この狂気の世界で、口にしてはいけなかった言葉があると知った。
 ラッセルは今、海とは似つかぬ場所にいた。
「あっ、いってぇ……」
 彼は今両手を鎖で繋がれていた。冷たい石の床に体温が少しずつ奪われていく。ここは地下室なのだ。それも、拷問をするための道具が揃えられている、趣味の悪い地下室だ。
「ごめんね、ラッセル」
 謝っているのは、ラッセルをここへ連れてきた張本人であるランピーだ。言葉とは裏腹に、瞳は笑っている。
 前々から普通の神経をしていないとは思っていた。しかし、この町で生まれ育った人間はくるっているのが普通だったので、深く気にすることもなかった。それが災いし、今の状況になっている。
「ふざ、けんなっ」
 抵抗しようと、腕を動かしてみるが鎖がちぎれる様子はない。足を動かしても、関節のない義足では限界がある。
「でもさ、ラッセルが言ったんだよ?」
 何度も聞かされた。ラッセルはその言葉を言ったことを後悔している。
「『忘れるのは怖い』って言ったじゃない」
 自分の知らぬ記憶があると思うと、恐怖を感じるのは当然のことだ。それを口にしてしまったのがすべての間違いだった。
「死ななきゃ忘れないよ」
 脆い体。危機感のない住人達による事故、事件。それらからラッセルを守るために、ランピーは彼を監禁した。食事は用意されるが光はない。しかも、ランピーは毎日ラッセルに傷をつけた。
 初めのころは爪痕程度だった。それが鞭になり、刃物になった。ラッセルの体には古傷よりも真新しい傷の方が多くついている。
「ランピー。もういいよ。このままじゃオレ、どっちみち死んじまう」
 どうせ死ぬのならば、苦しみを味わう前に死んでしまいたい。すべてを忘れて明日を生きたい。
「死なないよ。ラッセルの嫌がることをボクはしない」
「じゃあ、もうそれを使わないでくれ……」
 せめて、刃物の恐怖からは逃れたいと、ラッセルは必死に頼む。海賊時代にだって、ここまで頼み込んだことはない。目の前にいる男はそれほどの恐怖なのだ。ただ殺すのではなく、恨みや憎しみから苦しめるのでない。無償の愛と同意義で傷をつけるのだ。
「ボク、好きなんだ。だから、証をつけて欲しいんだ」
「もう十分だろ? ここにはお前しかいないし、これ以上は必要ないじゃないか」
 眼帯のつけられていない方の目から涙を流す。それでもランピーはごめんと謝るだけで、手に持ったナイフを離そうとしない。
「好きだよ」
「いっ――」
 痛みに目を見開く。
 脆い腕はナイフをあっさり通し、反対側からナイフの切っ先が見えている。
「いてぇよ……。もう、殺してくれよ」
 痛む腕に涙を流し、震える声で死を願う。この行為を何度繰り返したことだろう。いつもこの言葉を投げる。返ってくる言葉が同じものだと知っていても、投げずにはいられないのだ。
「ダメ。だよ。死んじゃったら、これも、これも、これも……全部消えちゃうじゃない」
 優しい笑み。
 この笑みが好きだ。けれど、今の状態で見る笑顔は恐ろしい。
「痛いって」
 笑みを浮かべていた口が肩へそっと口づけをする。くすぐったいような感覚の後に、歯が肉に食い込む痛みが走る。肉を噛みちぎられることはさすがになかった。しかし、無理やりあけられた傷口から、ランピーは血を吸い上げる。痛みをともなった絶妙な感覚にラッセルは熱い息を吐く。
 頭の中には霧がかかっている。
 いつまでこれが続くのだとかは考えられない。一刻も早く死にたいとだけ願う。
「ランピー」
「なぁに?」
 一度でいいから、手で触れたいと思った。
 手錠がなければ頬に触れていただろう。もしくは逆の手で皮を剥いだだろう。
「オレも、お前のこと好きだぜ」
「ありがとう」
 幸せそうに笑うその口元には、ラッセルの血がついている。せめて血を拭うことくらいはできないだろうかと、手を動かしてみたが鎖の音が鳴っただけだった。
「ねえ、ラッセル」
 名を呼ばれ、見てみると腕が差し出されていた。
「……なんだよ」
「噛んで、吸って、飲んで」
 今までも狂気だったが、これはまた違った雰囲気の狂気だ。
「ボクはキミを食べたし、飲んだ。
 だから、キミにはボクを食べて、飲んでほしい」
 それだけ言うと、ラッセルの返事も聞かぬままランピーは腕を口に突っ込んだ。
 突然の異物に、思わず強く噛んでしまった。
「っ……」
 眉間にしわを寄せ、痛みに耐えるランピーを見ていると、今までの仕返しをしてもいいのではないかと思えた。
 新しい傷口を吸い上げ、血を飲む。舌で傷口を舐め、こじ開ける。舌が傷を刺激するたびにランピーはうめき声を上げる。だが、ラッセルは同情しない。彼はさらに痛い思いをしてきているのだ。
「痛いよ、ラッセル」
 腕を抜こうとすれば、噛む力を強めた。自分の腕を引きちぎる趣味はないのか、ランピーは抜くことを諦めた。代わりに、身を乗り出し、ラッセルの腕に舌を這わせる。先ほどあけた傷口からは未だに血が流れている。
 その行為をやめたのはラッセルだった。
「飽きた」
 口を開き、それだけ言うとまぶたを閉じる。
「……もう。わがままなんだから」
 ランピーはようやく離された腕をぶらつかせながら苦笑いを浮かべた。
「でも、愛してる」
 口づけはしなかった。


END