口は悪いがお人好し。おでんについて語らせたら軽く一時間は口を動かし続けるチビ太がその日はやけに落ち込んでいた。
 何度もただ飯を頂いている松野家の六つ子とはいえ、毎日毎日チビ太の厄介になっているわけではない。実家住まいである彼らには、今もなお面倒を見続けてくれている母親が美味しい夕飯を用意してくれている。チビ太の世話になるのは、両親が不在の日か、外で飲みたい気分の時くらいのもの。後者の回数が非常に多いため、彼ら六人は金の払わないヘビーユーザーと化しているのだけれど。
 そんな彼らなので、六つ子のうち、五人は元気のないチビ太を見ても特に何か思うことはなかった。互いに気の置けない腐れ馴染み。肩を組み、励ましあうような仲では決してない。
 むしろ、彼らは究極のおでんとは心の中に存在している、という哲学ともいえぬ狂った言葉を吐き出したチビ太へ不満を漏らしていた。
「一つのことばーっか考えてっと、頭が馬鹿になっちまうんだねぇ」
「アレは異常だよ。い、じょ、う」
 けれども、一人だけ不満を漏らさぬままに兄弟達と別行動をとったものがいた。
 松野家次男、松野カラ松。
 小学生時代からチビ太と顔を合わせ続けてきた六つ子の中ではあるが、ここ最近の出来事に目を向けてみれば、彼と最も縁深い人物は件のカラ松であった。おそ松達は他の兄弟と共に屋台を訪れることが多かったが、カラ松は一対一で言葉を交わすことが度々あり、相応の親交を深めていた。
 ただし、その都度、碌な目に合ってこなかったのも確かだ。ある時は誘拐され、ある時は髪を剃られた。イヤミと結託して兄弟全員して金を巻き上げられたことだってカラ松は覚えている。
 普通の神経をしていれば、あまり関わりたくない、と思うのが普通だろう。付き合いで屋台に行くことはあっても、自ら進んでチビ太に寄っていく必要は一切ない。他の五人と同じように、不平不満を口にしながら帰路につけばそれでいい。
 だが、カラ松は六つ子の中では比較的心優しい人間であった。彼の二つ下の弟である一松から言わせれば、年がら年中脳内に花と蝶が舞っている、とのことだが、あながち間違いではないのかもしれない。
 散々な目にはあってきたが、カラ松の記憶にあるチビ太は心底悪い人間ではなかった。故に、彼はチビ太を心配した。
 兄弟に見捨てられた自分に同情してくれた。――最終的にはボロボロの状態で放置されたが。
 一向に就職する気配がないことを心配してくれた。――意味のわからないおでんの極意に巻き込まれたが。
 カラ松は差し伸べられる手に敏感だった。彼の生まれ持った性質の他に、世にも珍しい六つ子としてこの世に生を受け、両親からも学校の先生からも、六分の一しか愛情を向けられてこなかったことも原因の一つだろう。そんな境遇だからこそ、カラ松は愛を求めたし、望んだ分だけ人に優しくあろうとした。
 愛しの兄弟達に何も伝えることなくカラ松は群れを離れる。どうせ、報告したところで聞いている者はいないし、いないことに気づく者もいない、ということを彼は重々承知していたのだ。
 卑屈になっているわけではない。今までの経験から言える言葉だ。
 同じ遺伝子を持って生まれた六つ子とはいえ、二十余年も生きれば価値観や性格に違いが出るのは当然。人によって形も伝え方も違ってくる愛がカラ松に返ってこないのもまた、当然の帰結だったのだ。
 誘拐されても、怪我を負っても、言葉を吐いても、カラ松を心配したり優しい言葉を与えてくれる者はいない。悲しく寂しいことではあるが、そんなことにはとうに慣れてしまった。人間が順応する生き物であったことがカラ松にとっての幸運だ。
「思いつめているようだったが大丈夫だろうか……」
 以前、おでん屋になれといわれたとき、チビ太の教えを一つたりとも理解してやれなかった自分では何もしてやれないだろう。だが、傍にいてやることくらいならばできるはずだ。カラ松はそんな風に考えていた。
 愛する兄弟の次の次の次の次くらいには、チビ太を大切に思っている彼なので、自身に可能な限りの言葉を持って、また暖かなハートを一つを持って励ましてやるつもりだった。落ち込んだとき、傍らに人の温もりがあると心強く思えることを彼はよくよく知っていたのだ。
「――チビ」
 太、と言葉は続かなかった。
 暗い路地、屋台を引くチビ太の顔は暗い。先ほど、六つ子を相手にしていたときは、まだ気を張れていたのだろうことがわかってしまうほど、その落差は酷い。
 途端、カラ松は自信が消失していくのを感じた。
 演劇を通して知ってきた愛の言葉達を彼は上手く使いこなすことができない。賢明に頭の中の台本を開き、適切な言葉を選び取ってみても兄弟達からは「痛い」と言われてしまうばかり。
 他者を傷つけることしかできない言葉を、今のチビ太に向けてもいいのだろうか。
 余計に辛くなってしまうのではないか。やはり料理のりの字も知らぬ自分が下手に係わらないほうがいいのではないか。そんな考えが頭を巡る。
 元よりできの良い頭ではない。答えは出ず、かといって一歩を踏み出す勇気もなく、カラ松は電柱の陰からチビ太を見守るばかりだった。
「……オイラもオメェと同じ。
 ずぅっと独りぼっちさ」
 小さな声が聞こえた。
 道端に咲いた、枯れかけの花に向けられた言葉だ。
 カラ松は自慢の眉を下げてただただチビ太を見つめる。思い出してみれば、以前、五人も兄弟がいて羨ましい、と言われた記憶がある。天涯孤独の寂しさをカラ松は知らないが、自我が独立した今でも何処か繋がっている感覚のある兄弟達が急に消えたら、と思うと背筋を走るのは冷たさだけではない。きっと、チビ太は今までずっとこんな辛さと共に生きてきたのだろう。
 そのことに気づいてしまえば、ますます声をかけることができなくなった。
 生まれてこの方、独りだったことのないカラ松が口にする言葉など、チビ太の心に響くはずがない。
 結局、立ち去っていく屋台をじっと見つめていることしか彼にはできなかった。
 次の日、太陽がオレンジに染まり始めた頃、カラ松はチビ太の様子を見に出かけた。今日はおでんを食べに行く予定はないのだが、昨日のチビ太が忘れられなかったのだ。
 チビ太のおでん屋は日が暮れてからが本格的な営業時間で、夕方はおでんの仕込みが行われているのが常だった。いつもの公園へ足を運び、できることならば今度こそ軽く声をかけよう、とカラ松は思っていた。
「こんなんじゃ駄目だ!」
 屋台が見えるよりも、その言葉がカラ松の耳に届くほうが早かった。
 思わず身を隠し、こっそりとチビ太の様子を除き見てしまう。こんな時、自身の臆病な性質が浮上してくるのが本当に嫌だった。もっと尾崎のような強く格好良い男になりたい、と日々努力しているというのに。
「もっと、もっと美味いおでんを作らないと」
 声を聞くだけで、チビ太が追い詰められていることがわかった。
 たかだかおでん。人によっては、そんな些細なことに何を悩む必要がある、と思うことだろう。だが、おでんに身を捧げ続けてきたチビ太からすれば、あまりにも強大な壁が聳え立っているのと同意義だ。カラ松はそのことを理解できてしまっていた。
 方向性は違うが、カラ松も似たような経験がある。たかだか個性。六つ子に生まれたからこそ朝から晩まで悩まなければならなかった日々が過去、確かにあった。
 あの時代の苦痛は同じ六つ子である兄弟達にしかわからないだろう。
 チビ太の苦悩も、カラ松は全て理解してやることはできない。
「オレは無力だ。
 神に授けられた両腕を持ってしても、チビ太を救ってやることはできない……!」
 仰々しく腕を天に掲げ、何もしてやれないことを嘆く。
 ここが演劇の舞台上であったならば、彼の行動は様になっていたことだろう。だが、残念ながら、ここはただの公園。装飾でゴテゴテした言葉も、遠くからでも役者の感情がわかる動作も必要ない。
 そのことがわからないからこそ、カラ松は何時まで経っても痛々しいサイコパスなのだ。
「――あ、れ?」
 華麗にターンをキメ、再びチビ太を目に映した彼は、呆けた音を地面に落とす。
「チビ太さん、私とデートしてくれませんか?」
 屋台の前に、可憐な少女がいた。
 腰のあたりまである長い髪は黒というには淡い色合いをしており、頭につけられた青い花と見事に調和している。カラ松の位置からでもわかる大きな目は、花と同じく青。白のワンピースをふわりふわりと動かす四肢は適度に細く、白い。どこからどう見ても美少女。
 デカパン作の美女薬を飲んだチビ太も可愛らしい美少女であったが、今、彼の前にいる少女はもっと淡く、自然な愛らしさを持っていた。
 彼女は優しく笑い、楽しげにチビ太と言葉を交わす。始めこそ困惑の色が大きかったようだが、無邪気な笑顔に絆されない男はいない。
「私、花の精です。
 昨日の夜、チビ太さん、助けてくれたでしょ?」
 小さな星々を散らすような笑みだ。
 彼女の言葉に、カラ松は昨晩見た光景を思い出す。優しいチビ太。彼の想いに報いる形で少女は現れたという。
 俄かには信じがたいことだ。しかし、本人がそういうのならばそうなのだろう。単純なカラ松は花の精、という非科学的非日常的存在を容易く受け入れる。
 チビ太は良い男だ。カラ松のことを無視しないし、美味しいおでんを奢ってくれる。彼の悩みを一緒に背負ってくれる人物が現れたのであれば、祝福しなければならない。
 他人を傷つけることしかできないカラ松ではなく、少女がチビ太の隣にいてくれるのであれば安心だ。これで心置きなく帰宅できる。
 はず、なのに。
「好きだから」
 胸が痛んだ。
 どうして、チビ太にはそんな存在がやってくるんだ。
 どうして、自分のもとには好きだ、と言ってくれる存在がやってこないんだ。
 素直に祝福などできるはずがない。美少女の登場に嫉妬しないはずがない。
 いくら、カラ松が比較的優しい男であるとはいえ所詮は松野家六つ子の一人。平々凡々な人間と比べれば幾分かクズに偏っているし、容赦のないことを思いつき実行することさえある。
 お前だけずるい。
 どろりとした感情が溢れた。
 カラ松は即座に踵を返す。このまま良い雰囲気をかもし出している二人の間に割り込むことは容易い。だが、それでは罪のない少女を悲しませる結果となるだろう。カラ松はソレを望まない。
 故に、彼は考えた。
 「持っている」チビ太から奪うのではなく、自分も「持つ」のだと。
 道を駆けながら周囲を観察する。こうして注意深く見てみると、昔と比べて道端に生えている花々がずいぶんと減っていることがわかった。土はアスファルトに代わり、空き地は綺麗に舗装されている。
 枯れかけの花など見つけることができず、かといって諦めることもできないのでカラ松は交番を利用することにした。困ったときのおまわりさんだ。
 必要であれば道案内もしてくれるのだから、町のことについては何でも知っているに違いない。そんな、一般常識から外れた思考のもと彼は足を進める。
「この辺りで枯れかけた花があるところは何処ですか……?」
 囁くような低音ボイスはけっして聞き苦しいものではない。それどころか、世間一般から見ても良い声をしているといえる。奇しくも、常識を外れた発言が良さを打ち消し、マイナスにまで突っ切っているのだけれども。
「は? 何言ってんだ、お前」
 警察官の反応は至極真っ当なものだ。
 事件や民家に対することならばまだしも、そこいらに咲いている雑草一つ一つにまで気を配る人間が何処にいるというのか。ニート生活で有り余る時間を抱え込んでいるカラ松とは違い、警察官には膨大な仕事があるのだ。つまらないことで時間を消費している暇はない。
 冗談半分、本気半分で警察官はカラ松の手に手錠をかける。
 イタい発言をすることは罪にならないが、真面目な警察官の勤務を妨害したといえなくもない。いくらイタい相手でも、おかしな発言をする人間でも、彼は業務上、そいつらの相手をしなければならないのだ。
 ちょっとした意趣返しをしても怒られはしないだろう。少なくとも、この町でならば。
「うぉあ!」
 まさかの結果にカラ松は奇妙な悲鳴を上げる。
 回転の悪い錆びた頭を駆け巡るのは両親と兄弟の呆れた顔だ。家に連絡でもされたら、また何を言われるかわかったものではない。否、何か言われるのであればまだいい。ため息を一つ落とし、そのまま無視でもされた日には、いよいよカラ松の心はどうにかなってしまいそうだ。
 恐怖に突き動かされ、カラ松はその場から逃げ出す。
 手錠を破壊することは叶わなかったが、警察官の手からそれを奪い取ることは簡単だった。伊達に兄弟一の怪力を持っていない。
「はぁ……は、な……花……」
 手錠をかけられた片手と、自由なままの片手を振りながら、カラ松は必至に枯れかけた花を探す。そうしなければ、どうにもならなかった。
 花さえあれば、心の内にある形容しがたい想いと別れられるような気がしていた。目に見える、わかりやすい愛情がどうしてもほしかった。自分にだけ与えられる、特別が欲しかった。
 喉から腕を吐き出してしまいたくなるような気分の悪さを抱え、カラ松は夜の町を走る。
 見つけるまで帰れはしない。
「――あったぁ」
 思わず声が出る。
 電灯に照らされる一輪の花は、今にも花びらを下に落としてしまいそうな様子だ。自然の土がない場所で、賢明にアスファルトを突き破り、育ち、花を咲かせただろうに、待っているのは孤独な死だけ。誰にも見つけてもらえやしない。
 だから、カラ松は手を差し伸べてやるのだ。だから、対価として愛を求める。
 サングラスを身につけ、格好をつけた言葉をつらつらと花へ送る。あいにく、水は所持していなかったが、水筒代わりのウィスキー瓶に入った麦茶ならばあったのでそれを全てかけてやった。
 これで後は明日を待つだけだ。
 カラ松の瞳は暗いサングラスの奥で輝いていた。
 胸が躍りだすのを止められない。
「礼はいらないぜぇ?」
 嘘ではない。欲しいのはお礼ではなく、愛なのだ。
 枯れかけの花を探すのは大変だったが、これだけのことで明日には愛がもらえる。この上ない幸福に、カラ松は鼻歌混じりに家路についた。
 その背後、麦茶を与えた花が、奇妙に蠢いているとも知らずに。

  *

 「彼女」がやってきたのは、翌日の昼だった。
 いつごろ花の精がやってきてくれるのか予想がつかなかったカラ松は、一先ず普段通りに生活することにした。朝はそれなりの時間に起き、兄弟が揃ったところで朝食を取る。本日の朝はハイテンション十四松が嵐のようなスピードで食事を済ませ、野球へと繰り出していた。
 その後、身だしなみを整え、いつもの逆ナンスポットである橋にまで足を運んだ。
 あまりにも頻繁に赴いた結果、その周辺ではちょっとした危険人物として顔が広まってしまっているのだが、当然のごとくカラ松はその事実を知らないで今日までを過ごしている。
 余談ではあるが、この時点でその日、カラ松と対話をした兄弟はいない。朝の挨拶を交わした程度で、それ以外は通常運営で無視されるばかりだった。
「カラちゃん」
 逆ナンされる妄想を繰り広げていたカラ松の耳に、見知らぬ声が届く。
 だが、その声が自分を呼んでいることはわかった。
「とうとう来たかい。カラ松girl……」
 振り返る。
 同時に、言葉を失う。
「来たわよ」
 そうカラ松に返した存在は、この世のものとは思えぬ程、醜悪な面と体をした、女と呼びたくもない代物だった。
 チビ太のもとにきていた花の精とは似ても似つかぬ化け物。 全体的に太く丸いフォルムは無駄な贅肉で構成され、大きく開いた鼻の穴はだらしなさと生理的嫌悪を誘発させる。
 百人中九十八人がブス、と評価を下すだろう。
 ちなみに、残った二人のうち一人はブスが好きな人間で、もう一人は盲目の人間だ。
「えっ……」
 受け入れがたい現実に、カラ松の頭は思考を停止させる。
 一度、脳を真っ白にさせないと次のステップへ踏み出すことができないのが、ポンコツ脳たる所以だ。
「昨日はありがとう」
 大きな口から、容姿によくよく似合った声が吐き出される。
 ただ、その言葉はカラ松の胸へストン、と入り込んだ。
「美味しかったわ。とても嬉しかったの。
 だから、アタシはカラちゃんを愛してあげるわね」
 ねっとりとした声質がカラ松の体に纏わりつく。
 その感覚は、お世辞にも心地良いものではないはずだった。直接、声を受け取ったわけではないはずの周囲の人間が、思わず顔を顰めてしまうようなものなのだ。
 だというのに、カラ松の心は優しくすくい上げられるがごとく浮上する。
 胸の内側は温かくなった。
「ほ、本当、かい?」
 眉を下げて尋ねる。
 自信のない瞳は、薄暗い様相を見せていた。
「当たり前でしょー。
 でも、ちゃんと家にいてくれないと困るぢゃない」
 元々膨れていた頬がさらに膨らむ。可愛い女の子であれば、胸をときめかさせてくれるであろうふくれっ面だ。
「せっかく住所教えてくれたから行ってあげたのに、カラちゃんいないんだもん。
 似た人ばっかで、アタシ寂しかった〜」
 シナを作りながら、女はカラ松に寄り添う。
 触れる肌に悪寒を感じるよりも先に、彼の脳は平素ならばありえない程の超回転をしてみせた。女が言った言葉を咀嚼し、理解するために。
 結果、出てきた答えは単純明快。
 彼女はカラ松と兄弟をきちんと見分けることができている。
「……オレが、わかったのか?」
「もちよ、もち。
 これも愛のパワーでっしょぉ?」
 二本の指でピースが作られた。
「そうか」
 カラ松の顔が歪む。
 嫌な感情によるものではない。むしろ、真逆。
 歓喜と幸福による涙を我慢してのことだ。
 赤塚でも有名な六つ子。それがカラ松。五人いる兄弟は顔も背格好もそっくりで、昔は兄弟間でさえ相手の名前を間違うことが多々あった。今でもイヤミやチビ太、下手をすれば両親だって彼らを見間違う。
 自分はカラ松だが、他の誰かでもある。
 六が一である万能感や恍惚感は逃れようのないものではあるが、同時に、六つのうちの一つにしかなれない悲しみは常に付きまとっていた。近頃では、五つと一つになってしまったかのような孤独感さえカラ松にはこびりついてしまっている。
 そんな中、自分を見分けてくれる人が現れた。
 嬉しくないはずがない。
「アタシは絶対に間違えないよ、だってアタシ、カラちゃんがいないと死んぢゃうもん」
 濁った目が細められた。笑った、のだろう。
「そうか。オレがいないと、死んでしまうのか」
 こんな思いは、間違っている。
 自覚しながらも、カラ松は微笑むのをやめることができない。
 胸が温かくなるのを否定できない。
 感謝を言われたことが途方もなく嬉しかった。
 愛を口にしてもらえただけで涙が出そうだった。
 個を見分けてもらえただけで相手の全てを肯定したくなった。
 存在を肯定されただけで、何もかも捨てていい気になれた。
「オレも、だぜ。flower」
 カラ松の手が女の手をとる。
 花の精とはいっても、今は生身の女だからだろうか。彼女の手は仄かに暖かい。生きた温もりがカラ松の手を伝い、胸まで温めてくれた。
「本当にぃ?」
「勿論だとも」
 疑念を口にした女へ言葉を返せば、彼女は嬉し気な声を上げる。
 媚を売るような上目遣いは、マネキンの方がずっと愛らしいといってしまえるような代物だった。しかし、それでもカラ松にとっては、高級なダイヤモンドやサファイアよりも余程価値のあるものなのだ。
 濁った瞳の奥に、愛の色が見えている限り。
「ぢゃあ、アタシ、クレープ食べたいなぁ」
「わかった。一緒に買いに行こう」
「えー、買ってきてぇ」
「フッ。任せておけ」
 腕を絡ませ、胸についた膨大な贅肉を押し付ける。
 柔らかな果実は女の武器というが、醜悪な面をした女についていると話は変わってくる。純粋な嫌悪感になるか、別段何も感じない、性的な魅力も何も無い肉に成り下がるか、の二択だ。
 今回に関して、カラ松の意思は圧倒的に後者へと傾いていた。
 元より、女へ向けている感情は恋愛感情ではない。
 愛と言葉と態度をくれる者への依存心だ。
 クレープをねだられるだけの会話でも、カラ松の心は浮かれに浮かれていた。考える間でもなく、兄弟とだってこれだけの会話が続いた記憶がここ最近では殆どない。
 口を開けばスルーか一言二言のツッコミ。それもカラ松には意味の理解できない言葉が飛んでくるだけ。
 兄弟の不満や要望を聞く、という些細なことでさえ彼にはどうにも上手くなすことができなかった。
「どうぞ。My flower」
 公園内にあるクレープ屋で可愛らしい苺のクレープを購入し、女へ手渡す。彼女は顔を醜く綻ばせてそれを受け取った。食べたときに生クリームが飛び出し、頬についたのをカラ松は愛おしそうに見つめる。
 穏やかな時間にカラ松の胸は天上に舞い上がりそうなほどに軽くなっていた。
「んー。おいちぃ〜」
 語尾にハートマークをつけたような色を声に乗せ、彼女は頬に手を当てた。実に吐き気を誘う光景なのだけれども、カラ松は不思議と満足感と高揚感を味わっていた。
 自身の行動が誰かの幸せに繋がる。
 素晴らしい循環ではないか。人生とは、人と人との繋がりとはこうあって然るべきなのだ。
 兄弟間で世界を完結させがちなカラ松は、今までその循環をしかと目で感じることが少なかった。心の底から彼らを信じてはいるのだけれども、やはり目で確認できるのとできないのでは心の持ちようが大きく違ってくる。
「それは良かった」
「カラちゃん、ありがと」
 素直に礼を言われたのはいつ以来だろうか。
「良かったら、うちにこないか?
 ここいらを歩くのもいいが、今日は風が強い」
 冬も半ば。地球温暖化が叫ばれて久しいが、風が吹くと自然に体は冷えてくる。女の服装は足やら胸元やらを盛大に露出しているため、寒そうに見えなくもない。だが、彼女の場合、有り余る贅肉が風を弾き飛ばしているだろうことは明らかだった。
 それに気づいているのかいないのか。カラ松は女を自宅へと誘う。ファミレスへ行く金も、ホテルへ行く金もないのだから、殆どその選択肢しかなかった、ともいえた。
「うん。行こ、行こ」
 するり、と手が握られ、カラ松は女に先導されながら家への道を行く。彼女は一度聞き、行った松野家を正確に記憶しているようだ。
「flowerは何が好きなんだ?」
「勿論、カラちゃんが一番好き〜。
 次に好きなのはぁ、バーゲンダッツとか、ジャネルとかぁ〜」
 一番。似たフレーズをつい先日、トド松からも聞いた。
 彼のつけた兄弟ランキングでカラ松は一位を獲得しているらしいが、本当のところは誰にもわからない。あの直後、おそ松にも彼は一位を告げていたし、きっと他の兄弟に聞かれても答えは同じだっただろう。
 兄弟が同列で一位なのか、要領の良さを前面に押し出した「優しい嘘」であったのか。カラ松はその辺りの判別がつくほど有能な男ではない。
 口から出た言葉はそのままに受け取る。裏に隠された真意を読み取ることはできない。その代わり、裏を信じることだけはできた。
 素直ではない彼らの言葉の裏だけを信じてここまできた。不満はなかったし、不安もあまりなかった。
「もし、カラちゃんが私から離れたら死ぬからね」
「わかってる。絶対にお前から離れたりなんかしない」
 ただ、こうして率直に好意を伝えられ、満たされるのを感じる度、自分の心の奥底に眠っていた飢餓を自覚する。
 枯れかけた花を探しまわった欲望はこんなところからきていたのだ、と。
「大好き。ちゃんと責任とってよね」
「どんな責任でもとってみせようじゃないか。
 My flower……」
 愛しい。
 兄弟以外に向けたことのない感情が溢れて止まらない。
 美女薬を飲んだイヤミにハマってしまったこともあったが、あの時とは違う感情だ。
 自慢の幼馴染であるトト子に対する感情とも違う。
 彼女達に向けたのは好意であり欲望だ。
 今、カラ松が女に向けているのは、名前をつけることすら叶わぬ無垢な愛。
 好意も欲望も友愛も情愛も、何もかもをひっくるめて、優しく溶かし、透明になるまで漉いた愛。
 人はそれだけあれば生きていける、という錯覚さえ起こさせる。
「どうぞ。My flower」
 松野家についたカラ松は、女を家に上げる。異性を連れてきたのは初めてだけれども、童貞のような緊張はなかった。
 流れるように女を二階へ上げ、二人は他愛もない会話を繰り返していく。
 好きなもの。嫌いなもの。これからのこと。知り合ったばかりの二人だ。話題はつきない。一転、二転してはまた振り出しに戻る。そうこうしていると、帰宅時には誰もいなかった兄弟達が次々に帰ってくる音が聞こえてくる。
 ただいま、という声。そのまま階段を上らずに居間へ向かっていく足音。カラ松は声が二階に上がってくる度に、女へあれはおそ松だ、一松だ、と伝えた。
 特に何かしらの意図があったわけではない。
 単純に、自分を構成する情報の一つとして話しただけだ。
「ねえ、カラま――」
 二人きりの空間を破壊したのはチョロ松だった。
 何も彼とてわざと男女の間に割り込んだわけではない。玄関に靴があるのに居間に姿がない次男へ、これまた玄関に放置されている見知らぬ女物の靴について尋ねようとしただけだったのだ。
 靴の件についてはあっさりと解決したが、今度は靴などどうでもよくなるレベルの疑問と問題が急浮上してきた。
 チョロ松は勢いよく襖を閉めると、一階へと駆け下りていく。これは自分一人の手に負えるものではない、と判断したのだ。
「どうしたんだ、アイツ……」
「ねぇ、カラちゃん。ちゃんとアタシを見てくれなきゃ嫌よ」
 慌しい三男を見送った次男は、すぐさま女へと向き直る。
 寂しがり屋な彼女は、一時でもカラ松の視線がそれることを嫌う。
 自分の欲に正直なのはいい。何をして欲しいのかが実にわかりやすい。頭の悪いカラ松でも、次にするべき行動がわかる、というのはとてつもなく楽だった。
「オレの目はいつだってお前だけを見つめてるぜ」
 そう言ってやると、女は満足げな顔をする。
 彼女はいつもカラ松を見つめていた。漫画や外に視線が移ることもあるが、カラ松が動けば必ず彼女の視線も動く。
 監視されている。そんな風にカラ松は考えない。見つめられている。見てくれている。それだけが彼にとっての真実であり、幸福だ。
 幸せそうに。しかし危うい。そんな空間を五人の兄弟はじっと見つめる。
 カラ松に彼女ができた。それは由々しき問題だ。だが、それはドブスだ。とてつもなく愉快な展開だ。しかし、カラ松の様子が些かおかしい。これは一体どういうことなのだろうか。
 六つ子に生まれてこの方、二十余年。これ程までにカラ松の心がわからなくなるのは初めてだった。
 彼は松野家の六つ子らしく、女は好きだが美人に限る、といった性質のはず。いくら自分に好意を寄せているとはいえ、ドブスならば相応の態度で断ったはずだ。
 だとすれば、あの女は何なのだろうか。
 松野家を震撼させながらも、当事者であるはずのカラ松はそのことに気づくこともなく、女との甘い空気をひたすらに楽しんでいた。
 その後数日、女は松野家に居座り続けた。
 六つ子の両親は彼女に対して何も思わなかったのか、概ね快く彼女を家においてくれた。顔も性格もよくない女だったが、基本的に食事を必要としなかったことが大きいのかもしれない。
 寝床はカラ松と共に客間を使っていた。大きな一枚の布団を所有している六つ子だが、流石にそこへ一人加えるのは厳しいものがあった。何より、あんなドブスと一緒に眠りたくない、という意見が五人の間で満場一致したのだ。
「アレ、まだいるの?」
「今日もカラ松とイチャイチャしてるよ」
 心底嫌そうなトド松へ、チョロ松は軽く肩をすくめる。
 自分とほぼ同じ顔をしている次男が、不細工を通り越えた化け物とイチャついているのを見るのは苦痛だ。しかし、それをカラ松に伝えたところでイチャつく場所が変わるだけなのは目に見えていた。
 人様の目があるところでくっつかれるくらいならば、家の中でこもっていてほしい。そんな気持ちをチョロ松は抱えずにはいられなかった。
「カラちゃーん、新しい漫画が読みたい〜」
「オーケー! 待っててくれよ!」
 パタパタとカラ松が駆けて行く。新刊でも買いに行ったのだろう。
 松野家にきた当初はカラ松とくっついているだけだった女だが、一昨日くらいから我が侭が加速している。アレが欲しい、コレが欲しい。こうしてほしい、ああしてほしい。欲望は際限がない。
 だが、カラ松はその全てに答えようとする。
 欲しいというから与える。そのために金が必要ならば働きもする。しかし、二人きりの時間が削られるのは嫌だ、と女が言うので、イヤミやハタ坊を経由してなるべく拘束時間の短い仕事でちまちまと小金を稼いでいた。
「あのさあ、いーかげんにしてくんない?」
 トド松が女の前に立つ。
 古い漫画に目を向けていた彼女は、ゆっくりとトド松を視界に納め、また漫画へと戻る。
「ちょっと!」
 ただでさえ、どこの馬の骨とも知れぬ女に兄が騙されているのだ。しかも日がな一日家にいるので、嫌でも二人のやりとりが目や耳に入る。
 ストレスが溜まらないわけがない。
「まーまー。
 落ち着けよトド松」
 今にも手を上げそうなトド松を長男であるおそ松が宥める。
 ドブスの顔がこれ以上歪もうとも、彼にはどうでもいいことだ。けれども、カラ松がどのような反応をするのかが今はわからない。悲しむだけならまだいいが、激昂して弟に手を上げる可能性だって無きにしも非ず。
 普段の次男ならば、弟に手をあげるようなマネは決してしない。彼は自分の怪力が凶器になることを重々承知しているのだ。
「でもさ、おたくもちょっとはオレ達とコミュニケーションとってくれてもいいんでない?
 うちの次男とお付き合いしてる女がどういう人なのか気になるんですけど」
 声は柔らかいが、その視線は鋭い。
 現状、女は敵だ。
 松野家の六つ子を脅かす敵に情けをかけてやるほどおそ松は優しい人間ではない。必要であるならば、カラ松の知らぬところで全ての処理をしてやってもいい。そう考えられるほど、彼は残酷な存在なのだ。
「…………」
 女の返答は無言だった。
 まるで、世界には彼女とカラ松しか存在していない、と主張するかのように。
「……ふーん」
 おそ松は思った。
 やっぱり、消してしまおう。
 六つ子を守るため。カラ松を守るため。何よりも自身の安寧のために。
「戻ったぜ! flower!」
 冷たい視線が女を貫く寸前、渦中の人物が帰ってきた。
「も〜! おっそーい!」
 女も先ほどまでの無音とはうって変わって、可愛らしさを演出したいらしい声を上げる。
 事を急いても仕方がない、と悟ったおそ松は女から離れる。その様子をじっと見ていた四人の兄弟達は知らぬうちに詰めていた息をそっと吐き出す。
 彼らもカラ松のことを心配し、女を疎んでいた。しかし、だからといって長男の手を汚させるのも忍びない、と思っていたのだ。
 あの兄弟大好きなカラ松のこと。長男から末弟まで、揃って説得にかかればころりと落ちてきてくれるに違いない。内外問わずブスな女より、兄弟を選ぶのは当然のことなのだから。
 今までは女の目があったし、たまにはカラ松自身の手で目を覚ましてもらいたい、という一心で放置していたが、最早限界だ。トド松を筆頭に、兄弟達の心は一つになる。
「――カラ松兄さん、やめときな」
 愛する兄弟の言葉をカラ松が無碍にするはずがない。
 そう思っていた。
 女がきて数週間。ようやく女の目からカラ松が逃れ、なおかつ兄弟が全員揃っている瞬間が訪れた、その時まで。
「こんなこと、いいたくないんだけど……。
 アイツ、中身も見た目も超絶ドブスじゃん!」
「……いや、でもオレがいないと」
 予想外の返答だった。
「寂しがり屋なんだ。
 傍にいてやらないと」
 息が詰まる。
 思わず、トド松は縋るような目をしてしまった。
 待って、と叫びたかった。
 あの女が寂しがり屋だとして、何故カラ松が傍にいなければならないのか。お前がいるべき場所は、寂しがり屋な兄と弟の傍であるべきなのだ。一人っきりを経験したことのない、自分以外の自分が常に五人揃っていた、松野家の六つ子であるべきなのだ。
「ぽいわー。ぽい」
 壊れてしまった、っぽい。
 無感情な声が一松から零れる。
 そのことに関してだけは、他の六つ子よりも早く気づいた自信があった。
「カラちゃーん。
 アタシ、一時間に一つバーゲンダッツ食べないと死ぬから!」
「マジかよ!」
 カラ松が駆け出す。
 呆然としている兄弟を置いて。
「……カラ松にーさん、どうしたんだろ」
 十四松がポツリと呟く。
 以前のカラ松であれば、女の妄言に騙されたとしても何か一言兄弟に残してくれたはずだ。後で、でも、二人の間には愛がどうのこうの、とでも。
 対し、今のカラ松が残したのは全くの無言。
 置いていかれた兄弟の顔さえ見ていなかった。
「壊れたんでしょ」
 答えを提示するように、一松が告げる。
「明らかに普通じゃない。
 ちょっとやつれてきてるし、アイツ、もうずっと、ボクらのこと、見てないよ」
 自分のことを見てくれないだけだと思いたかった。いつも意地悪をして、傷つけてばかりいる己など視界に入れたくなくなって当然なのだ、と。可愛いトド松や十四松なら、頼れるチョロ松やおそ松なら、まだカラ松も見ているはずだ、と期待していた。
 現実は甘くない。
 目を逸らし続けていた現実が、今、一松に突きつけられた。
「アイツにとって必要なのは、ボクらじゃない。
 わかりやすく自分を求めてくれる奴なんだ」
 好きと言ってくれない兄弟より、愛してるの言葉をくれる馬の骨を。
 差し伸べられた手を取捨選択もせず取ってしまうようなカラ松に仕立て上げたのは兄弟全員だ。そこまで追い詰めてきた。優しく、兄弟第一を大っぴらに掲げているカラ松に甘えていた。
 真っ直ぐなカラ松よりも捻くれてややこしい一松を。
 頑丈なカラ松よりも意外と繊細な十四松を。
 他の兄弟達を優先させ続けてきた結果、今のカラ松があった。
「そういえば、カラ松、ちょっと細くなった?」
 チョロ松が顔を青くさせる。
 食事はきっちり三食取っている。睡眠も問題なくとっているはずだ。
 一度、色々心配になって夜中にこっそり兄弟総出で覗きに行ったことがあるのだが、その時の二人は体を寄せ合って眠っているだけだった。
「えっ、嘘」
「なーんか怪しいんだよなぁ」
 気づかなかった、と零すトド松と、女のいる方を見るおそ松。
 肝心な部分が埋まらない。正解にたどり着くための式がわからない。
 女を排除すれば済む話かもしれないが、あまりにもリスクが高すぎた。カラ松の様子から察するに、かなりの度合いで女に依存している。無理やり引き剥がせば、一生の傷になる可能性だってあった。
 それからもカラ松は日々痩せてゆき、爛々としていた目からは生気が失われていった。
 死へ向かうかのような不穏な変化を見ていることしかできない兄弟達は、ただひたすらに、カラ松へ寄り添う女を睨みつけるしかない。そんな険悪な空気にもカラ松は気づかず、女を見つめるばかりなのだから、思いというのは中々上手く交わらないものだ。
「作戦会議だ」
 兄弟達はカラ松を置いて、チビ太のおでん屋へ向かった。
 カラ松の様子は最早限界ギリギリ、といった様相で、これ以上の猶予は無いのだと彼らは思い知らされた。青白い顔をしたカラ松を置いていくのは気が引けたが、未だに女へ尽くしている彼の前で作戦会議も糞もない。
 後ろ髪を引かれるような思いをしつつ、彼らは家を出た。
 残された二人は、客間で肩を寄せ合う。
 ぼんやりとした目でカラ松は部屋のどこかへ視線をやる。女はそんなカラ松の肩に頭を置き、目を閉じた。
「カラちゃんは幸せ?」
「……幸せ、さ。My flower」
 嘘ではない。
 体はだるいし、目を開けているのも辛いけれど、気持ちはいつだって軽かった。
「ぢゃあ、結婚しちゃおっか」
「結婚か」
 それもいい、とカラ松は答える。
 両親は孫の顔を見たがっていた。
 兄弟達は自分や女がこの家にいることを酷くわずらわしく思っているようだった。
 今だって大事で大切で大好きな兄弟達と別れるのは少し寂しかったが、女と共にいくのが最善だろう。カラ松の頭は迷走しすぎて何処を向いているのかすらわからぬ答えをはじき出す。
「金のない男だが、許してくれるか?」
「いーよ。その代わり、我が侭、いーっぱい聞いてよね」
「勿論。オレにできることなら何でも」
 手を合わせる。
 すると、女が立ち上がり、カラ松の手を引いた。
 流されるがままに彼も立ち、女と共に家を出る。何もこんな夜遅くに、せめて親に挨拶を、とカラ松はいくつか言葉を並べたが、それらもすぐに消える。
 どうだっていい。
 子供はあと五人もいる。
 消えるのは扶養にすら入れてもらえぬ不合格者だ。
 心配なんてされない。親にも、兄弟にも。
「愛してる」
 女の声が甘く、カラ松の耳に注がれた。
 カラ松は笑う。
 まさか、ほぼ同時刻、チビ太のおでん屋台で兄弟達が花の精という言葉に驚愕しているとも知らないで。

  *

 翌朝、晴れ渡る空の下、祝福の鐘が鳴り響いた。
 福音を受けたのは一組の男女。
「破ったら死ぬから」
 そう叫ぶ女に、男、カラ松は何の返答もしない。
 青白い顔からはすっかり生気が抜け落ち、かろうじて開かれている目にも黒々とした瞳がなかった。
 人の形を模しただけのガラクタだ、と言われたほうが納得できる有様だ。けれども、神父は粛々と言葉を続けていく。縁者も友人もいない、秘められた式。
「――それでは、誓いのキスを」
 女はカラ松と向き合う。
「カラちゃんが悪いのよ」
 歪んだ笑顔の奥に、憎悪が見えた。
「アタシをこんな醜く生んだから」
 最期の一押しだけは、傍にいるだけでは駄目なのだ。
 口づけが必要。
 女はカラ松の口に、自身のそれを近づける。後、数ミリ。
「はい。そこまで」
 突如、一つの声が乱入する。
 厳かな雰囲気を破壊し、儀式を台無しにしながら声の主は教会へ足を踏み入れた。
「そいつから離れてくんない?」
 女とカラ松から数メートル離れた場所に立ったそいつは、松野家の四男。松野一松であった。
「…………」
「おやぁ? まただんまりを決め込むつもりですか〜?
 同じ手ばっか使ってんじゃねーよ。糞豚」
 語尾は強く、厳しい。声は全体を通して殺気で鋭く光っていた。否、それは声だけではない。彼が右手に持つ得物。人を刺し殺せるほどのナイフ。それもまた、鋭利な輝きを放っていた。
「その馬鹿を返せ」
 一松はゆらりとナイフを上げ、女へ向ける。
「アンタさぁ、花の精かなんかなんだろ?
 嘘か本当か知らないけど。でも、これ飲んで死んだら、本当ってことだよねぇ」
 ナイフはそのままに、彼は左手に持った除草剤を女へ見せ付ける。
 わずかに彼女の顔が歪んだ。人の肉体を得てもなお、自身を殺すためだけに生み出された薬品への嫌悪感は消えない。
「あ、でも、普通の人間でもこれ飲んだら死ぬかな」
 チェシャ猫のごとく、一松の口角が上がる。並みの人間であれば恐怖で腰を抜かしてしまうことだろう。いつもならばカラ松も怯えの表情を見せるのだが、今回ばかりはそうならない。
 白目をむいたままの彼は一松がこの場にいることさえ気づいていないのだ。
「どっちでもいいんですけどね。
 アンタが死ねば、それでいい」
 柔らかな赤い絨毯を蹴り、一松は跳躍する。ステンドグラスから差し込む光を反射させ、おぞましく輝くナイフを掲げたままに。
「アタシは絶対に死なないし!」
 振り下ろされるナイフを避けるべく、女は一松の腕を狙って払いのける。
 彼女の太い腕からは、体積に見合っただけの力が宿っているらしく、手にしていたナイフを手放さずにいれたのは殆ど気合と根性の賜物だった。
 吹き飛ばされるようにして扉とは反対側に着地した一松は苦々しげに眉を寄せる。
 元より、女をひと突きにするつもりはなかった。ちょっと動きを止めてやろうと思っただけだ。生きて、カラ松と話をさせなければならない。そうでなければ、未来永劫、彼は女に心を囚われ続ける。
「花の精のくせに強いんだね。
 どーせ短い命でしょ。諦めてくんない?」
 チビ太のもとに現れた可憐な少女は、花の命が尽きるのと同時に天へ還ったという。
 未だにピンピンしている女が元はどのような品種の花だったかなど、一松は毛ほどの興味もわかない。しかし、人間であるカラ松よりは短いはずだ。
「い、や、よ」
 女はカラ松を抱き寄せる。
 一松の放つ殺気が膨らむ。
「アタシはずーっと生きるの。
 もうただの花じゃないわ」
 禍々しい笑いに、良い予感を見出すことはできない。
 一松は再度飛び掛るべく、足に力を込める。おめおめと帰るために、カラ松を探し回ったわけではないのだ。
「カラちゃんの命を貰って、特別な花になったんだから!」
 命。その言葉に一松は目を細める。
 世の中を斜に構え、卑屈道を謳歌している彼だが、生まれ持った頭は悪くない。察しもいいし、現状把握能力も高い。よって、カラ松がやつれた理由と、女が発した言葉をすぐさま繋げることができた。
 点と点が繋がるとほぼ同時に一松は飛んだ。
 前回の失敗を考慮に入れ、今度は弾丸のごとく前へ飛ぶ。ナイフは振り上げるものではなく、突き刺すものだ。
「甘い、わ!」
 半身で避け、一松に手刀を落とす。だが、やられるばかりの彼ではない。
 攻撃が不発に終わったと悟った時点で体を捻り、左手で女の腕を掴む。彼女が一瞬怯んだのを見極めた後、引き倒すように自身の腕を振るう。
 体重の差もあって、完全に倒すことはできなかった。だが、バランスを崩させることには成功した。
 身軽な一松は足が地面についた途端に女の首を足で絞めにかかる。
「うちの次男は返してもらうよ」
 冷たい言葉が女に降り注ぐ。けれど、彼女とてその程度で終わる存在ではない。
 相当の力で首を絞められているというのに、女は体を捻り、一松の腹を殴りつけた。体勢上、全力の攻撃とはいかなかったが、腹筋など鍛えたこともない彼にはパンチがよく効いた。
 鈍い呻き声と共に一松が床に転がる。
「何勝手なこと言ってんのよ。
 アタシは知ってるんだからね。
 アンタ達がカラちゃんにどんな態度とってきたのか」
 女は放心したままのカラ松を放って、一松の腹を踏みつけた。
 太く重い足の重圧に一松は内臓が飛び出てしまうのではないかと感じる。しかし、それ以上の衝撃は彼女の口から発せられた言葉だった。
「アタシがこんな醜く生まれたのは、カラちゃんとアンタ達のせいなんだから……!
 黙って養分になってればいいのよ! それくらいしてもらわないと割りに合わないのよ!」
 何度も何度も、執拗に一松の腹を踏む。その内、腹を貫通し、床を踏みつけるのではないか、という程にその力は強い。
 繰り返される衝撃に歯を食いしばり耐えながら、一松は魂が抜けているかのようにして立っているカラ松を見やる。
「本当なら、アタシだって綺麗に生まれたのに。
 綺麗で純粋な心で手を伸ばしてくれたなら、身も心も綺麗だったのに!」
 夢物語のような淡い希望に手を伸ばさせたのは、間違いなく五人の兄弟達だ。
 愛されたいと望ませた。肯定を求めさせた。享受を懇願させた。けっして、愛おしい兄弟に持たせてはいけない欲望だ。カラ松はいつだって、他の兄弟達にそんな欲望を持たせなかった。願うよりも先に差し出してくれていた。
「同情したアタシも馬鹿だけど! カラちゃんやアンタ達は最低! 絶対に許さない!」
 一松は呻く。
 自分は許されるべきではないだろう。もしかすると他の四人も。
 だが、カラ松だけは違う。
 彼は被害者であって、加害者ではないのだ。そりゃ、純粋無垢な気持ちだけで花を助けたわけではないけれど、それで助かった命が一つあるというのならば、それはやはり善にカテゴライズされるべきだ。
「今更、迎えにきたって遅いのよ!」
 足が落とされる。一拍前。
 一松は女の足にナイフを突き刺した。
「あああぁああっぁぁぁぁ!」
 野太い悲鳴が上がり、女が転がる。
 赤い血は流れていない。彼女が人外である何よりもの証拠。
「……それ、でも」
 腹を押さえ、一松は足を震わせながらも立ち上がる。
「それでも、返してもらう」
 内臓だけでなく骨も痛い。
 今すぐ病院に駆け込んで処置してもらいたいくらいだ。
「アンタみたいな糞ドブスにやるために、ボクは十何年も初恋を隠したまま生きてきたわけじゃない」
 のた打ち回る女を横目に、一松はゆっくりカラ松へ近づく。
 その目に宿っているのは殺意ではない。穏やかで、淡い、恋心だ。
「普通の女性と結婚するなら、幸せにしてくれそうな奴なら、譲る気だったんだ。
 嘘じゃない。そう思ってた」
 禁忌の恋心に気づいたのはいつだっただろうか。
 これといってきっかけがあったわけではない。ただ、気づいたらカラ松を目で追い、カラ松を想い、カラ松で抜いていた。
 醜い自分に絶望し、人との関わりを絶った。すると、幸か不幸かカラ松はなおさらに一松へ近づいてきた。兄の一人として、ではあったけれど。
 いつだって欲求と隣り合わせで、押さえ込む度に苛立ちは募り積もった。
 恋心が軋みだすのは存外早く、気づいたときには手遅れ。一松はもう素直に好意を伝えることすらできず、思いとは真逆の言葉を吐き出し、真逆の仕打ちを向ける天邪鬼と化していた。
 早く見捨てて欲しい、と何度も願った。
 そうすれば、いつの日かカラ松に恋人ができたとしても、元々、どうあがいても手の届かない人間だったのだから、と諦められると思っていたのだ。
「でも、やっぱり、無理、だ……。
 行かないで。カラ松。ボクを、置いて、いかないで」
 例えば、相手が麗しい美女だったとして。一松はカラ松が結婚する式に参列できたのか。
 否だ。答えはもう決まりきっていた。ドブスとの結婚は腹立たしいが、それ以上に隣り合う温もりが消え去ることが許せない。今までの自分が、六つ子という絆に縋っていただけなのだ、と知ってしまったからこそ、一松は叫ぶ。
「愛してる。カラ松っ……!」
 伸ばした手が、カラ松を掴む。
「…………い、ちまつ?」
 白かった目には黒い瞳が戻り、戸惑いながらも一松の姿を目に映していた。
 思わず一松の顔に浮かんだのは安堵の笑みだ。立ち尽くしたままのカラ松は見ていて心臓に悪い。生きて、イタいことの一つでも言っていてもらわなければならない。
「え、っと……。
 あの、その……?」
 現状を全く把握できていないであろうカラ松は何度か視線を動かし、最後に一松を見つめた。
 瞬間。顔が真っ赤に染まる。
「い、いい、いちま、つ。
 そのだな、あの」
「……お前、どっから聞いてたの」
 想像はつく。
 カラ松が気を戻したのは、一松が触れたからではない。どんな馬鹿にでも伝わる言葉で、一松がカラ松に向けた愛を叩きつけてやったからだ。
「カラちゃん!」
 足を緑色の液体塗れにした女が叫ぶ。
「騙されちゃ駄目!」
 その言葉に、カラ松の表情が凍る。
「今までのことを思い出してみて。
 戻ったって、最初は優しくしてもらえるかもしれないけど、すぐに元通りになるに決まってる」
 カラ松の脳裏に、兄弟達の姿が浮かんだ。
 鬱陶しそうな顔。怒った顔。悲しい顔。夕日に顔を向け、楽しげに笑っている、五人の、顔。
 おそ松や一松は六つ子が揃っていることに執着しているきらいがある。そのためならば、抱擁も制裁も何でもやってしまえるのをカラ松は二十余年間、ずっと見てきていた。
 今回もそうだ。
 カラ松は女と共にあることで六つ子とは違う道を行こうとした。だから、一松がここにいる。
「違う! ボクは本当に、ずっと」
「好きな人に冷たくできる?」
 わかっている。カラ松は一松が嘘をついていないことを理解していた。
 愛していると言ったときの顔や声。そこに嘘はなく、今だって女の言葉を否定する声には不安と強い拒絶が見えた。
 しかし、女は正論を述べている。普通に考えて、愛している人間に石臼を投げたりはしないし、嫌悪感丸出しな声を向けてきたりはしないはずだ。
 心の中心に建っている天秤が揺れる。右へ、左へ。揺れに揺れて、安定しようとしない。
「……もう、何も、考えたくない」
 やっとのことでカラ松から出てきたのは、全てを遮断する言葉だった。
「嫌だ。怖い。もう、何も考えたくない」
「おい、カラ松!」
 この状況下で何を言っているのだ、と一松が叫ぶ。
 だが、カラ松は弱々しく首を横に振るばかりだ。
「何も、誰も、信じられない」
 ボロリ、と涙が零れた。カラ松の瞳から絶えず流される涙の粒は大きく、一秒でも早く体を干からびさせようとするかのようだった。
 それを見た、聞いた一松は息が止まった。
 カラ松だけは、いつ如何なるときも一松を信じているものだと、この期に及んで思い込んでいたのだ。
 自分の愚かしさに、突き刺さんばかりにやってきた現実に、一松の瞳に薄く、涙の膜ができる。
「もう嫌だ。一松を信じれないのも、未来を怖がるのも!
 いっそ、いっそ、オレはflowerと一つになってしまいたい!」
 泣き声と共にカラ松は歩き出す。一松を通り過ぎ、女の方へと。
「待って」
 その手を一松が掴む。
 今にも泣きそうな顔をカラ松に向け、懇願するようにして彼を引き止める。
「いい加減にして! もうカラちゃんを解放してあげたらどうなの?」
 女が怒声を上げる。
 あまりの迫力にカラ松も怯んだが、すぐに気を取り直したのか再び足を進めるべく、一松の手にそっと触れた。そのまま少し力を入れてやれば、ずるり、と解放されるはずだった。
「……駄目」
 小さく、こもった声だった。
 だが、同時に込められた手の力は、小さくなかった。
「――っ」
 カラ松が傷みに目を細める。
 先ほどまでは片手で捕まれていただけだったが、今では二本の腕でしっかりと引きとめられていた。
「長男から末弟まで揃ってクズなもんで。
 自分達のせいで次男が傷ついて、逃げたくなったとしても、離してやれないんですよ。
 幸せとか、本人の意思とかはどーでもいいんで」
 一松は、泣いていた。
 とめどない涙を流しながら、カラ松を引きとめ、女を見据える。
「そんな兄弟の中でも、一番のクズは」
 カラ松の腕が解放される。
 だからといって、彼がすぐさま女のもとへ向かえるのか、と問われれば、そうではない。
 一松はカラ松を繋いでいた腕を解くと、そのまま彼の頬に手の平を当てたのだ。顔を固定されたままでは移動できない。
「――実の兄に恋をして、それを素直に伝えることもできない、このボク」
 そっと口づける。
 花嫁よりも先に、花婿にキスをする。
「信じてもらえなくて当然だよね。
 でも、もう一回、チャンスだけでもちょうだい。
 何でもする。毎日毎日、嫌って言うくらい好きって言う」
 触れるだけのキスを終えた一松の顔は真っ赤に染まっていた。未だに流れ続ける涙が妙にチグハグしていて、少しばかり面白い顔になっていた。
「……それでも駄目なら、一緒に死のう」
 一松は目を細め、幸せそうに笑う。
 彼にとって恐ろしいのは、カラ松がいなくなった世界を生きることだった。
 カラ松が死を選ぶというのならば、それを止めることができないのならば、もう、それは仕方のないことなのだと、一松は諦めることにした。その代わり、カラ松が死ぬその時に、共に死ぬことだけは許してもらおう、と。
「いちまつ」
 幼い声色でカラ松が言う。
 手をそっと伸ばし、一松の頬へ添えた。
 口づけはしない。額を合わせるだけ。
「死なないで」
 小さく笑ったカラ松の目は、一松だけを写している。
「オレも、生きるから。
 一松と一緒に」
 愛が通じたのか。
 弟の死を回避したい一心だったのか。
 どちらでも良かったし、同じだった。一松が勝った、ということだけが揺ぎない事実として君臨する。
「カ、ラちゃん……」
「flower?」
 すっかりか細くなってしまった声に、カラ松が慌てて振り返る。
 先ほどまでは頭に靄がかかったようなぼんやりとした心地だったため、あまり気にしていなかったのだが、彼女は足を怪我していたはずだ。すぐに手当てをしてやらなければならない。それが終わったら、何故自分が教会にいるのかを聞いてみよう。そんなことをカラ松は考えていた。
 しかし、そんな思考はすぐさま消し飛ぶ。
「どうしたんだ!」
 甘い空気を放って、カラ松は女のもとへ駆ける。
 彼女の体は、薄っすらと透け、向こう側の風景が見えていた。
「何が……。何で、こんな……?」
 カラ松は一松を選んだ。
 けれども、女を捨て去ったつもりは一切なかった。
 今までのような距離感はないとしても、道端で挨拶を交わすくらいの間柄になれたら、という甘い夢を抱いていた。それが、今、目の前の失われようとしている。
「……カラちゃんが、生きる、って決めたから」
 女が吸い取り、怪物花となるための栄養となった生気が、持ち主のもとへ戻っていっている。元々、生気のような、生きていく上で必要不可欠な要素がそう簡単に奪い取れるはずがないのだ。
 それができていたのは、カラ松の心が弱りに弱っていたからだ。一松の叫びを受け止め、未来を歩む力を取り戻せば、奪うどころか触れることすらできなくなる。
「もう、アタシはいらないの」
「そんな……。
 オレのせいか……」
 カラ松を愛するために女は生まれた。
 自己愛だとか、欲望だとか、醜いとか美しいとか、色々と女は言っていたが、結局のところ、その一点につきる。彼女は、そう望まれ、そう在った。
「……うん。カラちゃんの、せい」
 自身の傍に傅くカラ松へ手を伸ばした。
 肉厚な手が彼の手に包まれる。
「だから、幸せになって」
 女は笑う。
 今まで浮かべていた、どんな笑みよりも美しく。
「愛されてないって思ったら、ちゃんと言って」
「あぁ」
「酷い目にあったら、文句も言って」
「あぁ」
「辛いことがあったら、これでもかっていうくらい泣いて」
「あぁ」
「もし、またどうしようもないくらい追い詰められたら」
 体が、笑みが消えていく。
「アタシを探して、また麦茶を頂戴ね」
 最後に残ったのは、その声だけだった。
 カラ松は泣いた。自分を愛してくれた女を失ったことに、自身のせいで消えてしまった悲しみに。そして、感謝して、また泣いた。
 その間、一松はずっとカラ松の隣に立っていた。
 陳腐な言葉の一つもなく、自身の温もりを分け与えるかのごとく、静かにただ寄り添っていた。

END