緩んだ頬が許せなかった。言葉を紡ぐ口が許せなかった。触れる手が許せなかった。動く足が許せなかった。
 大包丁を振り回すことのできるシェフを恐れる者は多かった。だが、シェフ自身も、恐ろしいと思うものがたくさんあった。恐怖心は暴力に変わることもあれば、強迫観念にまで悪化し、他人の言葉を一つ残らず聞かなければと行動に移すこともあった。
 シェフとて、このホテルの住人が基本的には他人に興味を持っていないことは知っている。時たま噂になることこそあれど、悪意が続くことは少ない。誰も彼もが自分さえ良ければそれでいいと思っている。
 それでも、安心はできなかった。
 シェフは毎日大包丁を片手に、ホテルをうろつくのが日課になっている。
 ホテルの住人達は、他人の言葉を盗み聞きしている最中のシェフを見ても、何も思わない。嫌悪もなければ、好感もない。周りからしてみても、それは日常の一部になっている。だからこそ、気づかぬふりをしてシェフの料理を褒めてやったりすることができるのだ。
 毎日このホテルの住人分の食事を作ってくれている彼へ、感謝するくらいの心は住人達も持っている。
「審判小僧」
 自室に戻る途中の審判小僧をシェフは呼びとめた。
「どうしたんだい?」
 ドアノブに手を伸ばしていた審判小僧は、くるりと振り返りいつもと同じ明るい笑顔を浮かべる。
「オレは、お前が、許せない」
 シェフの赤い瞳が鈍い光を宿している。
 これは不味いのかもしれない。と、審判小僧は上げていた口角をひきつらせた。
「ちょっと待ってよ。ボクが何をしたって言うのさ」
 料理に文句をつけた覚えもなければ、鍋に悪戯をした覚えもない。もちろん、彼の悪口を言った覚えなど微塵もない。なぜなら、審判小僧はシェフのことが好きだからだ。そして、彼らは住人ならば誰もが知っている恋人同士だ。
 鈍い光の瞳と包丁に、審判小僧は後ろ手でノブを回す。木でできたドアなど、シェフの大包丁にかかれば一瞬で砕けてしまうことは簡単に予想できたが、少しでも距離をつめられると、殺されるような気さえする。
「許さない」
 同じ言葉を繰りかえすシェフに、審判小僧は唾を飲み込む。冷汗が流れるのを感じた。
 傍から見ても、このホテルの中で最も精神的に病んでいるのはシェフだ。そんな彼が何を考え、どのような行動をするかなど、審判小僧ごときの瞳では解くことができない。
「話し合おうよ。ね?」
 声が上擦ってしまったのは仕方のないことだろう。シェフの手は、今にも大包丁を振り上げそうな気配さえあるのだ。
「……何故、笑う」
 低い声に、審判小僧は何とか浮かべていた笑みを止めた。しかし、シェフが言っているのが、現在の話ではないということに、すぐ気がつかされた。
「何故、話す。何故、触れる。何故、どこかへ行く」
 鈍い光が強さを増す。大包丁を握っている手に力が入る。
 こうなれば、真実を見抜く力が弱い審判小僧とて、シェフの心境が理解できた。
「シェフ、あのねちょっとお喋りするくらいで嫉妬されても困るよ」
 そう、ただの嫉妬だ。愛する人が、自分ではない誰かと笑い合い、言葉を交わし、触れあうことがシェフには許せなかった。そこに、彼お得意の強迫観念まで合わされば、いつか自分は捨てられるのかもしれない。いつか奪われるのかもしれない。という、どこぞのロマンス小説さながらの展開が脳内で繰り広げられた。
 嫉妬は愛情の裏返しだということはわかっている。繋ぎとめておきたいからこそ嫉妬してくれているのだ。だが、この程度のことで嫉妬されていては、審判小僧の体がもたない。シェフがホテルを周る時間は、部屋で篭っていろとでも言うのだろうか。それは無理な話だ。
「何故……」
 低い声が審判小僧への怒りと憎悪を映し出す。
「ボクはキミのモノじゃないからね」
 シェフが大包丁を握っている手を振り上げた。審判小僧は素早くドアを開き、部屋の中へと逃げ込む。
 刃がドアを破壊し、シェフが審判小僧の部屋へ入ったとき、そこはすでにもぬけのからだった。審判小僧達は各部屋に、自分達専用の移動滑車を持っている。それを使って部屋を脱出したのだろう。
 真っ暗な部屋の中で、シェフは隠すことなく舌打ちをした。
 踵を返し、審判小僧を探しに向かう。それなりの広さがあるとはいえ、彼が行動できる範囲はこのホテルの中に限られている。しらみつぶしに探していけば、いずれ見つけることができるはずだ。
 大包丁を引きずるようにして歩くシェフを見て、普段ならば多少のことに動揺などしない住人達も驚いた。シェフの顔は、犯罪者のソレといっても過言ではない。
「――シェフ」
 廊下を歩いていたシェフに声がかかった。他の者達は皆逃げるように去って行ったため、彼に声をかけたのは鉄扉の向こう側にいる者が始めてだった。
「なんだ」
「キミがそんなに怒るなんて、料理のことかニャ?
 それとも……審判小僧かニャ?」
 鉄格子の向こう側で、ネコゾンビの目が光っている。
「お前には、関係ない」
「そうかもしれないニャ。でも、審判小僧に関わる全てに嫉妬しているシェフを放っておけないニャ」
 自分勝手な世界の中で、ネコゾンビは唯一の良心といっても過言ではない。彼とて、自分の中にあるルールに乗っ取って行動しているとはいえ、大抵の者に対しては良心的で素晴らしい人格者でしかない。
 そんな彼だからこそ、審判小僧のことを心配しているのだろう。
「うるさい!」
 シェフの大包丁が、鉄の扉にぶつかる。
 特注の扉がその程度で壊れることはなかったが、金属同士の甲高い音が牢獄の中に響いた。
「……審判小僧は素直な奴ニャ。そして他の住人と同じく、自由ニャ。
 行きたい所へ行って、喋りたい奴と喋るニャ。それを止める権利は、シェフにもないはずニャ」
「黙れ」
「信じてやることが愛ニャ。と、言ってみたところで、キミには許容できないことなのニャ」
 ネコゾンビはそっとため息を吐いた。
 鉄格子の向こう側から、血よりも赤い瞳がこちらを見ていることは、痛いほどわかっていたが、見返す気にはなれない。
「ボク以上に口を縫いつけてみるかニャ。きっと、審判小僧はキミにも何も言えなくなるニャ。
 手足を切り落としたって、彼には滑車があるニャ。きっとキミから離れるニャ」
「ネコゾンビ……!」
 大包丁が何度も鉄扉を叩く。その度に大きな音が響く。それでも、ネコゾンビは謝罪も懇願も口にはしない。ただ、哀れむような瞳を月に向けていた。その月を誰に見立てているかなど、誰に教えてもらわなくともわかる。
「シェフ。そんな癇癪をおこしてもしかたがないニャ」
「オレは、許さないぃ……!」
「審判小僧が壊れてしまうニャ」
 シェフへ伝えるのではなく、ただ零すように呟いた。
 彼の執着は異常のようだが、ネコゾンビはその執着を理解できてしまう。おそらくは、審判小僧も理解している。だからといって、受け入れるつもりはないようだけれども。
「んもう! うるさいんだから」
 これからどうしようか悩んでいたネコゾンビの前に、きらきらとした女子が現れる。彼女の背中には白い翼が生えており、一見すると天使のようにも見える。
「シェフ、審判小僧がこれを渡してきてって」
 鉄格子の間からエンジェルドックが手紙を差し出す。廊下側ではなく、牢獄側へ出現したのは、手紙の内容によってはシェフの八つ当たりによって殺されかねない可能性があるからだろう。彼女は頭の回転が早い。
 エンジェルドックから手紙を受け取ったシェフ、壁に大包丁を立てかけ、手紙に目を通す。
 特別汚くも、綺麗でもない文字を目で追った後、シェフは紙を握りつぶした。
「なになに? 何が書いてあったの〜?」
 鉄の扉に挟まれていることをいいことに、エンジェルドックは口角を上げながら尋ねる。彼女の背中から生えている翼が、柔らかい羽毛から骨ばった翼に変わっていくのをネコゾンビは眺めていた。
 デビルドックへと姿を変えた彼女は、いやらしい笑みを隠そうともせずにシェフを追い詰めていく。
「お別れの手紙? 嫌いって書いてあった? ねぇねぇ。どうなのよー」
 鉄格子の間から、シェフの腕が飛び出してきた。
 寸前のところでどうにか避けたデビルドックは、思ったほどの安全性がない場所に舌打ちをし、体を半回転させてどこかへ消えた。シェフを煽るだけ煽った後始末は、ネコゾンビが審判小僧か、それとももっと別の誰かに押し付けるつもりだ。
「――シェフ」
「審判小僧、オレは、お前を」
 今にも血反吐を吐くのではないのだろうかと思うほど、苦々しく重い声が少しずつ離れていく。
 ネコゾンビは手紙に書かれていた文字を知ることはない。
 握りつぶされ、廊下に放置された手紙の中には、たった一文だけ書かれていた。
『キミが好き』
 その好きにこめられた意味を知っているのは、まだ審判小僧だけだ。

END