鏡ばかりの部屋で、ミラーマンは一人椅子にもたれていた。
「オレは誰? オレは鏡。映すだけ」
 適当なリズムに乗せながら言葉を紡ぐ。
 鏡は映すだけ。真実も、姿も映すだけ。それは本物にはならない。
 このホテルにやってきて、どれだけの時が流れたかはわからない。自分でない何かに成りたかったということは覚えているが、何故そう思ったのかは頭に靄がかかっていて思いだすことができない。しかし、それを嘆くこともない。
 今は他人を映すという欲ばかりが増し、自分としては平和で充実した日々を送れている。
 鏡を通して、ホテルに住む者達の様子をうかがうのも日課の一つだ。
『おい、ミラー』
 不意に聞こえてきた声に、ミラーは視線を向ける。
 それは食堂へつながっている鏡だった。映っているのは、鏡に向けて大包丁を向けているシェフだ。
 基本的に、鏡越しに声は聞こえない。ミラーマンなりの気配りだ。しかし、鏡を通してミラーマンにコンタクトを取ろうと、相手が思っていれば話は別だ。声はしっかりとミラーマンへ届く。
『聞こえているのだろ?
 今日は珍しく住人が勢ぞろいだ。オレ一人ではとても手が回らん。手伝え』
 まず、本当に珍しいことだと思った。
 ホテルの住人達は気まぐれだったり、外へ用事があったりと、そろうことはまずない。
 次に、何故オレがと思う。
『元ウエイターだろ』
 ミラーマンの表情は見えていないはずなのに、シェフは彼の思考の答えを告げる。
 言われなければ思い出すこともないような、些細なことだった。現世にいたときの職業など、この世界では何の意味も持たない。第一、その職業は疎ましいと思っていたものだ。
『……珍しく全員がそろっているんだ。お前もこい』
 シェフとしては、これが一番言いたかったのだろう。
 このホテルの住人としては、比較的幼い彼の好意を可愛いと思う。父親になることはとうとうなかったが、息子がいればこんな気持ちだったのかもしれない。
 ミラーマンの返事も聞かず、鏡の前から立ち去って行ったシェフを見送る。その後、長い間空けられていなかったクローゼットの扉を開けた。
 そこにつるされているのはたった一着。ウエイターの制服だ。忘れていたはずなのに、今もまだこうして制服を残しているあたり、未練が残っているのだろう。
「久々だな」
 懐かしい服をまとい、鏡の前へ立つ。浮かぶ姿は昔のものとは少し違う。ウエイター姿に仮面はミスマッチだと笑いながらも、それを外そうとはしない。
 食堂へつながっている鏡へと腕を入れる。鏡はミラーマンを受け入れ、その体をすべて飲み込んだ。
「ここに来るのも久々だな」
 他の住人とは違い、ミラーマンは食堂で食事をすることは滅多にない。食べる必要もあまりなく、口が寂しいときはシェフに頼んで軽食を作ってもらう。
「おーい、シェフ?」
 厨房の扉をあけると、熱気を肌に感じた。
「……まさに地獄」
 人数が多いため、いつもは一つしか使われていないコンロもフル稼働している。
 噴き出る汗を拭いながら奥へ進むと、シェフがこちらに目を向けた。
「来たか」
「来ましたよ」
 寸時に指示が出された。
 どの鍋に何を入れろだとか、何を切れだとか。
 それらはウエイターの仕事ではないのだが、ミラーマンはそれらを仕込まれていたため、こなせてしまう。当然、シェフはそのことを知っているのだ。
「てかよー。来る時間なんてバラバラじゃねぇか」
 作業をしていて、思い出したことを口にする。
「ああ、オレが指示した」
「はあ?」
 わざわざ忙しくなるようなことをする意味がわからない。
「珍しいことだからな」
 再び告げられた言葉にため息をつく。
 こんなことでもなければ、顔を合わせることもない奴らもいるだろう。別に顔を合わせる必要もないので、嫌な顔をする者もいただろうが、シェフに逆らうことは、食事への影響が懸念される。皆、いい顔をして了承したことが目に浮かんだ。
「それでこんな忙しくなってりゃ、世話ねぇな」
 鼻で笑いながらも、ミラーマンの瞳は楽しげに輝いている。鏡から他の者達を見ている彼は、他の住人達が顔を合わせたとき、どのような行動に出るのか楽しみでしかたない。
「そろそろだ」
 時計を見たシェフが言った。
 ミラーマンは乱れていた身だしなみを素早く整え、すでに用意されていた前菜を手に取る。
 等間隔に皿やフォークを並べ、花も入れ替える。雰囲気はすでに高級レストランだ。
「あーら。ミラーマンじゃない」
 初めに来たのはキャサリンだった。大方、シェフ目当てで早めに来たのだろう。今日はいつもの軽口を叩く口は休み。どのような目的できた者でも客であることに変わりはない。
「ようこそ。お名前のプレートの席へ御着席ください」
 腰を深くおり、客への誠意を示す。
「いつもそうだったら素敵よぉ」
 キャサリンは満足げな笑みを浮かべて席へ着く。まだ食事に手をつけないところをみると、最低限のマナーはわかっているらしい。
 その後も続々と現れる客達に誠意のこもった接客をしていく。
 多くの者達は驚いた表情を浮かべながらも、丁重な接客を受けるに値する反応をする。一部例外として、普段から無表情なTVフィッシュやマナーのマの字も知らない子供達はミラーマンに心の中でため息をつかせる。
 子供達はさらにワガママを言う。前菜に出てくる野菜が嫌だと言い、早く食べたいと続ける。多くの大人達はともかくグレゴリーママを苛立たせたくはない。
 ミラーマンはそっと子供達に囁く。
「すべての料理に文句を言わず、きちんとした食べかたをしていただければ、特別なデザートをご用意いたしましょう」
 嘘だ。子供達に配られるデザートは元々特別製だ。しかし、長い時間を生きているとはいえ、所詮は子供。ミラーマンの言葉にあっさり騙された。疑うべきは悪童ジェームズであるが、今度ミラーマンの部屋へ案内するという条件付きでおとなしくしていることになった。
 体にしみ込んだ癖とはいえ、見知った者達に低姿勢で接客するというのは心が折れる。
「それでは、ご堪能ください」
 静かに、優雅に食事が始まる。
 顔を合わせて楽しむのならば、大皿に料理を乗せ、宴会のようにするほうが楽しげではある。しかし、それをしてしまえば後が怖い。喧嘩も始まれば、悪戯も始まるだろう。そんな状況を収拾するだけの力を誰も持っていない。
 適当な時間になれば、ミラーマンが食事を出す。それを住人達が食べる。時に、食材を聞かれることもあった。ミラーマンはシェフに料理について何一つ聞かされていなかったが、それらすべてに答えた。
「ミラーマン、すごいね」
 名無しの審判小僧に言われた。
「光栄でございます」
 ミラーマンは一礼をして立ち去る。通常では考えられない姿に見とれていた名無しへ先輩審判小僧達が言う。
「お前、あいつの真実わからねぇのかよ」
「まだまだ、新入り、だね」
 深い真実はジャッジをしてみなければわからない。しかし、表面的な真実はある程度の訓練を積めば見えるようになる。
「彼は優秀なウエイターだったのだよ」
 ゴールドが静かに告げた。
 名無しには想像もできないことだった。シェフも昔は三ツ星の料理人だと言っていたが、それほど有能な人間がこの世界にくる理由がわからない。
 無事に食事も終え、子供達はデザートに出されたヨワインジャー型のアイスについて議論を交わしている。
「助かった。ありがとう」
 厨房から出てきたシェフがミラーマンに礼を言う。
「ま、疲れたけど楽しかったよ」
 食事後の状態を見て笑う。
 楽しげに会話する女子達。いつのも面子にプラスして愚痴を言い合う面々。いつもとは違う表情が見える。それらはどれも本物だ。鏡越しに見たものとでは全く違う。
「ミラー。お前の食事だ」
 差し出されたのは、住人達へのものよりは多少見劣りするものの、涎が出そうなほど美味しそうな料理だった。
「……ちょっと着替えてくるわ」
 さすがに仕事服で食事をする気にはなれない。
 ミラーマンは静かに鏡の中へ消えた。


END