カラ松が猫の集まる場所に招待されてからおよそ一ヶ月。
 猫達も新入りの顔や匂いをようやく覚えたらしく、この日、とうとうカラ松は一匹の猫を撫でることに成功した。
「やった……。
 やったぞ班長さん!」
「あー、はいはい。
 ヨカッタデスネー」
 子供のようにはしゃぐカラ松の気持ちはわからないでもない。この一ヶ月、カラ松は猫に触ろうとしては警戒され、逃げられ、引っかかれてきた。その苦労がようやく実ったのだから、嬉しさもひとしおというものだろう。
 しかし、彼がマフィアである、と思えば言葉も片言になろうというもの。
 優しく猫を撫で回している手で、何人の人間を殺してきたのだろうか。流石に問いかけるような野暮はしないものの、何ともいえない顔をしてしまうのは許してほしい。
「喜びを分かち合おうじゃないか!」
 カラ松はニコニコとした笑みのまま、一松の腕を引き、先ほどまで大人しく撫でられていた猫のもとまで連れて行く。暗闇の中でもハッキリと認識できるその子は、真っ白な毛並みをしていた。一松の友人達の中でも特に大人しい子だ。カラ松に撫でられることを始めに許すのはおそらくこの猫なのだろう、と一松は常々思っていたのだが、どうやら当たったらしい。
「ほら!」
 小さな頭を優しく撫でる姿はやはり子供で、マフィアには見えない。
 大体から、出会ってから数ヶ月経った今、初対面の印象よりもずっと彼をマフィアらしくない、と思えるようになってしまっている。カラ松は優しすぎるのだ。
 小さな命を愛し、麓の人間を愛し、時折仲間や性質の悪い業者に騙される。無論、相応の仕返しはしているらしいが、そもそもマフィアがそこいらの悪徳業者に騙される、という時点で色々不味い。
 底辺を這う一松に惚れ、未だに弁当を持ってきてくれる優しさも途切れることなく続いている。
「あんたさ、何でマフィアやってんの?」
 純粋な疑問だ。
 二人は互いに、近況報告や雑談などはしていたが、過去のこととなると口が堅かった。他人に話すようなことではない、というのも理由の一つだが、やはり一番は「あまり思い出したくない」につきる。
 また、一松はカラ松の過去に然程興味がなかった。恋愛ごっこにもすぐ飽きるだろうと思っており、ここまで長く顔を合わせ続けることになるとは夢にも思わなかったのだ。
 けれども、今、一松はカラ松の過去に興味を持ってしまった。
 優しい馬鹿が血生臭い世界に立つ理由とは何なのか。
 それを知るためならば、対価として、唾棄すべき自身の過去について話してやってもいいとさえ考えていた。
 カラ松に対するその興味が、お人好しなマフィア、に対するものなのか、始めてともいえる付き合いの長い知人、に対するものなのか。はたまた、好意を寄せる相手に対するものなのか。それは一松にもわからない。
 ただ、湧き出た興味に背中を押され、言葉を吐いてしまった。
「……理由はない」
 浮かれていた声が沈み込んでいく。
「気づいたらオレはプリュネファミリーにいて、銃を握っていた」
 曰く、最古の記憶にあるカラ松はもうそれなりに大きく、中学生くらいにはなっていたような気がする、とのことだった。つまり、それ以前の記憶が失われているらしい。
 単純に記憶力の問題とはいえないだろう。プリュネファミリーに何かされたのか、それよりも前に事故にでもあったのか。真偽は定かではない。ただ、もうすでにその時、カラ松は人を撃つ訓練をしていた、ということだけが、紛れもない真実となる。
「様々な訓練をこなした。
 その間に古株連中が死んだり、ファミリーが対立したり、と色々あったが、まあ今まで五体満足で生きてこれた」
 上が消えるにしたがい、地道に経験を積んでいたカラ松の地位は繰り上げられ、危険な任務を与えられる回数も増えた。何度も死ぬ思いをしながらも、必死に生にしがみ付き、今まで生きてきたと言う。
「汚いことを山ほどしてきたよ」
 一松にも言えないようなことがたくさんあった。
 人をじわりじわりと死に追いやったこともある。始めてその策を練り、実行し、成功したときは一日中トイレから出ることができなかった。
 相手の顔を思い出す度、吐き気がとまらなくなってしまったのだ。
 薬を使い、敵対するファミリーを拷問にかけたこともあった。啼き叫ぶ声も、苦痛に歪む声も、未だに鼓膜に染み付き、取れないままでいる。
「それでもファミリーに残ってるのは、他に居場所がないからということと、何だかんだで育ててもらった恩、ってやつだ」
 苦しいことはたくさんあったが、食事はもらえた。雨風をしのげる家にも置いてもらえた。
 生きるために支払った対価達は小さなものではなかったものの、やはり命の大きさには変えられない。
 聞く者が違えば、その悲痛な人生に眉を下げたことだろう。辛かっただろう、とカラ松を抱きしめ、生の暖かさを伝えたことだろう。しかし、カラ松が言葉を零した相手は一松で、受け取り手である彼は、カラ松の生を哀れに思うことができなかった。
 生ぬるい、と思ったわけではない。
 ただ、過去はそうだったのか、と受け止めてしまっただけだ。
 過ぎ去った時間に哀れも喜びもない。
 長く歯車を続けてきた一松の価値観はソレだった。
「ファミリー自体に思い入れはあまりないがな」
 恩がある、と言ったものの、強いてあげる理由の一つになるだけであって、その言葉に強い意味はない。
 必要とあらば裏切ることもある。カラ松は言外にそう告げた。そして、おそらく、その「必要」というのは、一松に関する事柄になる。
 大切にされている、という実感は、存外悪くないものだった。
「……よかったら、一松のことも聞かせてくれ」
「調べたんでしょ?」
 おずおずと切り出したカラ松に、一松は返す。
 どの程度まで調べたのかはわからないが、一松の人生など薄っぺらいものだ。生きてきた時間のおよそ半分があの工場での生活。変わらない日々。工場に来る前だって似たようなものだった。
「オレ一人で調べられた範囲は工場にきてからだ。
 嫌だったら言わなくて構わない。
 できれば、でいいんだ」
 自分も教えたのだから、等という押し付けがましい言葉ではない。カラ松は純粋に、愛した人の全てを知りたいと思い、言葉を口にしている。
 機会があれば聞いてみたい、とずっと思っていたのだろう。
 互いの深い部分。他人に触れられたくない部分。カラ松が明かしたソレにあわせ、自身のソレを開示したとき。二人を繋ぐ関係性に変化は現れるのだろうか。一松は頭の片隅で考えた。
 何にせよ、カラ松の過去を聞いたのだから、こちらも話さなければ公平ではないだろう。一松は口を開く。
「面白い話じゃないよ」
「それでもいい」
 カラ松の話も大概だ。
 過去の話に面白さを求めるナンセンスさは十二分に理解できている。
「……ボクは、母さんに嫌われてた」
 瞼を下ろし、昔を思い返す。
 父と母、そして自分がいる、小さな部屋での記憶。
「あなたはうちの子よ、って言う母さんと、あんたなんか私の子じゃない、って言う母さんの記憶がある。
 たぶん、情緒不安定な人だったんだと思う」
 長い髪を振り乱しながら、母はいつも泣いていた。
 一松を肯定する時も、否定するときも、すべからず彼女の瞳は潤んでいた。
「蹴られて、殴られて、飯もまともにもらえなかった。
 学校にも……たぶん、行ってなかった」
 華奢な女が振るう暴力とはいえども、幼い一松に怪我を負わせるは容易かった。あちらこちらに痣ができ、切り傷からは血が流れた。 怪我を治すために体が必死になり、熱が出たこともあったはずだ。
 そんな時の記憶でさえ、母は優しくなかった。涙し、腕を振り、ヒステリックに叫び声を上げる。
 一松はそんな母を眺めながら、何かを待っていたような気もする。子供らしく、正義のヒーローでも待っていたのかもしれない。しかし、現実というものは無情で、一松は誰にも助けてもらうことができなかった。
「小学校に行ってた記憶は薄っすらあるんだよね。楽しかった、気がする。
 でも、気づいたら学校には行ってなくて、その内、母さんがいなくなった」
 具体的にどのタイミングで母が消えたのかは覚えていない。気づいたら、というのが全てだった。
 母が消え、父と一松だけが残された。
 この父親というのが碌でもない男で、仕事にも行かず、家で酒を飲んでは母や一松に当り散らす、という典型的なクズだった。母が家を出た原因は、間違いなく父にある。
「母さんがいなくなって飲んだくれの父さんはますます酒びたりになった。
 んで、ボクをボコすか殴ってきた」
 酒がない、金がない、女がいない。
 一松に言われてもどうしようもないことばかりだった。理不尽な暴力ばかりがある毎日だった。
「そしたらある日、黒い服の奴らがきて、ボクをあの工場に連れて行った。
 道中、ボクは父さんに売られたんだってことを教えられたよ」
 父は一松を売ることで借金を返済した。さらに、その後は一松の給料からいくらかの金を恵んでもらっていたらしい、というのは割かし最近になって知ったことだったりする。
 どうりで、父が死んだと聞かされた日から給料の額が変わったわけだ、とその時は妙に納得したものだ。
「……あんなクズの種から出来たボクは、ブラック工場がお似合いなクズだよ」
 自虐的に笑う。そうでもしなければ、悲しみに押しつぶされてしまいそうだった。
 もう乗り越えた過去だと思っていたのだが、口に出してみると改めて当時の辛さや悲しみが思い出されてしまう。同時に、自分という存在に嫌気がさしてしまった。
「一松はクズじゃない」
 強い言葉だった。
「うっさい」
 胸を一直線に突き刺す言霊に、一松は顔をうつむけた。
 断じて涙目等にはなっていない。
 久々に名前を呼ばれ、胸の奥底が揺らいだ等ということもない。
「お前が優しい男だということは、オレがよく知ってるよ」
 そう言ってカラ松は一松の頭を抱きかかえるようなハグをする。
 スーツがじんわりと熱を持ったことや、一松の肩が震えていることに、カラ松は一言なりとも触れはしかった。

 *

 一松との逢瀬が始まってどれだけの時間が経っただろうか。
 カラ松の毎日は満たされたものになっており、町の人々との交流も円滑に進んでいた。欲していた土地も誰がどう見ても全員幸せな解決を果たし、目立ったトラブルもなく日々が過ぎていく。
 この幸福がこの後も一生続くのであれば、この土地こそが地上の楽園であったのだ、とカラ松は声高に叫ぶことができただろう。
 幸せが崩れるのは、一瞬のことである、と彼は痛いほどよく知っていたというのに。
「オレに仕事?」
 ポストに投函されていた手紙には、消印も切手も貼られていない。つまり、内密に送られてきたマフィア関連の手紙、というわけだ。
 中を開けてみると、ボスの右腕である男からの指令書だった。
 内容は簡単なもので、とある場所で行われる取引への参加が今回の任務。それだけ見ると誰でもできそうな仕事だが、詳細を読んでみると、少々荒事に発展しかねない相手との取引であることがわかる。カラ松はファミリーの中でも荒事に強い部類に入る人間であり、取引相手の自尊心を満たすことができる程度には地位があった。どんな人間でも、地位のある者に対応されれば、相対的に自身の価値も上がった、と捉えるのだから単純だ。
 任務にカラ松が宛がわれたのはわかるが、如何せん場所が遠かった。
 日帰りで行くことも可能だろうけれど、夜行バスを使うわけにもいかないので当然、カラ松が車を運転することになる。寝不足で事故を起こす、などというマネができるわけもなく、ここは潔く数日の猶予を持って任務にあたることになりそうだ。
「……せっかく班長さんと仲良くなってきたのに」
 愛おしい人との逢瀬を一時的にとはいえ中断させられるのだ。この程度の恨み言は許されるべきだろう。
 指令書にはカラ松がいない間、この町に別の者を派遣ると、という旨も記されていた。カラ松はため息をつく。上に逆らうつもりはないけれど、勘弁してほしい、というのが本音だ。
 今までカラ松が交流を深めてきた人達だ。急に別の人間がやってきても警戒するに違いないし、下手な奴が代わりになっていた場合、また一からのスタートになりかねない。
 ならばいっそのこと、数日間はこの土地を留守にしたほうが百倍マシというもの。
 カラ松は手紙を灰皿の中で燃やし、出立の準備をする。
 皮手袋と銃。返り血で服が使い物にならなくなった場合の着替え。その他諸々を用意し、町へ出る。突然、カラ松の姿が見えなくなって町の人々を心配させてしまっては申し訳ない。数日間は留守にすることを伝えてまわった。
「また帰ってきてね」
「美味しいお肉をとっておくわね」
 人々は優しく声をかけてくれた。彼らはカラ松がマフィアだということを知っているけれど、数日の留守と犯罪行為はイコールで繋がらないらしく、ちょっとお出かけ程度に考えてくれたようだった。
 一通りの人に声をかけた後、カラ松は夜を待つ。
 誰よりも留守を伝えなくてはならない人物に会うために。

 *

 迎えた夜、いつもの場所、カラ松は猫缶五つほどを携えて一松を待った。
 月が雲に隠れ始めた頃、聞きなれた足音がカラ松に耳に届く。
「班長さん」
「コンバンハ」
 一松の挨拶はいつもぶっきらぼうでぎこちない。
 そんなところも可愛らしく思えるのだから、恋は盲目だ。
「……どうしたの?」
 合流後、猫の集まる場所へ向かう。それが二人の日常だった。
 しかし、今日のカラ松は違っていた。進む一松を横目に、彼の足は縫い付けられたかのように動かない。
 怪訝に思った一松が尋ねて、ようやくカラ松は足を一歩踏み出す。
 数歩分先に行ってしまった一松に追いつくと、カラ松はすっと猫缶を差し出した。
「今日は、いけない。
 ……たぶん、三日くらいは帰ってこれない」
 押し付けられた猫缶は、その間に渡される予定だった物の前払いらしい。元は会う口実だったくせに、今やカラ松も猫達のために猫缶を持ってきている節がある。
 五つ積み上げられているとはいえ、たかだか猫缶。重みはそうないし、荷物にはならない。このまま一松が宿舎にまで持ち帰ったとしても大した負担にはならないだろう。
 しかし、猫缶を手にした一松の表情は硬かった。
「……仕事?」
 数拍の間を置いてから尋ねる。
 確信を持った問いかけだ。本来ならば深く追求すること、すなわち死、とでもなりそうな案件であったが、聞かないという選択肢が一松の中に存在していない。
 身近な人間が危険な仕事へ向かおうというのだ。出来る限りのことは知っておきたい、というのが人の性。
「うん」
 格好をつけるでもなく、小さく頷く。
 カラ松とて、できることならば行きたくない。
 取引ごときで死ぬつもりは毛頭ないけれど、こんな世界にいればイレギュラーなどいくらでも起こりうる。それこそ、道中に射殺される、ということだって全くもってありえない、というわけにはいかないのだ。
「大丈夫。ちゃんと帰ってくる」
「別に、待ってない」
 こんなことを言うべきではないのだろう。
 頭ではわかっているのだが、一松の口から出るのは可愛げの欠片もない、冷徹な言葉ばかりだ。カラ松と会うようになり、対人とコミュニケーションをとるようになって始めて、彼は自分が天邪鬼であることを自覚した。
「待っててくれると嬉しい」
 一松の心境を知っているのかいないのか。カラ松はあくまでも自分が待っていてほしいのだ、と告げる。一松が焦がれるからこそ待つのではなく、カラ松の望みを叶えるために待っていてほしいと。
「気が、向いたら、ネ」
 そう返すのが一松の精一杯だった。
「ありがとう」
 カラ松は笑い、一松へ顔を近づける。
 あ、と一松が思ったとき、ソレはすでに終わっていた。
「じゃあ、行ってくる!」
 駆け出すカラ松の背を凝視していた一松の手から、猫缶が転がり落ちる。五つ全てが木の葉を潰す音をたてた後、彼は自由になった手でそっと自身の唇を押さえる。
 まだ、暖かいような気がした。
「うっそ、だろ……。
 あのクソ松がぁ……」
 押し付けるだけのキス。
 今時、中学生でももっと大人なキスをすることだろうに。
 子供か、と吐き捨ててやるためには、そんなキスで真っ赤になってしまった顔を先に冷やしてやる必要があった。

 *

 一松と別れた後、カラ松はすぐさま車を飛ばし、ボスのもとへ向かった。まずは自分の代わりをあの町へ寄こすことを止めなければならない。
 その後、指令書に書かれている場所へ向かう。
 幸いなことに、ファミリーの本拠地と取引場所はそう遠くない。時間は充分にある。
 夜の高速を走りぬけ、制限速度も無視して突っ走った。数時間もぶっ通しで運転し続けるのは辛いものがあるのだが、追跡、逃走と車を運転する機会は多くある業種なため、相応の耐性はついている。
 とはいえ、到着時には疲れによって体がふらつく。酷使された眼球は潤いを欲しっており、カラ松は車内で目薬をうつ。すぐにでも車を飛び出し、ボスとの謁見を申し出たい気持ちを抑え、数度深呼吸をした。
 ボスと会うのだ。粗相をするわけにはいかない。
 あの人の前へ行くのであれば、数時間の疲れなど存在していませんよ、という提を崩してはいけないのだ。
「カラ松だ」
 胸を張り、背筋を伸ばし、凜として見張りに告げる。彼の手にはプリュネファミリーの証である梅の花をあしらったバッヂがあった。これは特注品で、所属している部隊や人物によって少しずつ文様が変わっているのだ。このバッヂがプリュネファミリーにおけるカラ松の全てであるといってもいい。
 数分間待機させられた後、カラ松は奥へと案内された。
 真っ赤な絨毯を敷き詰めた部屋は、良質な葉巻の匂いに満たされており、部屋の主の趣味が良くわかる。机や椅子、置物にいたるまで、全てが選び抜かれた物で構成されたこの場所は、カラ松にとって居心地の良い場所ではない。
 カラ松は絨毯に膝をつき、頭を垂れる。
「どうした、カラ松。
 指令書に不備でもあったか?」
 悠然と座る男こそ、プリュネファミリーのボスだ。狡猾さは顔にまで滲み出ており、人相はすこぶる悪い。恰幅がいい、といえば聞こえはいいが、結局のところ怠惰に過ごしているが故の贅肉は醜いの一言につきた。
 そんな男でも、こうしてボスをやれているのは、頭の回転と右腕の手腕あってこそ。また、噂でしか聞いたことはないが、射撃の腕も中々に良いらしい。
「いえ。完璧な指令書でした」
 頭を上げることなく、カラ松は話す。
 この場では、許可なく顔を上げることは許されていない。
「では何故ここへ?」
「一つ、私から提案をさせていただきたく」
 間が空く。
 別段、何か考えているわけではない。ただ、間を開ける、ということに意味がある。
 重い沈黙はそれだけで人を萎縮さえる。そのことをボスは本能的に知っているのだ。
「……言ってみろ」
「はい。私が任務に出ております間、別の者をあの町に置く、というお話でしたが、取り下げていただきたいと考えております」
「理由は」
「私以外の者がプリュネとして顔を出せば、町の者にいらぬ警戒を与えるかと。
 数日の不在でどうこうなるような町ではありません。
 どうか、再考のほどをお願い申し上げます」
「却下」
「なっ!」
 先ほどの沈黙とは違い、今度は間髪いれずに否定の言葉が投げられた。
 思わず顔を上げそうになったカラ松だが、寸前のところで思いとどまる。しかし、驚愕が露になった声を抑えることだけはできなかった。
「今はお前に任せているだけで、いずれはあの町も別の者が担当することもあるだろう。
 お前が死んだとき、お前が別の任についたとき。条件は無数にある。
 そんな時、お前でないから、等という理由であの町の統治ができなくてどうする」
 正論だ。
 仕事というのは、一人ができればそれでいいというものではない。特に、マフィアのような人の入れ替わりが激しい場所ならばなおさらに。
 ならば、町の住人達にも、別の人間がプリュネとして存在していることに慣れてもらうべきだろう。
 ボスの言う言葉は全くもって正しく、頭の回転が鈍いカラ松では言い返すこともできない。
 カラ松は唇を緩く噛む。本当は力いっぱい噛んでやりたかったが、血を流してしまったがために余計なことで咎められるのは回避するべきことだ。反感を買っても得をすることは一つもない。むしろ、態度を問題とし、あの町から引き剥がされてしまう可能性だってある。
「――承知いたしました。
 私のためにお時間を割いていただき、ありがとうございます」
 平静を保った声を絞り出す。
 不安も心配もあるが、数日のことだ。多少のマイナスがついたところで、またすぐに好感を取り戻すことができるだろう。一松のいる工場にちょっかいをかける時間もないはずだ。
 焦ることはない。任務をこなし、素早く帰る。そうすれば、また平和で楽しい時間が取り戻せるはず。
 カラ松は自分に言い聞かす。
「大切なファミリーのためだ。時間ならばいくらでも割こう」
 寛大な言葉だ。心がこもってさえすれば。
「では、任務の成功を祈っているぞ」
「はい」
 カラ松は静かに立ち上がり、その場を去る。
 来たときよりもやや早足で出口へ向かい、見張りに挨拶をしてから車に乗り込む。適当なところで一眠りをしたら、また車をとばさなければならない。
 だが、荒ぶる今の心はそれを許してくれなかった。
「クソッ!」
 ハンドルを強く叩く。
 眉は強く寄せられ、口は噛み締められた歯をむき出しにした顔。宿っているのは苛立ちと怒りだ。
「何が「大切なファミリー」だ! 白々しい!」
 カラ松の肩に過去がのしかかる。
 嫌だと喚いた記憶も、助けてと泣き叫んだ記憶も、許してと懇願した記憶もある。しかし、いずれの記憶達も、最後まで救われることはなく、涙と掠れた声で終わりを告げるばかり。
 部下は備品。拾い育てたカラ松は使い勝手のいい消耗品。
 与えられた地位は、より危険な任務へ誘うための張りぼてだ。
 今回の任務にも、どんな危険が潜んでいるかわかったものではない。考えたくはない話だが、成功を機に、等と言って移動させられることだってあるかもしれない。
「……班長さん。応援していてくれ」
 息を長く吐き、願う。
 任務達成後に何が待ち受けているのかは不明瞭だ。しかし、何はともあれ死んでは意味がない。そうでなければ、何を考えたところで、心構えを持ったところで、全て水泡に帰すだけ。
 だからこそ、カラ松は一松のことを思い出す。
 愛おしい彼が待ってくれている、と思うだけで生きて帰ろうという気力がわいてきた。苛立ちで熱くなっていた脳が冷え、生き延びるために全身の感覚が鋭くなっていくようにさえ感じられた。
 現金な体だ、とカラ松は笑う。
 嫌ではなかった。それどころか、一松のために生きようとする自分を愛おしいと感じた。

 *

 気を静めて、一度カラ松は車中で睡眠を取った。そこからまた車を走らせる。あの町を出て、かれこれ一日と十数時間が経過している。
 調子はすこぶる良い。このまま順調に進めば、行きよりも少しばかり早いスピードで帰ることができるはずだ。五日間雨続きで一松と会えなかった日のことを思えば、一日や二日、三日などあっという間だ。雨と違い、カラ松の頑張り一つで会えぬ時間を少しでも減らせるとなれば、心は尚更に冷静さを増す。
「ブツは?」
「こちらに」
 人のいない廃工場。そこで取引は行われる。
 互いに無駄口は叩かず、静かに、淡々とそれは進む。
 法を無視した取引故に、彼らには命の危険が常に寄り添っている。些細な言葉一つ、動き一つに意識を向けていなければならず、また、何かしらの拍子に勘違いでもされようものならば、言い訳の暇もなく魂と体は引き剥がされる。それを避けるためにも、取引というのは粛々と行われなければならないのだ。
 相手は五人。こちらも五人。
 カラ松は普段関わりのない下っ端達を背後に立たせ、鞄に入ったブツを見定めていく。
 地位に見合わず、彼には部下がいなかった。元より、誰かの上に立つ性分ではない、と思っているので不満はない。ただ、やはり自分は消耗品なのだ、と自覚するだけだ。
「確認した」
 文句は言わない。それで終わりだ。
 相手側も小さく頷き、取引完了を告げる。
 カラ松と相手は目を見合わせ、同時に背中を向ける。その様子を互いの部下が見守る。こうすることで、互いに背中を狙われる心配をなくしているのだ。
 片方が裏切り、背中を向ける相手を撃とうものならば、部下が反応し、上司を守る。動きや声かけが間に合わなくとも、何らかの反応を見せることで上司側も避けるための動きが取れる、というわけだ。
 無言でカラ松は歩く。一歩、二歩。出口まではまだ数歩ある。
 カラ松は、油断していた。
 忘れていたのだ。敵は、身内にもいるのだ、ということを。
「――なッ」
 タン、という軽い音。
 しかし、それは命を葬り去ることのできる音。
 背筋を悪寒が走る頃には、寒気を多い尽くすような熱にカラ松は襲われていた。
「貴様ら、何をしている!
 愚図がぁ!」
 カラ松は仮の部下達を睨みつける。
 撃たれたのは肩だ。命に別状はない。だが、突然の衝撃に体のバランスは崩れ、思わず無防備になってしまった。本来ならば、すぐに迎撃体勢をとらなければならなかったというのに。
 背後から駆ける音が聞こえる。
 蹲ったカラ松の手から渡したばかりのブツを回収しき来たのだ。
「どけぇ!」
 アタッシュケースに手をかけられ、カラ松は腹の底から声を上げる。
 痛む肩を無視し、重量のあるアタッシュケースを振り回す。銃ほどの殺傷能力はないが、当たれば相当な痛手を負うことは間違いない。
「腕の一本、使えなかろうがお前達を殺すくらいわけないぞ」
 銃は出さない。リロードができないから。
 単純な暴力で相手を屈するのは楽なことではないが、できる自信が彼にはある。今までも、多くの人間の首をへし折ってきた腕がまだ片方残っている。
 しかし、多勢に無勢。六対一では勝てるものも勝てない。相手が飛び道具を所持しているとなれば、勝率はぐんと下がる。
 数分も立てばカラ松は地面に組み伏され、手にしていたアタッシュケースは強奪された。
 何とも不気味な話ではあるが、この間、仮とはいえカラ松の部下であるはずの五人がは微動だにしなかった。彼が撃たれるその瞬間も、わずかな反応さえ見せず、まるで置物のように立ち尽くしている。
 恐怖によって硬直しているわけではない。もしそうであるならば、カラ松が袋叩きにあった時点で喚きながらこの場を離れていることだろう。
 とすれば、考えられる理由はただ一つ。
「――きさ……ま、ら……グル、か……」
 朦朧とする意識の中、カラ松は掠れた声で呻く。
 部下達はこの襲撃を知っていたのだ。そしておそらく、その首謀者は相手側ではない。プリュネのボス、彼が首謀者に違いないだろう。理由はない。ただ、カラ松の直感がそう告げていた。
 とうとうカラ松を処分したくなったか、見せしめに使おうと思ったのか。裏切りの理由まではわからないが、おそらく生きては帰れないのだろう。
 最期に、一松の顔が見たかった。
 そんな願いと共に、カラ松の意識は一度消える。
 だが、存外早くお目覚めの時間というのはやってくるもので、カラ松はつい最近見たばかりの赤い絨毯を浮上したばかりの意識に映すこととなった。
「……ここは」
「起きたかい? 我が愛しのファミリーよ」
 男の声にカラ松は顔を上げる。
 うつぶせに寝転んだ状態からは起き上がれなかったので、苦しい角度になってしまったが声の主は確認できた。否、確認する必要すらない。耳に届いた声は、よくよく知っている声だったのだから。
「ボス」
 カラ松は呟いた。
 今、彼はプリュネの本拠地、ボスの部屋に両手を後ろに縛った状態で転がされていた。無論、怪我の手当てなどされておらず、肩は焼けるような痛みを持ったままだった。
 おそらく、自慢の絨毯に血が染みこんでいるだろうけれど、どうせ元々赤い色だ。気にもしないのだろう。
「私は悲しいよ」
 仰々しく彼は言う。
「お前を信じて任務を託したというのに、こともあろうか、金だけ持って逃げられるとは」
 救ってくれた部下達に感謝しろ、とまで言われ、カラ松は反吐が出そうだった。
 全てはお前の手の上での出来事だったくせに、と。白々しさもここまでくるといっそ黒く感じてしまう。
「悲しいことだが、掟は守られなければならない」
 裏切りは死。失敗には死、もしくは温情を伴った、死を願うほどの罰。
 それがプリュネの掟だ。
 カラ松も幾度となくその身をもって思い知ってきた。
 今までは殺されずにいたが、今度ばかりは死ぬのだろう。今更、死を願うほどの罰などありはしない。薬も電気も焼かれることも水で責められることも、ありとあらゆる拷問を受けてきた。
 日常でこそ感情を持つカラ松だが、苦しみを与えられるときの彼は人形だ。痛みも熱も冷たさも感じるが、それを表には出さない。それらに気をとられることもない。
 だからこそ、カラ松はあの廃工場ですぐさまアタッシュケースを振り回すなどと言う攻撃に撃ってでることができたのだ。常人であれば痛みに呻き、地面を転げまわってたことだろう。
「それがあなたの判断であるならば」
 カラ松は目を閉じる。
 悲しみはある。無念もある。全てを吐き捨て、暴れてやりたい気持ちもあった。だが、どうせ全ては徒労に終わるのだ。ならば、いっそ潔く死を選ぶほうが痛みなく終われるかもしれない。
 この場所は、あまりにも恐ろしすぎる。
 物心ついたときから痛めつけられ、拷問を受けてきたカラ松にとって、本拠地はトラウマの塊のような場所だった。生きる気力も、足掻く気力もわいてこない。
「――ところで愛すべき息子よ」
 ボスはカラ松のことを名前で呼ばない。
「ブラック工場の班長は、元気にしているだろうか」
 カラ松の背中から汗が吹き出る。
 瞳孔が絞られ、体が震えだす。
 感情を出すな。悟られるな。悲鳴を上げるな。脳が様々な指令を出すが、どれも守られない。どのような演技をしてみせたところで、最早全て手遅れなのだ。
 わずかに開いた口から、小さな悲鳴が漏れ始めていた。
「お前は優秀なファミリーだ。
 失くすのは惜しい」
 ボスがカラ松を見下ろす。
 冷たい眼孔。誰を殺すのも厭わない色だ。
「だが、少し腑抜けた」
 声だけが優しい。まるで、カラ松の体をそっと包み込み、さするような雰囲気だ。
 けれど、やはり温度は冷たい。触れた先から凍てつかせる氷の声。
「だから今回の任務も失敗した」
 それ以上、ボスは何も言わなかった。
 微笑を湛え、じっとカラ松を見る。
 言外に、一松を殺す、元を絶つ、と言っている。
「や、めて……」
 とうとうカラ松が声を上げた。
「やめて、ください。
 待ってください。
 ごめんなさい。許してください。
 彼は悪くないんです。ボク、ワタシ、が、悪いんです。
 ごめんなさい。ごめんなさい」
 ガタガタと体を震わせ、頭を絨毯にこすり付ける。
 目からは涙が溢れ、頬を湿らせていく。
「殺さないで。あの人を、ころ、ころさないで、ください。
 オレが死ぬから。罰は、受けるから。
 お願いします。なん、何でも、何でもしますから」
 声がだんだんと大きくなる。
 ボスは黙したままだ。
「お願いします! オレにできる、できること、なら! 何でも! します!
 どこを、失ったって、いいから! 臓器でも、目でも、心臓でも! 何でも、全て、あなたに、ファッミリーに! 捧げます!
 だから、許してください! 殺さないで! あの人だけは!
 二度と会いません! 二度と失敗しません!
 お願いします! お願いします!」
 両の手が自由であったなら、ボスの足に縋り付いていたことだろう。みっともなくしがみ付き、涙で彼のズボンを濡らす。蹴られようが殴られようが、何度でも再び縋りにいったはずだ。         
 許しがでるまで。自身の死が確定するまで。何度も何度も。
 だが、ボスは言うのだ。笑って。
「哀れな息子。
 お前のために、首は持って帰らせよう」
 あたかも、慈愛がこもっているかのような口調。
 残酷な言葉はカラ松を串刺しにする。
「あ、ああ……」
 声にならない悲鳴が上がった。
 喉が擦り切れるような叫びは、建物を揺らがす。
 カラ松とて、あげようと思って声をあげているわけではない。留めることのできない感情が、言葉にさえならぬ思いが、意味のない音となって外へ我先にと溢れ出ているだけだ。
「殺す! お前を! 殺す!
 絶対にだ! あの人に手を出したら、殺す。
 いたぶる。くびり殺してやる。海に沈めてやる。その前に数十、十数、数百刺してやる。生きたまま燃やしてやる。懇願させてやる。懺悔させてやる。それでも許さず、苦痛と悲痛に満ちたまま殺してやる」
 叫びが切れ、カラ松はバタバタと芋虫のようにもがきながらボスへ近づいていく。
 声や言葉に宿るのは純粋な殺意で、本来ならば一つを口にした時点で蜂の巣にされるようなものばかり。今もまだカラ松が息をしているのは、ボスが嘆き悲しみ、殺意を煮えたぎらせる彼を見て楽しんでいるからに過ぎない。
「さて、私は仕事があるので失礼する。
 次に会うときは、お前の愛おしい人の顔を一緒に見ようか。
 愛しのファミリーが愛した人を私に紹介しておくれ」
「殺す!」
 暴れるカラ松を横目に、ボスは高笑いをしながら部屋を出る。
 去り際、出入り口を固めていた部下に、カラ松を牢へ入れておくように指示を出す。多少の汚れならば問題はないが、延々と垂れ流される血と涙とその他体液に絨毯を汚染させるわけにはいかない。
 ボスの姿が消えると同時に、優秀なる部下達は即座に動き出す。
 一人がカラ松の髪を掴み上げ、もう一人が腕を縛っている縄を掴んで強制的に彼を立ち上がらせる。集団で暴行を受けたダメージはまだ残っている上、意識を取り戻してからずっと寝転がらされていたこともあり、カラ松の足元はおぼつかない。
 ふらり、と体を傾け、部下の一人とぶつかった。
「おい、しっかりある――」
 歩け、とは言えなかった。
 彼にぶつかった男は、手負いの人間ではなかったのだ。
 ソレは、獣。
「ぎッ、あああああ!」
 悲鳴。
 同時に溢れたのは飛び上がる鮮血だ。
 突然のことに、カラ松の背後にいた男も呆然とその様子を眺めてしまう。
 すると、次はお前だといわんばかりに獣の視界に彼が入る。
「死ね」
 ゴキ、と音がした。
 一瞬で意識を飛ばした彼は気づかなかったが、首をへし折られたのだ。
 わずか数十秒の出来事。
 まず、カラ松はぶつかった男の首筋に噛み付き、肉を抉り取った。動脈ごと抉りぬかれた首からは鮮血が噴出し、その様子をぼうっと見ていた男の隙をついてカラ松は手首の関節を外して縄から抜けた。その後、素早く関節をはめ込み、男の首を片手でへし折った。
 それだけのこと。
 相手が二人だったからこそ、カラ松の行動は成功した。これが三人以上であった場合、殺れたのは二人までで、後は残った者達に殺されて終わりだった。
 首を噛み切られた男の悲鳴につられ、外からバタバタと足音が聞こえてくる。ボスか、他の幹部達か。どちらでも同じだ。
 カラ松は外の者達を相手にするつもりはこれっぽっちもなく、すぐさま窓を開けて外へ躍り出た。こんな時、本拠地が上へ階層を重ねるタイプではなく、下に階層を深めるタイプでよかった、と思わずにはいられない。
「逃げたぞ!」
「何があったんだ?」
 ボスの部屋にきたらしい者達の声が遠く、カラ松の耳に届く。向こうはしばらく混乱してくれていることだろう。すぐさま追ってくるような冷静さが奴らにないことは、今のカラ松にとって救いだった。

 *

 カラ松がいようがいまいが、一松の日常は変わらない。
 朝から夜にかけて歯車のように働き、夜も更ければ猫と遊び、部屋で寝る。上手い食事がなくなったことは残念なことではあるが、雨続きのときも購買の弁当を食べ続ける生活をしていたのだ。特に苦はない。
 ただ、少しばかりつまらなくはあった。
 猫と遊ぶ前にいつもの場所で少し待ってみたり、渡された猫缶が減ることを惜しんでみたり、押し付けるようなキスを思い出して一人寂しく抜いたり。
 そして、ふと気づくのだ。
 もしかすると、自分は存外、あの男のことを好いていたのではないだろうか、と。
 一人っきりの時間は長く、余計なことを考えるのには最適だった。仕事中は手を動かしながら。猫と戯れているときは撫でながら。一松の頭の片隅は、常にカラ松を思って動き続けている。
 これが恋や愛なのか、と問われると、一松にはわからない。
 始めての体験であり、始めての感覚なのだ。自信を持って答えは提示できない。
 だがしかし、カラ松が帰ってきて、またあの無害な笑顔を自分に向けるというのであれば。その時は、この愛なのか恋なのか。はたまた、もっと別のナニカなのかすらよくわからない感覚と感情について話してやってもいい、と思えた。
 そして、できることであれば、喜べばいい。花の咲くような笑みを浮かべればいい。そしたら、次は一松からキスをしてやるのだ。あんな触れるだけではない。深く、甘いキスを。
 そんなことを考えていたからだろうか。一松は、一瞬反応が遅れてしまった。
「班長さん!」
 工場内に響いた声は聞き覚えがあるもので、切羽詰った何かを感じさせる色を含んでいた。
 脳に声が届くまでが一拍。そこから声の主を検索し、答えがはじき出されるまでが一拍。さらに彼が今ここにいる、という異常事態に気づくのが一拍。緩やかな瞬きほどの間に、周囲はすっかりざわついている。何の作業も行われないまま、レールの上に乗った部品達だけが流されていく。
「班長?」
「どこの班長だ?」
「つか、アレ誰?」
 ざわめきを聞きながら、一松は足を踏み出す。
 姿はまだ確認していないが、誰が誰を読んでいるのかはすぐにわかった。
「てめぇ、何しに――」
 来たんだ、とは言えない。
 駆けていた足を止め、部屋の入り口数歩まで入ってきていたカラ松の姿を見る。
 明るい場所で見るのは数度目だが、記憶のどこにもない程に彼の姿はボロボロだった。
 スーツはあちらこちらが破れ、中にきたシャツはだらしなくズボンの外に出ており、所々が赤く染まっている。誰の血液かはわからないが、全てが全て返り血、というわけではなさそうだ。
 顔や手のひら、といった部分には痣や切り傷が所狭しと並べられており、カラ松が死線を掻い潜ってここまでやってきたことを如実に現している。
「なん、ど……」
 何で。どうして。
 どの言葉も一松の口からまともに出ない。
「一松」
 赤が付着した手が伸び、一松の腕を掴む。
 周囲のざわめきが大きさを増して広がっていく。
 彼らは口々に、カラ松という存在と一松の関係性を噂だてる。中には、とうとう一松が薬物に手を染めたのだ、と言い出す輩までいる始末だ。そんな言葉が一松の耳に入ればただでは済まないと知っているはずなのに、どうしてかこんな場所まで落ちてくる人間は学習能力というものが著しく欠如している者が多数を占める。
「行くぞ」
 力任せに腕を引かれ、一松は思わず足を踏み出す。
 引っ張る力は緩められず、バランスを立て直すべく一松が何度も足を前に出すハメになった。そして、その分だけ一松はカラ松が誘うままに歩くこととなる。
 向かう先も、引かれる理由も、一松には何一つわからない。
「おい! まだ仕事が――」
「仕事は終わりだ」
 工場の出口付近までやってきてようやく一松は正気を取り戻す。カラ松の襲来によって止まってしまった仕事を思えば、数日の徹夜も覚悟してしまう。今頃、放置された下っ端共も慌てて作業を再開しているはずだ。ブラック工場において、仕事以上に優先されるべきことなど一つたりともないのだから。
 一応は責任者であるのだから、一松も速やかに作業へ戻り、少しでも遅れを取りもどさなければならない。
 だというのに、彼の腕を掴むカラ松の力は強く、一松の抵抗は全て無に帰す。
「お前は今日をもってこの工場を辞めるんだ」
「はぁ?」
 以前も話したが、一松はこの工場を出るつもりは一切ない。
 外の世界で、麓の町にいる人間達のように生きる自分の姿が全く想像できない。職もなく、住む場所もなく、静かに路地で野垂れ死ぬのが関の山。ならば、いっそ、ゴミクズのように体を酷使されながら死んでいくほうがいい。
「わけのわかんねぇことを!」
 敷地の外に出る直前、一松は足を踏ん張る。
 心を許した相手とはいえ、自身の意見を無視した行動に従えるはずがない。むしろ、あの穏やかだった時間を思えば、カラ松に裏切られたような気さえする。
 一松の胸がチリチリと痛んだ。
「……オレのせいで、一松の命が狙われている」
 目を伏せながら零された言葉に、やる気のない一松の目が俄かに見開かれた。
 命を狙われている。
 工場内でそんな言葉を耳にしたことはあった。その現場を見たこともある。だが、自身の身に降りかかってくることになろうとは思いもしなかったような言葉。
 一松の沈黙をどのように受け取ったのか、カラ松は彼から目を逸らし、強く腕を引く。
 もう抵抗はなかった。一松は引かれるがまま、何の手続きもなく工場の敷地外へ出て行く。受付が何も言わなかったのは、カラ松から発せられるオーラと、懐からちらりと見えた黒い鉄の塊があったからこそだ。
「恨んでくれて構わない。
 それだけのことをしてしまった」
 ざくざくと木の葉を踏み荒らしながら山を下る。
 周囲は明るく、夜とは様相がまるで違っていた。日の下で、カラ松の姿をハッキリと拝みながら歩くのも悪くはない。そんな場合ではないだろうに、一松の頭はそんなことを考えていた。
「お前の命は保障する。
 何に代えても」
 カラ松の声は真剣そのものだった。
 殺気を滲ませながら発せられるその声は、一松が聞いてきたカラ松の声の中でも一等色気があり、背筋を粟立たせてくる。命を狙われているような状況でなければ、すぐにでも意図を持った触れ方をしてやりたくなってしまう。
「だから、今はオレを信じてついてきてくれ」
「……今更、何言ってんの」
 もうブラック工場は遠く過ぎ去り、最早一松にはカラ松と共に行くより他に選択肢がないような状況だ。信じようが信じまいが、道は一つ。一松に与えられた決定権などゴミクズ以下の塵だ。
「でも、説明はして。
 歩きながらでいいから」
 意味もわからず狙われるのは気持ちが悪い。
 せめて、ここに至る経緯を知りたかった。おそらく、その中にカラ松がボロボロの理由も入っているのだろう、とあたりをつけながら尋ねてみる。
 しばしの間、カラ松は口を閉ざした。
 話すべきか、話さざるべきか。
 楽しい話でないのは確かであったし、カラ松の失態を知られるのは恥ずかしいような気もした。だが、この件に関して、一松は無関係ではない。ならば、一から十まで、せめてカラ松の知っていることくらいは知る権利があるはずだ。
 何度も何度も考え、カラ松は判決を下す。
「ハメられた」
 一言。
 それだけで全て説明できるとは思っていない。しかし、その次の言葉を吐くのにもまた時間がかかった。
 元々頭の回転は鈍く、物事を順序だてて説明するのは不得手であったし、話すこと以外にも気を配らなければならないことが多くあった。人の気配。目的地までのルート。相手の行動の予測。それら全てを一度に処理しろ、というのは酷な話といえる。
 一松もそのことを理解してくれていたのか、カラ松を急くようなマネもせず、黙って足を動かしながら待っていてくれた。
「オレが一松のことを愛していることが何処からかバレたらしい」
 張りぼての地位を与えられたに過ぎない消耗品が生意気にも愛する人を作った。それにより、カラ松は少しばかり人らしくなった。あの町や工場に執着した。いずれ、その人らしさが仕事の邪魔になる、とボスは判断したのだ。
 ターゲットの背後にいる娘に絆されるかもしれない。金を持っていない者へ同情心を向けるかもしれない。そうでなくとも、敵対しているファミリーに一松を人質にとられてしまうかもしれない。
 可能性は星の数ほどあった。
 故に、それらが実現する前に、一松を殺し、カラ松の中から完全に人らしさを砕こうとしたのだ。
「ふーん。あんたのとこのファミリーってクソだね」
 全てを聞き終えたとき、二人は小汚い路地裏に身を潜めていた。
 何処からプリュネファミリーの放った弾丸が飛んでくるかわからない。本来ならば一般人の波に隠れるべきなのだろうけれど、カラ松の姿を鑑みればそれが不可能に近いことだとすぐにわかる。
 血まみれ、怪我まみれ。善良な人ならば、すぐさま救急車を手配してくれるに違いない。
 しかし、そんなことをされた日には、救命士を装ったプリュネファミリーに一撃で殺されてしまう。今は、人目につかぬよう動くしかなかった。
「そう言ってくれるな。
 品はよくないが、オレを育ててくれたファミリーなんだ」
「育てた、じゃなくて、作ってた、が正解なんじゃない?」
 飼っていたですらない。都合よく動く消耗品を作るための作業。その一環として、衣食住が含まれていただけの話だ。ペットとして飼われていたほうが、愛されている分マシだったかもしれない。
 カラ松は眉を下げながら小さく笑う。
 自覚はあった。
「まあ、今回のことで正式にあのファミリーからは抜けることにするよ。
 お前を殺すようなところにはいてられない」
 顔にこびりついた血を拭いながら、カラ松は言った。
 どのような命令にだって従ってきたが、今回ばかりは従うことができない。従うくらいならば、ボスの首を噛み千切り、海に沈めてやる覚悟が彼にはあった。
「……ねぇ、前に言ったこと、覚えてる?」
 一松はカラ松の頬に手を伸ばす。
 小さな切り傷には、もうかさぶたができ始めていた。
「ん?」
 カラ松は首を傾げる。
 どの話のことだろうか。どれを指しているにしても、全てを覚えている自信がある。大好きな一松との会話だ。一言一句足りとも忘れたくない、とカラ松は思っているのだ。
「オレに死体愛好の趣味はないよ」
 頬についた傷を一撫でした後、一松はと力任せにカラ松の顔を引き寄せる。
 え、と呆けているカラ松の口へ噛み付くようなキスをした。
 馬鹿みたいに口が開いていたのをイイコトに、一松は自身の舌をねじ込む。生憎、女と関わりがあるような生活を送ってこなかったため、技術もクソもない、蹂躙するばかりのディープキスだ。
 相手の舌を舐め、歯をなぞり、口蓋をつつく。
 互いの唾液が溢れ、口の端から垂れ始めてようやく一松は口を離した。
「い、いちま、つ……?」
 垂れたよだれはそのままに、顔を真っ赤にしてカラ松は一松を見る。生理的な涙が目の端に浮かんでおり、酷く扇情的だった。
 名残惜しさを感じつつ、一松はカラ松の額に唇を落とした。
 顔を離してもなお、呆然としているカラ松を横目に、一松は上着を脱ぎ始める。暖かくなり始めてはいるが、まだまだ寒い空の下。上着の下には、かろうじてくすんだ白のタンクトップがある程度。すぐさま腕に鳥肌がたつ。
「な、い、一松!
 今はそんなことしてる場合じゃ……」
「は? やらしい想像は後にしてくれる?」
 赤かった顔をさらに赤くさせ、カラ松は両腕で顔を隠す。撃たれた腕が痛んだが、反射的な動きはとめられない。
 一松はそんなカラ松をニヤニヤ眺めつつ、脱いだばかりの上着を差し出す。
「え?」
「スーツ脱いで。上からこれ着ておけば、どっかの現場監督に見えるよ」
 流石にズボンまで貸してやることはできないが、幸いなことにカラ松の履いているズボンは損傷がが少ない。元々は値の張ったものなのだろうけれど、そこそこボロくなってくれているおかげで、一松の作業着とあわせてもあまり違和感がなく仕上がることだろう。
「現場監督と作業員に見えれば、通報するような人もいないよ」
 タンクトップ一枚になってしまった一松は奇異な目で見られるかもしれないが、通報案件にまでは至らないはずだ。
「あ、ありがとう……」
 カラ松はよからぬ妄想をしてしまった自分を恥じつつ、スーツを脱ぐ。シャツはそのままに、一度作業着に腕を落としてから、また脱いだ。
「どうしたの?」
「い、いや……。
 シャツも脱いでおこうかと」
 言いにくそうに発せられた言葉に、一松は察してしまう。
 偏った食生活と過酷な労働を続けてきた一松の体は細い。対して、肉体労働を主にこなし、それなりに良い食事をしてきたカラ松の体は程よい筋肉に包まれている。
 そのため、一松が普段着用している作業着は、カラ松にとって少々細かった。身にまとっているものを全て脱いでようやく、ギリギリ着用できる、といったところか。
「……早く着て」
 体つきに関しては今までの積み重ねがあるのでどうにもできない。だが、どうにも腑に落ちないものがあるのも事実。一松は男としてのプライドがわずかに傷ついたような気がした。
 彼の目にせかされ、カラ松はシャツのボタンを外していく。
 汚れたシャツの内側は、白を汚しただけあって凄惨だ。銃で撃たれたのであろう傷跡から、締め付けられたような跡まで見える。さらに、今回とは直接関係ないのであろう古傷があちらこちらに散らばっている。
 刺青こそ彫られていないが、この体では銭湯に赴くこともできないだろう。
「どうだ?」
 カラ松の過去に一松が口の内側を噛んでいるうちに彼は作業着の着用を終えた。
 サイズの違いが気になるものの、その辺りを歩くだけならば立派な通行人Aになれるだろう風貌になっている。
「オッケ。
 じゃあ、あんたの目的地に行こうか」
 頭からつま先まで確認した後、カラ松を促す。彼も一つ頷き、路地裏から出るべく足を踏み出した。だが、その直後、あ、という声と共に後ろに引かれ、路地裏に逆戻りを果たすこととなった。
「忘れてた」
「何だ?」
 一松の胸に背中を預けた状態で尋ねる。
 気丈に振舞ってはいるが、カラ松の体調はすこぶる悪い。
「ボクに愛されたいなら、生きててね。
 囮とか絶対に許さないから」
 細められた目がカラ松を射抜く。
 バレた、と思う間もなく、カラ松は路地裏から連れ出される。
 余計な反論を遮断するため、一松が手を引いたのだ。
「で、どこに行くの?」
「……隣町」
「わかった。じゃあ、電車使う?」
 歩いていけない距離ではないが、カラ松の状態を思えば少しでも早く、かつ移動は少ないに越したことない。
 ブラック工場にこもりっきりであった一松は町に詳しくないが、大きな施設の場所くらいならばどうにか把握している。カラ松の返事を聞かぬまま、彼は駅への道を歩き出す。
「一松、聞いてくれ」
 小さな声で囁いた。
 周囲には聞かれぬよう、配慮した声だ。
 あまり面白い話はしてくれまい。
「今からオレの知り合いに会いに行く。
 あいつならファミリーからお前を隠してくれるだろうし、守るだけの力もある」
 マフィアに対抗する力のある知り合いとは何のだろうか。
 警察か、別のマフィアか。一松にとってはどちらも似たようなものだった。自分とは縁のない、どこかの組織。そこに明確な違いはない。
 だからこそ、一松はそのあたりについて詳しく聞こうとは思わない。肝心なのは、カラ松の意思だ。
「プリュネファミリーはけっして小さな組織じゃない。
 わかるだろ? あまり迷惑はかけられない」
 対抗する力、ということは、相手を圧倒的に組み伏せるわけではない。争いになれば、双方に甚大な被害がでる可能性が非常に高いのだ。
 カラ松はそれを望まない。
 自身が引き起こした騒動のために、知り合いや一松が怪我を負ったり、ましてや死ぬような目にあうなど、あってはならないのだ。
「……わかんない」
 一松は返す。
 どこの誰とも知らない連中がどれだけ死のうが、苦しもうが、一松には関係のない話だ。だが、カラ松は違う。自分の知るところ、知らぬところで彼が辛い目にあうのは我慢ならない。死ぬとなれば尚更に我慢などできない。
 カラ松はかつて言った。
 ファミリーを脱退すること。即ち死である、と。
「ボクはあんたと一緒に行く」
 弱々しいカラ松の手をしっかりと握る。けっして離さない、とばかりに。
 そこからの二人は無言だった。
 互いに思うところはあり、考えることがある。しかし、どの道、目的地に着かなければ話にならない。思いのぶつけ合いは後回しとし、一松はカラ松につれられるがままに歩みを進める。
 プリュネファミリーの連中は、二人を見失ったのか、あるいは一般人を争いに巻き込むわけにはいかないからか、一向に姿を見せない。
 不安はあるが、ありがたくもある。
 二人は無事、電車に乗り込むと、揺られるがままに町を去って行く。
 カラ松としては物悲しい気持ちになってしまうもので、遠くに消えていく風景を窓からじっと見つめていた。
 商店街の人々や、ペットショップの店員に何も言えなかった。戻ってくる、と言ったきりになってしまったのが口惜しい。
「……あんた、結構目立つからさ」
 一松が口を開く。
「きっと、町で噂になるよ。
 変な男と一緒に駅に行った、って」
 それは困る、とカラ松は思った。
 変な噂がたつと、という意味ではなく、プリュネファミリーに足取りが掴まれてしまう、と考えたのだ。
「だからさ、きっと町の人達もわかってくれるんじゃない?
 あんたは好きになっちゃった男と逃避行の旅に出たんだ、って」
 口角を上げたその表情は、意地悪気に見えてとても優しい。
 町の人々を思う気持ちに気づき、励ましてくれているのだ。何も伝えずとも、彼らならばわかってくれるだろう、と。後ろ髪を引かれずとも大丈夫だ、と。
「……そうだな」
 カラ松も笑う。
 プリュネファミリーが追ってくるのは心配だったが、駅中での襲撃はないだろう。近づいてくる人間にさえ注意しておけば問題はない。
 一松を送り届けた後は、予定通り自分がプリュネファミリーのもとへ赴けば終いだ。
 自身の命をもって一松を助けることができるのであれば、それは最高のハッピーエンドになる。
「次はー赤塚ー、赤塚駅ー」
 揺られること十数分。カラ松が一松の手を引く。
 どうやらここで降りるらしい。
「一松、こっちだ」
 引かれるがままに足進めていく。時折、カラ松が方向を急転換させることがあったが、どうやら前方からプリュネファミリーの手の者がやってきていたらしい。
 去り際にサイレンサーつきの銃でもぶち込まれたら終わりだ。
 カラ松の尖った神経は周囲を注意深く観察しては、目的地へと近づいていく。
 流されるがままの一松からすれば、拍子抜けしてしまうほど順調な足取りだ。その裏側で、カラ松とプリュネファミリーによる壮絶な争いが起きていることは知っているが、感知できない事象について感想を述べることはできない。
「もうすぐ着くぞ。
 あいつは少し横暴なところがあるが、実はしっかりした奴でな、お前もきっと気に入ることだろう。
 生活の保障もしてくれるように頼んでおくから、一松が心配することは何もない」
 カラ松の息は荒れていた。
 走ったわけではないので、怪我による発熱が原因だろう。むしろ、今まで呼吸が荒れていなかったほうが不思議だ。
「ボクは何も心配してないよ」
 お前が隣にいてくれる、と確約するのであれば。そんな言葉をどうにか飲み込む。
 傍にカラ松がいるのであれば、ブラック工場よりも過酷な場所に身を投じることだって怖くなかった。愛は人を強くする、等という反吐が出るような言葉が真であったことに気づかされる日がくるとは思っていなかったけれど、中々どうして悪くない。
「あぁ、あそこだ」
 飲み込んだ言葉も知らず、カラ松が指で指し示す。
「……あそこ?」
 思わず一松は問いかけてしまう。
 そして、頷きを得る。
「なるほど、ね」
 カラ松が示した場所にあるのは、古きよき日本家屋。大きな門には松、と書かれており、横につけられている看板には『松野組』と記されていた。
 煌びやかな印象は一切与えないが、重厚な雰囲気と静けさと硝煙を感じさせる趣。一般家屋とは明らかに違った敷地の広さを持つそこは、どこからどうみても、ヤクザの本拠地だ。
 プリュネファミリーと対抗できる勢力というのは、公的機関である警察ではなく、同じ穴の狢であるマフィアでもなく、似て非なるものであるジャパニーズマフィア。つまり、ヤクザだった、というわけだ。
「カラ松だ」
 ふらつきながらも門に近づいたカラ松は、横に設置されていたインターフォンを押して名乗りをあげる。そして次に、この組に所属しているのであろう者の名前を口にした。
「おそ松はいるか?」
 カラ松に一松におそ松。
 似たり寄ったりな名前が三つもそろうとは、何の因縁だ、と思わずにはいられない。一松なんぞは、待ってください、という言葉に頷いたカラ松の横でやや辟易とした表情を浮かべていた。
「逃がすか!」
 怒声が聞こえたのは、目の前の門が開くよりもわずか先のことだった。
 一松が振り返ると、どこにでもいそうな男がこちらに向かって駆けてきていた。その手に持っているのは、銃刀法に間違いないく違反している刃渡りのナイフ。場所にもよるが、致命傷を負わせるのには充分すぎる代物だ。
 とっさにカラ松を庇おうと動いたが、緊急事態においては、素人である一松よりもカラ松の方が早い。一松を門の内側に押し込み、自身の身を盾にするような態勢をとった。
「カラ松!」
 眼前にいる彼の胸板を押し返しながら叫ぶ。
 目の前で死なれるなど冗談でも笑えない。
「はいはーい。
 ちょーっとごめんねぇ?」
 悲痛な叫びを上げる一松の横を、軽い声が通った。
 刹那、カラ松の向こう側から鈍い悲鳴が聞こえ、すぐに消える。
 命が消えた音だ。
「うちの前でカラ松殺ろうなんて馬鹿だねぇ〜」
「助かった、おそ松」
 カラ松は心の底から安堵の息を漏らす。同時に、張り詰めていたものが切れてしまったらしく、全身から力が抜けてしまった。必然、彼の腕の中にいた一松に全体重がかかる。
「おい! しっかりしろ!」
「あっちゃ〜。
 おーい、誰かデカパン先生呼んできてー」
 軽い声の男が門の内側へ呼びかける。すぐに返事が聞こえ、同時に、複数人の男が門の外へ飛び出す。
 その様子を一松が目線で追えば、一つの死体が道路に転がっていた。先ほど、ナイフを構えて向かってきていた男だ。うつぶせになっているが、あたりに飛び散っている臓物から、彼が腹を切られたのだということがすぐにわかる。致命傷に関しては考える必要すらない。
 世の中、首と胴体が離れて生きていられる人間など存在していないのだから。
「珍しくオレを頼ってくるとかどーしたのよ、カラ、ま……つ?」
 ここで、始めて一松は軽い口調をした男の顔を見た。おそらく、相手もそうだったのだろう。一松を見る目が大きく見開かれ、口も馬鹿みたいに開けられていた。
 そして、一松も似たような顔をしてしまっている。
「……あんたが、おそ松?」
 人を切った後とは思えないほど美しい刀を手にしている男は、カラ松と瓜二つだった。
 切りそろえられた髪型だけではない。大きな目も、鼻っ柱も、口元も。違いがあるとすれば、眉の太さだろうか。しかし、その程度ならばいくらでも調節することができる。
 目に痛いほどの赤をベースとした着物羽織をまとっていなければ、一瞬カラ松である、と錯覚してしまったかもしれない。
「え、お前、も、もしかして、い、一松?」
 一松の問いかけを無視して、逆に男は問うてきた。
「何で知ってるの。
 カラ松から何か聞いた?」
 おそ松らしき男が一松の名前を知っている理由など他に思いつかない。
 眉を顰め、警戒態勢をとりながら目の前に立つ男を観察する。いくらカラ松の知り合いとはいえ、そう簡単に信頼できるほど、一松の心は素直ではない。
「あー、そっか、そのパターンかぁ。
 しょうがねーよな。うんうん」
 意味はわからなかったが、男は何やら一人で考え結論を出したらしい。しきりに頷いている彼の後ろで、死体の処理は粛々と進み、気づけばアスファルト上に血の跡すら残っていない。
 あの死体は悪い白昼夢だったんだ、と優しく囁かれれば頷いてしまいそうだ。
「とにかく、カラ松連れて中に入れよ。
 今、うちのお抱え医者呼んだからさ」
 男が門の内側に入り、玄関扉へ向かう。
 一松はわずかに迷いを見せたが、意識を失っているカラ松をそのままにするわけにもいかず、彼の腕を自身の肩に回し、引きずるようにして室内へ入っていった。
「梅ー! タケー!」
 玄関で靴を脱ぎ捨てながら、男は誰かを呼ぶ。
 彼の声に応え、二人の男がすぐさま姿を現した。
 どちらも三十代前半、といった風でガタイの良い男達だ。首筋からわずかに見えている刺青は、彼らの誇りなのだろう。
「例のアレ、準備して」
「と、いうことは」
 ちらり、と男達が一松とカラ松を見る。
 他意があるのかないのかはわからない。ただ、一松は値踏みを受けているような気分になり、威圧的な目を彼らに向けた。普段ならば無視するだけで済むのだが、カラ松が気を失い、気がたっている一松に冷静さはあまりない。
「承知いたしました」
「すぐにご用意します」
「どんくらいかかりそう?」
「今夜、十時には」
「了解」
 一松を無視して会話が進む。
 男の了承を得た二人は一度、室内へ戻っていく。何らかの準備を始めるらしいが、一松には関係のないことだろう。
「ねぇ、カラ松を寝かしてやりたいんだけど」
「そうだな。んじゃ、こっちへどーぞ」
 不機嫌そうな一松に気を悪くするでもなく、男は廊下を歩いていく。
 広い廊下からは美しく保たれた庭が見える。春夏秋冬を楽しめるようになっているのか、今も小さな花がいくつか咲いていた。
「たぶん、あと二、三分もしたらデカパン先生くると思うけど、お前はどうする?」
 男は襖を開けながら問いかけてくる。
「ここにいる」
「りょーかい。
 じゃあ、飯はこっちに持ってこさせるわ」
 六畳ほどの部屋に入り、彼は押入れを開けて柔らかそうな布団を引きずり出す。
 先ほどまでの会話を見る限り、男はこの組の幹部以上であることは間違いなさそうなのに、部下を呼びつけることもなく喜々として布団を敷いていく。
 違和感は覚えたものの、一刻も早くカラ松を横にしてやりたい、と思っていた一松は黙ってその様子を見守る。
 綺麗に敷かれた布団へカラ松を転がしてやると、男は部屋を出た。先ほど言っていた、食事の用意でもしに行ったのだろう。
「……カラ松」
 一松は縋るようにカラ松の手をとる。
 守りたいと思ったはずなのに、結局、最後の最後まで守られてしまった。あの時、男が飛び出してこなければ、カラ松は死んでいただろう。
 しばしの間、そうしていると襖が開かれた。
「ホエホエ。その子が患者さんダスか?」
「えっ。
 ……はい」
 やってきたのは白衣をまとった男。
 ただし、下半身はパンツのみとする。
 見るからに怪しい風貌だが、なるほど、デカパン、と一松は妙な納得を覚えてしまった。
「これは酷いダスなぁ……」
 布団をめくり、デカパンは神妙な顔をする。
 大小様々な傷は、歴戦の戦士達を見てきた彼でさえ唸ってしまうほど悲惨なものだった。
 デカパンは持ってきていた鞄を横に置くと、その中から一本の注射器を取り出す。麻酔だろう。小さな傷は後で処置することもできるが、銃によって作られた傷は早く処置をしなければ、最悪の場合、壊死に至る。
「デカパンきてたの」
 両手にお盆を持った男が行儀悪く足で襖を開けた。
「どう?」
「とりあえず、大きな傷は縫ってしまうダス」
「ひえー、見てるだけで痛いわぁ」
 男は引くようなポーズをとりつつ、一松の横にお盆を置く。
 お盆の上にはおにぎりが六つ。味噌汁が一つ。
「とりあえず喰えよ。
 今のところ、お前にできることはないだろ?」
「……いらない」
 カラ松が目を覚ますまで何も食べたくなかった。そもそも食欲がわかない。
「そういうこと言われると、困っちゃう、な!」
 言うや否や、男は一松の頬をわし掴んだ。強制的に開けられた口へ、彼はおにぎりを押し込む。突然入ってきた米に驚き、反射的に吐き出そうとするが、男は一松の口をふさいで離さない。
 男の意図に気づいた一松は、不服そうな顔をしつつも押し込められた米を咀嚼し、飲み込む。
 喉から胃へ、米が落ちる。
 そこまでして、ようやく一松は自分が酷く空腹であることに気がついた。逃げるのに必死で、それ以外のことに意識が回らなかったようだ。
 気づいてしまえば我慢というのは難しく、歯を食いしばってわずかな間、耐えてみせた一松であったが、二つ目のおにぎりに手を伸ばすのにそう時間はかからなかった。
 頬張るように口に放りこみ、咀嚼し、飲み込む。
 その光景を男は満足げに眺めていた。
「一先ずの処置は終わりダス。
 詳しい検査をするなら、ワスのラボまで来て欲しいデス」
「明日、明後日くらいには行けるようにするわ」
 男は軽く手を振って返す。
 彼の横には、安全な場所へ逃げ込めた安堵と、米をいっぱいに詰め込んだ満腹感から眠ってしまった一松の姿がある。
「それにしてもそっくりダスなぁ。
 兄弟ダスか?」
 デカパンの言葉に、彼は言葉を返さず笑みだけを向けた。

 *

 誰かの話し声で目が覚めた。
 始めはぼんやりとしていた頭が、見知らぬ天井に対し、疑問符を浮かべる。自室の汚い天井とは全く違う、梁の見える綺麗な天井だ。
「そこをどけ、おそ松」
「いやいや、無理でしょ。
 お前、自分の状態わかってる?」
「だからこそだ」
 二つの声。
 うち一つは、とても愛おしい声。
 その声と主を脳が繋いだ瞬間、一松は飛び起きた。
 現状を全て思い出したのだ。
 マフィアに追われ、ヤクザの住まいにまでやってきた。そこで、あろうことか自分は幸福感に包まれたまま眠ってしまったのだ。
「あ……。
 一松……」
 目を向ければ、いつの間に目が覚めたのか、服を着替え、立ち上がっているカラ松の姿がある。彼の前には例の男が立っており、カラ松の行く手を阻んでいた。
 会話とこの光景。余程の馬鹿でもない限り、すぐに察しがつく。
「何処に行くつもり?」
 ゆらり、と一松は立ち上がり、カラ松に近づく。
 行く手を阻んでいた男は軽く口笛を吹き、楽しげな表情を浮かべている。
「……オレは行かなければならない」
 カラ松は言う。
「そうすれば、プリュネファミリーもお前を探し続けたりしない。
 少しの間だけ、ここで厄介になっていてくれ」
「駄目」
 一松がカラ松の手をとる。
 ガーゼや包帯が目立つ、痛々しい身体から生えている手は、どこか弱々しく見えてしまう。それがどうにも一松の不安をかきたてるのだ。
「ボクに愛されたいんじゃないの」
「それ以上に、生きていてほしいんだ」
 カラ松は退かない。
 愛故に、生を望むのはどちらも同じはずなのに。残される者の気持ちを理解していないはずがないのに。いずれ、時間が解決してくれるはずだ、とカラ松は言うのだ。
 許せない。
 一松が感じたのはたった一つの思いだった。
「今、決めて」
 掴んだ手に力を入れる。カラ松の顔が痛みに歪んだが、そんなことを気にしていたら逃げられてしまう。
「オレと生きるか。
 オレと死ぬか」
 単純な二択だ。
 生か死か。
 それ以外の選択肢など認めない。
「一松!」
「決めろ!」
 諭そうとするカラ松の声を一松の怒声が遮る。
 緊迫した空気を破ったのは、場に似合わぬ軽さを持った声だ。
「あのさぁ」
 一松とカラ松は同時に男を見る。
 笑みを崩さぬ彼は頭の後ろで手を組みながら二人に言う。
「そもそも、オレはお前達をここから出すつもりないよ」
 穏やかな笑みを湛えた男から吐き出されたとは思えない言葉だった。しかも、そこに軽さはなく、煌びやかな金のような重さだけがある。見た目だけ華やかに彩られている分、鉄なんぞよりも性質が悪い。
「お前は何を言っているのかわかっているのか!」
 カラ松をここに閉じ込めるということはプリュネファミリーとの対立は避けられない、ということだ。抗争となれば、少なからず血が流れる。
「わかってるよ」
 彼は鼻の下を軽くこすりながら、朗々と言い放つ。
「でも、ちょうどいっかって」
 何が丁度いいというのか。カラ松がそう尋ねるよりも先に、男は一松へ目を向けた。
「それより、どこで見つけたの?」
「は?
 ……あぁ、一松のことか」
 突然切り替えられた話題に、一瞬、カラ松の脳が追いつかなかった。目線をたどり、すぐに一松のことを言っているのか、と理解はしたが、見つけた、という言葉の意図についてはよくわからなかった。疑問は後で聞くとして、素直なカラ松は問いかけに答えるべく口を開いた。
「プリュネファミリーで抱えてた工場の班長、松下一松だ。
 中学生に上がる頃から表の世界からは姿を消している」
「あー、そこにいたのかぁ」
 男は頭を抱え、天を仰ぐ。
 まるで、一松を探していたのかのような口ぶりだ。
「あんた、オレのことカラ松から聞いてたんじゃないの?」
「オレは話してはいぞ?」
 一松の疑問にカラ松が返す。
 そもそも、一松と出会ってから今まで、男との接触はなかった。そんな暇もないくらい、せっせと一松との逢瀬を楽しんでいたのだ。
「じゃあ、何でオレの名前知ってたの」
 怪訝な顔をした一松に、カラ松も疑問符を浮かべる。
 男が一松のことを知っていたなんて初耳だった。だが、知り合いというわけでもなさそうで、となれば二人の接点に思い当たる節はない。一松はブラック工場にいたのだから、街中で見かけて、という線も消える。
「っていうか、似た顔、似た名前って、どう考えても変だよね」
 ずっと思っていたことをこの機に乗じて一気に吐き出す。
 自身とカラ松やおそ松が似た顔だとは思っていないが、名前が似ていることは客観的に見ても間違いない。世の中には似た顔が三つある、とはいうが、いくらなんでも近場に密集しすぎだ。
「……確かに」
 一松の疑問にカラ松は頷く。
 言われてみれば不可思議なことだ。
「カラ松ぅ、お前、言われなきゃ何とも思ってなかっただろー」
「そ、そんなことはないぞ!」
「いいよ、お前が馬鹿なのは知ってるし」
 男は肩をすくめ、改めて一松と向き直る。
「じゃあ自己紹介ね。
 オレ、松野組初代組長、松野おそ松!」
 出された手は、握手を求めてのことだろう。
 気はすすまなかったが、これから世話になる可能性もある男だ。おずおずと一松も手を出し、おそ松の手に触れる。
 すぐさま、手は強く握られ、ぶんぶんと勢いよく上下に振られた。子供のように激しい握手をかましてくるおそ松の顔は始終笑顔だ。何か良いことでもあったらしい。
「一松から離れろ」
 二人を引き離すべく、カラ松が間に割り込む。
 握られている一松の腕をそっと掴み、おそ松には蹴りをかます。強制排除を喰らったおそ松は近くの壁にぶつかるまで吹き飛ばされる。
「気をつけろ。あいつはあぁ見えて、かなりのやり手だ。
 三代続いた藤組の組長を殺して、新しく組みを立ち上げた男だ。油断していると噛みつかれかねない」
 ヤクザのことには詳しくない一松だが、三代も続いた組織をあっさり滅ぼし、新しい組織を作り上げることの大変さだけは理解できる。
 今しがた、壁に激突していた男がそのような行為を働いたとは到底思えなかった。
「大丈夫、大丈夫。
 オレ、大切にするよ? すっげぇ大切にする」
 壁にもたれながらおそ松が言う。
「外にも出さないくらい、な」
「お前の我が侭一つでどれだけの部下が死ぬと思っているんだ」
 カラ松はギッとおそ松を睨む。
 彼が組長というのならば、その号令一つで死に行く者達が大勢いるのだろう。カラ松はそれを是としない。
 自分が殺すのは仕事だから、自分のためだから、仕方がない。しかし、自分の引き起こした出来事のせいで無意味に死を与えられる者を見るのは耐えられなかった。
 しかし、おそ松は意見を変えるつもりはないらしい。
「ただの我が侭じゃねーよ。筋金入りだ。
 下の奴らみーんな知ってる我が侭だ」
「威張るな!」
 部下の命を軽んじているようにしか見えないおそ松の態度に、カラ松が怒声を上げる。ついでに大股で彼に近づき、胸倉を掴みあげた。
「自分が出す命令の重さをわかってるのか!」
「わかってるよ。
 だからさ、そんなカッカしないでよ」
 おそ松は口角を上げたまま、カラ松の手にそっと触れる。
「今夜はさ、サイッコーの夜なんだ」
「は?」
 両手を広げ、おそ松は歓喜を表現する。
「そう、今夜はサイコー!
 一緒に踊ろうか? 何が食べたい? 好きな物を用意させてやるよ」
 胸倉をつかまれたまま、おそ松はカラ松を抱きしめた。
 困惑を浮かべるカラ松。傍から見ている一松にも何がなんだかわからない。
「ぶっちゃけさー、お前のことは引き抜くつもりだったのよ」
「えっ」
 抱きしめる力を緩めずにおそ松は語る。
「色々準備が必要だったから今まで放ってただけ。
 でも、もう我慢はいらない! 下の奴らはオレがお前を引き抜くつもりだったのを知ってるから、いつかは抗争になるってのも覚悟して着いてきてくれた奴らばっかり!」
 だから心配はいらないのだ、と言う。
 カラ松は掴みあげていた手から徐々に力を抜き、とうとう両側へ垂れさせる。
 命が失われることに対して反対するつもりはない。当人達が覚悟していたことだというのならば、他人に口出しできるはずもない。
「オレ、すっげー我慢してたの。
 だってさ、プリュネってかなり性質悪いじゃん?
 始めて会ったときなんて、お前酷かったからね?
 ボッロボロで、能面みたいな顔しちゃってさ」
 抱擁を終了させたおそ松が唇を尖らせながら言うと、すぐさま一松が反応を見せた。
 自分が知らない時代のカラ松。気にならないはずがない。聞くに堪えないような話だとしても、知らずにはいられない。怒りがわいたとしても、涙が出たとしても、その全てがカラ松を構成しているのだとすれば、知らないことの方が余程苦しいのだ。
「ねぇ、あんたとカラ松はどこで会ったの」
「ん? 気になるか?」
 おそ松は手招きをする。一松は迷いつつも、その手に引かれるようにして近づいた。
「別に大したことじゃないぞ」
 カラ松が言うが、一松はどうしても聞きたかった。
「時間はまだあるし、ゆっくり話してやるよ」
 おそ松曰く、カラ松と始めて会ったのは、まだおそ松が組長でなかった頃、藤組の下っ端として働いていた時の話だという。
 カラ松はプリュネファミリーと藤組の会合につれてこられたらしい。当時、まだ地位を得ていなかったカラ松は、お世辞にも良い生活をさせてもらっていなかったらしく、まとったスーツはぶかぶかで、顔には大きなガーゼを貼り付けていた。
 互いのボスは、カラ松とおそ松を指して顔がそっくりだと笑っていたそうだ。一松から見ても二人は似ているので納得できる。
 この時、おそ松はカラ松いたく気に入ったらしく、互いの組織には内密に、連絡先を好感したのだ。それから今まで、二人は時折連絡をとり、時には顔を合わせながら今まで生きてきた。
 流石のカラ松も、おそ松が藤組を倒して松野組を結成した、とメールしてきたときは驚いたらしい。
「つまらない話だろ?」
 全て話し終えた後、カラ松が苦笑いをしながら聞いてきた。
 確かに、起承転結があって面白い小噺、というには物足りない。だが、過去のカラ松について、第三者から語られるというのは希少価値がとても高いことだった。
 一松か静かに首を横に振り、カラ松を見る。
「あんたがちゃんと生きてきたって証だから」
 二人の間に、甘い空気が漂う。
 このままキスの一つでもするようならば、全力で邪魔してやろう、とおそ松は考えていた。
 だが、その計画はすぐに必要なくなる。
 表からエンジンの音と、バタバタとした足音が聞こえてきたのだ。
「組長、準備できました」
 甘い空気の存在など知る由もない男が襖を開ける。すぐさま一松とカラ松が距離をとり、所在なさげに死線を彷徨わせた。その行動が面白くて、おそ松は小さく笑う。
「ん、じゃあオレ達も行くとするか」
 おそ松は離れて座っている二人に声をかけた。
「ほらほら、早くしないと夜が終わっちまうぞ」
「え?」
「何処行くの?」
 二人の疑問をまるっと無視して、おそ松は手を引く。
 不思議と、一松もカラ松も抗おうとは思わなかった。安心感すらあった。
 とてとて、と三人は廊下を歩く。しばらく行くと、大広間らしきところの襖が開かれていた。
「おぉ……」
「すご……」
 大広間には所狭しと様々な料理が並べられている。肉、魚、野菜。日本食から洋食、中華まで。どのような人間が足を運んだとしても、一つは好物を見つけることができるだろう、と思わされるラインナップだ。
「オレ、ずっとこの日を楽しみにしてたんだよねぇ」
 おそ松は満面の笑みを浮かべ、料理が並ぶ大広間の中央に立つ。
「そのためにめっちゃ頑張ったんだよ。
 まったく。お兄ちゃんは辛いよ」
 一松にも、カラ松にも、おそ松が何を言っているのかわからなかった。
 疑問を投げるべきか、次の言葉を待つべきか。選択を迷っているうちに、遠くの方から声が聞こえてきた。
「っざけんな! 離せって!」
「なんっすか? なんっすか?」
「どこのどいつかしんねぇけど、ぜってぇーぶっ殺す! 覚悟しとけよ!」
 物騒な言葉の数々だが、察するに彼らは連れ攫われてここまできたらしい。
 存在が犯罪なヤクザとはいえ、今まさに誘拐を敢行してくるとは誰も思うまい。おそ松の笑みの理由がここにあるのだとしても、些か強引すぎる気がした。
「さあ、ようやく揃ったな」
 三人の前に、連れてこられた面々の姿が映る。
 彼らは互いに目隠しと、耳栓代わりのヘッドフォンをつけられていた。あれらのせいで、彼らは今の光景も、互いの声も聞き取れずにいるらしい。
 おそ松はその姿に笑い、一松とカラ松は呆けた顔をした。
 目を隠されてはいるが、彼らにはわかってしまったのだ。
 その三人の顔が、自分達とよく似ていることに。
「お披露目といこうじゃないか!
 兄弟達!」
 その言葉を合図に、松野組の部下達が三人を解放する。目隠しも、耳栓も全て取られた。
「ったく……どこ、に……え?」
「え? え?
 どういうこと? これ、どういうこと?」
「……はぁ?」
 三者三様の反応だが、考えていることに大差はない。
 結局、おそ松を除いた五人は、ただただ混乱しているだけなのだから。
「えっと……。え?
 い、一松、兄さん?」
「は? どちら様ですか」
 何処となくあざとい雰囲気の男に呼ばれ、一松は身を退いた。
 カラ松とよく似た、しかし全く違う顔の男。見ず知らずに近い相手に名前を呼ばれ、警戒しないはずがない。
「カラ松兄さんっすかー?」
「お、おう、そうだが……。
 お前達は誰、だ?」
 カラ松の方は袖が伸びきった服に身を包んだ男に話しかけられていた。
 初対面のはずだが、顔のせいか妙な安心感がある。抱きしめたいような衝動にさえ駆られ始めていた。
「どういうこと?
 説明してくれるんだよね、おそ松兄さん」
「おう!
 てか、お前らもずいぶん変わったねぇ。
 兄さん? うわっ、鳥肌」
 苦々しげな顔をしている男に言われ、おそ松は袖をまくる。彼の肌には鳥肌が立っていた。
「はい! ちゅーもく!」
 おそ松が手を叩くと、五対の目が一斉に彼を見る。
 全員同じ顔だ。身長も同じ。体格は多少違うだろうけれど、第三者から見れば全てが全て同じに見えるだろう。
「オレ達六つ子!
 オレがみんなでオレ達はオレ!
 同じ顔が六つあったって、いいよな?」
「ちゃんと説明しろ!」
 声高に宣言したおそ松に対し、苦々しげな顔をしていた男がとび蹴りをかます。
 低い呻き声をあげて倒れたおそ松に同情する者は誰もいない。
「いてて……。
 えー、別にいいじゃん。
 フィーリングでさぁ」
「感じとれるかぁ!」
 次はチョップだった。
「というか、チョ、チョロ松兄さんだよね?」
「そうだけど」
 あざとい雰囲気の男が、苦々しげな顔をしていた男に近づく。
「オレ十四松!」
 袖の伸びきった男は元気に両手をあげて言う。
「これって、夢じゃないよね?
 現実だよね?」
 五人の顔を順々に見てまわったあざとい雰囲気の男は、両目に涙をためた。よく見れば、十四松と名乗った男の目にも薄っすら涙が浮かんでいる。
「泣くなよトド松。
 せっかく兄弟全員揃ったんだ。泣いてる暇はないぞ?」
 いつの間にやら復活していたおそ松が、あざとい雰囲気の男を抱きしめながら言う。
 包容力に溢れたその光景に、声に、言葉に、何故だかカラ松や一松も涙が出そうになってしまった。
「馬鹿。ちゃんと、説明、して、馬鹿長男」
 トド松は力なくおそ松の背中を叩く。
「わかった、わかった。ちゃんと説明するからさ、とりあえず座らね?」
 その言葉に全員が従う。
 ある者はのろのろと、ある者は素早く、全員が適当な位置に腰を下ろす。
「ぶっちゃけ、忘れてる奴もいるから一から説明するけど、オレ達は正真正銘、六つ子の兄弟なんだよね」
 お猪口を手に取りながらおそ松が言う。
 その言葉に立ち上がったのは二人の松だ。
「忘れてる奴とかいんの?!」
「それは本当かおそ松!」
 タイミングこそ同時だったが、発した言葉は真逆の意味合いを持つ。二人は互いを見た。
 チョロ松とカラ松。
 片方は絶望色に顔を染め、もう片方は歓喜の色を浮かべている。
「う、そ……」
「えー! 何で! 信じられないんだけど!」
「うわぁ、カラ松兄さん、それは流石に」
 悲しみや非難をあげる三人に対し、一松も眉を下げる。何故だか、トド松や十四松の非難は胸に来る。
「まあまあ、色々あったのよ、そいつらにも。
 オレもカラ松に会うまで忘れてたし」
 三人はそろって驚愕の声をあげた。
 どうやら、彼らにとっては「忘れる」ということはありえないことらしい。その理由は、次に発せられたチョロ松の言葉で白日の下に晒される。
「ボクら小学校五年生まで一緒に生活してたのに、忘れられるってどういうことだよ!」
「えっ」
 驚きの声が二つ。
 一松とカラ松だ。
 小学生五年生といえば、十歳から十一歳くらいの年頃。流石に物心つく前、とは言いがたい。
 しかし、よく考えてみれば、一松にもカラ松にも、小学生時代の記憶というものが存在していない。育った環境のせいか、と今まで気にしていなかったのだが、それでもおかしな話だ。学校生活の記憶や思い出がない、ではなく、その時代の記憶が一切合切存在していないなどということはあるがすがない。
「オレもカラ松も、たぶん一松も、かなり悪い環境にいたからさ、記憶を封印しちゃったんだと思うよ」
 おそ松は言う。
「完全に記憶を取り戻すまで一年くらいかかったかな。
 最初に思い出したのがあのクソ野郎のことだったから、ここまでスムーズにこれたけどね」
「それって藤野のこと?」
 トド松が問うと、おそ松は頷いた。
「一松とカラ松はマジでなーんにも覚えてないから、一つずつ説明していってやるよ」
 そこからは、二人の記憶にない二人の昔話だった。
 松野家の六つ子、といえば近所で知らない者のない悪ガキ共だった。毎日悪戯に明け暮れ、面白おかしく毎日を過ごしていたらしい。
 しかし、そんな日々にも終わりがやってきた。
 松野家に押し入り強盗がやってきたのだ。彼らは六つ子の両親を殺し、金目の物と、一人、兄弟達を守るために囮を買って出た長男を連れ去った。奴らは藤組の末端に在籍しているチンピラで、子供を売って金にしようとしていたらしい。
「でも、人身売買って面倒らしくてさ、オレはヤクザの末端として鍛え上げられたってわけ」
 苦痛塗れであったその過程で、おそ松は兄弟達のことをすっかり忘れてしまったらしい。何かを守らなければ、とだけは思っていたそうだが、それ以外は何一つ覚えておらず、藤野との出会いすら忘れていた始末だ。
 カラ松との再会で、真っ先に己の最大の敵が藤野であることを思い出したのは僥倖であった。下手をすれば、カラ松が弟であることを馬鹿正直に報告してしまっていたかもしれない。
「で、組長になって、ボクらを誘拐してきた、と?」
 チョロ松の胡乱気な目も何のその。おそ松は笑顔で頷く。
「だって、どうせなら全員一気に顔合わせしたかったんだって。
 カラ松と一松は事情があったから先に会ったけどさ」
 組長となったおそ松は、ありとあらゆる手段を使い、弟達の情報を集めたのだという。
 一松以外の弟達については、少々手間取りながらも所在が把握できた。ただ一人、ブラック工場にぶち込まれ、存在を消しされられていた一松だけが見つからず、今日という日まで六人の会遇は実現しなかったらしい。
「でも、お兄ちゃんは嬉しいよ。
 流石は六つ子。離れててもみーんなそろって裏世界に浸かってるなんてさ」
 飄々とおそ松が放った衝撃的な言葉に、全員が顔を見合わせる。
 ひと目見た限りでは、裏の世界に入っていそうな人間は誰一人いない。カラ松はスーツを脱ぎ捨て、ワイシャツとスラックスを履かされているし、一松も無精髭をそり、カラ松と似たような服装をしている。彼らがマフィアであったり、その息のかかった工場で働いていたとは誰も思うまい。
「カラ松にーさんは何してたんっすか?」
「オレは……プリュネというファミリーに所属していた」
 十四松に問われ、カラ松は素直に答える。
 全員が裏世界に関わっているとするならば、隠し立てする必要もないだろう。
「えー、あの評判の悪いマフィア?
 カラ松兄さん向きじゃないでしょ。短気で力自慢なくせに喧嘩は弱かったし」
 残念ながら、その時の記憶はカラ松にない。ただ、弱くはないが、今も喧嘩は下手だなぁ、と思う。一松と出会ったときもそうだったが、どうにも詰めが甘いのだ。
 今現在、肉弾戦でそれなりにやれているのは、茨のような苦難の末に習得した技があるからこそだ。それがなければ、今もただの力自慢だっただろう。
「そういうお前は何してんの?」
 今度はチョロ松が問いかける。
「ボクはクラッカーだよ。
 まだまだ駆け出し中だけどね」
 軽くウインクをしながら言ってのけるものの、やっていることは紛うことなき犯罪だ。
 実のところを言うと、トド松はクラッカーとして働きながら、兄弟の情報を探していた。かつて、離れ離れになってしまった兄弟達と再会するため、今まで頑張ってきたのだ。それなのに、全ては長男の後手でしかたなかったのだと思うと悔しくてしかたがなかったりしている。
「十四松は何してたの」
 黙していた一松が十四松に尋ねれば、彼は両手をバッと上にあげる。
「ボクはねー、爆弾作ってたよ!
 解体もした!」
 つまるところ、兵器屋だ。
 彼自身に悪意はないのだろう。ただ、作っている、ということが違法なだけ。ついでに、それを横流しにすることで、多くの人々が困ってしまう事態に陥るだけ。
 無邪気という言葉の恐ろしさを煮詰めて固めたものが十四松といっても過言ではない。
「チョロ松は薬の売人だよなー」
 おそ松が言う。
「裏の世界っていうか、ボクは売ってただけだけどね」
 作ったのでも、買ったのでもない、と言い気だが、売人が裏の世界に属していないはずがない。トド松など、こいつ何言ってんだ? と言いたげな目をチョロ松に向けていた。
 ヤクザにマフィア。売人に兵器屋にクラッカー。こうして並べられた面々に比べれば、違法な工場で働いていた一松の何と平穏なことか。警察に厄介にならないのは自分くらいだろう、と一松は心中で述べる。
 だが、忘れてはいけない。彼とて、ブラック工場で拷問まがいのことをやってきたことがある人物だ。バレなければ犯罪ではない、を地でいっているにすぎないのだ。
「いやー、遺伝子って怖いね。本当に。
 オレとカラ松、一松はともかく、お前ら三人は普通の家に引き取られたんだろ?
 よくもまあ、揃いも揃ってこっちに染まれたねぇ」
「そんなとこまで調べがついてるの?」
 やだなぁとトド松は顔を顰める。
「オレはよく覚えていないんだが、お前達が普通の家庭に引き取られたというなら嬉しいぞ」
 カラ松はから揚げを口に放り込みながら言う。
 過去のことはよくわからないが、少なくとも自分があってきたような目にはあっていないのだろう。気づいたときにはこちらの世界にいたからこそ、平穏無事の尊さがよくわかる。
「……でも、みんながいなかったよ」
 十四松がポツリと零した。
「……うん」
 チョロ松もうつむき、小さく同意する。
 場が静まる。おそ松が食べ物を口に放り込み、咀嚼する音だけが響く。
「ボク達、六人で一人だったのに……。
 急に離れ離れになって、カラ松も、いなくなる、し……」
 涙を零し始めたトド松の声は震えていた。兄さん、という呼称が消えているあたり、彼の記憶が遠い昔に返っていることがわかる。
「なあ、お前達に言わせるのは酷かもしんないけどさ」
 くい、と酒を煽り、おそ松が言う。
「オレがいなくなった後のこと、教えてくんね?」
 おそ松が調べてわかったことといえば、一松を除いた弟達の行方だけだ。おそ松が連れ攫われた後、松野家に何が起き、それぞれが引き取られた後でどのような生活を送っていたのかはわからなかった。
 彼が弟達を見つけたとき、すでに彼らは一人だちし、各々裏の世界に浸かりきっていたのだ。
 おそ松の願いに、弟達は沈黙する。
 一松とカラ松は記憶がないため、返事をすることすらできない。
「……おそ松兄さんがいなくなった後、警察に通報したり、父さん達のお葬式をしたり、とにかく大変だったよ」
 口火を切ったのはチョロ松だった。
 両親が殺され、長男を失った六つ子達は悲痛に暮れた。必要な手続き等は親戚がしてくれたものの、喪失感が埋まるはずもない。警察に長男を探すように懇願したが、彼らにも限界はある。頑張ってみるよ、と言った言葉が実る日は終ぞこなかった。
 両親の遺影を前に泣き続ける六つ子。困り果てたのは周りの大人達だった。
 一人消えたといっても残り五人。一度に引き取れる者がいるはずもなく、かといって、誰か一人を引き取るにしても最低五つの家庭が必要になる。近隣に住まう親戚ではどう考えても足りない上に、親戚一同にもそれぞれ今の家庭がある。子供を一人引き取る、というのは多大な負担だ。
「結局、大人達が話し合ってるうちに、カラ松兄さんが攫われた」
「えっ」
 トド松の言葉にカラ松は驚く。
 放置された五人は、自分達の家の中にいるのも何故か気まずくて、公園で悲痛に暮れていたらしい。彼らが遺影の前にいない時は、いつもその公園にいた。
 すると、そこに数人の男がやってきた。細かな言葉は覚えていないが、要約すると、一人よこせ、という意味合いのことを言ってきたらしい。
 親を亡くした五つ子。一人減ったところで文句を言う人間はいるまい、という考えだったようだ。
「適当でいい、って言って、連れていかれそうになったのは、一松にーさんだった」
 一松は眉を寄せる。トド松はカラ松が攫われた、と言っていた。
 つまり、カラ松は一松の身代わりになった、ということだろう。
 彼の予想は的中した。
 続いて語られたのは、連れて行かれそうになった一松に代わり、カラ松が前へ出たというのだ。オレが行く、と。ささやかであっても抵抗していた一松より、自ら進んでやってきたカラ松を連れて行くほうが労力が少なくて済む。
 男達は二つ返事で了承し、黒塗りの車へカラ松を押し込んで立ち去って行ったらしい。
「ボクらはすぐに大人達に報告したよ、なのに……」
 チョロ松は舌打ちをした。未だ、腹に据えかねる、といった様子だ。
 どうも、次男が攫われたのだと報告に行った四人の言葉を大人達は信じなかったらしい。元々悪戯好きの六つ子だ。構ってもらえないのがいやで、適当なことを言っているのだろう、と。
「親がいなくなって、兄弟も一人いなくなってんのに、そんな冗談言うわけないよねぇ」
「ありえない、ありえない」
 大人達が気づいた頃にはもう遅く、警察にもどうしようもできない状態だった。
 小さな身体から二つを切り取られた六つ子の残りは、見る見るうちに憔悴していき、誰の目から見ても危険な状態になっていた。最早、子供を押し付けあっている状態ではない。施設を頼ろう、そう決まりかけたときだ。一人の女が手を上げた。一人だけならば自分が引き取ろう、と。
 大人達は渡りに船とばかりに一人、女に預けた。それが一松だ。
 カラ松が自分のせいで連れ攫われて以降、特に元気のなかった彼にはすぐさま暖かい家庭が必要だろう、という判断からの選択だった。しかし、それが間違いだった、というのはその後の一松を見ればよくわかるだろう。
「……あ」
 三人の話を聞いていた一松は、ぽつりと零した。
 近親感のある話ばかりだったが、ここにきて繋がる。彼らが話していることが、「親近感のある話」ではなく「過去の話」に変わった瞬間だ。
「あの人、子供がほしかったんだって」
 半分虚ろになりかけた目で話し始めた一松に周りが注目する。
「自分にはどうしても子供ができなくて、そのせいで旦那さんが酒びたりになって、暴力まで振るうようになって」
 子供がいれば、何かが変わると思ったのだ。藁にも縋る思いで一松を引き取ったはいいものの、女とも旦那とも一松は似ておらず、彼らの子供に成り代わることはできなかった。
 旦那は一松を拒絶し、女は一松のことを本当の子供だと思い込む瞬間があるにも関わらず、暴力を振るうことをやめなかった。それほどまでに追い詰められていたのだ。
 長い暴力と否定。いつかは兄弟達が迎えにきてくれるかもしれない、という希望。そして、同時に生まれるカラ松への罪悪感。いつしか、一松は考えることをやめてしまった。希望を持つこともできなくなり、それに繋がる記憶ごと、全て封印してしまったのだ。
「最後はボクを捨てて、出て行っちゃった。
 ボクは義理の父親にも捨てられてブラック工場。
 ヒヒッ……。まあ、あいつらが実の親じゃなくて良かったよ」
「思い、出したの? 一松にーさん」
 十四松がわずかに腰を浮かせながら尋ねる。
 これは飛び掛ってくるな、と直感的に理解した一松は身体に力をこめて頷く。
「やったあああああ!」
 予想通り、一松の胸に飛び込んできた可愛い弟を受け止める。
 号泣しながらすがり付いてくる姿は、遠い昔と少しも被らないくせに、どうしてだか目の前の男が弟で、十四松だとわかってしまう。
「一松も思いだしたのか……」
 カラ松は眉を下げる。
 これで何も覚えていないのはカラ松ただ一人。
 その疎外感はある。だが、それ以上に抱いたのは、悲しみだ。
「オレも早く思い出さなければな」
 一松とは実の兄弟だった、という事実を。
 やっと愛し合えると思ったのに、想いが通じたと思ったのに。そんな感情を全て飲み込んだ言葉だった。
「……あのさぁ」
 十四松を優しく引き剥がし、横に座らせた。そのまま、一松は立ち上がってカラ松の元へ足を運ぶ。
 一松がカラ松を見下ろし、カラ松が一松を見上げる。
「兄弟とか、どうでもいいから」
 それだけ言うと、一松は身を屈める。
 降らせるのはキスの雨だ。
 額に、頬に、こめかみに、口に、鼻に、一松は何度も口づけを送る。兄弟達がどのような顔をしているのかは気にしないことにした。どうせ、いつかは知られてしまうことだろうから。
「い、一松、一松!
 ステイ! ステイだ!」
「犬じゃないんですけど」
「みんなの前だぞ! やめろ!」
「無理、あんた可愛いし」
「同じ顔だよ!」
 顔を真っ赤にして待てを叫ぶカラ松と、それを無視してキスを続ける一松。思わず強くツッコミを入れたのはチョロ松だった。
「みんな同じ顔! ボクら一卵性だからね!」
 可愛いもクソもあるかぁ! と立ち上がりながら叫ぶが、一松は素知らぬ顔だ。
「話しを聞けぇ!」
「まあまあ。いいじゃん。兄弟同士でもさぁ」
 怒りの声を上げるチョロ松をおそ松がどうどう、と宥める。
 世間一般から見て、同性で近親相姦など、目も当てられない大事故だ。しかし、自分達は裏の人間。表の常識を捨てたのだから、そう目くじらを立ててやるな、というのがおそ松の言い分だ。
 彼の感覚からいえば、弟達が健やかに在ればそれでいいわけで、性癖が歪んでいようと犯罪にどっぷり浸かりきっていようと何でもよかった。
 兄弟全員でこの感覚を共有できたらな、と思いつつも、わずかな間でも表の世界で生きたチョロ松達には難しいか、と思わないでもない。
 故に、おそ松は返ってきた応えに驚くこととなる。
「はあ? んなもんどーだっていいよ。
 ボクはみんなの前でいちゃついてることと、カラ松の顔が可愛い、みたいなこと言うのはやめろって言ってんの」
「そーだよ! 可愛がるなら末っ子であるこのボクでしょ!」
「にーさん達ラブラブ? セクロス?」
 言いたい放題な彼らだが、どうやら二人の愛を阻むつもりは一切ないらしい。これも六つ子の神秘とでもいえばいいのか、おそ松の心配虚しく、彼ら全員が、兄弟が兄弟であればいい、と思っているようだ。
「もー、お前ら本ッ当にサイコーだよ」
 ギャーギャーと騒いでいる弟達を眺めながら、おそ松は笑う。
 ずっと夢に見ていた光景がここにある。
「あ、そうだ」
 思い出したかのようにあげられた声に、騒いでいた弟達が制止した。
「お前ら、今日からうちの幹部だから」
 またもや爆弾発言。
 弟達の標的は、一松とカラ松からおそ松に変わる。
 どういうことだ、と問いかけてくる中には、件の二人も混ざっているのだから兄弟達の切り替えは早い。
「だって、兄弟なのに別々っておかしくね?
 みーんな裏社会に浸かりきってんだし、ヤクザになっても問題ないでしょ」
「組の人達が反対するよ」
「しないしない。元々そう言って聞かせてるもん。
 いずれ、オレの兄弟を幹部にするよーって」
 軽い言い方だが、彼の眼差しは言葉の全てが本気である、と語っている。
「手始めに、カラ松を虐めてくれちゃったプリュネファミリーをぶっ潰しまーす」
「さんせー!」
「えっ?」
 おそ松の号令に四つの声が同意を示す。
 戸惑っているのはカラ松だけだ。
「お前らも復讐したい奴がいたら言うように!
 オレ達は六つ子。六人で一人。
 お前らの痛みはオレ達の痛みだ」
 今度は全員の返事が一致する。
 是。誰かが痛みを負ったのならば、全員でお礼をしに行くより他にあるまい。
「んじゃ、今日は再会記念だ!
 呑め呑め食べろ!」
 わっ、と六人は食事に群がる。
 今までもちまちまと食べていたのだが、色々吹っ切れた彼らは一味違う。我先にとおかずに手を伸ばし、人の酒を取る。そこから喧嘩が始まり、その隙をついた兄弟が漁夫の利を得る。
 その光景だけ見れば。彼らが裏の人間である、と察する人は殆どいないだろう。
「今度、チビ太のとこにも行ってみない?」
「え、あいつ今なにやってんの?」
「おでん屋やってるらしいよ」
「マジかよ!」
「チビ太って誰だ?」
「腐れ縁みたいな奴」
 プリュネファミリーを徹底的に潰した彼ら六人が、揃って赤塚にある小さなおでん屋へ赴くことになるのは、そう遠い話のことではない。

END