キレネンコはいつも一人だった。しかし、彼はそれを気にはしていない。
自分のペースを大切にする彼は、いつもお気に入りのスニーカーを磨いたり、雑誌を読んだりして過ごしていた。カンシュコフはそんな彼を見るのが好きだった。
囚人らしくない行動に驚かされ、辟易させられたことも少なくはない。しかし、毎日接しているうちに、心は確かに動いていたのだ。
思いを告げる気はなかった。キレネンコは死刑囚だ。ここから出て行くことはない。何故か死なない彼は一生をここで終えるのだから、見ているだけで十分だった。
「よろしくお願いします」
そんな幸せな空間に現れたのは、一羽の兎だった。たった一日仕事をサボっただけで、刑務所に連れてこられた哀れな男。カンシュコフはプーチンに同情すらしていた。
いつも笑顔で、キレネンコとはまた違ったマイペースさを持っていた。明るい彼に、すさんだ心を癒してもらったこともある。
気づかなければ、幸せだったのかと問われれば、カンシュコフは否と答えるだろう。
「ね、キレネンコさん」
偶然、見てしまった光景は、いつものそれは違っていた。
相変わらず無口で、言葉を紡ごうとはしなかったが、キレネンコの瞳は雑誌ではなくプーチンに向けられていた。その瞳はどこか優しい。
カンシュコフは長年彼と付き合ってきたが、視線をあわせるのはキレられたときだけで、あんな優しい目はみたことがない。
自分の知らないキレネンコを、プーチンはあっさりと引き出してしまったのだ。カンシュコフは歯を食いしばり、静かにその場を去った。
それから、カンシュコフは彼らの房に近づくときは足音を立てるようにした。
「おら、飯だぞ」
「わーい! 今日は何ですか?」
囚人の食事はそれ専門の者が担当している。だから、カンシュコフがいくら魚が嫌だと言っても、意味をなさないのだ。
扉から出された魚を、プーチンは嬉しそうに持ち上げ、キレネンコのもとへ持っていく。
「どうぞ」
一匹をキレネンコに、もう一匹を自分のもとに置く。
魚を見たキレネンコはいつものように匂いを嗅ぎ、耳をへたれさせる。次に起こるアクションがわかりきっている。
「看守」
昔から、彼は一言しか話さない。それで全てが通じる環境にいたのだろうか。
「無理だ。オレに言ってもしかたがない」
交換を拒否すると、その眉間にしわが寄る。どのような抵抗をしたところで、暴力を逃れることはできない。圧倒的過ぎる力の差があるのだ。明日の仕事に響かなければいいがと、カンシュコフは目を固く閉じた。
しかし、いつまで経っても痛みはこない。
恐る恐る目を開けてみる。すぐに開けなければ良かったと後悔した。
扉の小さな窓から見えた光景は、プーチンがキレネンコに軽く口づけをしている場面だった。見れば、キレネンコの顔が仄かに赤く染まっている。
「ダメですよ。看守さんが可哀想じゃないですか」
可哀想だと思うのならば、目の前でその行動をしないで欲しかったと切に思った。
第一、あの暴力がなければ、カンシュコフはキレネンコに触れることすらできないのだ。
「お願いです。お魚以外のものを持ってきてもらえませんか?」
綺麗な瞳だった。先ほどの行為も、カンシュコフのことを思ってのことだったのだろう。善意がこれほどまでに痛いのならば、悪意を向けてくれた方がマシだ。
「……わかった」
冷たい口調になってしまったが、罪悪感はなかった。あるのはただの悲しみだ。
死刑囚であるキレネンコと違い、プーチンは近いうちに出所することになる。
一緒に出て行ってしまうのだろうか。無理にでもここに留めておくのだろうか。どのような形にせよ、キレネンコはプーチンと一緒にいるのだろう。そして、カンシュコフはそれを止めることができない。
「ほら、04番。これでいいか」
ニンジンステーキを出すと、満足気にそれを食べる。
それを見届けてから扉の前を去る。馬鹿なことをした自分にカンシュコフは腹がたった。最近は呼んでいなかったが、昔はキレネンコと呼んでいた彼を囚人番号で呼んだ。もしかしたら、気づいてくれるのではないかと思った。呼び方が変わったことに気づく程度には、自分のことを認識してくれているのではないかと思っていた。
結果はどうだ。キレネンコは気づきもしなかった。
「ちくしょうっ!」
涙を一筋だけ流し、カンシュコフは全てを忘れることにした。
彼は看守だ。キレネンコは囚人だ。そこに情があってはいけない。
毎日が当然のように過ぎていく。時折、扉の向こう側からプーチンの愛が聞こえ、キレネンコの声が聞こえる。それは始めてきく、単語ではない言葉だった。
「おい、おやつだ――って、寝てんのか」
ある日、おやつの角砂糖を持って行くと、プーチンはベッドの中で眠っていた。今日は雨で、静かな雨音が眠りを誘うのだろう。
とりあえず、自分の仕事をこなすために房の中へ角砂糖を入れる。キレネンコが取りに来るとは思えないが、看守がわざわざ持っていかなければならないものでもない。
「04番、勝手に取れよ」
そう言い残し、扉の窓を閉めようとした。
「カンシュコフ」
思いもよらぬ声が名を呼んだ。
「……え」
見れば、雑誌から目を上げてカンシュコフの目を見つめている。
怒っていない目に見つめられるのは始めてだった。
「何故、呼ばない」
自分に向けられた、単語ではない言葉に戸惑う。
いつもならば単語で彼の思いを理解するのに、何故か今は理解できない。
「名前」
次の単語でようやく意味を理解する。
「……キレ、ネンコ」
小さく呟くと、キレネンコは満足したのか再び雑誌に視線を戻す。
「何だってんだよ」
勢いよく窓を閉め、扉の前から立ち去る。
すぐ後ろにある自分の部屋に入り、膝を抱えた。
「……本当、何だってんだよ」
鏡を見なくても顔が赤いのがわかる。
名を呼ぶ声が耳から離れない。名前を呼ばれたことも、単語でない言葉を聞いたのも、目があったのも始めてだ。
「アイツ、マジで性質わりぃよ……」
忘れようとしていた思いが浮かび上がる。もっと呼んで欲しいし、話して欲しい、見て欲しい。
「早く、出て行っちまえ」
呟いた声は震えていた。
END