松野家次男、松野カラ松は誘拐された。
これが一般家庭での話ならば、警察に通報したり身代金を用意したりと、大騒ぎになっていただろう。だが、如何せん、松野家というのは普通の家ではなかった。
まず、子供が六人いる。それも皆、同じ顔で同じ歳。そう、彼らは六つ子なのだ。そして、その六つ子全員がクズニートである。共に手を取り合うこともあるが、基本は足の引っ張り合いをしながら生活しているような人物ばかりである。
誘拐犯からの連絡を最初に受けたのは長男、おそ松だった。
寝起きで回転しない頭ではあったが、電話口から聞こえる声に、彼は誰が犯人なのかすぐに察することができた。そもそも、ボイスチェンジャーも何も使っていない声だ。判別できない方がおかしい。
「お前のところのカラ松を誘拐した」
そんな言葉を吐いてくれたのは、腐れ縁というネバネバした縁で繋がっているチビ太だった。
背は低いが心は広い。おでんは美味いし男気もある。中々のつわものだ。
彼が何故、誘拐等という犯罪に手を染めたのか、おそ松はすぐに理解する。
「家、違います」
ツケだ。六つ子はチビ太のおでんを贔屓にしているが、飲食の殆どはツケでまかなわれていた。時折、本当に時々、兄弟の誰かがギャンブルで大勝したときのみ、支払われているのが現状。
昨夜も彼らはおでんを食べ、酒をのみ、数円だけを置いて逃げた。
そろそろ堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。今までの総額を全て返せ、と言われるのだろうことを察したおそ松は、素早く電話を切った。
いくら喧嘩したり、足の引っ張り合いをしたりしても、血を分けた兄弟だ。表面上にどのような感情が浮かんでいようとも、根底にあるのは愛でしかない。
しかし、金はない。
誘拐犯に心当たりがあるだけに、悪いようにはならないだろう、という安心感もあった。もし、これが見知らぬ男からの連絡であったならば、流石のおそ松も即座に家を飛び出したことだろう。
その後、チョロ松が再び電話を取り、チビ太からの要求を聞いてみれば、身代金百万円。
ドラマや映画等で見る誘拐を思えば、その金額は破格の安さだ。ただし、これは六つ子が作り出したツケの代金、と言い方を変えれば膨大な値段に感じられることだろう。
ニートには無限大数にさえ感じられてしまうような大金を要求された結果、彼らは愛しの母が剥いてくれた梨へ逃避することを選択した。
言い訳をするならば、この時、誰一人として、まさか電話が繋がったままだとは思っていなかったのだ。
チョロ松は誘拐の件を聞き慌てて兄弟へ報告しに行っていたし、十四松は何の確認もないまま、即座に彼の後を追っていた。他の兄弟達は電話など当然切っているだろう、と思っていたのだ。
その電話をニート達に梨を与えた松代が何の確認もなく切ってしまったのも悪かった。悲しきかな。母の気遣いによって、彼らは自分達の認識と事実が異なっていることに気づく機会を失ってしまうこととなってしまった。
カラ松やチビ太の耳に梨を食う自分達の声が届いているなどということを露ほども知らなかった彼らは、再度、身代金に関する電話がなかったということで誘拐の一件を重く受け止めることなく過ごすこととなる。
憂さ晴らしの一環だろう、ちょっとした冗談だったのだろう、今後のツケに対する牽制だったのだろう。
全てをそのように考えていた。故に、カラ松はあっさりと解放されるだろうと考えていた。そうでなくとも、あれでいてカラ松は六つ子の中でも喧嘩が強い部類にはいる。
チビ太程度ならば降して帰ることができる、と。有体な言葉で言えば、信じていた、のだ。
「――マジ信じらんないよねぇ」
「人の安眠妨害してんじゃねーっつーの!」
真夜中、家の前で生み出された騒音にカラ松を除いた五人の兄弟は憤っていた。
拡声器を使って叫ばれた言葉は眠気でよく聞き取れなかったが、状況から察するに、また身代金の要求だろう。またつまらぬことを、と思った。同時に、何を捕まっているんだお前は、とカラ松への怒りも沸く。
眠っているところを連れさらわれた最初ならばともかく、今回はある程度カラ松の協力がなければ磔など成しえないはずだ。身代金の山分けでも教唆されたのだろう、と誰もが考えた。比較的常識人であるチョロ松ですら金の魔力には負ける。基本的に六つ子はがめついのだ。
心地よい眠りを奪った大小として、各自大小さまざまな物をカラ松にぶつけてやったが、それでも気持ちは収まらない。
昔からカラ松はカラ回りしてばかりだった。成人してもなお、その間の悪さは変わらなかったらしい。せめて日中であったならば、もう少し茶番に付き合ってやってもよかったのに、とおそ松は考えつつ、布団の中に入り込む。
全員が所定の位置についた頃、外からはガタガタと音が聞こえてきた。炎の灯りは消えている。どうやら、無駄を悟ったらしいチビ太が去っていくようだ。カラ松はどうしたのだろうか。今から家に入ってくるのか、チビ太と共に何処かへ行ってしまったのか。
そんなことをつらつらと思考しつつ、おそ松の意識は眠りの底へと引きずられ、消えた。
ここが一つのターニングポイントでもあった。
実はこのとき、カラ松は家の前で横たわっていた。一応、車に配慮して端のほうではあったけれど。
あまりにも救えない兄弟達に、チビ太も呆れてしまったのだ。かといって、カラ松を連れて帰る気にはなれなかった。同情はするが、所詮はカラ松のあの悪魔のような六つ子の一人。養ってやろう、共にいてやろう、という優しさは出てこなかった。
瞬きの間だけ開廷されたチビ太の脳内協議の結果、カラ松の放置は可決された。
だが、兄弟達がそんなことを知るはずもない。外を確認する、という選択肢に彼らは気づかなかったのだ。
そうでなければ、翌朝、家の前に誰もいないことについて何も思わないはずがない。
何も知らなかったからこそ、五人になってしまった六つ子は、カラ松の不在を何とも思わなかった。今頃、チビ太の家でふて腐れていることだろう、程度に終わった。
その後、一松とエスパーニャンコの騒動によって、完全に彼らの頭からカラ松の存在は吹き飛んだ。
どこにいるかもわからないが、無事であるであろう次男と、目の前で長年溜め込み続けた鬱屈した気持ちと戦おうとしている四男。どちらかを選べといわれたならば、きっと次男であるカラ松本人とて、一松を選んだことだろう。
「扱いが違う!」
問題があったとするならば、そもそも、次男は無事ではなかった、というところから始まる。
まず、昨夜、チビ太に放置されたカラ松は、朝方になってようやく保護された。朝帰り途中のサラリーマンが彼を見つけ、タクシーで病院まで運んでくれたのだ。問題があったとすれば、サラリーマンがそれなりに酔っていたため、カラ松が倒れている目と鼻の先にある家が彼の家だと思いつかなかったこと。そして、救急車を呼ばなかったこと。この二つにつきる。どちらかに気づいてくれていれば、その時点でカラ松は兄弟達のもとへ帰ることができたはずだった。
頭を強かに打っていたカラ松は、その出血の量と寒空の下で放置されたことが堪えたらしく、入院、とまではいかずとも、点滴が必要なくらいには弱っていた。
優しいサラリーマンはカラ松の医療費を支払い、自身の家へと帰っていったらしい。カラ松自身が目覚めたとき、既にサラリーマンの男とやらはいなかったため、看護師から聞いた話でしかカラ松は事の顛末を知ることができなかった。
心の中で見知らぬサラリーマンに礼を言い、カラ松は愛しの、少しばかり怒りも沸いている兄弟達のもとへ返ろうと病院を後にした。
空は素晴らしい快晴で、カラ松はわずかに唇を噛む。
美しいものに罪はない。しかし、自身の心と正反対な風景というのは、どうにも刺々しく見えてしまうものだ。
死にそうな目にあっているというのに、まともに助けようとしてくれたのは一人だった。
それでも結局は近所から貰った梨に負けた。
火炙りにされているというのに、何故か鈍器を投げつけられた。
思えば、あの時、誰一人としてカラ松に声さえかけてくれなかった。罵倒も何もなく、無言の拒絶だった。
静けさが怖い。六つ子として、いつも賑やかの渦中にあったためだろうか。向けられる声がなくなると、まるで自分が存在していないかのようにさえ思えてしまう。
静寂と孤独を愛す、などというのは嘘だ。そうあればいい、という願いからの言葉。自身を奮起させるための言霊でしかない。
罵倒でも嘲りでも、何でもいいので言葉が欲しかった。
「……ただいま」
そんな鬱屈とした気持ちを抱えたまま帰宅したカラ松は、家があまりにも静かであることに安堵の息をもらす。
弱っているところは見られたくない。情けない兄だと、不甲斐ない弟だと思われたくはなかった。今は力がわいてこないが、もう少しだけゆっくりすればいつも通りの仮面を被る気力だって出てくるはず。そうすれば、昨夜のことも格好をつけて許してやれる。
「あら、お帰りなさい」
靴を脱ぎ、数歩進むと六つ子の母である松代が顔を見せた。昔は兄弟達を見分けることのできなかった彼女だが、今となっては服装や言動で何となく見分けがついているらしい。
昨晩、姿が見えなかったカラ松が頭に包帯を巻いて帰ってきたことに、流石の松代も驚いたらしく、軽く目を見開いた。
「どうしたのそれ?」
「……ちょっと、な」
一瞬、口ごもる。
本当のことを言っても良かったのだが、どうせ、他愛もない兄弟喧嘩の一環と見なされるのはわかっていた。ならば、余計な告げ口をする必要もあるまい。
「ならいいわ。それにしても、パジャマで外をうろついてたの?
みっともないから止めなさい」
松代の言葉に、カラ松は自身の姿を改めて鑑みる。
二度も磔にされたため、パジャマはあちらこちらが擦り切れている上、火あぶりによってズボンの裾はわずかに焦げ付いていた。確かに、この状態で街中を歩いてきたのだと思うと気恥ずかしさがわいてくる。
病院で靴を借りることができたことが唯一の救いか。
「ところで、みんなはどこかへ行ったのか?」
嫌なモノが胸に溢れそうになる。それから目を逸らすためにカラ松は言葉を吐いた。答えの検討はついていたが、今は自身以外に目を向けることが必要だった。
「何だか、一松の猫を探す、って皆して出て行ったわよ」
「一松の?」
カラ松は眉を寄せる。
いつも騒がしい六つ子の中で、常に静けさを保っている弟のことを思い出す。
小学生を終え、中学生も半ば、という時期から彼はだんだんと無口になり、世を悲観するような言葉を零し続けるようになった。そんな弟のことをカラ松はいつだって心配しているのだ。
本当は心優しく、真面目で、真っ直ぐな男だと知っているからこそ。
自信さえつければ、どんな世界にだって羽ばたいて行ってしまうのだろう、とカラ松は確信している。だが、まだほんの少しだけ臆病な一松は、近所の猫と触れ合うことで心の平穏を保っていた。
人間の友人ではないが、猫もれっきとした一松の友人だ。
てんでバラバラな兄弟達がこぞって探しに行った、ということは、相応の何かがあったのだろう。
カラ松は手早くタンスを開け、青いパーカーを着る。
「オレもちょっと行ってくる」
「はいはい」
猫の種類も、柄も、何もわからない。
だが、カラ松は既に走りだしていた。
無鉄砲で考えなし。頭がカラっぽのカラ松。しばらく走ってから自身に舌打ちをしてしまったがもう遅い。一度、家に戻って母に詳しいことを聞くべきか。
それとも、自身の記憶を全て浚い、それらしい猫を集めて回るか。
迷い、少しでも可能性の高い選択肢を取るべきだ、と結論付けて体を反転させる。その時だ。背後から騒がしい声と足音が聞こえてきた。
何事かと思い見てみると、何やら大勢の人間がたった一匹の猫を追い回している。
「あれは、一松の……」
カラ松に猫の一匹一匹を判別する能力はない。だが、あまりにも特徴的な、眼鏡型の模様をした猫など、そうはいない。ひと目みただけで、それが一松の友人である猫だとカラ松は気づいた。
必死の形相で追い掛け回す誰も彼もが殺気だっており、大方猫が何かしでかしたのだろうことはわかる。だが、それでも相手は罪の意識もない動物。いい歳をした大人達が追い回すものではない。
カラ松の行動は即、だった。
「おいおい、あんた達、あんなキュートな猫を追い回すなんざ、男らしくないぜ?」
「うっるさいザンス!」
猫と大勢の人間の間に割り込む。
喧嘩には自信があった。かといって、流石にこの人数は無理だろうけれど。
わずかな時間稼ぎくらいにはなるだろう、と。
「松野家次男。松野カラ松。参る!」
予想は大当たりで、カラ松は猫を逃がすことに成功した。
ただし、彼の体は満身創痍の状態で。
頭を怪我していることを考えれば、奮闘したほうだ。数名の成人男性をのし、その他の者共を退却させたのだから。
最も、相手方は喧嘩の途中で猫一匹追い詰めるためにここまでするのは割りに合わない、と冷静な判断を下したが故の退却だ。頭に血が上ったままであったらカラ松が道路の端に寄せられていたころだろう。
「いてて……。
こりゃ、足首、痛めたな……」
近場の塀に手をつきながら何とか歩を進める。
気絶している連中は路地の放り込んでおいたので、車やバイクに轢かれることはない。
「……猫、大丈夫かな」
この調子では、一松の猫を探すのは不可能だ。
カラ松が助けた猫が件の猫なのかはわからないが、そうであったならば無事でいることを願うしかない。
いくら頑丈なカラ松とはいえ、足取りが不安定な状態で動き回る動物を探し出すことはできない。今は大人しく家に帰り、湿布の一つでも貼るべきだろう。
そんなことを考えつつ、カラ松は痛む体を引きずりながら家路につく。
「――――あ」
だが、散々なこととは続くもの。家へ帰る途中、カラ松は目の前に巨大な鉄の塊が迫ってくるのを目の当たりにした。
避けなければ、という思考に反し、体は動かない。それもそうだろう。つい先ほどまで、複数人と喧嘩をした彼の体はボロボロだ。家に帰るのも億劫だというのに、迫り来る塊、自動車を避けれるだけの体力があるはずもない。
ドン、という音と共に、カラ松の意識は一度途絶える。
*
目を覚ましたのは空がオレンジ色に染まりつつある頃合だった。
見知らぬ天井、というには記憶が近すぎた。
カラ松は今朝退院したばかりの病院のベッドの上に横たわっていた。
「あっ、大丈夫……?」
彼の目覚めを待っていてくれたのは、愛する兄弟でもなければ、敬愛する両親でもなかった。それもそのはずで、慌てて外へ出てきたカラ松は、財布を持っておらず、彼の身分を特定できるような物は何一つなかった。これでは両親に連絡をとれるはずもない。そもそも、命に別状はない成人男性だ。病院側もそれほど熱心にカラ松の情報を入手しようとはしていなかったのだろう。
カラ松のベッドの隣に座っていた男は、あの車の運転手だった。用事があっただろうに、被害者であるカラ松を心配して、今までずっと隣にいてくれたという。
「その、ありがとう、ございます」
目覚めて良かった、とさめざめ泣く男に、カラ松は礼を言う。
被害者は彼のほうだったが、一方的に男が加害者だ、とはとてもではないが言えなかった。
そもそも、カラ松が轢かれた道は見通しが悪く、以前から何度か事故が起きていた。男もそのことを知っていたのか、車は非常に緩やかなスピードだったはずだ。
普段のカラ松であれば、避けることができただろうし、そうでなくとも気絶するほどの怪我は負わなかっただろう。
今回に限って言えば、兄弟から受けた傷と、直前の喧嘩によってできた傷が良くなかった。見事に傷口が開き、大怪我のような有様になてしまった、というだけ。
「すみません。警察にも連絡しました。
ちゃんと罪は償います。すみません」
何度も何度も頭を下げる男を見つめ、カラ松は眉を下げる。
よく見れば、年若い男だ。カラ松達と似たような歳だろう。身なりはきちんとしており、ニート生活を貪っている自分達とは違い、しっかりと職についているのだろう、ということを感じさせられた。
「……別に、あなただけのせいじゃないので。
治療費さえ払ってもらえれば」
「そ、それは勿論!
ですが、その、い、慰謝料、とか……」
男はバッと顔を上げ、カラ松を見つめる。
大事にならないのであればそれに越したことはない。誰だってそう思う。そして、縋りたくなると同時に、何か裏があるのではないか、という勘ぐりもしてしまう。
「いいんですよ。オレもあんまり大事にはしたくないんで」
カラ松は笑う。
何も、彼は優しさだけでこんなことを言い出したわけではない。
治療費を払ってもらえる、というだけでもラッキーなのだ。体感できる痛みから考えて、車に轢かれたことによる怪我は然程ない。包帯をぐるぐる巻かれ、ギプスをはめられているのは、様々な鈍器を放り投げてくれた兄弟や、猫を追いかけていた集団によるもの。本来ならば、治療を受けるための費用はすべてカラ松、もしくは両親が捻出しなければならなかったものだ。
それを上手い具合に出してくれる、というのだ。これは美味しい話だといえる。
ただ、ついでに慰謝料をくれる、というのだから貰える物は貰っておこうかな、という気持ちも少なからず存在していた。金にがめつい松野家を舐めてはいけない。
けれども、今のカラ松にとって、目覚めたとき、傍にいてくれた人、というのはとても大きな存在に思えたのだ。
「……わかりました。では、今回の治療費と、今後の通院にかかる費用は全て私が受け持ちます。
病院側にも話を通しておきます。あ、念のため、連絡先とご住所を教えていただいても宜しいでしょうか?」
大事にしたくない、というのは男にとって願ってもない話だ。しかし、美味しい話に裏があるのは世の常であり、できる限りの対策は必要とされる。
ベッドに横たわるカラ松の怪我が本物であることは、事故を起こしてしまった自身と、彼の治療に当たった医者が保障してくれるが、当たり屋やそれに準じた詐欺師である可能性は否定できない。連絡先を知っていて損はないだろう。
怪我をしている彼の口から出る住所や携帯電話の番号の羅列を手帳に書きとめた男は、一言礼を述べてから、一枚の小さな紙をカラ松へ差し出す。
「今後、怪我による障害や不自由があればこちらに連絡してください」
それは男の名刺だった。裏側には彼の自宅の住所と思しきものが記入されている。
表に記載されてる会社名は、何となく聞いたことのあるようなもので、男の将来性を見せ付けられたような気にさえなってしまった。
カラ松が名刺を手にしたことを確認してから、男は礼儀正しく一礼をして病室を後にする。
彼の表情はまだしょぼくれていたが、予想以上に安く済んで安心もしているだろう。
入れ替わるように医者が入ってくる。カラ松は怪我の状態を詳しく聞くと、一度だけ頷いてベッドから降りた。
「わかった。じゃあ、また明日来ればいいんだろ?」
左腕骨折。左足首の捻挫。あばらにヒビ。その他諸々の小さな怪我。数度の通院をこなせば、二、三ヶ月程度で完治するとのことだった。特に入院も必要ない、と聞かされ、カラ松はすぐに病院を出る。
会計はあの男が済ましてくれていたらしく、何の問題もなかった。
コツン、コツン、と松葉杖をつきながらカラ松は急ぎ足で家へ向かう。
猫の一件が気にかかった。
もう日も暮れる。まだ解決していないのであれば、やはり手伝ってやったほうがいいだろう。解決しているのであれば、それはそれでいい。
そんな思いで歩いているときだった。
兄弟の姿を遠目に見つけたのは。
楽しげな雰囲気。
笑う五人。
あの、一松でさえ、どこかスッキリとした顔で微笑んでいる。
夕日に照らされ、一つになった影は、彼らが元々一つの存在であったことを主張しているかのようにさえ見えた。
五つ分が一つになった影。
自分の足元から伸びている、一つ分の、一つの影。
痛い思いをした。辛い思いをした。頑張った。心配した。
それは、誘拐されたカラ松も、大切な友人を失いかけた一松も同じではないのか。
様々な思いが重なり、混ざり合い、ぐちゃぐちゃ溶けた。
整理できない思いは叫び声に変わる。
しかし、それは届かない。
兄弟の誰一人として、カラ松の方を振り返りはしなかった。
カラ松の足元に松葉杖が転がる。
「……何で」
その場に崩れ落ち、弱々しい右手で地面を掻く。爪の間に土が入り込む。
「オレ達は、六つ子、じゃないのかよ……」
六人で一つ。
無邪気に言えていたのはいつまでだったか。
中学に入り、制服というものに周囲も自分達も包み始めると、六つ子にも個性というものが現れた。ある者は明るく、ある者は真面目に、ある者は卑屈に、ある者は破天荒に、ある者は愛らしく。
違った枠組みにあってもなお、自分達は六人で一つだと、カラ松は信じていた。今も、信じている。
だが、目の前にあった光景がそれを揺らがせる。
「そこに、オレはいらないのか?」
目からボロボロと涙が溢れた。
頬にできた擦り傷が痛む。
「オレは……っ」
いつもなら、笑えたはずだった。
雑な扱いを受けたことは数知れず。今回のような痛い思いをすることだって何度かあった。他の兄弟達も雑な扱いを受け、怪我をしてきている。
カラ松は他の兄弟よりもほんの少しだけその頻度が多いが、特別突出して多いわけではない。
わかっている。頭はその事実を冷静に受け止めている。
心だけが乖離しているのだ。
積み上げられてきた言葉が、経験が、疑心と疑念と疑惑を生み出す。
胸からこみ上げる黒い何かを吐き出したいと思ったが、臓腑は空らしく何も出てこない。出るものといえば目から溢れる涙くらいのもの。それもいつしか止まる。
「…………帰ろう」
たっぷりと時間をかけ、カラ松はようやく立ち上がった。
空は既に暗く、月が見えた。細かな時間はわからないが、地面に膝をついてから相当時間が経っているらしい。時間の経過を忘れるほど、カラ松は深い場所にいた。見つかるはずのない答えを探し続け、結局、何も見つからないままに立ち上がる。
今だけだ。眠って、明日になれば元通りになる。根拠のない確信を支えにカラ松は足を踏み出した。
未だに自身を探してくれている様子のない兄弟達を思うと胸が痛んだが、もしかすると会っていないだけで探してくれているかもしれない、チビ太のところへ様子を探りに行ってくれているのかもしれない。そんな希望的観測を抱く。そうでもしなければやってられなかった。こんなところで再び足を止めるわけにはいかない。
ふらつきながらもたどり着いた我が家は一切の灯りを失っていた。否、もう中にいる全員が就寝しているのだろう。冷静になって周囲の家々を見ても窓から灯りが漏れ出しているのはほんの数軒しかなかった。
「た、ただいま」
かろうじて所持していた鍵を使い、静かに玄関をくぐる。
寝起きの悪い兄弟達を起こすのは忍びないし、何よりも昨日の今日だ。多少の恐怖感はやはり身の内に存在していた。
生まれたときから過ごしている我が家はそれなりにボロく、廊下を歩くとギシギシと音がする。日中も聞いている音のはずなのに、家全体が静かなためか、やたら軋みが大きく聞こえてしまう。
コツ、という松葉杖の音。ギシ、という廊下の音。それぞれに気を使いながら、カラ松はやっとのことで居間の前にたどり着く。両親も兄弟達も眠っているのならば二階にいるはずだ。
声をかけるつもりは毛頭なく、そうでなくとも松葉杖をついている状態で二階に上がるのは一苦労だ。ならば、今日の寝床は一階の居間にしたっていいはずだ。普段の扱いがどうであれ、今の己は怪我人なのだから。
誰に聞かせるでもない言い訳を胸に、カラ松は居間への襖を開けた。
「ん?」
居間の中央に小さな影が見える。
カーテンが閉められ、月明かりも入ってこない室内ではソレが何なのかを判別することは難しい。
緊張に体を硬くしつつも、カラ松はスッと目を細めた。外敵、というには小さすぎるような気がするが、用心に越したことはない。
「……あ、お前は」
室内の闇に目が慣れると、小さな影は猫の形をしたシルエットであることが判明した。
カラ松が声を上げると、それに反応するようにして鳴き声が聞こえてきたので、答えあわせをする必要もない。
逃げ出しはしないだろうか、と不安に思いつつも音をたてないように気をつけつつ猫に近づいていく。柄や色合いはわからないが、家の中にいるということは一松が探していた猫で間違いないはずだ。
一応、とつくが、この家はペット禁止。そうしなければ一松や十四松が無制限にそこいらの動物を拾ってくることになりかねないからだ。そんな我が家に居座っている、ということは認められた特別な猫であるに違いない。
特別。
人間で、ずっと一緒に住んでいたはずのカラ松には与えられなかった居場所。
撫でようと伸ばした手が怯えるように止まってしまう。
胸の内から滲み出る黒いナニカが、一松が大切にしている愛らしい猫に付着してしまうような気がして。
「――怖い」
ポツリ、と零れた言葉は、カラ松のものではなかった。
彼の声よりもいくらか高い声。
「一松の大切なものを汚してしまうのは、怖い」
「だ、誰だ……?」
周囲を見渡す。
誰の姿も見えない。
物音も聞こえない。
「心の内を知られるのは怖い」
「おそ松か? チョロ松? 一松? 十四松? トド松?」
「だって、バレたら輪に入れてもらえない」
「こんな悪趣味なことやったって、何にも面白くないぞ」
「またボクを仲間外れにしようとしてるの?」
「……お前、か?」
カラ松は猫を見る。
真っ暗闇の中、自身以外に存在を確認できる生物はソレしかない。
「一松の友達が、ボクを兄弟から引き離そうとしているのか?」
「お前か……!」
「今日だって、こいつがいなければ、皆ボクのことをちょっとは心配してくれたかもしれないのに。
全部こいつが悪いんだ。こいつさえいなければ、ボクはこんなことを思わずに済んだんだ」
「黙れ」
「苦しいだなんて、理不尽だなんて、痛いだなんて。
いつものことだし、笑って許してやれたのに。自分達はそういう繋がり方をしているだけ、ってわかっているのに」
「黙れって言ってるじゃないか」
「――許せない、ってバレてしまう」
「黙れよ!」
震えて止まっていた腕が伸びる。
「皆嫌いだって、最低だって、馬鹿、アホ、マヌケ、嫌い、嫌い。
ボクは兄弟なのに。人間なのに。猫や梨以下だなんて信じられない。馬鹿、馬鹿。嫌い、大っ嫌いだ。
言わないで。隠してるのに。静かにして。黙って」
「うるさいんだよ!」
カラ松の大きな手が猫の顔を掴む。ふわり、とした毛皮の感触が心地良い、と場違いなことを考えてしまった。
口を封じられた猫はふにゃ、うにゃ、と動物としての鳴き声で必死に助けを求めている。その声を聞きながらも、カラ松は手を離せないでいた。
人は、図星を刺されたときが一番弱い。
暗闇の中で息を荒くしているカラ松の瞳孔は緊張によって引き締まっているにも係わらず、どこを見ているのかわからない虚ろさを兼ね備えていた。
「黙れ黙れ黙れ。
オレはそんなこと思ってない。思ってない。
だってオレは兄弟を愛してる。だってあんなのはいつものことだ。そういう役回りで、嫌じゃなくて、不満だったらちゃんと言うし、そんなコミュニケーションも楽しくて」
それは心の底から出た真実の言葉だ。
嘘偽りはない。強がりでも、得意の演技でもない。
いつもだったら気にしない。いつもだったら嫌じゃない。いつもだったら不満を吐き出せる。
ただ、今回がいつもと違っていただけ。
もはや猫は動物としての鳴き声を上げるだけで、カラ松の心を口にしない。できない。
カラ松も言葉を失い、ただただ猫の口を封じているばかり。手の甲に無数の引っかき傷が生まれるが、痛みを上手く感じ取ることができなかった。
ここからどうすればいいのか全く持ってわからなかったのだ。
手を離すのは怖い。
今の本心が垂れ流されるのは、自分の汚い部分を突きつけられるのは嫌だ。
かといって、このまま立ち尽くしていてもしかたがない。
視線は虚ろ。思考だけがぐるぐるとあちらこちらの引き出しを開けては解決策がないことに怒り、駆け回る。呼吸は荒く、感じ取ることのできぬ痛みは手の甲だけではなく折れた骨やら打撲からも発信されている。
このままでは手の内にある小さな命は息絶えるだろう。伊達に昔から力自慢をしてきているわけではない。
「――殺してしまおうか」
静かな部屋に染み渡る声。
それがカラ松自身の呟きであったのか、猫がわずかな隙間から上げた声だったのかはわからない。
けれど、一つだけ、残酷なまでに確かなことがある。
どちらにせよ、その言葉はカラ松の心の底から出てきたのだ、ということ。
「あ……あぁ……」
カラ松は引きつった声を出し、震えていた右手から力を抜く。
とさり、と華麗な着地を決めた猫は、カラ松の内側でぐるぐると渦巻き乱反射している感情には見向きもせず、一目散に部屋を出て行った。おそらく、二階にでも駆け上がるつもりなのだろう。
「オレは……何をしてるんだ……?」
暖かな毛皮を掴んでいた手を見る。
暗闇でも手の輪郭くらいは認識することができた。
成人男性の大きな手のひら。本気を出せば猫の頭くらい潰せただろう。それがわかっているからこそ、あんな言葉が心に浮かび上がった。
「ごめん、一松。
ごめん……!」
目から涙が溢れた。
あの猫が一松にとってどういう存在かをカラ松はよく知っている。
弟の大切なモノを、弟にとってないがしろにさえできる存在が消してしまっていいはずがない。そうでなくとも、猫を殺すなど、とんでもない発想でしかなく、そんな選択肢へ目を向けてしまった自分が心底恐ろしかった。
「行かないと、どこかへ。
どこでもいい、早く、早く行かないと」
カラ松はのろりと動き出す。玄関へ向けて。
その目は先に増して虚ろで、遠くを見ているようで何処も見ていない。
頭の一部分だけが妙に冷静で、今すぐにこの家を出なければならない、と真っ赤な警告を表示させている。
このまま家にいれば、あの猫によって兄弟達に心の声を聞かれてしまう。聞かれぬようにするには自分かあの猫のどちらかが消えなければならない。
二択ならば答えは簡単だ。
愛する弟のためになる方を。
彼が愛するモノを。
脱ぎ捨てたばかりの靴を再び履き、カラ松は静かに家を出た。闇夜の中、松野家に人の出入りがあったことを示すものはなにもなく、静まり返った家を見上げた次男坊は小さく口を動かす。
「さよなら、だ」
気持ちの整理がつくまでの、とは言えない。
自身の扱いに揺らぎ、傷に突き飛ばされ、孤独という穴に落ち、最後には何重にも蓋をして隠していた本音によって刺された。ぐちゃぐちゃの粉々になってしまった気持ちの整理にどれだけの時間がかかるか等考えたくもない。
たとえ、整理できたとしても、いずれはまたあの醜いぐらついた本音が湧き出るのだ。
そんなものを兄弟達に見せるわけにはいかない。
カラ松は強くなくてはいけない。
何をされても笑い、立ち直り、受け入れる。それが松野カラ松の在り方だ。
長男のおそ松が先頭を歩いて兄弟達を導き、三男であるチョロ松は輪の中で皆をまとめる。六つ子の上半分が兄としてこれらの役割を担うのであれば、次男のカラ松は後ろから背中を押しつつ兄弟達の全てを受け止めてやらなければならない。
今までだってそうやってきた。そうでなければ、いけなかった。
自然と個性を身につけ、役割を得た兄弟達。カラ松だけが、それを見つけられなかった。気づけば五人もいた「自分」は「兄弟」になっていて、一つの輪が出来上がっていた。
そこに入るにはカラ松も「兄弟」にならなければいけなかった。足りない頭を必死に使い、「兄弟」としての個性と役割を身にまとった。だから、それが崩れてしまえば、カラ松は「兄弟」には成れない。また独りに戻ってしまう。
独りは怖い。
嫌われるのは怖い。
逃げるのは卑怯なことかもしれないが、目の前にある楽な道を選んで何が悪いというのだ。松野家の六つ子はいつだって誰だって楽な方向へ転がってばかりなのだから。
痛む体を引きずるようにしてカラ松は歩き続ける。
このまま何処まで行こうか。宛てもなく、何なら今現在歩いている方向すらわからない。
そんな中、残酷な運命とやらはカラ松に一筋の道を示した。
「イヤミ!」
無茶苦茶に歩いていたカラ松の目に、見知った男の姿が飛び込んでくる。こんな時間に外で何をしていたのかは知らないが、そんなことはどうでも良かった。どうせ碌でもないことに違いない。
「こーんな時間に何してるザンスか、おそ松」
「カラ松だ」
立ち止まり、こちらを認識してくれたイヤミに近づいていく。
「金貸して、いや、くれ」
「はあ? 何をいきなり言い出すザンスか」
出された手のひらを叩き落とし、イヤミは心底嫌そうな顔をする。口元は引きつり、眉間にはしわ。瞳に宿るのは敵対心。友好を示す部分は一切なし。
それでもカラ松は怯まない。この程度の顔や仕草ならば、小学生の頃から何度も見てきている。
「これ、やってくれたのは誰だっけか?」
コン、と左手にはめられたギプスを叩く。
瞬間、イヤミが体を退いたのは罪悪感からではない。厄介事に巻き込まれる、という経験則からだ。
長い付き合いだが、六つ子に借りだの何だのを作って良いことがあったためしがない。大人になり、ずいぶんと大人しくなったように思うが、それでも奴らの根本は変わらず、モンスターのままだ。
自分達が行った暴力だけでそれだけの怪我を負うはずがない、と脳の冷静な部分が叫ぶが、そんな道理を通してくれるような六つ子は存在していない。
「逃げたら殴る」
低い声にイヤミの足がそれ以上の後退を止める。
本気である、と悟ったからだ。そして、カラ松の持つ怪力を知っているから。
今でこそ、比較的温厚な部類に入る次男坊だが、子供の頃は酷かった。手加減を知らぬ怪力に痛い目を見せられたことは一回や二回ではすまない。
成長し、体も完成した今、本気で殴られれば、痛いどころではないのは明白。無駄な足掻きは止めるべきだろう。
「……何も、百万用意しろ、ってわけじゃない」
百万。流れるように出た金額にカラ松の胸がわずかに痛んだ。
「一万、いや、五千円でいい」
「は? それでいいザンスか?」
思わずイヤミは聞き返す。
金にがめつい六つ子の片割れから出た言葉とは思えない。毟れるだけ毟る。奪えるだけ奪う。それが信条なのだとばかりに行動してきていただろうに。被害者と加害者、という明確で圧倒的な立場を手に入れた今、カラ松は百万どころかもっと大金をふっかけてきてもおかしくないはず。
だというのに要求された金額はたった五千円。
零の数を間違えているとしか思えない。
「緊急なんでな。
そうだな、おそ松兄さん達にはこのことを黙っててくれ」
この台詞自体におかしなところは特にない。
同じ腹から出た六つ子とはいえ、彼らはいつでも仲良しこよしの幸せ兄弟ではない。足を引っ張り合い、背を踏みつけ、罪を擦り付け合うことだってある。
誰かが大金を手に入れれば、こぞって奪いにくることは火を見るより明らか。
金を入手した、などという情報は口止めするに限るのだ。
だが、イヤミは悟る。
今回は違うのだ、と。
「……ミーは自分から面倒事に首を突っ込む気はないザンス」
「ありがたい」
カラ松もイヤミがナニカを察したらしいことに気づきつつも、明確な言葉は向けない。
「請求はこれっきりにするザンスよ」
「わかってる」
財布から取り出したのは千円札が五枚。
それを受け取ったカラ松は無造作にパーカーのポケットに突っ込む。財布は家に置いたままだった。
コツ、と松葉杖が地面を叩く。それ以上の言葉も馴れ合いも御免だ、と言わんばかりだ。だからこそ、イヤミは小さく丸まった背中に手を伸ばさず、表面だけは甘ったるい優しげな言葉の一つも投げなかった。
白い包帯が闇に紛れて消えるまで、ずっと眺めていただけだった。
*
翌朝、松野家はいつも通りのだらけ具合で朝を迎えた。
兄弟の中ではまともな部類に入るチョロ松が起き出し、他の兄弟達も順々に目を覚ます。ニートで良かった、と思うのは、出勤時間や登校時間が重なっているが故のトイレ、洗面所争奪戦が起きないところだ。
だらだらとした時間が過ぎ、兄弟が居間に揃う。近頃は内職に精を出している母親が作ってくれた朝食を待つだけ、という辺りが、彼らがクズと称される所以だ。
パジャマ姿のままの彼らの中で、誰ともなしに言葉を放り投げる。
「カラ松兄さんは?」
誰かの言葉に兄弟全員があちらこちらに視線を向けた。
しかし、件の男の姿は見えない。思えば、昨日丸一日、彼の姿を見ていないことに気づく。
「……拗ねてるんじゃないの」
一松が言う。
エスパーニャンコは現在、彼の膝の上で眠っているため、本音を口にすることはない。けれども、兄弟達は全員、一松の言葉が照れ隠しであることを知っていた。
本当は心配しているのだ。声のトーンや苛立っているような指の仕草ですぐにわかる。
「いるならチビ太んとこかねぇ。
あいつも中々お人好しだから、カラ松に同情とかしちゃってたりして」
揶揄するように言ったのはおそ松だが、その実、彼の言葉にも心配の色が滲み出ていた。
流石に一昨日の夜はやりすぎたのかもしれない。そんな不安がさっと頭をよぎる。せめて言葉の暴力程度に留めておくべきだった。
そうこうしているうちに、松代が朝食を運んでくる。
今日のメニューはお手軽に一人一枚のトーストとボウルに入っているスクランブルエッグらしい。
「――あら、カラ松は?」
テーブルに朝食を置いた松代が疑問符を浮かべる。
「いないよー」
「まだ帰ってないみたい」
十四松とトド松の言葉を受け、松代はまたもや不思議そうな顔をしてみせた。
「あんた達、昨日、一緒に帰ってこなかったの?」
「え?」
不可思議な言葉だった。
昨日、おそ松達は一度足りともカラ松の姿を見ていない。一緒に帰ってこれるはずがない。
「だって、あの子、一松の猫を探しに行くって出て行ったのよ?」
「そ、んなの……聞いてない、けど」
思わずチョロ松の声が震える。
兄弟全員が彼と同じような顔をしていた。六つ子とはいえ、ここまで同じ反応を返すことは、近頃めっきり無くなっていたというのに。
「私はてっきり……。
じゃあ、あの子、何処に行ったのかしら。怪我だってしてたのに」
全員の脳裏に一昨日の光景が蘇る。
縛り付けられていたのが演技にせよ、事実にせよ、あらゆる鈍器がカラ松の脳天を直撃したことは間違いない。夜だったのでよく見えなかったが、もしかすると多少の流血ならばあったかもしれない。
「オレ、探してくる!」
十四松が勢いよく立ち上がり、続くようにして食パンを口いっぱいに頬張ったトド松が立つ。
「ちなみに、怪我ってどの程度だったの?」
「さあ……。頭に包帯が巻いてあったけど」
実の息子が怪我をしているというのにこの曖昧さである。
一度に六人も生まれれば親の関心などこの程度。大きな愛は平等に分配することが難しく、小さな愛は容易く平等に与えられる。六つ子は等しく愛され、等しく無関心に育てられてきた。
それでも困ったことや悲しかった記憶が少ないのは、親よりももっと身近な存在が五人もいたからに他ならない。
「帰ってこないってことは、やっぱり怒ってるのかな……」
チョロ松は顎に手を当てて考える。
誘拐事件において、カラ松の扱いが悪かったところは認めざるを得ない事実。いつもは兄弟からの雑な扱いをものともしない彼が堪忍袋の緒を切断させてしまっていたとしても不思議ではない。
それで兄弟達を怒鳴りつけたりしない辺り、あの男は優しすぎる、と思わず苦笑してしまうところではあるのだが。
「今回は真面目に謝るか」
頬にパンくずをつけたまま、おそ松は軽く伸びをして立ち上がる。彼とて、すぐ下の弟を可愛く思っていないはずがないし、一見すると打たれ強いカラ松にも限界や限度があることを重々承知しているのだ。
そろそろガス抜きが必要だろう、と思い始めていた頃合なので、今回のことは丁度良い事件だった。少しばかり許容量を越えてしまったかもしれないが、根は優しく、竹を割ったような性格をしている次男のこと。少し甘やかして優しくしてやればすぐに笑顔を取り戻すことだろう。
幸か不幸か彼らはニート。今日も今日とて時間だけならば無駄にあった。捜索の邪魔をするようなモノは何もない。
各兄弟は普段からは考えられない早さで着替えを済ませて家を出る。彼らの表情にはわずかな焦りが見え隠れしていた。しかし、本当の意味ではまだ心に余裕があった。
どうせその辺りで拗ねているのだろう。ちょっと怒っているのだろう。
そんな風に考えていたのだ。
かくして、五人は思い思いの場所に足を運んだ。
行き着けのパチンコ屋。ナンパ待ちに最適な公園。猫のいる路地裏。近所の空き地。お手ごろ価格な喫茶店。川原。おでん屋。大通り。
探して、探して、探して、気づいたら空はオレンジ色に染まっていた。
兄弟のLINEは、見つかった? そっちは? というようなやり取りで埋まる。既読は四。一人分の既読だけが何時まで経ってもつかない。
「……カラ松兄さん、いないねぇ」
松野家に集合した五人は顔を青ざめた顔で居間に座っていた。
何も知らぬ母は、カラ松もいい歳をした大人なのだから、と笑っていたが、誘拐事件から始まり、火あぶりに終わることの顛末を知っている兄弟達からしてみれば、到底笑えるものではない。
「愛想、つかされちゃった、のかな……」
トド松が目に涙を浮かべる。
大きな目がウルウルと光るが、それを拭う手はない。
誰も彼もが彼と同じことを思い、同じだけの痛みを抱えていた。
完全な円を描いていた世界が欠ける音を聞いたような気さえする心持だ。
「探さないと」
おそ松が立ち上がる。
「隅々まで。絶対に見つけてやる。
離れるなんて許さない。オレ達は六つ子なんだから」
続くようにして四人の足も動き出し、ぞろぞろと玄関へと進んでいく。無言の行進は不気味な様相をかもし出す。
「すみません」
おどろおどろしい雰囲気の中に見知らぬ声が割り込む。
それは玄関の外から聞こえてきた。
五人は顔を見合わせ、声の主に覚えがないことを確認する。兄弟とはいえ、互いの交友関係についてまで完全に把握しているわけではない。誰かの知り合い、という線だってありえる話だ。
しかし、結果は全員が知らぬ声、と目で伝え合うに終わった。
「どちら様ですか?」
もしかするとカラ松の知り合いか、と期待をこめ、おそ松が玄関扉を開ける。
扉の向こう側にいたのは、やはり知らぬ男だった。スーツに身を包んだ男は、三百六十度どこから見てもまともな成人、といった風体だ。
男は玄関から出てきたおそ松を見て、軽く目を見開く。
その反応には覚えがあった。おそ松達を始めてみた人間は大抵、こういった反応を返してくる。近所の者達は松野家の悪ガキ兼産業廃棄物な六つ子のことをよくよく知っているので、この反応は久しく見ていない。
「え、っと……。
松野カラ松さん、のご兄弟……です、か?」
その言葉に五対の目が光る。
ビンゴだ。
「六つ子の兄、おそ松です。
弟の知り合いですか?
あいつ、まだ帰ってきてないんですけど、何処にいるか知りませんかねぇ?」
下手に出るような声色で、しかし、その瞳は対面している相手の底を洗いざらい引きずりだそうとしている猛獣のようだった。そんなおそ松に男は一瞬、怯んだようだが、すぐにハッとした顔つきに変わる。
「……帰って、ない?」
男の顔から血の気が引く。
血色のよかった肌が青白くなり、希薄な印象をかもしだす。
「い、いつからですか?
昨日は、昨日はちゃんと帰宅してるんですよね?」
縋るような言葉に、五人は眉をひそめる。
必死になりたいのは、縋りたいのはこちらだ。他人の懇願など見たくも聞きたくもない。
「昨日から帰ってないんですよ。
で、あんたはカラ松が何処にいるか知りませんか?」
おそ松の低い声が男を刺す。
声色や語尾をつくろうこともできぬ長男の声は実に恐ろしい。
「わかりません。すみません。
私はただ、今日、カラ松さんが、病院にこなかった、って聞いて……。
容態が悪化したんじゃないか、と思うと気が気じゃなくて、何なら、今からでも病院に、と思って」
気圧されつつも必死に発した男の答えに、五人の顔が強張る。色は揃って青。
「びょ、ういん、って……何?」
「大した怪我じゃないんじゃないの?」
十四松とトド松が搾り出すような声で呟く。彼らの指先は震え、目の前に立ちはだかる現実から逃げようとしている様子が垣間見える。
すぐ隣にいたチョロ松がそっと二人の肩を抱くが、震えが止まることはない。三男として弟達を支えようとしているが、チョロ松もまた、唇を噛み締めていなければ震えだしてしまいそうだった。
「あ……。じ、実は、ですね……」
男はポツリポツリと事の顛末を話し始めた。
とはいえ、彼もカラ松の一日全てを知っているわけではない。車と軽く接触したこと、大怪我をしたこと、今日も病院へ行く予定だったこと。
知っていることといえばこの程度。
カラ松の行き先が判明するようなことは何もない。
だが、何一つ知らなかった五人からしてみれば、あまりにも大きすぎる情報だ。
「――じゃあ、アイツ、今」
最後に見た姿は、火あぶりにされてコチラを見上げているものだった。
涙さえ浮かべて、嬉しそうに五人の兄弟をその瞳に映していた。
「ボロボロ、で」
物を投げ落とした後、どうなったかは見ていない。
チビ太がいいようにしてくれただろう、とばかり思っていた。
体が丈夫なカラ松とはいえ、怪我くらいはしただろう。母が言っていたように、包帯を巻かなければならないくらい。
無茶無謀無鉄砲傍若無人。そんな六つ子だったので、多少の怪我は慣れっこだった。頭は大げさに扱われる故に、包帯姿を口伝えで聞いても何とも思っていなかった。帰ってこない、という事実と、怪我をしている、という事実が上手く重なることはなかった。
だが、これでは話が違う。違いすぎる。
全治に二、三ヶ月かかるなど聞いていない。
そんなボロボロの体で行方不明になるだなんて聞いていない。
「……わかりました。
アイツが帰ってきたらまた連絡します。
今日はわざわざありがとうございました」
冷えた空気の中、淡々と言ったのはおそ松だった。
表情を落とし、男に帰宅を促す。
「でも……」
「あんたがいたところで、どうにもなんねぇだろ」
ギチ、とおそ松の口内から音がした。
腹の底から煮えたぎるのは怒りだ。
今になるまで事の重大性に気づかなかった己への怒り。カラ松を車で轢いたらしい男への怒り。そして何より、勝手に消えてしまったカラ松への怒り。
色形の違う感情の高ぶりは隠し切れず、外へ漏れ出す。
真正面からそれを受けた男はか細く情けない声を上げつつ後ずさる。彼の罪はその怒気を一身に受けなければならないような大きさではなかったはずだ。
「帰れ」
「は、はいいいい!」
静かな一声がまるで火薬のようにさえ思えた。
男はすぐさま飛び上がり、車に乗り込んで去っていく。発車後のスピードは、明らかに制限速度を越えていたように思えるが、そんなことは蟻の一生くらいどうでもいいことだった。男が誰かを轢き殺そうが、電柱にぶつかってそのまま死のうが、瑣末すぎること。
おそ松は視線を少しもずらさないまま、口だけを動かす。
「チョロ松。母さんに今の話をしてきてくれ。ついでに警察に連絡。
トド松はこの辺りの病院に片っ端から電話。また何かに巻き込まれて入院してんのかもしんねぇからな」
社会不適合者とはいえ、六つ子はそろいも揃って成人済み。ほんの数日、家を空けた程度で警察に連絡がいくはずもない。こんなことならば、今朝の時点で捜索願の一つでも出しておくべきだった、というのは過ぎ去ったからこそ出てくる後悔だ。
「オレと一松と十四松はもう一度、辺りを捜索だ。
見つけたら即時連絡。いいな?」
一人欠けて四人になった兄弟を振り返ったおそ松の目は暗い色で染まっている。
底抜けの明るさと阿呆さを消し去ったその色は、彼が如何に本気で口を開いているのか、ということを証明していた。もっとも、兄弟全員、長兄の本気を疑ってなどいない。
何故なら、六つ子は六人で一人。
長兄の考えていることは、そのままイコールで四人の兄弟に伝わる。
全員が頷いたのを目で確認し、おそ松は駆け出す。背後からバタバタと音が聞こえてくるのは、後に続いた二人と、待機となった二人が行動を始めたからだ。
「……ったく、あの馬鹿、何処に行きやがった」
舌打ちを一つ。
大まかに思い当たる場所は昼間のうちに探しつくした。頭で考えて導き出せるような場所へ足を向ける意味はもう殆どない。そう思いながらも、おそ松の足はある一点を目指す。
もしも、カラ松が事件に巻き込まれただとか、入院しているだとか、不可抗力的なものがないのであれば、姿がないのはカラ松の意思のはずだ。隠れようとしている人間を探すのは難しい。五対の目では足りない。耳が必要だ。
「チビ太!」
いつもの川原、ぼんやりと明かりを灯した屋台に飛びつく。
長椅子にはビール腹のおっさんが眠っているだけで、他に客はいない。カラ松の姿も見当たらない。
「んだぁ? バーロ、テメェ、今日という今日はぜーってぇに飲ませねぇし食わせねぇからな!」
「そんなことはどーでもいいんだよ!」
荒れた息を整えることもせず、おそ松はテーブルを叩く。
屋台全体がかすかに揺れ、先客のコップと皿が音を立てたが、起きる気配はまるでない。この様子では隣でおそ松がどれだけ大声をあげたとしても、夢の世界から帰ってくることはないだろう。
「カラ松! 知らないか?」
「はあ?」
怪訝な顔をしたチビ太だが、おそ松の顔を見て何かを察したのか、なみなみと水の入ったコップを差し出してきた。
おそ松はそれを奪うようにして受け取ると、息をする間もなく飲み干す。家からここまで全力で走り続けてきたため、喉はカラカラだったし、足は盛大に爆笑してくれている。
「で、カラ松がどーしたんでい」
「いなくなった」
眉間に深くしわを寄せ、呻くようにして吐き出される言葉。
こういう顔が見たかったんだよなぁ、とチビ太は胸中で呟く。
あの誘拐事件の際に、今しているような顔をしてみせてくれていたならば、次男を火あぶりにしなくてもすんだのだ。
「愛想つかされたんじゃねぇのか。
あんな仕打ちしたんだ。当然っちゃ当然のことだろ」
梨以下、睡眠以下。
火あぶりにされているところを見ても助けはこず、与えられたのは追い討ちだけ。
血の繋がった兄弟とはいえ、やりすぎだったことは明白だ。
「愛想つかすぅ?
チビ太、お前って本当、わかってねーよなぁ」
おそ松の口角が上がる。
下種な笑みだ。
「あんなことで愛想つかすような奴じゃねぇんだよ」
無視しても、理不尽な暴力を与えても、軽く扱っても。
カラ松はいつだって六つ子の次男だった。
「アイツは、何処までも真っ直ぐで、裏表がなくて、馬鹿で、優しくて、んでもって、兄弟が大好きな奴なんだ」
傷つきはしただろう。悲しみはしただろう。
しかし、五人で出迎えてやって、構ってやって、一緒に眠る。それだけで傷は癒えたはずだった。足りないというのならば、思いっきり甘やかしてだってしてやれた。
帰ってこない、逃げる、捨てる。
そんな選択肢は在りはしないはずなのだ。
「オレ達には常に五人の敵がいる。
この意味、わかるぅ?」
チビ太は顔を歪める。
敵は敵でしかない。己を害するモノ。追い出さなければならないモノ。
幼い頃、憧れた六人兄弟。いつだって、何をするにだって一緒だったあの兄弟は、とても憎くて、とても嫌いで、それでいて、ほんの少しだけ、好きだった。
一人っ子の夢だと笑えばいい。兄弟に憧れ、欲する気持ちを。。
「……足りないんだよねぇ」
「は?」
下種な笑みを引っ込めたおそ松はコップに視線を落とし、ポツリ、と零す。
「兄弟、じゃあ足りない。
世の中、互いに無関心な兄弟なんて山ほどいるよ?
血の繋がりなんて案外脆い。それじゃあ、オレ達は満足できないわけよ」
ただの「兄弟」という関係性では六つ子を正確に表すことはできない。
そこいらの「兄弟」とは一味も二味も違う。互いの首に縄でも首輪でも鎖でも引っ掛けて掴みあっていなければ安心できない。そんな澱んだ関係性。
「死ぬまで追い掛け回して、邪魔しまくるような奴のことをさ、世間では「敵」って言うんでしょ?」
「……はぁ」
鈍く光る瞳にチビ太はため息を落とす。
昔から品行方正な連中ではなかったが、この歳になっていよいよ狂気染みたモンスターへと成長しきってしまったらしい。
「歪んでるよ、お前」
「どーも。
んで、そんな歪んだオレは同じく歪みまくって拗れまくってる次男を捕まえたいわけなんだけど」
成長と共に個性が育ち、見分けも区別も比較的つきやすくなった六つ子ではあるが、根本は変わらない。おそ松が歪んでいるのならば、兄弟達もまた、同じように歪んでいる。
少なくとも長男はそれを信じてやまない。
「オイラは本当に知らねぇぞ。
お前らん家の前に置いてったきり見てねぇ」
「え、お前あの時、カラ松を連れて帰ってねーの?」
「もう関わりたくなかったんでな」
「この薄情者め……」
「テメェにだけは言われたくねいやい、バーローチクショウ」
おそ松の眉がやや中心に寄る。
あの時、外にカラ松がいたと知っていたならば回収していた。いくら何でも怪我をしている兄弟を寒空の下、放置する趣味はない。雑な手当てでもして、カラ松の泣き声を聞いてやったものを。
一松と十四松がデカパン博士のもとへ行くときにはいなかったのだから、何処かの誰かが病院へ連れて行ってくれた後だった、ということか。それとも目を覚ましたカラ松が自力で病院へ行ったか。
どちらにせよ、一人ぼっちで放置された、という事実は消えない。
あれで寂しがり屋な次男のことだ。堪えたことだろう。
「じゃあ、もし見かけたらすぐに教えてくれよ」
真剣な瞳がチビ太を射抜く。
「……わかった。
ついでに、客にも聞いといてやるよ」
「ありがと。恩にきる」
「恩の前にツケを払いやがれ、バーロー」
重みも何もなく発せられた言葉をおそ松は無視して走り出す。
今回の件で最も関わりの深かった知人のもとにカラ松はいなかった。ならば次だ。六つ子共通の数少ない友人知人。全員にカラ松の行方を聞き、協力してもらわなければならない。
貸しを押し付けるのならばともかく、借りを作るのは喜ばしくない出来事なのだが仕方が無い。それもこれも全てあの次男が悪いのだ。
夜遅くに人様の家のインターフォンを連打するのも、全て次男が悪い。
「イーヤーミー!
イーヤーミーくーん!」
片手でインターフォンを、もう片手で建てつけが悪くなりつつある引き戸を叩く。いっそのこと、力のままに玄関扉をぶち壊すこともやぶさかではない、という勢いだ。
そのことを相手も察したのだろう。数秒と経たぬうちに家の中からドタバタと音が聞こえてくる。それでもおそ松の手が休むことはなかったけれど。
「今、何時だと思ってるザンス!」
勢いよく扉が開け放たれると、そこには昔なじみの出っ歯がある。
眉を吊り上げて怒声を上げるが、おそ松にとっては長い付き合いの声と姿。今更、驚いたり怯えたりするはずもない。
「カラ松知んない?」
平素のおちゃらけも、煽るような色も全て捨て、真摯に尋ねる。
イヤミとて伊達に幼少期から今に至るまでの六つ子を見てきたわけではない。個々の見分けこそつかぬものの、真剣か否かくらいは判断がつく。
あの悪戯大好き。自分大好き。働くの嫌い、なクズが真面目に兄弟の行方を聞く、ということの意味がわからぬはずもない。
「……思ったよりも早かったザンスね」
「知ってんのか!」
思わずおそ松はイヤミの胸倉を掴み上げた。
攻撃の意思はないものの、小さく見えた情報の欠片を逃すつもりは毛頭ない。万が一、イヤミが黙秘を掲げるのであれば、このまま暴力に移行していく所存だ。
「どこに行ったかまでは知らないザンス。
ただ、ミーから五千円巻き上げてどっかに行っちゃったザンスよ」
悲鳴を上げることも、おそ松の行動に文句をつけることもなく、イヤミは淡々と言葉を落とし込む。人としてクズであることにかけては、六つ子と良い勝負をする彼だからこそ、相手を傷つける言い方をよく知っていたのだ。
悪知恵や悪徳では負けることも多々あるけれど、今回に関しては勝ちを掴むことができたらしい。相手をよく知り、適切な言葉を選ぶことに関しては、年の功が働いたということか。
おそ松は五千円、と呟きながらイヤミの胸倉から手を離す。
彼の瞳は呆然としており、指先にも力が全く入っていないのが見てとれた。
「兄弟喧嘩ザンスか」
おそ松の肩が震える。
男兄弟が六人。小さな家の中で暮らしているのだ。喧嘩をしないわけがない。小学生時代の六つ子はそれこそ週三ペースで大規模な兄弟喧嘩を巻き起こしていたものだ。
成長し、ニートとはいえ一応成人を向かえ、そこまでの喧嘩は見かけなくなっていたが、仲良しこよしな兄弟になったわけではない。大きな喧嘩もするだろう。
ただ、幼い頃とは違い、彼らには様々なものを持つようになってしまった。
遠くへ逃げる手段であったり、そうする知恵であったり、一人で生きるための心であったり。
「……な、何で、すぐオレ達に言わないんだよ!」
うつむき、声を震わせながらおそ松は言う。
もしかすると、泣いているのかもしれない。
「あいつ、様子とか、変だったんじゃないのかよ」
イヤミは目の前にいるガキんちょに悟られぬよう、こっそりとため息をついた。
頭の中身が小学生時代で止まっている男は、今も昔もわがままし放題だ。そして、そんなガキをいつまで経ってもついつい甘やかしてしまう大人の一人が自分だった。
「口止めされてたザンス。
よっぽど知られたくなかったんザンしょ」
「なっ……!」
上げられた顔についた二つの目には、薄っすらと水の膜が張っている。傍らに弟がいたならば決して見せなかったであろう表情だ。
「まあ? チミ達に隠し事をして面倒事に巻き込まれるのはごめんザンス。
好き好んで告げ口する気はまーったくなかったザンスけど、聞かれれば答えようと思っていたザンス」
実のところ、いつかはおそ松か、その弟達かがやってくるだろうとは思っていた。六つ子に共通する知り合いはそう多くない。だが、その「いつか」は、一週間程度先になるだろうと予想していた。
兄弟仲が悪いわけではないけれど、松野家の兄弟事情は一般家庭からすると非常にシビアだ。
常に弱肉強食。足の引っ張り合い。監視のし合い。
多少、誰かが傷ついたところで、慰めの手が伸ばされることはない。自ら這い上がる力が必要とされる。また、そう在れるよう、幼い頃から苦難も苦渋もたっぷり味わってきているはずだ。
六つ子は全員がそれを知っている。故に、限界を見極めきれない。
騒がしい六人から一人が消えたところで、すぐさま焦燥感に変わることはなく、じわじわと迫ってくる焦りに燃やされ、周囲が火の海になってようやくその異常性に気づく。
そういう連中なのだ。消えたカラ松を含め。
「くっそ……。っざけんなよ。
弟のことは逐一オレに報告してこいっつーの」
「いい歳こいて何言ってるザンス。
大切なモノならしっかり掴んでおくザンスよ」
「わかってるっつーの」
溢れかけた涙を拭ったおそ松の目は、「長男」としてのそれに戻っていた。
真っ直ぐ前だけを見つめ、弟達を引っ張るための強さ。執着を腹の底に沈めきった色は、彼が生まれてこのかた何に依存してきたのかを如実に表している。
「――ところでさぁ」
力なくしなだれていた手がイヤミの肩に乗る。
「カラ松、怪我してたらしいんだけど、どうだった?」
弟の体を心配するような台詞。
しかし、声に乗せられた雰囲気は心配だけではない。ほの暗い怒りの感情が重ねられた音に、イヤミの体が強張る。
「あー。そう、ザンスねぇ、松葉杖ついて、包帯ぐるぐる巻きだったザンス」
嘘は言っていない。イヤミが最後に見たカラ松は、見るからに重傷、といった風体だった。そこに一匙、含まれるはずの真実に口をつぐんだだけ。
おそ松はにこりと笑う。
「オレ、長男だからさぁ」
互いを呼び捨て、上も下も無かった六つ子が兄弟としてのくくりにこだわり始めたのはいつからだったか。イヤミの脳は遠くに思える過去へ思いを馳せる。あの時代もこの時代も、いつだって六つ子はイヤミの敵であり、ちょっと困ったところのある小憎たらしいお子様達だ。
「わっかんだよねー。あいつがわけもなくカツアゲなんてしないって、さ」
理由があるんだろ? と、暗に告げられる。
肩にかかった手に力が入り、骨がわずかに軋み出す。
生まれてこの方、碌に負けたことのない男。それが松野おそ松だ。
技術面やパワー面だけではない。容赦のなさ、手数の多さ、意地悪さ。それら全てを兼ね備え、自身の目的のためにこね回す。大人になってその悪辣は増すばかりだった。
「……誠心誠意、お手伝いさせてもらうザンス」
「ありがと」
邪悪な笑みを浮かべたおそ松はイヤミから離れる。
選択肢など始めから存在していない。万が一にでも、イヤミがカラ松捜索の手伝いを拒否すれば、待っているのは五人からの制裁だ。何が起こるかなど考えたくも無い。それこそ、想像を絶する恐怖と苦痛が待っているに違いない。
大人になんぞなるものではない。イヤミは強く思った。
*
一ヶ月。
カラ松が消えた日からそれだけの月日が経った。
募る焦燥とは裏腹に、欲する情報は全くといっていいほど集まらない。イヤミの怪しい人脈を駆使しても発見できず、チビ太による地元密着型聞き込みもとんと成果が見えない有様だ。
それでも、最初の一週間はまだよかった。おそ松達にもわずかながら余裕があり、ギリギリの所で心を保っていられた。どうせ、一週間もすれば帰ってくる、という希望が彼らの心にはあったのだ。
「意外と、ひょっこり帰ってきたりするよ。ね? そうだよね?」
カラカラ頭のカラ松は基本的に怒りを長引かせない。一度、ドカンと怒って、それで終わりだ。誘拐事件に対し、思うところがあって出て行ったとしても、時間を置けば頭を空っぽにして帰ってくるさ。でも、酷い怪我だと聞いているから、何かが起こる前に回収してしまおう。他人に対してであれば、こんな言い訳だって口にできたのだ。
「案外、帰りのことを考えずに金使って、泣いて電話してくるかもな」
「せっかくボクらが甲斐甲斐しく面倒見る準備してるのにね」
だが、二週間が経ち、三週間が経てば、誰もそのような言葉を発しなくなる。
帰ってこない。たかだか五千円。何処まで行ったのか知らないが、交通費を引いてしまえばさして残らないはず。話に聞くような怪我を負っていれば碌に働くことすらできないだろう。ニートである彼に貯金なんぞあるはずもなく、日々の生活に必要な微々たる金銭を今に至るまで所持しているとは思えなかった。
それでも情報は何も無い。
警察に届けを出しているので、無銭飲食でもして捕まればすぐに家族へ連絡がくるはずだ。最悪、カラ松が野垂れ死んでしまっていた、としても、家の黒電話が鳴り響くことになるのだけれども。
「……ただいま」
兄弟はそれぞれ、昼間はカラ松を探すことに尽力を注いだ。
町中を歩き回り、人に話しを聞き、電子機器を駆使した。けれども、カラ松の姿形を見つけることは叶わない。夕飯時に家へ帰る足取りは重くなるばかりで、帰宅の言葉を口にしても対応する言葉が返ってくることはない。
元気だけが取りえ、とさえいえた五人の痛ましい様子に松代は心を痛め、昔と変わらぬ美味しい夕飯を作る。暖かな食事をしている瞬間だけでも彼らの表情が穏やかなものになるように、との願いをこめて。
しかし、願いは所詮、願いでしかない。
体の一部をもぎ取られたかのような苦しみを常に味わっている彼らの身に食欲が残っているはずもなく、愛情のこもった食事は数口で喉を通らなくなる。
たった一人、食卓の場に足りないだけ。
平常時であれば、帰宅されていないことに気づかなかった、とばかりに次男の分も平らげてしまっていただろうに、この惨状だ。当然、残された五人の顔はやつれ、頬が削げ落ちている。
目はどこかどんよりと曇っており、違い次元でも見ているかのように感じられた。濁った五対の目はゆらり、ゆらりと左右を彷徨ってはカラ松が座るはずだった場所を見つめ、また視線を彷徨わせる。その繰り返しだ。
成果がなかった、今日も何もわからなかった。始めはしていた無意味な報告も、今ではすっかり省略されている。沈黙が答え、とばかりの松野家に会話というものはほぼ存在ていない。
「…………」
今日も今日とて、夕飯を大量に残したおそ松は無言で席を立つ。そのまま誰に声をかけられることもなく玄関まで行き、外へ出た。ふらふらと足を進めながら、携帯電話を取り出し短縮ダイヤルで発信する。
家の中ではかけられない。かといって、夕飯前に連絡しては早すぎる。コール音の向こう側にいる人物には、今日一日の成果を聞くのだ。少なくとも夜の十時を回ってから電話をかけてこい、と言われたのは何日目のことだっただろうか。
「――もしもし?」
電子に変換された声を聞き、おそ松は胸の奥から声を絞り出す。
「どうだった? イヤミ」
「どうもこうも、さーっぱりザンス。
チミの弟はどんなルートをたどって行ったんだか」
おそらくは、肩をすくめながら言っているのだろう。辟易とした様子が声から察せられる。
知らぬ仲ではない人間が一人行方不明になっているというのに、この調子が崩されたことはない。散々、他人様からクズだゲスだと言われてきた六つ子、その長男であるおそ松だが、やはり腐れ縁のイヤミも大概なものだ、と再認識するばかりだ。
「……なぁ、お前は、どう、思うよ」
「何がザンス?」
「あいつ、し、死んで、たり」
涙が零れた。
周囲に人影はない。弟達の姿もない。
「どっかに、売り飛ばされた、とか」
こんな弱々しい姿の兄など、到底、弟達には見せられない。イヤミにだって面と向かっては見せられない。電話越しに、自分よりも一回り以上年上の彼がいるからこそ、不安や涙を零せるのだ。
ここ最近は不安ばかりだ。嫌な予感が頭をよぎるばかりで、大団円が想像できなくなりつつある。
夢もみない日々が続いているというのに、脳はやけにリアルな絶望を叩きつけてくる。ある時は死体となったカラ松を、ある時は臓物を抜かれたカラ松を、ある時は海外へ売り飛ばされたカラ松を、想像する。
不安が溢れる。おそ松の体から零れる。
「ミーはチミ専属のカウンセラーじゃないザンスよ」
ため息と共に、呆れたような声が返ってきた。
連日、おそ松の震える声を聞かされており、流石に飽き飽きしてきた、といったところだ。
おそ松は無言で涙を拭う。
「少なくとも、売られただとか捌かれたとかだったらミーにも情報が入ってくるザンス。
生死に関しては、ミーよりもチミのほうがよくわかるザンショ? 六つ子ちゃん」
小学生時代、まだ個性がなかった時代。おそ松達は一つだった。
感情も、生死も、痛みも、全て共有していた。あの万能感は失われてしまったが、今でも薄っすらと感じるときがある。
「……わかってる」
その六つ子としての直感が、まだカラ松は息をしている、と教えてくれる。
けれど、それだけでは足りない。心が揺らぐ。第三者からの肯定が欲しくて、おそ松は小さく弱音を吐くのだ。
「明日は何か見つけておけよな!」
「人使いが荒いザンスよ」
それだけ聞き届けると、おそ松は通話を切る。
「もうちょっとぶらっとして帰るか」
夜空に呟き、駅方面へと歩いて行く。会社帰りの人々にカラ松について尋ねるのが日課となりつつある。人の群れの中には、まだ見つからないのかい? 等と優しい言葉をかけてくれるおじさんまでいる。
結局、おそ松が帰宅したのは、家を出てから二時間が経った後のことだった。
無い情報に心の靄を抱えながら、さらにひと月。世間は五人になってしまった六つ子にすっかり慣れてしまったようだった。その様子を、言葉を、目を見る度、五人は奈落よりも黒く深い眼孔を向ける。
誰が何と言おうとも、彼らは六つ子。六人で一人。
欠けることは許さない。そう認識されることも許さない。
「……今日は、ここ」
毎朝、五人は地図を開く。
自分達の住まう地域の周辺は探しつくした。情報も掘りつくした。ならば、行動範囲を広げなければならない。少しずつ、家から遠くへ、円を書くようにして聞き込み範囲を広げていく。
当初はバラバラに探していたが、今では五人一組となって行動している。その方が、見る者へ強烈なインパクトを残すことができ、結果的に情報が入手しやすくなるのではないか、という考えだ。
そんな理由の裏側には、これ以上、誰かが自分の目の届く範囲から消えてほしくない、という恐怖が存在しているのだが、誰一人としてそのことを口にはしない。ただただ無言で、互いに強固過ぎる首輪と鎖を繋げるだけ。
「この顔に覚えはありませんか?
二ヶ月ほど前から行方がわからないんです」
チョロ松が作ったチラシには、青いパーカーを身につけたカラ松の写真が載せられている。細かな体格も記載されてはいるが、本当のところ、そんなものは必要ない。チラシを渡してきた男と同じ男を捜せばいいだけなのだ。
道行く人々は同じ顔が五つ、これまた同じ顔を捜していることに興味を引かれたり、薄気味悪がったり、同情したり、と様々だ。
「見つかるといいですね」
「……えぇ」
優しい言葉に、どんよりとした言葉を返す。
無意味な音よりも、有意義な情報が欲しかった。もっと言えば、たった一人が帰ってきさえすれば、それで良かった。
乾いた心でチラシを配っていたおそ松は、不意にその手を止める。
じわり、と何かが滲むのを感じた。
「――――あ」
理由はない、理屈もない。だが、おそ松はそこへ目を向けた。そして、次の瞬間には、手にしていたチラシを全てその場にばら撒き、駆けだしていた。
空いた右手を伸ばす。人にぶつかりながら、それでも前へ前へと足を動かす。
「カラ松!」
おそ松の手は、痛い革ジャンの袖だけを掴んだ。
中身は、ない。
「……?」
掴んだ感触におそ松が息を呑んでいると、革ジャンを着た男がゆっくりと振り返る。するり、とおそ松の手から革ジャンの袖が引き抜かれた。
おそ松と向き合った男の顔には、真っ黒なサングラスと、下半分を覆いつくさんばかりのマスクがある。一見すれば顔の判別などできない不審者だ。
しかし、おそ松にはわかった。目の前にいる不審者こそ、探し求めていた次男である、ということが。
身長も体格も殆ど同じ。髪の長さだって同じだ。やや、髪型に違いは出ていたけれども。
「おそ松兄さん、どうした――え、カラ松?」
「カラ松兄さん!」
「やった! 兄さん!」
「……どこ行ってたの」
おそ松の奇行に驚いていた四人も、カラ松の姿を認識すると次々に喜びの声をあげた。だが、それもつかの間のこと。一拍置いた後にやってきた沈黙と、頭上に浮かべられた疑問符に彼らは言葉をつぐむ。
小さく首を傾げる様子は、五人が誰かわかっていないからこそ出てくる疑問をそのままに現していた。
私とよく似た顔をしたあなた方は誰でしょうか。
そんな声が聞こえた気がした。
さらに四人を戦慄させたのは、先ほどおそ松が掴んだ革ジャンの袖だ。左腕があるべきそこは、人の流れによってできた風でゆらゆら揺れている。中身があるとは到底思えない。
腕、一本、失われていることを静かに主張していた。
「えっ……。ま、って」
「何、何が起こってるの?」
弟達の青い顔にもカラ松は疑問符を向けるばかりで、声一つかけてきやしない。
ほんの二ヶ月前であれば、すぐさま弟を抱きしめ、痛々しい言葉で励まそうと躍起になっていたはずだ。それが、今では失われている。
「カラ松、お前、どうしちゃったんだよ?」
せめて、目が見たい。
おそ松はサングラスに手を伸ばす。
目を見て話せば、何かがわかると思った。今までも、弟達の目を見ることで、多くを知ってきたのだから。
「おや、これは……どうしましょうか」
伸ばされた手は、あっけなく落ちる。
カラ松の背後から現れた男の手によって阻まれたのだ。
「……誰」
一松が低く唸り、警戒する。
男は今まで六つ子が見たことのないタイプの顔をしていた。パリッとノリの利いたスーツに身を包んだ彼は、そろそろおじさん、と呼べる年齢に見える。パーツの一つ一つがはっきりとした顔立ちで、オールバックにされた黒髪からはワイルドさが垣間見える。身に着けている物は一つ一つシンプルであるものの高級な臭いを感じさせていた。
「私の名前なんて、どうだっていいことでしょう。
それよりも、あなた方は、松野家の方で間違いはないかな?」
軽く口角を上げ、目を細める笑い方はとても爽やかなものだ。
「そうですけど」
応えるチョロ松の声は刺々しく、彼もまた、身の内から警戒心を噴出させているのがわかる。
「えっと、そう。
おそ松君、チョロ松君、一松君、十四松君、トド松君……だよね?
ご兄弟から話は聞いてるよ」
感じの良い口から吐き出される言葉は、どれもこれも五人の耳にネバネバとこびりついて不快感しか生み出さない。名を呼ばれたことで数人が腰を低くして戦闘態勢を取り、ご兄弟、という言葉で五人全員から殺気が溢れる。
「知り合い?」
重く暗い空間で、ようやくカラ松が口を開く。
懐かしい声だ。二ヶ月前と寸分も変わらない。
だが、その音で紡がれる言葉の何と残酷なことか。
「直接会うのは初めてだけどね」
「でも、ボクと顔がそっくりだから、初対面な気がしないね」
初対面。その言葉に五人の顔が青ざめる。
予想はしていた。だが、現実を叩きつけられれば、痛みは確固たる力を持って五人の体を内側から引き裂き始めるのだ。
「テメェ! カラ松に何しやがった!」
怒声一つ。跳躍一つ。
殆ど同時に動作を行い、おそ松は男の胸倉を掴みあげる。
イヤミと会ったとき、カラ松はカラ松であったはずだ。ならば、今のカラ松がおかしいのは、その後に出会った者の仕業に違いない。即ち、目の前にいる男のせいだ。
「っと……」
男は軽くたたらを踏むが、対して驚いた様子は見せない。
「おじさんに何するんだ!」
おそ松の服の裾をカラ松が引っ張る。
表情は読めないが、声色から怒っていることがわかってしまう。
今、カラ松は男に敵意を向けたおそ松に対して、怒りを覚えているのだ。
「な、おま……くそ……」
どうして、と問いたかった。しかし、納得できる答えが返ってくることはないと知っている。おそ松は顔を歪め、うつむくことしかできない。
「キミは「おそ松兄さん」かな?
兄弟一、喧嘩が強くて、意外と弟のことをちゃんと見ててくれる。色は赤」
胸倉を掴み上げられた状態のまま、それでも男は笑っていた。
「話があるんだ。渡したいモノも。
だから、ちょっとボクの家までついてきてもらえるかい?」
そう言って男が親指で指し示した場所には、総勢七人が乗っても余裕がありそうな高級車だった。
ピカピカに磨かれ、運転手が扉の横で待つ様子は、昨今の漫画でも中々見ない構図だろう。三百六十度、どこから見ても金持ちを示している。
「……わかった」
五人を代表し、おそ松が頷く。同時に、手を離し、男を自由にした。
カラ松は慌てて男に近づき、大丈夫か、と問いかける。それを見て面白くない思いをするのは彼と実の兄弟であるはずの五人だ。心優しい次男が心配すべきなのは、見知らぬ他人ではない。弟である四人や、唯一の兄であるべきなのだ。
「おそ松兄さん」
トド松は不安げに長男の名を呼ぶ。
見知らぬ人間。それも、カラ松の中身を挿げ替えてしまったような男についていくことに多少なりとも恐怖があるのだろう。
「大丈夫。いざとなったらオレが守ってやる。
今はアイツについてって、カラ松に何してくれちゃったのか聞かねーと、腹の虫が治まんないんだよねぇ」
お前もだろ、と問われ、トド松は迷いを見せつつも頷いた。
恐怖はある。しかし、腹の奥から煮えたぎるモノも、確かに存在していたのだ。
「さあ、乗ってください。
遠慮はいりません」
男が車に乗り込み、その次にカラ松が乗る。彼は当然のように男の隣へと腰掛けていた。
五人は無言で車の中へ足を踏み入れ、男とカラ松の向かい側へそろって座る。一対五の睨みあいをしていると、車が静かに動き出す。振動を感じさせないのも高級車が高級である理由の一つなのかもしれない。
「そうだ、空、あちらの五人に自己紹介をしてあげなさい」
慈愛のこもった声で、目で、男はカラ松を見ていた。その口から発せられた名前だけが、奇妙な違和感を孕んで。
「え、あ、はい。
っと……、空です、始めまして。
おじさんの家に住んでます。
それで、えっと……?」
自身を空、と称したカラ松は男を見る。自分の言葉に誤りがなかったかを問いかけるような目線だ。
「問題ないよ。空にはそれだけあれば充分だからね」
男はカラ松の頭を優しく撫で、自然な流れで彼の顔からサングラスとマスクを外す。隠す物が何もなくなった顔は、やはり二十余年を共に過ごしてきた顔だ。強いて違うところを上げるならば、キリっと上がっていた眉が、まるでおそ松やチョロ松のように垂れ下がっていることくらいだろう。
「この子は色々あってうちに住んでる子なんだ。
とてもイイコでね。私の言いつけをきちんと守っている」
調教か、洗脳か。どちらでもいい。その結果として出来上がったモノは目の前にある次男の姿でしかないのだ。
「あぁ、話は変わるが、キミ達のご兄弟には色々話しを聞かせてもらったよ」
ケッ、と舌打ちをしたのは、存外短気なチョロ松だ。への字の口をさらに歪め、すっかり犯罪者面をしている。嫌悪に細められた目には、どの口が物を言う、と刻まれている。
「兄弟喧嘩もいいが、怪我をさせてはいけないよ。
腕一本ないだけでも大変だからね」
男はカラ松が着ているジャケットの左腕部分を手に取る。肉のないその部分は不気味に垂れ下がるばかり。二ヶ月前であれば、筋肉のついた腕の形が見えたはずだ。
「――っく」
目を逸らしたのは一松だった。
普段は辛辣な態度と言葉を向けていたとしても、実の兄から片腕が無くなったという事実は笑えない。むしろ、彼は依存と言ってもいいほど兄弟に寄りかかっている人間だ。暴力とてその一環でしかない。
それが、体を預けていた相手が、知らぬ間に四肢の一つを失っていた、など、耐えられるはずもない。せめて連れ帰るまでは我慢しよう、と思っていたのだが、目の前で欠けた体を愛おしそうに見つめる男に、何かを見せ付けられているようで、表面張力ギリギリまで張り詰めていた心は他愛もなく決壊した。
ボロ、と涙が零れる。
生きていたことは嬉しい。だが、体も心も欠いてしまった姿は、あまりにも痛々しい。
「一松兄さん……」
静かに涙を流し続ける兄の姿に、トド松もつられて涙を流す。
心の弱い兄を助けなければ、とは思うのだけれど、そのための言葉が出てこない。頭の中にある言葉は、どうして、だとか、ごめんなさい、だとかいうものでしかないのだ。
「あ……」
涙を流す二人に、その間で膝に置いた手を力強く握り締めている五男に、カラ松は手を伸ばす。
「――空」
「っ!」
あまりにも冷たい、温度のない声に、カラ松は肩を揺らす。伸ばしかけた手はあっけなく彼の膝の上へ収まる。その手がかすかに震えていたのは、見間違いではないだろう。
「ご、めん、なさい」
「何に対して謝っているんだい?」
「勝手に話しかけようとしました。
触ろうとしました。ごめんなさい、ごめんなさい」
震えは手だけでは収まらなくなり、カラ松は全身を震わせる。本能的に体を丸めようとしている様子が見えたが、理性がそれを押さえ込んでいるらしく、彼の背筋は伸びたままで、視線は男に向けられていた。
「うん。今日は許してあげようかな。
素直に謝れたしね」
「本当?」
「勿論さ。でも、覚えておきなさい。私がそうしなさい、と言うまでは話しかけてはいけないよ。
世の中、どんな悪党がいるのかわからないのだから。触るのも同じこと」
「はい」
男の手が優しくカラ松の髪を梳く。
カラ松は嬉しそうに笑うが、その光景を見せられた五人はたまったものではない。各々、様々な感情で顔を歪める。
不快感、嫌悪、悲しみ、戸惑い、怒り。
それらの中に含められた敵意だけが、五人に共通した感情だった。
「私の言うことを聞いていれば、何も怖くはない。
透明人間になることも、一人ぼっちになることも、ね」
「……一人は、駄目。
化け物が、くる、から」
カラ松の顔から表情が抜ける。体は震えていない。だが、掠れた声がカラ松の持つ恐怖を五人に伝えてくる。縋るように、しかし何の感情も映さず、男を見つめていた。
「そう。よく覚えていたね」
「忘れられない」
「じゃあ、イイコにしているんだよ」
まるで毒だ。
男はカラ松に毒を流し込んでいる。
逆らえぬように、一人になれぬように、体と脳に染みこませていっているのが丸見えだ。この場でそのことを理解していないのは、毒を打たれているカラ松だけだ。
「丁度いい時間ですね」
五つの敵意に気づいているだろうに、男は飄々と笑って見せる。今までに、幾多の修羅場を乗り越えてきた顔だ。それがまたおそ松h気に食わない。
やはり先ほど、一発殴っておくべきだった、と思うと同時に車の扉が開く。
「おかえりなさいませ」
男に雇われている執事なのだろう。丁寧な物腰でお辞儀をする。
「ただいま。用意はできてるかい?」
「応接間に準備しております」
「ありがとう」
男が先導し、カラ松が付き従い、その後を五人が並んで進む。
靴を脱がずに上がりこめる屋敷の絨毯はふかふかで、この家でならば廊下で寝ても風邪一つひくことはないだろう、と場違いな感想をおそ松達に抱かせた。
「実はね、キミ達の兄弟とは一つ、賭けをしていたんだ」
「賭け?」
長い廊下を歩きながら、まるで天気の話でもしているかのような気楽さで男は話す。
「そう。キミ達が兄弟を探しにくるか否か」
瞬間、ピアノ線で心臓を絞られるような痛みを四人は感じた。
あの誘拐事件の後のことだ。もしかすると、次男を探しもしない薄情な兄弟だと思われていたかもしれない。泣いて、呆れて、諦めて、そうして、自分達を置いていくことを決意してしまったのかもしれない。
二ヶ月前ならばすぐさま否定できたその可能性も、今となっては口をつぐみ、言葉を飲み込むことで明確な答えを避けるモノへと変貌している。
だが、おそ松だけはそうではなかった。
「じゃあ、カラ松の勝ちだな」
きっぱりと言う。
カラ松は、探してくれる方に賭けたはずだと。
「……ドローだった、と思っているよ」
「へぇ?」
珍しくも男は眉を顰め、それと対峙しているおそ松は口角を上げた。
弟達は長男の背中を見つめ、自身の心を鼓舞する。二ヶ月間、会うことの叶わなかった次男だけれども、その本質を誰よりもわかっているのは自分達なのだ。ならば、信じてやらねばなるまい。彼は兄弟を愛している、と。
「入りたまえ」
豪勢な扉をメイド達が開けると、中にはこれまた値段の張りそうなソファとテーブルが鎮座していた。
男に促されるまま五人はソファに座る。
「さて、空。もう眠る時間だよ」
「……はい」
心地よい低さの声で男が言うや否や、カラ松の瞼が下がり始める。兄弟達が矢継ぎ早に声をかけるが、彼の耳には届かない。彼らの言葉が二言目に突入するとほぼ同時にカラ松は柔らかなソファの上で寝息を立て始めた。
「寝かせてあげてくれないか。
もう三日も寝てないんだ」
「は? 三日ぁ?!」
おそ松が声を荒げ、立ち上がる。
ギャンブルが大好きな彼なので、徹夜で麻雀を打つことも少なくはない。しかし、それだって丸一日起きていればいいほうで、次の日は太陽が沈むまで昏々と眠り続けるのが常だった。ニートであるが故に、彼らは好きなだけ睡眠をとることができたし、神経質なチョロ松を除けば睡眠不足になる者はいないに等しい。
そんな生活を送っていたカラ松が三日も不眠でいられるはずがなかった。
「彼はとてもイイコだからね。
私が許可を出さない限り、眠ることも食べることもしないよ。起きるのにさえ、私の合図が必要だ。
流石に排泄の自由は与えているけど、その辺りもこれからの調整次第だと思ってる」
「テンメェ……」
おそ松の歯が凶悪な音を出す。
彼も大概クズであるが、目の前にいる男はそれ以下のクズ。外道だ。
赤の他人が被害者であるならばともかく、六つ子の一人をその歯牙にかけることだけは許されない。
「怖い顔をしないでくれ。
キミ達が遅いのが悪いのだから」
「……殺す」
一松が立ち上がり、テーブルに足をかける。最短距離で男に近づくつもりだ。
「落ち着きたまえ。
何も、私はキミ達と争うためにここへ招待したわけではないんだ」
男が手元のベルを鳴らすと、すぐさまメイドが数人現れる。彼女達の手には大きめのジュラルミンケース。
「賭けはドローだ。
キミ達は彼を探し、見つけた。しかし、彼の心はすでにキミ達にない。
だから、互いに賞品を手に入れる、ということで収めよう」
指を一つ鳴らせば、メイド達が次々にケースを開けていく。
中身はしわ一つない一万円札の束、束、束。
「一億」
男が五人を見据える。
「カラ松君が勝てば、私は一億を払う。
私が勝てば、カラ松君は一生、私のモノ。
トレードといこうじゃないか」
指を組み、肘をテーブルにつき、男はゆったりとした態度だ。五人が何を選ぶか、わかりきっている、と言わんばかりの顔。
何処までカラ松から話を聞いているのかは知らないが、確実に誘拐事件の顛末は話しているのだろう。だからこそ、男は余裕の笑みを浮かべる。たかだか百万を惜しんだ五人に、一億は天からの恵みだろう、と。六人もいるのだから、一人くらい消えてもいいのだろう、と。
「じょーだんやめてよ」
静かに言い放ったのは十四松だった。
常に活発で、考えなしの彼だが、こんな時ばかりは馬鹿になっていられない。
テーブルを叩き、立ち上がる。
「カラ松兄さんを返して」
「ついでに一億も貰っておいてやるよ」
「慰謝料としてもう一億円貰ってあげてもいーよ?」
平穏な日々の中であれば信じられないような平静さを保つ十四松とは対象的に、おそ松とトド松の声は常日頃と変わらない。まるでちょっとした冗談を言うかのように金銭を要求する。
しかし、その声の奥、瞳の奥は本気の炎が揺らめいていた。
「ドローとか……。
ありえないでしょ」
「勝負は勝つか負けるか、だからね」
一松とチョロ松も立ち上がる。
相手が素直に頷けばよし。そうでないならばどんな手を使ってでも奪い返すまで。
「……おや、少しアテが外れたらしい。
キミ達はお金が大好きだと聞いていたんだが」
「金は貰う。カラ松も返してもらう。
カラ松は賭けに勝ったんだ。当然の権利だろ」
一松がテーブルの上を歩く。
メイドも男も、誰一人としてその無作法を咎めはしなかった。
「だが、よく考えてみてほしいんだがね」
男はソファの上で、眠り続けるカラ松に目を向ける。
激しい音が数度鳴っているにも係わらず、彼の瞼が押し上げられる気配は全くない。男の言う合図とやらがなければ起きないらしい。忌々しいことだった。
「一億円とカラ松君を手に入れたとしよう。
でも、きっと持て余す」
氷のような目が一松を射抜く。
だが、彼も負けはしない。どんよりと落ち込み、暗さを孕んだ瞳で男を睨み返す。
「今までも彼の言動を鬱陶しく思っただろ?
邪魔だと思ったことがあるだろ?」
素の表情をどこに仕舞ってあるのか忘れてしまったカラ松の言動は一々痛々しい。兄弟の中でも何度か苦言を呈されている。しかし、だからといって、カラ松の存在自体を否定したいわけではないのだ。少しだけでも、彼の素を思い出してほしいだけなのが三分の一。残りは全てただのツッコミだ。深い意味は全くない。
「キミ達にとって、一億円は莫大な金額かもしれない。
しかし、六つ子と両親が一生遊んで暮らせるような金額ではないんだ。特に、キミ達のようなタイプの人間ならね」
至極残念だ、とでも言いたげな男の言葉を耳にし、チョロ松は高級絨毯に唾を吐いた。胸から湧き出る嫌悪感を吐き出すためにはこれが最適だ。
男に言われずとも、一億円のちっぽけさなど六つ子は知っている。脳内年齢はともかく、実年齢はもういい大人なのだ。生きるために必要な金が存外多いことくらいわかりきっていた。
自分達が考えなしで、博打好きなのも理解している。大金を手に入れられるような器ではない。これに関しては、心底残念ではあるのだけれども。
「関係ない。
カラ松は返してもらうよ」
「片腕がなく、一人にすれば幻覚を見て、睡眠も食事も何もかもこちらから指示してやらなければならないような人間を引き取ってどうする。
兄弟全員で一生面倒をみないといけないかもしれない。
キミたちが己の幸せを掴み取るために一人を捨てれば――――」
おぞましい言葉は強制終了させられた。
ガン、と男の背後にある壁が音をたてる。
「もう、黙って」
そう言って目を細めたのはトド松だった。
壁に音を出させたのは、彼が放り投げた椅子。男の言葉が途切れたのは、椅子が顔の真横を飛んだからだ。
「一生? 面倒見てやりますよ。
こちとら、最悪養ってやるって言っちゃってるんだから」
「大体、そんな深刻な話でもないんだよねぇ」
おそ松はぐるっとテーブルを回ってカラ松に近づく。
「あんた、何人兄弟?」
「私は一人っ子だ」
「なーら、わっかんないよねぇ」
カラ松の隣に座った彼は、眠ったままの弟の髪をやや乱暴に撫でた。男が梳いた髪をぐしゃぐしゃにしようとしているようだ。
撫で上げる手とは逆の手で、おそ松は立ち上がっている弟達に指示を飛ばす。言葉はなかったが、四人は求められている行動をすぐに理解した。
「オレがあいつで、オレ達はオレ」
十四松が軽く跳躍し、メイドの前に立つ。けっして乱暴はせず、かといって丁重でもない動作で札束の入ったジュラルミンケースを奪う。それとほぼ同時にトド松も似たようなことをしていた。彼の場合、もう少しばかり女性に優しい、というだけだ。
一松はそんな弟達を横目に、男の顔を思いっきり蹴り上げる。喧嘩以外の方法を持って他者を痛めつける場合、大抵の場合は一松がその役割を担った。痛めつけられるのが嫌いではない彼だからこそ、人を的確に痛めつけ、苦しませる方法と手段を多彩に知っている。
残されたチョロ松は、自身が座っていた椅子を手に取ると、窓へ向かい、おもむろにガラスを叩き割る。防弾の可能性もあったのだが、幸いにして通常のガラスがはめ込まれていただけらしく、窓は甲高い音をたてて砕け散った。
「何でオレ達がオレ達を見捨てんの?
意味わかんなくない?」
訓練されているであろうメイドもこの事態には戦慄し、悲鳴を上げる。
阿鼻叫喚となった室内でもおそ松の態度は変わらない。
「手なんてどうにでもなるよ。なくたって生きてる人はたくさんいるよ?
頭のほうも大丈夫。元々おかしいしね。そもそも、こーんな近くに、まともな自分が五人もいるんだよ? 影響を受けないわけがないじゃん」
五対一、どっちが有利だと思う? なんて、笑って言ってのける。
一松に蹴られ、壁まで吹き飛んだ男はだらだらと鼻血を流しながらおそ松を見つめた。その瞳に余裕など微塵もなく、浮かんでいるのは奇妙な化け物を見ているかのような困惑と畏怖。
「妄想だ……。兄弟だ、絆だで解決するほど世の中は甘くない。
お前は、お前達は、そのエゴで兄弟も、自分達自身も滅ぼすことになるぞ」
震える声で発せられた言葉に先ほどまでのような柔らかさはない。
異物を糾弾するごとく、その声は鋭く、重い。
ただし、それを受け取る側がそのまま感じ取るのか、と問われれば、答えは間違えようもなく否、なのだ。
「そうだよ」
十四松が笑う。
「ボクらは一蓮托生」
トド松がため息をつきながら言う。
「一生、足の引っ張り合い」
チョロ松は苦笑いをしていた。
「絶対に誰も逃がさない」
一松は未だに男を睨みつけている。
「エゴでも何でも、こいつもあいつも、どいつもこいつもオレ達のもの。
泣いて嫌がったって手放さないよ。
な、カラ松?」
おそ松が呼びかけると、カラ松の瞼がわずかに動く。
「カラ松兄さん」
十四松は両手にジュラルミンケースを持ち、ドタバタとカラ松達に近づく。
「カラ松にーさんっ」
トド松も一つ上の兄に倣い、近づいていく。
「カラ松」
チョロ松は窓辺から兄弟達を眺める。
「……カラ松」
一松はオマケとばかりに男を再び蹴り上げてからカラ松の方へと向かう。
「起きる時間だぞ」
最後におそ松が締めくくれば、徐々にカラ松の瞼が動き、内側にあった瞳を四人へ披露してみせた。
「……おそ松、にい、さん?」
「おう」
カラ松の口は、確かにおそ松を呼んだ。
この光景を男が見ていれば、すぐさま否定の言葉を投げただろう。しかし、幸いにして男は一松の蹴りによって意識を飛ばしていた。今、この感動ともいえる、されど何処か薄暗い場面をぶち壊すものはいない。
「帰るぞ」
「うん。帰りたい」
それだけを口にすると、カラ松は再び眠りについた。
元々、三日間眠らせてもらえなかった体だ。男にかけられた暗示云々を抜きにしても体が休息を求めてやまないはずで、眠ることに不安や不信はない。
「よっしゃ。んじゃ、お暇いたしますか!」
おそ松がカラ松を担ぎ上げ、走り出す。その後を弟達が続く。
「みんな、忘れ物はない?」
チョロ松は一足先に窓へ足をかけ、外へ飛び出そうとしている。
「だいじょーぶっ!!」
「ちょっと高そうなお皿も持ってきちゃった!」
「……あのクソ野郎の指輪」
「オーケー、オーケー!
さっすが、オレの可愛い弟達! お兄ちゃん、鼻が高いよー!」
おそ松は笑い、外へ飛び出す。
弟は返してもらった。金も手に入った。
気分は上々。天気は快晴。実に良い日だ。
END
男がカラ松を見つけたのは、些細な偶然からだった。
たまたま、道が工事中だったから。たまたま、道が渋滞していたから。たまたま、歩いてもいい気分だったから。駅までの道のりを悠々と歩き、道端に転がっていたゴミのような青年を見つけた。
頭を始めとし、腕や足に包帯を巻いた彼は見るからに重症患者。普通ならば救急車を呼ぶところだ。もしくは、少しばかり心に冷たさを抱え込んだ人間であれば、見ず知らずの人間に関わりたくない、と無視をしたかもしれない。
しかし、男はそのどちらの選択肢も手にしなかった。
「お前達」
小さく呟く。
すると、周囲のあちらこちらから普通の格好をした老若男女が現れる。今まで人気のなかったこの道に、突如として現れた彼らは、男に雇われているボディーガード達だ。
車を降り、男が歩き始めた時点から今までずっと、彼らは適度に人数を調節しながら男の周囲を警護していたというわけだ。
「この青年を連れて帰るぞ」
「承知いたしました」
理由は問わない。苦言を呈すことなどあるはずもない。
ボディーガード達は主人の言葉に従い、力なく倒れ付していたカラ松を抱え上げる。一瞬、怪我に触れてしまったのか、呻き声のようなものが上げられたが、それでも彼の目が開くことはなかった。
部下が命令に従い、その姿を消していくのを見届けた男は薄く笑う。
「今日はイイ拾い物をした。
私の日ごろの行いが良かった、ということだろう」
金はある。権力もある。望めば望むだけ、望んだモノが手に入る環境を男は作っていた。表にも裏にも通じる顔は彼の欲を満たしてくれていたし、天の采配かと思えるほどのツキを彼は常に掴み続けていた。
カラ松を拾ったのも、ツキの一つ。
この男は中々に厄介な癖を持っていた。全てを有する人間特有の下種思考。つまり、人間の心が壊れていく瞬間を眺めて痛い。そんな願い。
自身の中にある下種な願いを自覚しながらも、男は鼻歌混じりに歩く。ともすれば、性的なことは一切せず、どこぞの糞爺に売りつけるわけでもない辺り良心的な人間だろう、とさえ思っている。
一度拾ったからには、最期まで責任を取る主義なのだ。
そう、心が、一片の欠片もなく、粉々にすりつぶされるまで、は。
「医者も呼ばねばならないな」
体の傷による死は男の美意識に反する。
自身の目の届く範囲で死ぬのであれば、心から先に死んでもらわなければならない。そして、そうするにはどうしてもある程度の時間を有するのだ。美麗な死までカラ松が生き続けるように、医者の存在は必要不可欠だった。
男の癖を支えるための人材は豊富だ。余計なことを周囲に漏らすようなマネだけは決してしない医者の一人や二人抱え込んでいる。
拾ったあの青年がいつまでモつのか、どのような過程を経て壊れていくのか。
興奮で胸が膨らむ。
性的な欲求よりも、もっと原始的で、抗いようのない衝動。
「戻った」
「おかえりなさいませ」
気づけば早足になってしまっていた彼は、その勢いのままに自宅へと戻る。一見するとただの高級住宅地でしかないが、その実、男の住まいの周囲に建つ豪邸の所有者は彼自身。一応、人は住まわせているが、それも口の堅さに信用の置ける部下だ。全ては彼が極普通の資産家であることを装うための小道具でしかない。
小さな小さな独裁国家。ここでならば、多少の悲鳴や異常を察知されることはないだろう。
「アレは例の部屋にございます」
男を出迎えた執事は恭しく頭を下げたまま述べる。
「医者は?」
「既に処置を済ませた状態に」
「わかった。下がっていい」
端的な会話を終え、男はとある部屋へ向かう。
そこは彼の書斎の本棚を移動させた場所からのみ通じている地下室。充分な防音処理を施されたその場所は、必要に応じてどのようにでもレイアウトを変えられるように作られている。
久々に開ける地下室の扉から、彼は階段をくだり、さらに一枚の扉を開けた。
現在、地下室は彼自身の寝室とよく似たレイアウトになっている。
ダブルサイズのベッドに素材を厳選したキャビネットやクローゼット。床に敷かれているのは、素足を優しく包み込む真っ赤な絨毯。ご丁寧に窓まで設置されているが、写っているのは昼間の庭の映像だ。太陽光のように見える光も人工的なものでしかない。
男はベッドの真ん中に横たわるカラ松を見下ろす。
体中の包帯は新しい物に取り替えられ、少々汚れていた服も真新しいシャツに着せ替えられている。
全てが整えられていた。だが、その中で一つだけ、カラ松の表情だけは、一切触れられることなく、あるがままを示している。
「――ぁ……ぐ……」
「……可哀想に」
言葉とは裏腹に、男の口は弧を描く。
ベッドに伏すカラ松は、眉間にしわを寄せ、苦悶の表情を浮かべている。何か、悪夢を見ているらしい。寝言のようなものが途切れ途切れに聞こえてはくるが、それらはどれもこれも一つの言葉として形を成さない。
「どんな夢を見ているのだろうか」
慈愛すら感じさせる笑みを作り上げながら、カラ松の頭をそっと撫でる。傷を避けた触れ方はとても優しい暖かさがあった。
「――ん」
カラ松の瞼が揺れた。
男は軽く目を見開く。
特に何かを聞いたわけではなかったが、怪我の具合からして二、三日は眠ったままだろう、とあたりをつけていたのだ。その間は苦しげな呻き声で楽しんでおこう、とも。
「……こ、こは?」
だが、カラ松は目を覚ました。
異様な回復力というべきか、気力というべきか。
男は本当にイイ拾い物をした、と心の中で自分へ拍手を送った。
「私の家ですよ」
「え?」
見知らぬ場所だということは認識していたらしいが、すぐ傍にいた男にまでカラ松は気がいっていなかったらしい。彼の言葉に気の抜けた声が喉から零れる。
「おはようございます」
「お、おはよう、ござい、ます?」
ベッドに体を横たえたまま、軽く首を傾げながら挨拶を返す。
悲しみと混乱と衝動のままに家を飛び出し、糸が切れるようにして意識を失った。次に目が覚めたら見知らぬ部屋。そんな超展開を処理しきれるほど、カラ松の脳は有能ではなかった。
「まだ混乱しているようだ。
ゆっくり休むといい」
「え、でも……」
男の笑みにカラ松は戸惑う。
見知らぬ人間に優しくされることなど、そうあるものではない。まして、カラ松は近所で名の知れた元悪童。言動だけでなく前々からの評判も良くはない。兄弟一まとめに厳しい目で見られることはあれども、優しげな笑みを向けられることなど殆どありえないに等しい。
「キミは道端に倒れていたんだよ。
そんな大怪我で、だ。
助けて当然だろ? キミが気に病む必要は全くない」
腕にはめられたギプスをなぞるようにして言ってやれば、カラ松の目には純粋なる好意が浮かぶ。
基本的に、彼には人の好意を疑う、という項目が設定されていない。何せ、人の裏を読むのは存外難しく、頭を使わなければならない。わかりやすい悪意であるならばともかく、一見すると美しくも見える好意ならばそのまま受け取ってしまう方が楽なのだ。少なくとも、その場その場では。
「……ありがとうございます」
「人として当然のことをしたまでさ」
男の心は鬱蒼と笑む。
人を信じる人間の心を砕くのは楽しい。誰かを信じているからこそ、人は絶望する。握っていた手で唐突に突き飛ばされたとき、深い深い絶望に落ちていくのだ。逆に、人間を信じていない者を絶望させることは不可能に近い。心を壊し、踏みにじり、粉々にしてもあるのは納得だけ。それではつまらない。
「ところで、ご家族は?
連絡を入れないと心配するだろう」
嘘だ。
親族に連絡を入れるつもりなど毛頭ない。むしろ、裏から手を回し、こちらに気づかなくする腹づもりだ。また、絶望させるためにはどんな些細な情報も無駄にはならない。身内を盾に脅すのはとてつもなく心地良いことだった。
「…………」
男の問いにカラ松は目を逸らす。
今、彼が思い出しているのは、意識を途切れさせる寸前まで考えていたこと、場面、思い。
扱いが悪いのはいつものこと。自分がワリを食うのもいつものこと。痛い思いをするのもいつものこと。それでも、兄弟が互いを、カラ松を大切に思ってくれているのも、いつものことなのだ。頭ではわかっている。外を見る限り、一夜明けての今日。帰宅していないカラ松を心配してくれているはずだ。兄弟に余計な心配をかける前に、連絡の一つも入れなければならない。
わかっている。わかっているが、心が拒絶する。
五人の背中。完結した空間。離れたところにいる自分。
頭が痛い。胸が痛い。体中が痛い。きっと、それは怪我のせいだけではない。
さらに、カラ松には罪悪感があった。一松の大切な友人を手にかけかけた、その罪悪感は、けっして軽くない。
「……よかったら、話を聞かせてもらえるかな?
吐き出すことで楽になることもあるだろう」
カラ松は気づかない。男の目が、猛禽類のような色をしていたことに。
「でも……」
「キミのことを何も知らない私だからこそ、話せることもあるのではないかい?
特に、身内、のことなんかは、ね」
人の心は複雑だ。
様々な思いが重なり合い、強くも脆くもなる。
一見すると強固な金属でできた心であっても、どこかに柔い部分が存在しているはずだ。そこを探し出し、突くのが男の至福だ。優しくなぞるも、鋭く刺すも、思いのままに。人そのものを掌握したかのように振舞える。最上級の幸福にして、歪んだ癖。
傷ついたカラ松は、最も柔い部分を剥き出しにしてしまっていた。痛むその部分を、優しい人に撫でてもらうために。自身で触れ、治療するために。
「幸い、私も今日は休みでね。
長話にも付き合ってあげられる」
カラ松の不幸なところは、目の前にいる優しげな人間の本質が、優しいと真逆のところにあったことだろう。
「……実は」
過去に自分達の行ってきた悪行も、兄弟達のことも、何もかも知らない男の言葉に、カラ松は少しずつ言葉を零し始める。強固な心を揺らがせるほどに、彼の中にある負の感情は大きくなっていたのだ。それこそ、抱えきれない程に。
男はカラ松がいい歳をしてなおニートであること、店主が古くからの友人であることをいいことにツケを溜めていたこと、といった、普通ならば顔を歪められてしかるべきことでも笑顔で耳を傾け続けてくれた。
「それで、兄弟にオレの大切さを思い知らせてやろう、ってことになって。
……気づいたら家の前で火あぶりに」
自分で話してはいるが、どうしてあんなことになったんだ、とカラ松は思わずにはいられない。チビ太が自分に同情してくれたのはわかるし、提案について深く言及せぬまま頷くべきではなかった、とも思う。だが、その結果が火あぶり。ここは平成の日本じゃなかったのか? と問いかけを誰かにしたくなる。
「正直、兄弟が助けてくれるとは思わなかった。
助けてくれたらいいなぁ、とは思ったけど」
扱いの悪さは幼い頃からのもの。そもそも、カラ松含め、松野家の六つ子は自分本位だ。身を呈して兄弟を守る、なんてことは滅多にない。カラ松を甚振っている犯人が旧友のチビ太であれば、放置は決定したも同然だ。
だからこそ、窓が開いた瞬間は、心の底から嬉しかった。
「窓から、色々投げられるとは、思ってなくて……」
花瓶、フライパン、石臼。
普通に投げられても痛いそれらが二階から降りかかってくる恐怖。そして絶望。カラ松はベッドの中で身を震わせる。あの瞬間だけは、本気で死を間近に感じた。
兄弟だとか、いつもの扱いだとか、自分の頑丈さだとか。常に意識の底にあった諸々を全て忘れ、本能が死を警告した。だが、体は動かず、瞳は逸らせず、ただ、降り注ぐ凶器の合間から、冷たい目をした片割れ達を見ていた。
個人としての自分も、六つ子としての自分も、根元から叩き折られるような感覚。そして、それを感じてしまった自身への侮蔑。放置され、病院で目が覚めたとき、それらはカラ松を酷く不安定なモノにしていた。
「……泣きなさい。
いくら肉親とはいえ、そんなことをされれば恨むことも、嘆くこともあるだろう」
カラ松は涙を流していた。
思い出すのも苦痛な、しかし、何処かで吐き出さなければ一生の傷になるような出来事を口にすることで、瞬間瞬間の痛みまで心が再現してしまう。
本当はこんなに弱くない。いつもなら、普段だったら、という言い訳も最早、通用しない。全ては既に起こったことで、カラ松の心身は一度に向けられた鋭い刃物を忘れていない。
だが、カラ松は首を横に振る。
「オレは兄弟を恨んだりなんてしない」
この世にたった五人の、己の魂を分けたかけがえのない存在。
誰か一人でも欠ければカラ松はあっという間に自我を失ってしまうだろう。自分が六人いるからこそ生まれる不安定な自己は、その数が減ることで完全なる崩壊を迎える。それは一重に、カラ松が兄弟をこの上なく愛しているからこそ生まれる世界の終末だった。
「望むだけなんだ」
優しくしてほしい。好きだと言ってほしい。形のない愛だからこそ、時折目や耳でわかるように示してほしい。
他愛もない願いだ。けれど、カラ松にとっては重要な願い。そして今まで、兄弟達はその願いを叶え続けてくれていた。
さりげない優しさを、暖かい言葉を、心地良い空間を。適度な量、過不足なくカラ松は与えられ続けていた、と自覚している。今回はタイミングが悪かっただけだ、ともわかっている。
「キミは優しい子だね」
男はカラ松の頭を撫でてやる。
優しい声の裏側は、歓喜で震えていた。
カラ松は兄弟を愛する人間だ。どのような対応を受けてもその根幹は変わらず、今もなお兄弟を愛している。愛しているのに、心の端が嘆くことにまた心を痛めている。
絵に描いたような美しさであるといえた。強さと脆さを兼ね備えた美しさに唾を飲み込まぬ美術品愛好者はいない。
この脆さを突き、欠けさせて砕かせていくのは何と甘美なことなのだろうか。まるで、自身が最高峰の芸術家にでもなったような気分に浸れた。
「オレは優しくなんてない……。
大切な兄弟の、大切な猫を、こ、殺そう、と、した」
怪我をしていない右手を見て、カラ松は顔を青くする。
未だ、感触が残っている。小さな生き物を殺そうとした、あの薄気味悪い感触。理性を捨て去った、獣以下の衝動。そんなことをしてしまえる自分が恐ろしく、また、憎かった。
「大切な猫?」
「オレの弟は、人と上手く付き合えなくて、だから、猫が友達で、とても大切にしてました。
兄弟達もそのことを知ってるから、あの日も弟のために皆、猫を探してて」
「いい兄弟なんだね」
「はい」
ポロポロと涙を零しながらカラ松は笑う。
兄弟のことを良く言ってもらうのは嬉しいことだった。
「よかったら、ご兄弟のことをもっと聞かせてほしいな」
「喜んで」
カラ松は兄弟達のことをたくさん話した。
次第に涙は零れなくなり、顔には笑みだけが残る。楽しいこと、嬉しいことを口にすることで、ずいぶんと気持ちが上昇したらしい。
「それで、末っ子のトド松は女の子の友達が多くて、とてもお洒落に気をつかってるんです。
甘えたで、オレにも時々甘えにくる可愛い弟なんです。まあ、ちょっと腹黒いところが、あり、ますけ、ど――」
「眠たいのなら眠りなさい。
まだ本調子ではないのだから」
「は、い……」
そう言うと、カラ松は静かに眠りにつく。
規則正しい寝息が部屋に響いた。
「さて、どうしてあげようか、な」
窓から差し込む光は、現在の時刻を昼間だと主張している。今も、カラ松が目覚める前も変わらず。
「つかの間の夢を見るといい。
幸せな夢をね」
それからも男は優しかった。
傷の具合を心配し、他愛もない話を聞き、カラ松が欲した物を与え続けてくれた。彼がいない時でも、必ず部屋には誰かがおり、カラ松の身の回りの世話を何不自由なくしてくれた。
満たされていた。
心の傷も、元凶である兄弟達と離れていたおかげか、思った以上に早く回復することができた。それでも、一松の猫を殺めかけた、という罪悪感だけはいつまでも残っていたが。
「家族に連絡を入れたい?」
「はい。もうずいぶんと家を空けてしまったので。
流石に心配されているかと思って」
だから電話を貸してほしい、と続けたカラ松の言葉に、男は笑みを返す。
ただし、その口から出た言葉は、酷く残酷なものだったけれど。
「駄目だ」
「…………え?」
カラ松は目を見開く。
信じられないものを見るような目で男を見た。
「なん、で」
「いいじゃないか。どうせ、誰もキミのことを心配したりだなんてしていない」
じくり、カラ松の胸が痛む。
「電話して、また、誰? と聞かれるのがオチ」
ふさがりかけていた傷が、開く。
治ったと思っていたのは勘違いだった。傷を覆っていたガーゼが、あまりにも軽かったから忘れていただけ。男はそのガーゼを無理やり引き剥がし、指を刺し込む。
「もしかすると、猫を殺そうとしたことがバレてるかもしれないよ。
口を開いた瞬間、罵られたっておかしくない」
カラ松の頭は混乱の渦中にあった。
つい先ほどまで優しかった男が、どうしてこうも豹変してしまったのか。ただでさえ突然の事態に弱いカラ松の頭が、この場において最良の選択肢を見つけ出せるはずもなく、ただただその場で硬直するばかり。
「キミがどれだけ兄弟を愛しても、兄弟はキミのことを愛さない」
「うるさい!」
頭の中は何もまとまっていない状態だったが、カラ松は思わず叫んだ。これ以上、恐ろしい言葉を聞きたくなかったのだ。
体にかけられていた上質なシーツを弾き飛ばし、足にはめられたギプスのことを忘れて窓へ駆け寄る。男が何を考えているかはよくわからないが、自分を帰すつもりがないことだけは確かなのだ。逃げなければ。
その一心で窓に近づき、ガラスを破るべく右腕を振りかざす。
「……あ、れ?」
甲高い音と共に、外への道が開けるはずだった。
怪我をしているとはいえ、カラ松の馬鹿力は健在なのだから。
だが、目の前にあるのは、灰色のノイズを映し出す液晶画面。外の風景も、風も、明かりも、何もかも存在していない。
「ところで、キミはもうずいぶんと家を空けてしまった、と言っていたけれど」
カラ松はぎこちない動きで背後を振り返る。
男は微動だにせず、ただただ口角を上げてカラ松を眺めていた。
「今、何日目だと思っているんだい?」
目覚めたとき、外はいつでも明るかった。眠るときもそうだ。
部屋に時計はなかった。なくとも困らなかった。腹が空けば誰かに告げて食事を用意してもらえたし、話し相手が常にいたので暇をもてあますこともなかった。
故に、カラ松は、眠って起きてすれば一日が経っているのだと思い込んでいた。だが、その感覚も、今ではアテにならない。
そもそも、今現在の時刻すらカラ松にはわからないのだ。朝か、昼か、夜か。体感としてはこの部屋にきてから数日、といったところだが、一週間は経っているのかもしれない。もしかすると、それ以上に。
「きょ、うは……なん、にち……」
呼吸が乱れる。
足元が揺らぐ。
世界が、常識が、個を支えるモノが崩れていく。
「さて、今日はいつだろうか」
男は肩をすくめる。
「……帰してくれ」
カラ松は力なく床に腰を下ろし、視線までも下げたまま男に頼む。
「オレを閉じ込めても、何もいいことはない。
身代金だってとれないし、特殊な力を持っているわけでもない。
警察には何も言わない。だから、帰してくれ」
世の中には、身代金以外にも人を攫う理由がいくらでもある。
何処かの国に売り飛ばしてもいい、臓器だけを抜き取ってもいい、薬の実験体にだってなれる。だが、平和な世界で生きてきたカラ松はそんなこと思いつきもしない。
その愚直さが、男を悦ばせる。
「幸い、私は金ならば腐るほど持っている。身代金の要求などしないよ。
ただ……。そうだな。一つ、ゲームをしたい。
金持ちの道楽さ。付き合っておくれ」
カラ松はのろのろと顔を上げる。
部屋の内装からして、男が金を持っているのはわかりきっていた。自分とは住む世界が違う。理解が及ばないのも仕方ないのかもしれない。そんな風に考えることで、少しでも冷静になろうとしていた。
「ゲームの内容は……。
そだな、キミの兄弟が、キミを助けにくるか否か、というのはどうだろうか」
さらりと提示された内容は、確実にカラ松の心を削ぎにかかっていた。
誘拐の電話をしてもなお、迎えにこなかった兄弟達が、どうして何も言わないままに消えたカラ松のことを探すのか。いや、前回は知人の犯行ゆえに迎えがこなかったのだ。ならば、また迎えがなければ、今度こそ、カラ松という存在に終止符を打つ結果になるではないか。
思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。カラ松の目から涙が溢れる。
「わ、かった……」
それでも、カラ松は頷いた。
不安はある。恐怖に体は震えている。
しかし、六つ子としてこの世に生を受けて二十余年。昔は本当に互いが互いであった時期もあった。切っても切れぬ縁でがんじがらめにされた兄弟だ。彼らが心の底からカラ松を不要と思っているわけではないことくらい知っている。本当は愛してくれていることを確信している。
時間はかかるかもしれないが、それでも絶対に、彼らはカラ松を見つけ出し、家へ連れて帰ってくれるだろう。
カラ松は、目の前に垂らされた希望の糸を掴み取った。
「ゲーム成立。
賞品も決めておこうか。
まず、キミが勝った場合」
男は人差し指を一本立てる。
「一億円。
賞金としてキミ達に差し出そう」
さらり、と告げられるが、その値段は容易く口にできるものではない。ニート生活をしているカラ松からしてみれば、まさに夢のような金額だ。それだけの金があれば、しばらくは遊んでいられる。
「ただし」
付け加えられた言葉に、カラ松の肩が揺れる。
「私が勝ったときは、キミの一生を貰おう」
この期に及んで、この言葉をプロポーズ的な意味合いでとるほどカラ松も馬鹿ではない。
「キミが勝つその日まで、勝者は私だ」
その日が来るまで、どのような目に合わされるのだろうか。
冷え冷えとした海に沈められるより、燃え盛る業火の中磔にされるより、集団から暴行を受けるより、ずっと酷い目にあうのか。
「……おじさん、兄弟はいるかい?」
「私は一人っ子だが、何か?」
カラ松は震える体を無視して笑う。
ここで泣き言を口にすれば、兄弟を信じていないと口にすると同意義だ。
「なら、あんたにはわからないだろうな。
この勝負、あんたの負けだ」
信じてる。カラ松は、カラ松だけは、どれだけの不安に揺らいでも、兄弟を信じ続けなければならない。かつて、自分にそう課したのだ。愛されている、と確信しているからこそ、カラ松は信じることを決めることができた。決意の日を、それまでの積み重ねをカラ松は忘れない。
逃げたとしても、悲しみに暮れたとしても、拒絶の思いを抱いたとしても、最後には彼らを信じる。そうでなければ、カラ松はカラ松になれないのだ。
「オレはあいつでオレらはオレ。
六つ子を舐めてもらっちゃ困る」
気丈に笑う。
目の前の悪に震えて涙が溢れ出そうだとしても、格好良い自分をどうにかひねり出す。
そうやって、兄弟達が迎えにきてくれるまで自身の心を守っていかねばならない。
「兄弟の絆かい?
いいじゃないか。精々、ソレに縋りつくといい」
カラ松が抵抗すればするほど、男にとって愉快なショーになる。
男は踵を返し、部屋の出入り口へと向かう。どうにかして、男の出入りに紛れ込んで脱出できないだろうか、とカラ松は考えるが、満身創痍な体では無理がありすぎる。ただでさえ、男にはお付の者がいるのだ。隙は限りなく零に近い。
ガタン、という音と共に扉が閉まる。カラ松側に鍵は見受けられないが、施錠の音が響いたので外側には鍵があるのだろう。
「……ぅう」
柔らかな絨毯に顔をうずめる。
この部屋で閉塞感を味わったのは初めてだ。今までは外に繋がっているのだと思えていたし、話し相手もいた。それが今では真逆。外との繋がりは一切なく、部屋の中にいるのはカラ松一人きり。
寂しさと不安が急激に押し寄せてくる。
何かに縋って泣きたい気分だった。
すると、耳元でカチっと音がした。同時に部屋の中にかすかな風の動きが感じられた。
「えっ」
思わず顔を上げると、そこには自分がいた。
「な、に……これ……」
よく見れば自分ではない。
見慣れた物。
鏡。
「キミは誰?」
どこからか声がした。
男のものではない。まして、カラ松のものでもない。
そもそも、声の主の性別が男なのか女なのかすら判別できない。
そんな不可思議な声が、改めて問う。
「キミは誰?」
「オレは、松野家次男、松野カラ松……」
思わず答えてしまう。真っ直ぐに自分を見つめる鏡の中の己に臆してしまった。
答えを口にしてから目をそらすと、その方向にも自分。右にも左にも、前にも後ろにも。カラ松がいた。鏡があった。
わずかな混乱の後、カラ松は部屋の壁が鏡張りになっているのだ、ということに気づく。聞こえてきた音や風の動きは、壁が入れ替わる際のものだったのだろう。
家具に変化はない。ベッドも絨毯もそのままだ。
だが、カラ松は背筋が冷たくなるのをひしひしと感じていた。
「キミは誰?」
また声がする。
カラ松の答えなど求めていないのだ。声は、ただカラ松に、カラ松という存在を問うているにすぎない。
「キミは誰?」
一定の間隔を持って流される声。カラ松は身をうずくまらせ、目を硬く閉じ、耳を塞ぐ。
とてつもなく気分が悪かった。幾度となく繰り返される声は徐々に歪んで聞こえ始める。回数を数えることでどれだけの時間が経ったのか推測しようという考えが一瞬だけ頭をよぎったが、それこそ頭がおかしくなってしまうに違いない。
ぐるぐるとした思考の横で歪んだ声がカラ松の存在を問いかけてくる。
どれだけの時間が経ったのか。数時間か数日か、はたまた数十分か。
過剰なストレスに晒されたカラ松は、その意識を闇へ沈める。音も色もない世界だけが彼の心を安寧へと導いてくれていた。
わずかか膨大かもわからない眠りから目覚めると、そこはやはり鏡張りの部屋。ベッドの脇に食事がポツリと置かれているのを発見する。
いつの間にやら用意されていたらしい。これも誰かが運び入れたのか、はたまたこの部屋に仕掛けられた装置の一つによるものなのかはわからない。
「キミはダレ?」
相変わらずの声だ。
食事に手をつけながら、カラ松はふと思う。
果たして、この声を聞きながら食事をするのは何度目だっただろうか、と。
「キミハダレ?」
誰だっただろうか。次男、カラ松だったはずだけれども、と考えながらカラ松は顔を上げる。
げっそりとした自分の顔が鏡に映った。
「……おそ松」
そっと手を伸ばす。
「怪我、したのか?」
自身とそっくりな、六つ子の兄。
彼が怪我をしている。飄々と生きている彼が、こんな怪我をするのは珍しいことだ。喧嘩では負けなしのおそ松が怪我をしている、ということは交通事故か何かだろうか。そうだとすれば、加害者側も可哀想だ。おそ松という人間にかかれば、ぺんぺん草も生えぬほど毟り取られること間違いなしなのだから。
「あれ? チョロ松、お前まで」
別方向にいた三男にも声をかける。
おそ松やカラ松ほど喧嘩に強くないとはいえ、避けることに関しては兄弟一の弟だ。それが怪我をしている。事故や事件に巻き込まれるような人間でもないので、余程不測の事態が起きたに違いない。
可愛い弟を慰めるため、カラ松は精一杯の笑みを浮かべてやる。
「大丈夫だぞ。オレがついてるからな」
微笑むカラ松の耳に、例の言葉は最早聞こえない。
絶え間なく流れ続ける問いかけを彼は認識できなくなっていた。
焦点の合わぬ目でありながら、穏やかな笑みを浮かべる彼の視界から、唐突に全てが消える。真っ白な光源が全て消え、部屋が病みに包まれたのだ。
「一松? 十四松? トド松?」
カラ松はゆっくりと立ち上がる。
いつの間にやら足のギプスが外されていた。代わりに包帯が巻かれてはいるが、彼の体は松葉杖を必要としない程度には回復していたようだ。
だが、そんな変化にもカラ松は気づかない。ただ、目の前から消えうせた姿を探すため、ふらふらと部屋中を彷徨う。
彼の肌を脂汗が伝う。
消えた兄弟達を思ってではない。久々に見せられた暗闇が恐ろしいのだ。
意識を飛ばしている時にしか見ることのなかった完全なる暗闇に、カラ松は今の自分が目覚めているのか否かの判別すらつかなくなり始めていた。
まだ正常な判断を下せる脳の一部分が、このままでは何かがコワレル、と警鐘を響かせている。
「……けて」
小さく震えた声が響く。
「助けて……!」
涙と共に言葉が零れ落ちた。
「おそ松! 助けてっ!」
我武者羅に腕を伸ばす。足を進める。救いを求める。
だが、その手を掴む者はいない。
アテもなく足を進めたせいで机やベッドに足を強かにぶつけてしまっていたが、今のカラ松はそれどころではない。痛みよりももっと大きな恐怖に頭も体も支配されていた。
「助けて!」
何度目かの叫び。
不意に、明かりが点った。
まるで天がカラ松の願いを聞き届けたかのようにさえ見えるが、当然ながらここに善良なる神はいない。いるのは他人を壊すことに執念をかけた人間だけ。
明るさに安堵の息を漏らしかけたカラ松が見たのは、真っ黒な異形だった。
「……え」
日の光も浴びず、まともな精神状態でもなかったため、すっかり青白くなってしまっていたカラ松の肌がさらに白くなる。
壊れかけた思考回路でも、目の前に在るのが常識では考えられないモノだということを理解してしまったのだ。悲しいことに、その異形が、よく見れば人の手によって作り出された造形物で、中に人が入っているのであろうことには、カラ松の思考回路は至らない。
眼前に迫る異形に対し、哀れな悲鳴をあげ、腰を抜かしながらも逃げの一手を打つことしかできずにいた。
「助けて、た、すけ……お、そま……」
這い蹲りながら逃げる。
部屋の壁はすっかり一般的なものに戻っており、鏡は何処にも存在していない。
まやかしの兄に助けを求めることすらできないのだ。
「誰か……!」
とうとう、兄弟以外の「誰か」に助けを求める。
切迫した状況下において、救いの手を選んでいる余裕など存在していないのだ。
「大丈夫かい?」
響いたのは、かつて聞いたことのある声。
「助けて!」
カラ松は無我夢中でその声の主に駆け寄る。
おぼつかない足取りではあったが、彼はどうにか声の主たる男にしがみ付くことができた。高級ブランドであろう仕立ての良いスーツに若干の皺ができた。
「あぁ、化け物を見たのか」
男は優しくカラ松の頭を撫でる。
まだ包帯が巻かれているが、そろそろ外してもいい頃合になってきていた。
「たす、助けて……!
殺される……!」
何の根拠もない恐怖だ。
黒い異形はカラ松に対して、何の攻撃姿勢も見せていない。危害を加えられることを恐れたとしても、すぐに生命の危機へとは直結しない。普通ならば。
「大丈夫。アレは一人でいると現れるモノだ」
男の言葉に、カラ松はおそるおそる背後を見やる。
そこに、あの異形はいない。
「た、すかった……?」
極度の緊張状態から解放され、カラ松の全身から力が抜ける。床に座り込むものの、それでも手は男のスーツの一部分を掴んだままだ。
「ありがとう、ざいます」
カラ松は力の抜けた笑みを男へ向けた。
その男こそ、自身を監禁し、精神的苦痛を与えている存在なのだ、ということは頭から抜け落ちているらしい。
「礼にはおよばない。
キミがイイコであれば、それだけで私は満足なのだから」
「イイ、コ……」
男の言葉を小さく繰り返す。
「オレが、イイコだったら、もうアレは、出てこない?」
「キミがイイコでいられるなら、私か、私の友人がいつだって傍にいると約束しよう」
「わかった。オレ、イイコでいる。
だから、傍に、いて」
カラ松は必死になって男へ縋りつく。
細い彼の足を抱きしめるようにしてしがみ付き、一人になることを回避しようとする。
気力も精神も大きく削り取られたカラ松には男しかいないのだ。まともな判断も下せぬカラ松の脳は、未だ背後に感じる異形の恐怖心から逃れるための最短ルートを掴み取るために猛回転していた。
「ではまず、言葉遣いからだ」
嗜虐的な笑みを向けられているというのに、カラ松は幸せそうな笑みを浮かべてみせた。
誰かの視界に自分がいる。あの恐ろしい異形がやってこない。世界の外側から刺激を与えてもらえる。そんな、どうしようもないようなことが幸せに思えたのだ。
「はい」
それからの時間は、幸せなものだといえた。あくまでも、カラ松にとっては。
「今日はイイコでいられたようだ」
「勿論です」
言いつけを守っていれば、男か、その付き人かがカラ松の傍にいてくれた。
男以外の者はカラ松と言葉を交わすことはなかったけれど、監禁され、精神への攻撃を受け続けていた彼にとって、第三者の存在とは非常に重要なモノだ。ソレを認識するだけで、心の安寧を得ることができる程に。
だが人は常時他者からの要望に応え続けることはできない。
「その小さな脳みそはコンクリートの塊か何かか?
私の言葉を吸収するつもりがないとしか思えない」
「すみません。ごめんなさい。
ワルイコです。頑張ってイイコになります。ごめんなさい」
涙をボロボロ流しながら、カラ松は男の靴を舐める。始めの頃はこれで許してもらえていた。その始めてが何時頃の話であったのかは相変わらず思い出せない。
「駄目だ」
無慈悲な言葉と共に、男はカラ松の顔を蹴り上げた。
鼻への攻撃により、赤い鮮血が絨毯に撒き散らされたのを見ると、男は顔を顰めて舌打ちを鳴らす。
「私の言いつけを破っただけでなく、部屋まで汚すとは……」
「すみません。もう、絶対に破りません。だから、一人に、一人にしないで」
男へ縋りつくと、次は脳天へ肘打ちを喰らう。頭の包帯は解けていたが、新たな傷ができたのか、またわずかに出血する。
くらり、と視界を歪ませているうちに、男の姿はカラ松の視界から消えていた。直接的な暴行よりも、食事を抜かれることよりも、一人っきりにされることがカラ松にとって一番の「仕置き」だった。
時には部屋を汚した、と。時には言葉遣いがなっていない、と。時には食事を一片残した、と。些細なことを重箱の隅を突くようにして男はカラ松へ罰を与える。
その度、カラ松は異形の姿を見るのだ。
「助けて、た、たすけて、ください。
イイコになるから、なります、絶対に、だから――」
ぞわり、とカラ松の首筋を悪寒が撫ぜた。
「あ……あぁ……」
怖い。見たくない。しかし、視界に映さないのも恐ろしい。
激しい葛藤の渦中にありながらも、カラ松は振り返る。
そこに、あの異形が佇んでいる、と知りながら。
「助けて! 助けてください! おじさん!
ボク、絶対にイイコになります! だから! 助けて! 誰か! 誰か!」
壁という壁を叩いて回る。
逃げ出したい気持ちと、救いを求める一心だ。男が許してくれるまでカラ松は狭い部屋の中を逃げ続けなければならない。そうしなければ、最後は異形に捕まって殺されてしまう。
今まではどうにか、寸前のところで男やその他の者がやってきてくれた。そのおかげでカラ松は今も息をしている。だが、今回もそうである、という保障はどこにもない。
「お願いします! お願いします!
助けてくださ、い! た、すけて!」
長くも短くも感じる時間の中、逃げ回り続け、壁を叩き続けたカラ松の手は、皮膚が破れ、血があふれ出していた、尋常ではない事態だが、彼にとって一番は生命の安全を確保することのみ。両手から零れる血など、どうでもよかった。
救いを求め、駆けずり回り、体力は底をつく。
「やだ……。し、にたく、ない。
助けて、助けて、助けて、助けて」
カラ松は捕まった。異形から伸びた手に足を掴まれ、絨毯の上に伏す。
見上げた異形からは鋭い煌きを伴った牙が見えた。正常な目で見れば、それが日本刀であったことはすぐにわかっただろう。
「――――助けて、おそ松」
閃光が走った直後、するりと出た救いを求める対象は「誰か」ではなかった。
「あ……っぐあああぁ!!!」
一拍、現実と痛みがリンクするのに間が空いた。
白銀の刃がカラ松の左手を通り過ぎ、繋がっていたはずの肉体を切断したことを理解するよりも先に、カラ松は断末魔のような叫びと共に床を転がりまわる。
少しでも痛みを分散しようとしての行動だったが、効果は殆どない。むしろ、傷口が動くことで更なる痛みが彼を襲う。
「可哀想に」
蠢きまわるカラ松を見下ろし、男は言う。
心底哀れむようで、愉しむ声だ。
「私の言いつけを守れないからだ」
「ご、め……なさ……い」
息も絶え絶えになりながら、カラ松は謝罪を口にする。それも、笑いながら、だ。
彼は嬉しかったのだ。男が、ここへきてくれたことが。そのおかげで、腕の一本で済んだことが。片腕は無くなってしまったが、それでもまだ自分は生きている。それが、とてつもなく嬉しかった。
「今度は、ちゃんとできるか?」
「は、い……」
歪な笑みで頷くカラ松に男は満足げな顔をした。
一人で心を壊させた。
男という存在によって歪んだ形に心を作りなおさせた。
次は、どうやって壊そうか。
壊して、作り直して、また壊して。それを繰り返すことで人は心から死んでいく。その過程を見ていたい。
カラ松はまだ絶望できる程度の壊れかたしかしていない。無様に作りなおした心で、どんな絶望を提供してくれるのだろうか。考えるだけで男の口角は上がる。
それからの日々も特に変化はなかった。
切断された腕は戻らず、傷口を縫合した。カラ松は男の命令に極力従順に従うものの、やはりどうしてもできないことが発生すると異形の恐怖へと落とされる。四肢の一部を奪われるような事態にまでは発展しないものの、一度腕を切り取られている分、精神的苦痛は大きい。
いつしか、カラ松は一挙一動に男の許可を求めた。
睡眠も、食事も、立つことも、歩くことも。そうしなければまた、あの恐怖に落とされる。自らを救ってくれる人間に従うことは、当然のことだった。
「空、一度外へ出てみるか?」
男はカラ松の名前を捨てた。
壊れる前の情報を一切合切遮断することで、男以外に希望を抱かなくするためだ。
「はい」
外へ連れ出そう、と思ったのは、ほんの余興だ。
途中、カラ松を一人にしたときの反応が見てみたかった。今までにない大勢の人間の中でカラ松が発狂していく様を見るのはどれだけ楽しいことだろうか。
唾を飲みこみながら、男は周辺の地図を出す。
「何処がいい?」
「ボクが選んでいいんですか?」
「そうだ」
カラ松に選ばせることに意味がある。
自身の選択によって、恐ろしい目に合う。そうすれば、カラ松はますます男に依存することだろう。何度も何度も繰り返してやれば自分で何かを選び取ることに恐怖を覚えることだろう。
そうしたら、一度、手酷く捨ててみるのも手だ。
絶望し、狂い、鳴き叫ぶ様を録画しておいてやろう。ひとしきり狂い終わったら再び迎えてやるのだ。甘い毒を伴って。
「……ここ、がいいです」
地図上を彷徨っていたカラ松の指が、一点を指した。
何の変哲も無い、小さな駅。
「わかった。それじゃあ、明日、一緒に行こう」
眠りを制限してから二日が経っている。カラ松の精神状態を考えても、選び取った場所に意味などないはずだ。男はその場を執事の一人に任せ、仕事へと出かける。
「――たすけて」
小さく呟かれた言葉は空気に混じり消える。
故に、誰も気づかない。
その言葉には、確固たる「意思」が存在していたことに。
END