりだったが、予定変更だ」
 パブリックフォンを抱え、車の後ろへと進んだ彼が車体を軽く蹴ると、勢いよくトランクが開く。何も入っていないそこへ、タクシーはボロボロになったパブリックフォンを横たえる。
 音もなく降ろされたとはいえ、接着時の衝撃が響いたのか、彼は小さな呻き声を上げた。
「お前はここで殺す」
 開かれたトランクを閉めた先にあったタクシーの眼光は鋭く、狂った男を刺し殺さんばかりだ。
 常のタクシーを知る人物であれば、彼が愛車に足を入れた時点でこの場を逃げ出していたことだろう。客よりも、住人よりも、金よりも、自身の車を愛するタクシーが、車に対して乱暴なマネをするはずがない。
 愉悦のために誰かをひき殺すことはある。障害物をなぎ倒すためにアクセルを踏むこともある。その結果、車が傷つくことは許容し、修理修繕を行う男ではあるが、自身の手で傷をつけるようなことだけはしてこなかった。
 矛盾しているようではあるが、タクシーなりの矜持とルールがそこにはある。
 今、それを覆すほどの、否、覆されていることにすら気づけないほどの感情が彼にはあった。
「やってみなよ」
 男が笑う。
「地獄へ送ってやる」
 タクシーは素早く運転席へと乗り込み、すぐさまアクセルを踏む。
 肉弾戦に自身がないわけではないけれど、彼の武器は圧倒的な質量とスピードを有する車だ。正々堂々などクソ食らえ。あるものを当たり前のように使うのはこの世界の特権だ。
「そんな乱暴な運転してたら、トランクにいる彼、死んじゃうんじゃない?」
「安全だって確信してる場所で死ぬかよ」
「大した信頼だね」
 互いに、と男は言う。
 パブリックフォンは酷く揺れているであろう場所を安全だと信じ、彼がそう思っていることをタクシーは信じている。美しい絆とでも言えばいいのだろうか。
 こんな欲望だらけの世界で。
 住人と接し、妄想で作り上げられたダンジョンをクリアしてきた男からすれば失笑ものだ。
「自身の欲望に忠実に。
 それが許されるのがここなのに。他人を助けてどうするのさ」
「勘違いすんな。こんな場所でも愛ってのはあるんだ」
 カクタス兄妹やミイラ親子達のような愛情。キャサリンがシェフへ向ける恋愛感情。
「愛ってのは欲が深いもんだって、知らなかったのかい?」
 縦横無尽に車が走りまわる。
 土煙を撒き散らし、たった一人の標的をミンチにしようとしているが、肝心の男は全ての攻撃をひらりとかわしてしまう。彼にはダンジョンを攻略してきただけの実戦経験がある。相手がいくら早かろうとも、大回りしかできぬ車を避けることは難しいことではなかった。
「ちょこまかと……」
 エンジン音に混じってタクシーの低い声が地を這う。
「それはこっちの台詞だよ。
 攻撃させてももらえないんだから」
 さも困ってます、というような言い方ではあるが、彼の声は喜色に染まりきっている。
「だから、ね」
 迫り来る車を前に、男は身を低くした。
 まさか車体を受け止めようとでもいうのか。それならばその自信ごと潰してやる、とタクシーはさらにアクセルを踏み込む。
「終わりにしよう!」
 車が男を潰す寸前、彼は跳躍し、ボンネットへ足を置いた。そこから瞬きの間も置かずに拳を固め、タクシーが何らかのアクションを起こすよりも前にフロントガラスへと叩き込む。
 本来ならば容易く割れぬはずのそれは、欲望の後ろ盾を得た拳の前に脆くも崩れ去る。
 砕けたガラスがタクシーの顔を切り刻むシーンを男は網膜に焼き付けてやるつもりだった。その表情がタクシーの瞳が最後に映すモノになれば最高の高揚感を得ることができるだろうと確信していた。
 だが、タクシーもやられるばかりではない。
「そうだな。お前の死で終わりだ」
 みすみすフロントガラスを割らせてしまいはしたが、飛び散る破片を横目に彼は車内からの脱出を成し遂げていた。
 扉から飛び出し、そのまま宙を行ったタクシーは真っ直ぐに男を見据えている。
「……あれぇ?」
 初めて、男が笑み以外を顔に浮かべた。
 困惑。何が起こっているのかわからぬ、と。
 運転手は宙にいる。しかし、車は今もなお、低いエンジン音を轟かせ、変わらぬスピードを保ち、方向転換さえしてみせている。
 瞬間、彼の脳天に衝撃が走った。
 ボンネットの上に乗っている男が丁度自身の真下にきたタイミングを狙ったタクシーが重力と共に踵落としを決めたのだ。
「ちと気はそれるが、この車はオレが離れても自由に運転できるんだよ」
 脳に衝撃を受け、男の視界には星が瞬く。
 タクシーの言葉を聞き取ることはできるものの、何らかのアクションを返すことはできない。
「そういうわけで、まあ」
 また衝撃。
 体が蹴られ、数秒の浮遊感の後、硬い地面に落ちた痛み。
 近づいてくるのはエンジン音。
「さようなら、だ」
 男は自身の肉が潰れる音を聞いた。

END