気が遠くなるほどの時間を過ごしてきた。
自由気ままに動き回るパブリックフォンと違い、狭く暗い洞窟から抜け出すことのできない干からびた死体は、常に一緒にいるということはできない。もしも彼が会いたいと強く願ったとしても、パブリックフォンの気持ちが向かない限り会うことはできない。
時折現れ、笑顔を浮かべ、共に時間を過ごす。それを幸福と言わずに何と表現するのだろうか。
「あー。生身の身体が欲しい」
「お前またソレかよ。オレの身体はやらねぇぞ」
「いらないよ」
ある程度勝敗がわかりきってしまっているトランプをしながら言葉を零す。
干からびた死体はパブリックフォンの身体など欲しくはなかった。
共に歩きたいから生身の身体が欲しいというのに、肝心の相手から奪ってしまってどうするというのだ。
「お、あがり」
「またキミはイカサマばっかりして……」
「どこに証拠があるんだよ」
口角を上げた悪魔のような笑みにため息を一つ吐き出す。
イカサマの証拠など綺麗さっぱり処理しているに違いない。彼のイカサマを阻止するには、その現場を抑えなければ意味がない。そして、それができるほど干からびた死体は洞察力があるわけではなかった。
諦めも、譲歩も、この世界でも他の世界でも覚えなければならないものだ。そんなことは、脆すぎる身体を得たときからわかりきっていたはずなのに、ため息をつくことを止めることができない。
「んだよ。そんなに嫌だったのか?」
深いため息の後、顔を上げない彼に、パブリックフォンはやや眉を下げて尋ねてきた。
「え。いや……そういうわけじゃないよ」
良心の欠片も持たないような男の、妙に申し訳なさげな姿に、虚をつかれてしまう。
大体からして、パブリックフォンに好意を抱いている干からびた死体が、悲しげな彼の顔に勝てるわけがない。例え嫌だと思っていたとしても、すぐに笑みを取り繕っただろう。
「そっか。ならいいや」
先ほどの悪魔のような笑みではなく、純粋な、まるでホテルにいる子供達のような笑みを浮かべる。
「どうしたのさ。いつもは気にしないくせに」
詐欺師という職業のためか、パブリックフォンは他人の感情の機微に聡い。ただ、気づいたからといって慰めたり抑えたりするような性格ではないので、それがわかりにくいだけだ。
「だって、お前は数少ないオトモダチだからな」
わざとらしい発音でオトモダチを紡ぐ。
彼はふらふらと出歩く性質なので、顔は広い。人の迷惑になるようなことも多々するが、それでも彼を好いている者は多い。それは彼の懐の広さの賜物だ。この場合の懐の広さというのは、身体に対する寛容さだ。
快楽を求めてばかりの彼は、求められればすぐに身体を開く。むろん、気分が乗らないときは拒否を示すこともあるそうだが、気が乗らないとき。というのはとてつもなく珍しい事象だ。
手短な快楽と、心の隙間を埋めるためのナニカを求めて彷徨っている者は、すぐにパブリックフォンに惹かれてしまう。それゆえに、彼にはオトモダチが多い。
「数少ないって……。キミは本当に嘘つきだね」
洞窟の中で閉じこもっている干からびた死体とは違うのだ。どこにでも行ける足があり、好かれる身体がある。
「嘘じゃないさ」
「嘘だよ」
間髪入れずに否定の言葉を放つ。
身体を奪おうとするとき以外は、穏やかな雰囲気をまとっている干からびた死体の、強い否定にパブリックフォンは少し目を見開く。
「だって、キミがここへ来るとき、いつも違う臭いがするよ」
脆い身体を持っている彼ではあるが、鼻には自信があった。流れぬ血の代わりに摂取するワインは、質がいいに越したことがない。そのため、敏感になった鼻はパブリックフォンがまとう臭いにも敏感になっていた。
「排気ガスの臭い。盆栽の臭い。青臭い臭い。香水の臭い。
いつもいつもいつも。ボクはキミ自信の臭いを嗅いだことがないよ」
どれもこれも吐き気がするような臭いだ。
彼は嫌な臭いを引き連れてやってきては、その身体に死体の臭いが付く前に出ていってしまう。パブリックフォンが知らぬうちにつけられている所有物の烙印を、友人であるはずの干からびた死体は、付けることができない。
「……お前はアイツらとは違うだろ」
干からびた死体から目をそらしながら、ポツリと呟く。
「タクシーは従兄弟だし。他の奴らは……まあヤるオトモダチだし。
一緒にただ遊ぶようなオトモダチは、本当に少ないぜ?」
そんなことはわかっていた。
パブリックフォンが普通の意味で遊ぶ友人は、干からびた死体とミラーマンくらいのものだ。だからこそ、彼からは鏡の冷たい臭いがしたことがない。ただのオトモダチでは駄目なのだ。所有印を付けるには弱すぎる。
「ねえ。パブリックフォン」
「あ?」
彼の隣へ足を運び、その手を握る。
「ボクもキミに臭いを付けてみたい」
口を付けてしまえばいいのだろうか。触れてみればいいのだろうか。重ねてみればいいのだろうか。
血の通わぬ身体なのに、心臓が緊張と期待で痛くなっているような気がした。
「わかってるんでしょ?
ボクはキミを――」
「やめとけ」
パブリックフォンが言葉と共に、干からびた死体から手を引く。
「今なら聞かなかったことにしといてやるから」
他人の感情を読み取ることのできる彼が、干からびた死体の好意に気づいていないはずがなかった。
気づいていたけれど、知らないふりをし続けていたのだ。
性欲とは無縁といってもいい干からびた死体の隣は、ある種の気軽さがあった。身体の快楽も捨てがたいものではあるが、それ以外の快楽とて、パブリックフォンには捨てがたいものなのだ。
穏やかで、心が満たされるような。そんなオトモダチに、干からびた死体は選ばれていた。
これは特別なのだ。タクシーも、他にいる大勢のオトモダチも、選ばれることのなかった特別だ。
「パブリックフォン」
「んだよ」
嘘つきの舌はどのような味がするのだろうか。
「――冗談に決まってるじゃないか」
干からびた死体はそう言って笑った。
「そうだよな」
パブリックフォンも笑う。
干からびた死体は自分の舌を少しだけ噛んでみた。
血もでない舌は、ざらざらとして、甘さなど微塵も感じはしなかった。
END