追いかければ逃げる。ならば、待っていればいい。そんなことをゴールドが考えたのは、逃走回数を数えるのを諦めてからずいぶんと経ってからだった。
 現在、ゴールドを悩ませているのは誰かの真実に対する審判ではなく、我が子のように可愛がっている審判小僧。その中でも名無しと呼ばれている末の子についてだ。彼はサボり、逃走の常習犯だ。ゴールドが不在のときも、自主訓練をサボっているとホテルの住人から度々聞かされている。
 もちろん、その度に叱ってはいるのだが、どうにも反省している様子がない。今までの弟子達も個性豊かであり、扱いが難しい。けれど、彼のように訓練に出ない。出たとしても気がつけば脱走している。などということはなかった。自分のやり方が間違っているのだろうかと考えたこともあったが、何が悪いのかわからない。親しい友人と言ってもいい者達にも相談してみたが、答えはでなかった。
 そんな時だ。このホテルのオーナーであり、この世界の中心にいる人物が助言を下したのだ。
「追えば逃げる。ならば、逃げれば追いかけてくるやもしれんなぁ」
 ヒッヒッヒ。と、特徴的な笑い声をあげて彼は言った。
 その言葉は確かで、ゴールドはなるほどと頷いた。近くにいた弟子達は慌てて口を挟む。一人は、彼は放っておけば調子になるだろう。と言い。一人はこちらへこなかったらどうするのだと言った。
 弟子達の言葉ももっともだ。しかし、ゴールドは藁にもすがりたい思いだったのだ。時の流れを感じさせないこの世界なのに、名無しの行為は途方もなく長く、終りが見えない。いずれ、そのうち、ではダメなのだ。行動するのならば今しかない。
 ゴールドが決意した次の日、やはり名無しはこなかった。
「親分。名無し、こないッスよ」
「放っておきなさい」
 その次の日、訓練始めには名無しがいた。けれど、途中からその姿が消えていた。遠くの方から叫び声が聞こえたので、煙草を吸っているところをシェフにでも見つかったのだろう。
「助けに行かなくっていいんッスか?」
「放っておきなさい」
 こんな日がしばらく続いた。
 初めのうちは名無しもおずおずとゴールドの様子を見に訓練に参加していたが、最近は姿を見ることもなくなってしまった。調子に乗って遊んでいるのか、悲しみにくれて引きこもっているのかは誰も知らない。
 いてもいなくても同じ。というより、元々いることの方が珍しかったので審判小僧達もしだいに慣れ始めた。時折、ゴールドが名無しを探すために上げる怒声が懐かしくなったが、いつも探している間の時間をダラダラと待たなければならないのが嫌でしかたがなかったことを思い出す。
 名無しのことが嫌いだったというわけではないが、真面目にする気がないのかと先輩総出で怒ったこともある。ある意味、現状は平和なのではないだろうかと考え始めた。
 問題があるとするならば、審判小僧達と変わるように、ゴールドが気を散らし始めた。いつまで経っても顔を見せない末っ子を心配しているのだろう。近頃では、ホテルの住人でさえ彼の姿を見ていない。
「だからあんなこと、やらない方が良いって言ったんッスよ」
 一人が言うと、ゴールドは頭を乱暴に掻きながらわかっている。と答えた。苛立った様子を見ても、わかっているとは思えない。
「親分は名無しのこととなると、人が変わるからなぁ」
「……名無し、見に行く?」
 訓練が終わった後、早々に自室へ戻ってしまったゴールドを放って、弟子達が顔を突き合わせる。
「だな」
 このままではゴールドが発狂しかねない。そんな心配を胸に四人は名無しの部屋へ向かう。
 四人で廊下を歩いていると、黄色い物体を発見した。
「アレは、バナナの皮?」
「ジェームスだろ」
 悪戯好きの彼がしそうなことだ。審判小僧の一人がバナナの皮を手に取る。一瞬、何かが引っ掛かったような気がした。
「あ」
 三人が同時に声をあげた。バナナの皮を手に取った審判小僧は何が起こったのかわからず首を傾げる。だが、わからなかったことは、すぐに身をもって知ることとなった。
 天井からペンキが降ってきたのだ。よく見れば、バナナの皮には細い糸がついており、それがペンキを支えていたのだろう。
「引っかかったね!」
「キャハハ、みっどり色ー」
 上げられた声に、四人が同じ方向を見る。
 立っていたのは、お決まりの子供達。ジェームスを始めとして、ミイラ坊や、ルーレット小僧、マイサン。そして、もう一人いた。
「……おい。誰だ、それ」
 子供達に混ざって、見知らぬ姿が見えた。トイレット小僧でもなく、スリーピーシープでもない。
「酷いんじゃなーい?」
「わからないのー?」
「わからないなら、その程度だったってことだね」
 ルーレット小僧の甲高い笑い声が廊下に響く。
「意味わかんねぇよ」
 審判小僧の一人がそう零した。全員が同じ気持ちだ。ただ、嫌な予感だけが渦巻いている。
「どうかしたのかい? とても楽しそうな声が聞こえてきたけれど」
 優しい声はゴールドのものだ。
「あ、金ぴかおじちゃんだ」
「みんなわからないって言うんだよー。変だよね。キャハハハ」
 おじちゃんと言ったジェームスに訂正の言葉を入れて、ゴールドは隣にいる子供を見た。どこかで見たような気がする。覚えはあるのだが、確信できるほどの記憶がなかった。
「……君、名前は?」
 膝をついて見覚えのある子供と目線を合わせる。
 子供はゴールドの目をじっと見つめ、小さな手で彼の顔を叩いた。
「てっめ!」
「親分、大丈夫ですか?」
 審判小僧の一人が子供を抱え、他の三人が心配そうに近寄る。
「……まさか」
 ゴールドは茫然とつぶやく。唐突な出来事だったとはいえ、叩いたのは子供。それほどの痛みはなかったはずだ。
「どうしたんッスか?」
 おずおずと尋ねてみる。
「親分なんて、大っ嫌いだ!」
 ゴールドが答える前に、抱えられていた子供が叫ぶ。同時に、子供達が審判小僧の手から子供を奪い返す。いくら子供とはいえ、彼らのことを甘くみてはいけない。悪知恵だけは誰よりもあるのだ。
「ダメだよ。返してあげない」
「いらないでしょ?」
「わーい。友達、友達!」
 駆けていく子供達の背中を見る。
 ゴールドが手を伸ばした。
「待て、名無し!」
 その言葉に審判小僧達が凍りつく。ゴールドは誰を指してその名前を呼んだのだろうか。ジェームスでもなく、ルーレット小僧でもなく、ミイラ坊やでも、マイサンでもないとするならば、誰に。
 しかし、その答えを知っているはずの子供達は、こちらを振り返ることなく走り去る。
「……親分、どういうことッスか?」
 問いかけられた言葉に、ゴールドは口を開く。
「あの姿は、名無しがまだ『審判小僧』となる前の姿だ」
「じゃあ、あいつは――」
 恐ろしい事実に、誰もが口をつぐんだ。
 今の彼は、『審判小僧』でない。名のない、正真正銘の名無しとなったのだ。
「親分に見捨てられた、とでも思ったのでしょうかね」
 一人が悲しげに呟く。
 その言葉に反論できる者は誰一人としていない。彼が退行してしまった理由として考えられるのは、それくらいのものだからだ。いなくてもいいのではないかと思い始めていた審判小僧達も、この事態には胸が痛む。名無しは彼らにとっても末の弟なのだ。
「……迎えに行こう」
 ゴールドが立ち上がり静かに告げる。何処へ? と聞く声はなかった。真剣な目をした彼に、わからぬことなどこの世界にありはしない。審判小僧達は黙ってゴールドの後に続く。静かな行進は、誰かに最後の審判を下す直前のようだ。
 ホテルの地下の地下。ルーレット小僧の空間に彼らはいた。
「アレー? 何しに来たの?」
「遊んで! 遊んで!」
「すまないね。今日は彼を迎えにきたんだよ」
 優しい言葉に、子供達はダメだと声を揃える。
「せっかくできた友達だもん」
「元に戻ったって友達だろ?」
「ダメだよ。同じ目線じゃないもん」
 子供達が笑う。彼らに悪意はない。あるのはこのままであれば、面白いという観点だけだ。
「それは了承できないね」
 ゴールドは子供達の間を通り、幼い名無しの前に立つ。
「帰っておいで」
「……嫌だ」
 後ずさる小さな体の小さな腕を取る。
「お前は審判小僧だ。お前がそれを認めなくても、私がそれを認めている」
 存在というのは、自分の認識だけでできているのではない。自分と、他人の認識の二つがあって始めて生まれる。
 ただの言葉はきっかけになる。ゴールドの言葉に呼応するように、名無しの体が大きくなり始める。見覚えがあった程度の姿は、よく見知った姿へと変貌を遂げた。
「親分はボクなんてどうでもいいんじゃないッスか」
「そんなわけないだろ。駄々をこねるのはやめなさい」
 元に戻った名無しを見て、子供達は不満の声を上げる。それと混じって名無しが不平不満をぶつけていく。今回のことはゴールドにも非があると言えるが、ここまで文句を言われる筋合いはないはずだ。
 そもそも、このような自体に陥ってしまったのは、名無しのサボり癖のためだ。
「よろしい。これからはお前に首輪をつけて見張ることにしよう。それなら、変な勘違いをしなくてすむだろ?」
 ニッコリと笑っていたが、その背後には修羅が見えた。
「勘弁して欲しいッス……」
 うなだれる名無しの肩を先輩審判小僧達が叩く。
「ま、諦めろ」
「自業自得だね」



END