血も涙もない。と、いう言葉がある。しかし、実際問題、血も涙もない人間などいない。生きていれば体に血は流れ、眼球を乾燥させないために涙は流れている。現実かあの世かもわからないようなこの世界でも、その理論は一応通じている。
自分のことしか考えないような者でも、他人を苦しめることに喜びを覚える者でも、切り裂けば血は流れ、目からは涙だって流れる。
いっそのこと、涙など消えてしまえばいい。眼球が乾燥してしまうからと、目を開けることができなくなってしまえばいい。タクシーはそんなことを考えた。車に乗っている彼の視線は、墓地の中一人佇んでいる従兄弟へと向けられていた。
どれくらいの時間をそうしていただろうか。パブリックフォンはずっと墓石に手を置きながら立っていた。タクシーはそんな彼を少し離れたところからずっと見ていた。
パブリックフォンの目からは、透き通った美しい涙がはらはらと流れている。
「馬鹿野郎が」
小さく呟いてみたところで、タクシーの声は誰にも届かない。車の中に響き、そっと消えていく。
いつも不敵な笑みを浮かべているパブリックフォンだが、今は何の表情も浮かべていない。空を見上げ、ありもしない星を探しているようにも見える。彼の背中を見たところで、泣いているようには見えない。それなのに、目からは確かに涙が零れていた。
少し間違えば、その光景は儚くも美しいものだろう。人々が思わず感嘆してしまうような絵画にも成りえたかもしれない。
だがこの世界に、美しい絵画を見て感嘆するような者はいない。また、この光景を絵画にしようと思う者もいない。故に、この光景はただそこにあるだけなのだ。後に何も残さない。誰の心にも残らない。
唯一、この光景を見ているタクシーは、舌打ちを一つする。
彼の目には、現状が滑稽なものにしか見えない。
恐ろしくも寂しさを作り出す墓地は、愚か者共の跡だ。星を浮かべない空はいつも通り希望を飲み込んでいる。静かに泣いているパブリックフォンは、誰よりも嘘つきな詐欺師だ。
タクシーは車のドアを開け、深い緑に足を降ろす。周りの静けさが感に触り、わざと激しい音をたててドアを閉めてやる。当然、パブリックフォンの耳にも音は届いたはずだが、彼は音を確かめようともせず、ただ黙って空を見上げたまま涙を流していた。
腐っているような土を踏みしめ、絵画のような光景の中に黄色のタクシーが混ざっていく。
「フォン」
赤い彼の肩を掴む。それでも、やはり彼は空を見上げたまま涙を流している。どれほど心が穢れていようとも、涙は透明で美しい。
「嘘泣きはそれくらいにしておけ」
タクシーは知っていた。パブリックフォンが人に見せる涙は偽物なのだと。彼が持つ本物の涙は、眼球を潤すためだけにしか生まれない。誰かの同情を引くときにも、愛すべき行為のときにさえ涙は流されないのだ。
はらはらと流れ続けていた涙が唐突に止まる。
「お前は趣味が悪ぃよな」
上げられた口角。浮かんでいる表情は、いつもと同じ不敵な笑みだ。
「それはこっちの台詞だ」
「オレのこれはいいんだよ」
パブリックフォンは時々、こうして嘘の涙をただただ流すことがあった。騙す相手もいない空間で流される涙に気づいたとき、タクシーは涙を流す理由を問うた。もちろん、自分の気を引くため。と、いう理由も浮かんだことは浮かんだのだが、そんな回りくどいことをする男ではないとわかっていたので、自分の脳に浮かんだそれはすぐに排除した。
結果、理由などなかった。
原因も何もわからなかったが、パブリックフォンという男は、時折泣きたくなるそうだ。けれど、本物の涙を流すことがどうしてもできなかった。それほどの感情の高まりが彼には存在していないのだ。
泣きたいという欲求だけが溜まったある日、嘘でもいいのならば泣ける。と、いうことに気がついたのだそうだ。はらはらと、一流女優のように流れる偽りの涙に、パブリックフォンは己の欲求が叶えられたのを感じた。
それ以来、泣きたいときは泣くことにした。理由などない。そうしたいからだ。
「つまんねぇもんを見つけるこっちの身にもなれ」
「知らねぇよ」
泣いているパブリックフォンを見つけるのがタクシーは得意だった。本人としては無自覚で、不満だらけのことだったが、今日も適当に車を走らせている最中に見つけてしまった。
男が、それも知りあいが泣いている姿など見ても何も面白くない。
「満足したのかよ」
「んー。まあ、一応?」
「あれだけ泣いても、まだ泣き足りないのかよ」
嘘泣きとはいえ、長時間泣いていたパブリックフォンの目は真っ赤になっていた。服も体も赤いというのに、まだ赤い所を増やそうというのだ。この男は。
そんなところも気に喰わなければ、理由もわからず泣き続ける男も気に喰わない。タクシーは陽気に歩きだしたパブリックフォンの背中を睨みつけていた。一つ気に喰わないところが見えると、全てが嫌になる。
楽しげな顔をして振り返る顔でさえ、タクシーの苛立ちを増幅させる。
「な、ホテルまで送ってくれよ」
当然のように言うその言葉が腹立たしい。
泣いているところを人に見せようとしないくせに、赤くなった目を人に見られることを厭わない。
「お前をさ」
苛立ちを隠さない声色で言葉を投げつける。
「一発、思いっきり殴れば、本当に泣くか?」
拳を握る。パブリックフォンが頷けば、すぐにでも実行してやるつもりだった。
「……さあ」
肩をすくめた返事。彼にも事実はわからないようだ。
「試してみるか?」
ポケットに手を入れながら問いかけられ、タクシーは握っていた拳を解いた。
興が冷めたのではなく、意味がないのだろうと悟ってしまったからだ。
おそらく、本気で殴ったところでパブリックフォンは泣かない。不満気な顔を見せる程度だろう。そんな顔が見たいのではない。
「やめとく」
「そっか」
再びタクシーに背を向け、パブリックフォンは車へ向かって歩きだす。タクシーもそれに続く。
許可を得ていないのにもかかわらず、パブリックフォンは助手席のドアに手をかける。逆側ではタクシーが運転席のドアに手をかけていた。そこでふと思いついた。
「フォン、愛してる」
脳みそを通さずに、口から出た言葉。視線はドアの方向で、愛を語るにはあまりにも酷い状況だった。
出した瞬間こそ、タクシーも驚いたが、その言葉に何の感情もこめられていないことを自覚し、すぐに冷静さを取り戻す。言葉遊びの延長線上のようなものだ。
パブリックフォンからの返事がないことが気になって、顔を上げる。
目を丸くしたパブリックフォンの顔がそこにはあった。
「何だよ」
自分から言っておいて、おかしなものだと思いながらも、タクシーは疑問の言葉を口にする。
すると、パブリックフォンは目を細めた。
「酷ぇ嘘つき」
楽しげなその声に、タクシーはドアを開けながら返す。
「お互い様じゃねぇか」
車のエンジンをかけながら、やはり涙なんて消えてしまえ。と、タクシーは思った。
END