特にすることもなく、ホテルをふらふらと歩く。退屈を好きになることができないパブリックフォンは、時折こうして楽しいことを探すためにあちらこちらへ足を運ぶことがあった。ホテルの外へ行くことも多いが、今回はそこまでするほどではなかったため、少しばかり広い廊下を歩いていた。
 他の住人と出会うことがないのは、彼らが部屋で好き勝手に生活しているからだろう。
「あー! パブリックおじちゃんだー」
 どたどたと騒がしい音が背後から聞こえてきたため、パブリックフォンは足を止めた。
「おい。お兄ちゃんだろーが」
 振り返って、膝を曲げてやる。騒がしい音をたててやってきたのは、このホテルに住む子供達だ。
 ジェームスを筆頭に、悪戯等をやらかす集団だ。子供だからといって、舐めてかかればたちまち精神の全てを奪われかねない恐ろしさを秘めている者達だ。そのため、ビビリのカクタスガンマンなどは、彼らと関わろうとしない。
 進んで彼らと触れ合おうとする者は少ないが、パブリックフォンは彼らと話すのが割りと好きだった。
 彼が子供好きというわけではない。ただ、楽しいことを求めて、他人の苦労も嘆きも無視して、無邪気に走りまわる姿を見るのは清々しいと感じているのだ。子供達自身、どのように思われているのかを察しているのか、パブリックフォンには悪戯なしに話しかけることも多い。
「ねえねえ、パブリックおじちゃんさぁ」
「おい、人の話を聞け。クソガキ」
 ニコニコしているジェームスの頭を掴みながらも、その表情は怒りではなく穏やかなものだ。彼らの様子は、近所の悪戯小僧と悪いお兄さんそのもので、どこか不穏な空気を感じつつも、和やかなものでもある。
 子供達は互いの顔を見合わせ、口角を上げた後、目を輝かせてパブリックフォンを見た。
 輝く目は悪戯の前兆であることも多いので、彼は思わず屈めた腰を伸ばしかける。
「泣いてよ」
 四人の子供達が声を揃えた。
「――は?」
 予想を遥かに通り過ぎた言葉に、パブリックフォンは目を丸くする。
 いつもの子供達を思えば、それはあまりにも恐ろしさのないものだった。
 自分達の興味のためならば、銃口を向けることも、首を絞めることも、押しつぶすことも厭わないような者達だ。そんな悪魔達の口から、ただ泣いて欲しいという言葉が出た。何か裏があるのではないか。泣くということに、何か恐ろしい条件が付加されるのではないかと思ってしまったとしても、無理はない。
 子供達のことを気に入っているパブリックフォンではあるが、自身が悪戯や玩具の対象とされるのであれば話は別だ。
「おじちゃんは泣けるんでしょ?」
「涙って出せるんでしょ?」
「見せてよ」
「早く早く」
 逃げるべきなのか、どうなのかと考えているうちに、足元に子供達が集まっていた。四方を囲まれて、パブリックフォンは動くことすらできなくなってしまう。
「涙なんか見てどうするんだよ」
 やっとのことで、その言葉を吐き出すと、子供達は相変わらず邪気のない目を向けてきた。
「だって見たいもん」
「涙ってどんなものなの?」
「見たい! 見たい!」
 自分の足元で涙について騒いでいる彼らを見下ろしながら、パブリックフォンは意外と自分が思っていたような恐ろしい自体には発展しなさそうなことに気づいた。どうやら、彼らはただ涙が見たいだけであり、そこに何らかの条件をつけるつもりはないようだ。
 安心したところで、また新たな疑問が浮かんでくる。
「涙が見たいなら、ロストドールのところにでも行けばいいだろ」
 このホテルで涙を流すような者はほとんどいない。好きなことを好きなようにできるような者が、涙を流すような理由はないのだ。だが、その中で例外とも言えるのがロストドールだ。彼女は、彼女なりに好きなことをしているようだが、それでも自分と同化している人形を探して毎夜毎夜涙を流している。
 非難されかねない意見ではあるが、彼女のもとへ行けば涙なんていくらでも見ることができるのだ。
「えー。だってそれは『しんしてきじゃない』って、犬のおばちゃんが言ってたよ」
「それに『男の涙はとくべつ』って、カクタスのおじちゃんが言ってたのを聞いたよ」
 エンジェルドックは子供達に油を注ぐのが趣味な部分がある。大方、涙を流させられる男を見て楽しもうという魂胆だったのだろう。残念ながら、そのターゲットには、偽りの涙を簡単に流すことのできるパブリックフォンがあてられてしまったが。
 こうなった子供達は誰にも止められない。長々と今の状況を続けるのは面倒だ。さっさと満足させてしまおうと、パブリックフォンは再びその場に腰を屈めた。
「じゃあ見てろよ」
 そう言ってやると、子供達は彼の前に集まり、こんな世界で見るには痛いほどの輝いた瞳を向けてきた。
 パブリックフォンは心の中でため息をついて、涙を流すことに集中した。
 嘘をつくのは得意だ。嘘のために何かをするのも得意だ。涙を流すなど、その一環に過ぎない。悲しいことを思い出すことも、胸の痛みを感じることもなく、事務的にそれは行われる。
「うわー」
 歓喜の声が上がった。
 パブリックフォンの目からは、透明な涙がいくつも流れている。それなのに、表情はいつもと変わらないものであることが、酷く不似合いだ。
「満足したか?」
「もっと! もっと見たい!」
「ねえ、泣いてる人の顔をしてよ」
 子供達の要望の声を聞き、パブリックフォンは涙を流しながらも不満気な表情を浮かべる。
 端的に言ってしまえば面倒だった。嘘をつくのが得意とはいっても、特別好きなわけでもなく、誰かに強制されているとなればなおさらに面倒だ。
「あー。わかった。わかった」
 嫌だと思いながらも受け入れてしまったのは、子供達から逃れることができないという絶対的な事実がそこにあるからだ。
 声や感情を作り出すのと、実際に目に見える表情を作るのは骨が折れる。パブリックフォンは自分の顔面に神経を集中させ、偽りの表情を浮かべた。
 子供達は誰もがその表情を無言で見つめた。気まずさを感じながらも、パブリックフォンは表情を作り続け、オマケとばかりに嗚咽までつけてやる。
「何してんだ?」
 不意に降ってきた声に、子供達が上を見た。
「タクシーおじちゃんだー」
 滅多にホテルにやってこない人物に、子供達が湧き立つ。すっかり涙のことを忘れたかのように、四人はタクシーの足元にまとわりつく。しかし、当の本人はそんなことを無視して、パブリックフォンを見ていた。
 目からは大量の涙を流し、目元が赤くなっている。悲しげに寄せられた眉に、喉から漏れているのは嗚咽だ。
「い、や……。ちょっと、頼まれて、な……」
 すぐに偽りを脱ぐことができないのか、彼の声は震えている。
 付き合いの長いタクシーだからこそ、その涙も嗚咽も嘘だということがわかったが、そうでない者ならば確実に騙されていただろう。そして、思わず何があったのかを尋ね、手を差し伸べたくなってしまうだろう。
 それほど、彼の泣き顔は弱々しく、哀れなものだった。
「フォン」
 足元にいた子供達を押しのけ、タクシーはパブリックフォンの前に膝をつく。
「んだよ……」
 真剣な目をした知りあいに、彼は疑問を感じながらもその場から動くことができなかった。タクシーの黒い瞳に飲み込まれるのではないかと思うほどの強い視線はパブリックフォンをしっかりと縛りつける。
 息が詰まるような感覚を覚えたとほぼ同時に、暖かさが彼を包みこんだ。
「泣け」
 耳元で聞こえた声に、パブリックフォンは、自分がタクシーに抱き締められていることに気がついた。
 普段、このような態勢になることはない。他の誰といても、パブリックフォンは誰かに抱き締められたことはない。例え、性的な行為に及んでいるときでさえ、このように密着することはない。
「な、何すんだ! 離せ! 馬鹿!」
「何だ。泣かないのか?」
「ビックリして止まったっての!」
 タクシーの背中を叩いてやれば、あっさりと拘束は外された。
「お前なー。何だよいきなり」
「ボク知ってるよー。慰めてあげるときは、抱き締めてあげるんでしょ?」
「本で見たよ」
 子供達がキャッキャと騒ぐ。タクシーは否定せず、子供達を褒めてやるばかりで、パブリックフォンの問いに答えようとしない。
 まさかタクシーが己の涙を本気にしたなどとは思わないが、冗談にしては意味のわからない行動だった。不満気なパブリックフォンに気づいたのか、タクシーが胡散臭い笑みを向けてきた。
 楽しそうな子供達にそろそろ満足したでしょう? と、他人行儀な敬語で尋ねると、子供達は楽しげな声を上げながら廊下を走り去って行く。また新たな悪戯でもするつもりなのだろう。
「で?」
 二人っきりになった廊下で、パブリックフォンは声を出した。
「ん?」
 わかっているくせに、タクシーはとぼけた顔をする。
「何であんなことしたんだよ」
「まあ、いいじゃないか。そうだ。酒でも飲みに行くか? 奢ってやるよ」
「マジで?」
 頼みこんで奢ってもらうことはあれども、タクシーが進んで奢ってやると言うことは殆どない。珍しすぎる事態に、パブリックフォンの頭からは先ほどの行為などすっかり抜け落ちた。スキップでもしだしそうな浮かれ具合で、バーへの道を歩いていく。
 その後ろをタクシーはゆったりと歩きながら、痛む胸に首を傾げる。
「何で。なんて、オレが聞きたいんだよ……」
 辛そうにしているパブリックフォンを見たとき、遠い昔の記憶が刺激された。
 もはや掠れてわずかしか残っていない記憶の中で、誰かが笑っていた。その誰かは笑っていたのに、きっと泣きたいのだろうと思っていた。記憶の中の自分は、その誰かを泣かせてやることもできなかった。それが嫌だった。
 タクシーは謎の感覚を言葉にすることもできず、少し先を歩くパブリックフォンを見ていた。

END