雰囲気 審シェフ審。
気持ちは100%シェフ審ですが、お気をつけください。
朝も昼も夜もない世界で、このホテルの住人は自分のことだけを考え、自分だけのペースで生きている。自分の欲望だけで生きていけるこの場所は、とても幸せで心地よい空間だ。
他人を気にすることのないこの場所で、他人のことをわずかとはいえ考えて生きている数少ない住人。それが、シェフだった。
彼が心優しい人物である。と、いうことではない。彼がホテルの料理長である故に、他人の生活リズムを考えざるを得ないだけだ。彼とて、根本的には自分のことだけを考えて生きている。料理をするのが楽しい。誰かに食べてもらいたい。己の料理を口に含み、悶絶するその姿が見たい。
ホテルの料理長に相応しい人格を持っている。
「どこに行っていた?」
「いつも通り、自分の部屋で訓練していたよ」
シェフは低い声で、審判小僧を問いただす。
「嘘だ。オレが見に行ったとき、いなかった」
「そうかい? いつごろきたの?」
地を這うような声を出したシェフに対し、審判小僧はいつも通りの様子で首を傾げる。
飄々とした様子の彼は、シェフが料理を食べる者以外で、個として唯一気にかける者だ。理由は至極簡単。審判小僧という男が、シェフの恋人だからだ。愛するべき者のことを気にかけるのは当然のこと。
例えそれが、常軌を逸していたとしても、当然の範疇なのだ。
「あ、もしかしたら、ジェームスと遊んでいたときかな」
「ジェームス?」
「うん。ちょっとだけ地下で遊んだんだ」
笑顔を見せる審判小僧に、やましさの陰はない。しかし、シェフは納得できないのか、赤い目で審判小僧を睨みつけている。
あからさまなほど、こちらを信用しようとしないシェフを、審判小僧は優しく抱きしめた。
「ごめんごめん。ちゃんと報告したほうがよかった?」
「当たり前だ」
シェフの耳元で、審判小僧が囁く。すると、怒気を発していたシェフの気配が幾分か落ち着く。そっと審判小僧の背中に腕を回す頃には、いつも以上に優しい雰囲気に溢れていた。
「嘘はダメだ」
「そうだね」
すがるようにシェフは言う。審判小僧は聖母のようにそれを受け止める。
優しげなその光景は、欲望だらけのホテルには似つかわしくないほど美しい。
「キミは心配性だから」
子供をあやすように、背中をゆっくりと撫でてやる。赤い目からは涙など流れていなかったが、審判小僧の目には、シェフの心が涙を流しているのがハッキリと見えていた。それを癒すことができるのは自分だけだと、知っていた。
シェフという男は、毎日毎時間毎秒、誰かが己の悪口を言っているのではないかと思っている。己の料理を台無しにしようとしていると考えている。そのため、料理をしているときと、審判小僧と共にいるとき、眠っているとき以外は、ホテルを徘徊して他人の言葉に耳を傾けている。
悪口を耳にすれば、常に持っている大包丁で相手を真っ二つにするつもりだ。事実、彼の手によって調理されてしまった住人は多い。
「ボクはキミの味方だよ」
とろけるような言葉に、シェフはそっと目を閉じる。
「キミの悪口なんて言わない。言うような人と一緒にいない」
「本当か」
「真実さ」
強迫観念に取り付かれているシェフは、愛する審判小僧が誰かに取られるのではないかと恐れていた。いつか、彼が己の手から逃げてしまうのではないかと思っている。恐怖に後押しされ、シェフは審判小僧に回している腕に力を込める。
普段、骨ごと肉を切っているような男の力に、審判小僧は小さく呻き声を上げた。
「シェ、フ……。くる、しいよ」
抱き締める。と、いうよりは、締め上げる。と、いった力の入れ方だった。骨が折れるか折れないかのギリギリの入れ具合は彼が、この行為に慣れていることを示している。審判小僧もまた、そのことを知っているため、激しい抵抗はしない。
「ジェームスと何を話した? 何をして遊んだ? 何を思った?
教えろ。何一つ隠すな。オレに教えてくれ」
吐き出すと同時に、回していた腕を離し、顔を上げる。嫉妬とも怒りとも不安とも取れる赤い瞳が審判小僧を映した。
彼は小さく微笑み、シェフの頬に手を当てる。
「何から話そうかな。遊びも色々したよ。思ったことも一言じゃ言い切れないなぁ。
一つ一つ話すよ。ボクはキミの味方だからね。絶対にキミを裏切らないよ」
シェフの額にキスを一つ落とす。
「大好きだからね」
頬をわずかに染めて言う。すると、次はシェフが審判小僧の唇へキスを落とした。
「オレもだ」
「知ってるよ」
そうして、審判小僧は一つ一つ丁寧に言葉を紡いでいく。
ジェームスと話したこと、遊んだこと、思ったこと。シェフの希望に沿って、全てを明かす。審判小僧にとって、秘密とは存在しないものだ。彼は他人の真実を暴くことができるがゆえに、秘密というものが重いものとは思えないのだ。隠し事をするという発想すらない。
言葉を一つ向けるごとに、シェフの中から疑念や不安が消えていくのを審判小僧の目は捉えていた。
「これでいい?」
「ああ」
素直に頷くシェフを愛しいと思う。真実を見抜く審判小僧の目には、シェフから己へ向けられている愛情の密度や量が見えていた。揺れる愛情に審判小僧はさらなる愛おしさを己の中に芽吹かせる。
「愛してる。お前は嘘をつかない。オレだけのものだ」
先ほど審判小僧が紡いだ言葉を返すかのように、シェフは愛を紡ぎ始める。
刃物よりも鋭く、底なし沼のように深い愛情が向けられた。
「離さない。裏切りは許さない」
「うん。うん」
愛でぎらついた赤い瞳に捕らわれる。
不安で揺れるシェフが一転して、攻めの態勢へと変わっていく。その様子を審判小僧は満足気に眺めていた。
「好きだよ。シェフ」
縋るシェフを愛しいと思い、攻め立てるシェフを恋しいと思う。
少々ハートが歪な形をしていることを自覚しているものの、それを過ちだとは思わない。ここに住む住人のいいところの一つだ。
「好き。大好き」
目を細め、赤い瞳を覗き込む。
「もっと言え」
「好き」
互いの瞳で互いを映しながら、二人はひたすらに愛を零していく。
落ちても落ちても砕けないハートは少しずつ二人の居場所を侵食していった。
END