ろくに整備もされていない森に、エンジン音が響く。
 タクシーは辺りを照らしながら適当に走っていた。理由や目的地などなく、ただ単純にドライブが好きなのだ。時折、干からびた死体やプアーコンダクターを轢き、逃げてきた客を捕らえるだけの簡単な仕事。
 鼻歌交じりにアクセルをふかす。時速制限のない道は、木々にさえ気をつけていればいくらでもスピードを上げることができる。
「おーい!」
 もうしばらく走っていようと思っていた矢先、エンジン音に紛れて声が聞こえた。
 『タクシー』という性質のためか、タクシーは客の声を聞き逃すことがない。目を向ければ、やはりそこには赤い色をした客がいる。とはいえ、彼はいつも運賃を払わないので、正式には客とは呼べない。
 無視するか、止まるか、一瞬だけ迷った。
 不幸にも、タクシーはとても暇だった。従兄弟の相手をしてやるのも悪くはないと思うほど、暇だったのだ。
 赤色のパブリックフォンの隣に車をつける。
「何だよ。
 ……って、誰だ? その女」
 窓を開けて顔を出すと、パブリックフォンの後ろに女がいたことに気づく。
 黒い髪に黒い服。暗い闇の中に同化してしまっていたため、タクシーは今まで気づかなかった。
「拾った」
 簡潔な答え。
 つまり、ホテルに行くはずだったのに中途半端なところに堕ちてしまったか、恐れてホテルから逃げ出してきたか。どちらかだ。まだ住人になれていないゲストにはよくあることだ。タクシーの仕事は、そういった奴を捕まえることでもある。
「そうかい」
 けれど、パブリックフォンがゲストを捕まえたということは、肉体関係をこれから始めようという魂胆のはずだ。快楽主義者、特に肉体的な快楽をこよなく愛するパブリックフォンにとって、女の存在はこの上ない娯楽だ。
 何せ、ホテルの女達は強すぎる。こうして堕ちてきたゲストくらいしか食べることができない。
 タクシーはそれを止めたことは一度もない。ホテルに連れて帰るのが仕事とはいえ、それは義務ではない。放置しようと思えば、いくらでも放置できることなのだ。普段、真面目に仕事をしているのは、メリハリをつけると、時が止まってしまっているこの世界でも、少しは楽しめるから。と、いう理由にすぎない。
「だからさぁ」
 パブリックフォンが目を細める。
 媚を売るような目だ。声も甘い。タクシーは背筋が粟立った。
「オレとコイツホテルまで頼むよ」
 親指で示された女に目を向ける。
 よく見てみても、目は前髪で隠れて見えない。体は細く、病的だ。
 パブリックフォンには女の好みなど存在していない。彼にあるのは、快楽を得ることができるか、否か。たったそれだけだ。
「嫌だね」
「は?」
 目を細めたタクシーが、きっぱりと言葉にした。
 受け入れてもらえるものだとばかり思っていたパブリックフォンは目を見開く。
「何でだよ!」
「お前は金払わねぇだろ。そんなもん、客でも何でもねーよ」
「いつも乗せてくれるじゃねーか」
「そりゃ、一人分だからな。今回は、二人分。だろ?」
 それだけ言うと、パブリックフォンの怒りから逃れるように窓を閉めた。窓ガラスを叩くパブリックフォンを一睨みしてからアクセルを踏む。初っ端から全力で踏み込んだ。窓ガラスに触れていたパブリックフォンが後ろに飛んだように見えたが、タクシーは気にも止めない。
 バックミラーで二人の姿を確認したが、女は相変わらずつっ立っているだけだった。
「……ッチ」
 舌打ちを一つする。気づかぬうちに苛立っていたようだ。
 昂る感情のままにハンドルをきり、ホテルで止める。運転席から降り、鍵を抜く。普通の車ならばそれで動かなくなるが、彼の車は特別制なので、勝手に走りだす。タクシーがいなくとも、車は車で自由なドライブを楽しんでいる。
 彼が呼べばすぐに現れるので、タクシーも好きにさせている。
 大きな玄関扉を開き、ホテルの中に入る。
「おや、珍しい」
 受付に座っていたグレゴリーが目を光らせる。
 基本的に外で暮らしているタクシーが、ホテルにやってくるのは珍しい。時折、パブリックフォンのもとを訪れることがある程度だ。
「ちょっと酒でも飲もうかと思って」
「ヒッヒッヒ。そうですか」
 独特な笑い声を上げ、グレゴリーはいやらしく目を細める。
 老獪な彼の目は、タクシーの中にある感情全てを見透かしているように見えた。ホテルの管理人である彼のマヌケなところは数多く見ているし、噂に聞いているが、こういった一面があるから侮れない。
 伊達に、この狂った世界の中心で管理人をしていない。
「この世界は欲望の世界」
 蝋燭が向けられる。
 淡く燃える炎はシェフの持つ地獄の業火のようだ。まるで罪を燃やし尽くすような熱さを秘めている。
「好きなことをすればいいのです。楽しめばいいのです」
 ニヤけた口が言葉を紡いでいく。
 毒のような言葉はじわりとタクシーの体に染み込んでいく。この世界という名の毒に浸かりきっているタクシーの体に、その毒はよく馴染む。
「現とは違うこの世界は、誰もが好きなことをしていいのです。それで世界が回らなくなることなどないのですから」
 例えば、キャサリンがナースとしての仕事を放棄し、採血しかしなくなったとしよう。しかし、それで誰が困るというのだろうか。怪我も病も、精神の力の一つでどうとでもなってしまう。金もなく、究極的には食料とて必要ではないこの世界で、必要不可欠な役割など存在していない。
 タクシーは知らぬうちに喉を鳴らしていた。
「何を選ぶかは、あなたしだい。
 ……おや、これでは審判小僧達のようですな」
 笑い声が響く。タクシーの耳の中で反響する。
「さあ」
 蝋燭が扉に向けられる。
 タクシーはその光に導かれるように扉に手をかけた。
 軋んだ音が響き、タクシーの体はホテルの外に出る。生温いような、肌を刺す冷たさのような風に当てられ、タクシーはハッとする。
 振り返れば、すでにホテルの扉は閉まっていた。
「……あの人は恐ろしいねぇ」
 一人ぼやく。
 心の奥底にある欲望を表に引き出された。醜い欲望ではあるが、この世界にとっては必要不可欠なものなのだろう。だからこそ、グレゴリーは住人を煽ることがある。欲望を表面化させ、強くさせる。
 中々の外道だ。
 タクシーは手にしていた鍵を軽く振り、鳴らす。
 すぐにエンジン音が聞こえ、愛車がやってきた。
「今頃どこにいるのかねぇ」
 煽られた欲望は息を潜める気配がない。
 ホテルから出た今、かろうじて自我を持っているが、今にも欲望に全てを持っていかれそうだ。
「女を消すか。あいつを組み敷くか。どれでもいい」
 ハンドルを握り、目を閉じる。
 吐く息は熱い。パブリックフォンも、今頃は熱い息を出しているのかもしれない。
 想像するだけで背筋が粟立つ。感情が混ざり合い、もはや言葉にしがたいものになっている。タクシーはその感情を振り切るようにアクセルを踏み込んだ。
「まずは、二人とも轢いてやる」
 そう言って笑った顔は、グレゴリーの笑い方とよく似ていた。

END