他人の気持ちがわかる人になりなさい。
 そんな綺麗事を聞かされながら子供は成長していく。
 だが、殆どの子供はそれが方便であることを生まれながらに知っている。親子という、深い繋がりを持ってしても、悲しみや憤りの全てを理解してはもらえない。
 細かな理論や考えはひとまず横に置いた無意識下では自分は自分にしか成りえないのだ、と認識し、自己の土台を組み立てていく。
 他人は他人。自身と同一の存在などこの世にはなく、広い世界を隈なく探しても個は一であり十でしかないのだと。
「松野君」
 普通ならば、思春期だの厨二病だの反抗期だのと共に、蓄積されていた自己を芽生え、確立していく。それが極々一般的な子供の成長だといえるだろう。
 けれども、とある町に生まれた六つ子はどうあがいたところで普通にはなれなかった。
「なぁに?」
 「松野」と呼ばれた男子は笑顔で返事をする。
 相手がどの「松野」を呼んでいるのか確認さえしない。
 それは無意味なことだからだ。第三者が自分達のことを正しく認識できたことはなく、また、その必要もなかった。六つ子は六人で一つ。誰に何を伝えても返ってくる言葉やリアクションに大差はない。伝達事項であったとしても、すぐに全員に伝わっていくので、やはり問題ない。
 六つ子にとって、それは当たり前のことだった。
 生まれたその瞬間から、親はわからずとも自分達はわかる。「個」を認識せずとも「全」がわかる。それだけで充分面白おかしく生きていくことができていた。責任や罪悪感が分散されるのは気楽でさえあった。
 故に、彼らは自分が自分しかいない、と知るのが周囲の子供達よりも圧倒的に遅かった。
「オレはビッグなカリスマレジェンドになる」
 始めに言葉を発したのはおそ松だ。
 中学生になった年の春。二月も経っていない頃合のことだった。
「何それ」
 自宅の居間で唐突に宣言され、誰かが鋭い棘を伴った疑問をぶつける。
 その言葉を放ったのが誰なのか、というのは誰にもわからない。
「お前達は可愛い弟だけどさぁ、オレはやっぱりオレでしかないっていうの?
 「六つ子のおそ松」じゃなくて「おそ松は六つ子」になりたいんだよねぇ」
 やや間延びした口調で発せられた微妙なニュアンスを取りこぼすような兄弟はいなかった。
 誰もが同じことを思い、考え始めていたからだ。この辺りは流石六つ子、といったところか。
 真っ先に口を開き、行動に移したのがおそ松であっただけで、他の誰が最初でもおかしくはなかったのだ。
「だから、オレは歴史に名を残すような人間国宝になる!
 ナンバーワン! かつ、オンリーワン!」
 人差し指を天に向け、おそ松が吼える。
 極普通の同級生がその場面を見たならば、何を馬鹿なことを言い出しているんだ、としか思わなかっただろう。しかし、その場にいた五人の兄弟は皆、固唾を呑んだ。
 一つであったモノが欠ける。
 大きな一塊は小さな一つにわかれていかなければならない。
 頭の中に何度も浮かんでいた、抵抗できぬ未来。それが目の前にやってきた。
 途方もない恐怖と不安。それが五人の足元がらゆるりゆるりと這い上がってくる。
「て、わけで、明日から長男であるオレのことはおそ松兄さん、と呼んでくれ!」
「……何だよ、それ」
「ボク達、六つ子だよ?」
「長男とか関係ないんじゃないの」
「差があるたって、数分とか数十分の違いしかないんだし」
「急に言われても困るよ」
 五人はバラバラとおそ松の言葉に返事をしていく。
 横一列であった者を急に兄扱いしろ、等と言われても困る。確かに、おそ松は六つ子のリーダーで特攻隊長だ。色々がめついが頼りにもなる。敬うこと自体に然程抵抗はないが、それとこれとは話が別だ。
「まあまあ、ゆっくりでもいいからさ。
 オレはオレ、お前達のお兄ちゃんだってことを理解してくれればいいよ」
 おそ松は「お兄ちゃん」を強調する。
 そうすることで、同一性からの脱却を図っているのだ。
 今までのように、誰も彼もが呼び捨てで名前を口にしていては、いつまで経っても六つ子は六つ子のまま。それでは自己が確立できない。変えられるところから一つずつ変えていくことが、大きな変化への第一歩となる。
 たとえ、その変化によって軋むモノがあったとしても、止まるつもりはなかった。
 宣言を果たした次の日から、彼はあからさまに変化した。
 特筆すべきはその服装。
 彼らが通う中学では、学ランが制服に指定されており、六つ子はそれを正しく着用していた。そこで、おそ松はまず、赤いTシャツを中に着て、学ランの前を全開にした。不良、というには威圧感がないものの、品行方正とはいえない学生の出来上がりだ。親に頼み込んで買ってもらったスニーカーも派手な赤色をしており、一見しただけで彼がおそ松である、と理解させるのに役立っている。
「松野君、どーしたの?」
「いやー、そろそろ六つ子も卒業かなーって!
 だからオレのことは松野、じゃなくて、おそ松、って呼んでくれよな!」
 昨日までとは様変わりしてしまったおそ松に、クラスメイト達は興味津々だった。次から次へとおそ松に質問を投げては下の名前で呼ぶことを付け足されていく。
「オッケー、んじゃ、これからはおそ松って呼ぶわ」
 笑顔で了承され、おそ松も笑う。
 中学に入って彼が突然自己を主張し始めた原因の一つがここにある。
 かつて、小学生だった頃は誰もが六つ子のことを区別できていないにしても下の名前で呼んでいた。周囲の子供達に苗字というものの概念が薄かったことに加え、良くも悪くも六つ子が互いの名前を口にしていたからだ。
 だが、中学生にもなれば苗字というものを覚えるし、六つ子達も羞恥心から兄弟のことをベラベラと口にしなくなった。それ故に、小学校来の付き合いではない者達にとって、六つ子は六つ子で「松野」でしかなかった。
 見分けられないのではない。見分けようとすらされない。
「お前達ー、授業が始まるぞー」
「あっ、センセー!
 先生もオレのことおそ松、って呼んでくださーい!」
「馬鹿なこと言っとらんで教科書を開きなさい、松野」
「ちぇー」
 唇を尖らせながら、おそ松は自身の胸に気持ちの悪いモノが溢れるのを感じていた。
 松野、まつの、マツノ。
 それでは誰が呼ばれているのか、怒られているのかもわからない。
 境界線が滲み、六つが一つに混ざってしまう。
 昔はそれを心地良く思っていたが、今ではそれが怖い。まるで底なし沼のようだ。
「兄さんは不良になりたいの?」
「いや、別にそーいうんじゃねーんだけど」
 学校の昼休み、おそ松が校舎裏でパンを食べていると、兄弟の一人が声をかけてきた。おそらく、チョロ松、とおそ松は心の中で呟く。
 自分が「六つ」から抜け出してしまったからか、兄弟の見分けが少しつき辛くなってしまった。それでも彼が弟達を見間違ったことはない。何と言っても長男なのだ。
「この学校の番長とかに目をつけられてるんでしょ?」
「らっしいねぇ」
 別段、おそ松はいきがった格好をしているわけではない。髪を染めているわけでも、制服を改造して着ているわけでもない。赤いシャツを着て前を開けている程度。
 しかし、何処にでもいる不良の先輩、というヤツは、おそ松の態度が気に入らなかったらしい。
 古臭い手法ではあったが、校舎裏に呼び出し、袋叩きにする、という計画が立てられてしまっていた。
「あんまり喧嘩とかは良くないよ。
 ボク達も中学生になったんだしさ」
「でもコイツらが悪いんだぜー?」
 阿呆達の計画はいとも容易く頓挫した。原因はおそ松の強さだ。
 大人を手のひらの上で転がし、五人もの兄弟と日々喧嘩をしてきた彼の強さは並ではない。好んで暴力を振るう性質ではないだけ。
 その気になればそこいらの不良など、十人束になっても敵わない。
 おそ松の足元に転がっている七人の金髪達が良い証拠だろう。
「もー、そうやって兄さんが喧嘩するから、カラ松も喧嘩するんだよ?」
「それはあいつの喧嘩っ早さが原因だろ。
 すーぐカッとなるんだからさ」
 殆ど没個性の六つ子とはいえ、わずかな個性は存在している。流石に全てが全て同じクローン、というわけにはいなかいのだ。
 例えば、カラ松は沸点が低く、すぐに手が出る。おかげで喧嘩はおそ松に次いで強い。不良の五人くらいならば同時に相手しても平気な顔をしているに違いない。
「てか、一緒になって喧嘩してるのも知ってるから。
 長男なら止めてよね」
 チョロ松はため息をつく。
 脱六つ子宣言をされたからといって、五人の兄弟にとってのおそ松が他人になってしまうということはない。同一の六つ子ではなくなっただけで、一般的な兄弟に近い距離感で日々を過ごしている。
 その一環として喧嘩の強い上位二名が共に不良潰しをしていたとしても、不思議なことはない。あまり宜しいと肯定できない行為であるだけだ。
「でもストレス発散も必要だろ?」
 愛する五人の弟達が、彼らなりに自己を見つけようとしていることをおそ松は知っている。その過程の中で、多大なるストレスが彼らの身に降りかかっていることもわかっていた。
 相変わらず「松野」で括られる生活。横並びから外れるために見つけなければならない自分。変わることへの恐怖。様々なモノに挟まれ、あがく弟達の手助けをおそ松はしてやることができない。結局、他人は他人なのだから。
 かろうじて喧嘩っ早いカラ松に付き合ってやったり付き合わせたりしてやることが精一杯の長男らしさだった。ここ最近、喧嘩の後の雑談で、オレは次男だから、と何度も口にするようになったカラ松に彼は密かに笑みを浮かべていたりするのだが、それを言ってしまえばチョロ松は、やっぱり楽しんでいるだけじゃないか、と怒り出すことだろう。
「ストレス発散で怪我するなんて馬鹿らしいでしょ。
 ほら、ここ、血が出てる」
 そう言ってチョロ松は自身の頬を指さす。おそ松が己の頬を拭ってみると、少しばかり血が付着した。もうかさぶたになっているような小さな傷だ。
「へーきだって」
「母さんに心配かけさせないでよね」
 真面目な弟だ、とおそ松は心の内で笑う。
 同一のモノだった自分達だが、一人が変わることで全員が少しずつではあるが変化し始めている。
 望んでいたことではあるが、少し寂しい。おそ松の勘が正しければ、数ヶ月も待たずして、目の前にいる弟も「松野」から「チョロ松」に変わるのだろう。
「大丈夫。わかってる」
 かくして、おそ松の勘は的中した。夏に差し掛かろうか、という時期には、チョロ松は周囲からも下の名前で呼ばれるようになっていた。
 彼は自身の個性を身につけるよりも、六つ子からの脱却に重きを置いたのか、はたまた長男に対して思うところがあったのか、今時類を見ない程の真面目人間になった。
 服装は頭の天辺からつま先まで、校則に準じた物で固められた。誰も守っていないような靴下の色や柄にまで気を使う真面目っぷりだ。授業態度も良好そのもので、中間テストでは六つ子の中では堂々のトップ。学年でも上位に食い込んだ。
「チョロ松すげー!
 今度、勉強教えてくれよ」
「家でも結構、勉強してたりするのか?」
 廊下に張り出された中間テストの成績を見て、クラスメイト達はチョロ松に群がる。
 見た目はガチガチの真面目人間だが、チョロ松という人間はあの六つ子の兄弟なだけあって話せば中々に面白い。そのおかげで、周囲は余計な壁を感じることなく彼に話しかけることができた。
「いやー、流石に家で勉強は厳しいよ。
 兄さんも弟もうるさいからね」
「やっぱ六つ子でも兄とか弟とかあんのかよ!」
 ケラケラとした笑い声が教室に響く。
 チョロ松の声もそこには入っていた。
「ボクは三男だけど、上が上だからね。
 しっかりしないといけないんだ」
「おそ松が長男だっけ?
 そりゃ大変だよな。頑張れよ!」
 男子生徒の一人がチョロ松の背を軽く叩く。
 同学年でおそ松のことを知らない者はいない。ただし、それは必ずしも悪い意味ではない。不良めき、喧嘩もするおそ松ではあるが、それ以上に気安く面白い馬鹿、としての学年では認識されているのだ。
 友人にするには悪くない。しかし、四六時中一緒にいる兄弟としては、邪魔に思う面も多いだろう、というのがチョロ松のクラスメイト達における共通認識だった。
「でも、トド松君は結構しっかりしてるよね」
「しっかりって言うかちゃっかり?」
 不意に、おそ松とチョロ松以外の名前が出る。それも女子生徒の口から。
 そう、チョロ松と時を同じくして、末っ子であるトド松も六つ子からの脱却を果たしていたのだ。
「トド松君って家で勉強とかしてるの?」
「うーん、少なくともボクは見たことないなぁ」
「やっぱり!」
 チョロ松の返答に、女子は黄色い声を上げる。
 勉強をしていないという事実の何処に色めくポイントがあるのかチョロ松にはわからない。周囲の男子達もそれは同じようで、同様にいまひとつまとまりきらぬ思いをその瞳に乗せていた。
「女子ってわっかんねぇ〜」
「……だね」
 一人の呟きに肯定を返す。
 目に見える基準に従うのはとても簡単で、楽だった。周囲を観察し、適切な肯定と否定を口にするのも難しくはなかった。そうして生まれた「チョロ松」は実に他人と馴染んだ。
 間違ったことをしなければ大抵の人間はチョロ松を受け入れてくれる。六つ子としてまともでないことばかりしてきたのだから、あの異常で異様な枠組みから外れる最も手っ取り早い方法がこれだった。
 学校という小さな世界の中で、チョロ松は自身の思惑通りに完成した輪を心地よさ気に眺めるのだ。
 家の外に出来上がった自分の居場所、というのも悪くはない。
「でもさ、でもさ、お前、トド松とも兄弟なわけじゃん?
 女の子とか紹介してもらえちゃったりしねーの?」
 弾んだ声で言ってきた彼には悪いが、チョロ松は静かに首を横に振る。
「そういうことはしてくれないよ。
 意外とケチだからね」
「あ〜、聞こえちゃったぁ」
 軽口を返したところで、廊下側から声が聞こえてきた。
 チョロ松よりも甘ったれた雰囲気が溶かし込まれている声だ。
「……トド松」
 見れば、教室の窓からトド松が顔を出している。
 チョロ松の席が廊下側に近かったため、先ほどの会話が聞こえてきたのだろう。
「ボクはケチじゃないよ。
 ただ、チョロ松兄さんに紹介したら、おそ松兄さんにもカラ松兄さんにも、一松兄さんにも十四松兄さんにも、みーんなに紹介しないと喧嘩になっちゃうでしょ?」
 ふふ、と小さく笑う末っ子の姿は、おそ松ともチョロ松とも違う。
 トド松の首元にはふんわりとしたスカーフが巻かれ、学ランの前のボタンは二つほど開けられている。ちらりと見える中のシャツは淡い桃色をしていた。
「優しいのね」
「兄弟思いのトド松君、かーわいっ!」
 女子生徒からの黄色い声を浴び、トド松は小さく手を振る。よく見てみればシャツの袖がわずかに長く、所謂萌え袖、というものがそこにはあった。
 強かではあるが甘えたな彼は、上手く女性受けする自己を発見することができたらしい。近頃では家でもしきりに携帯電話に触れ、女子とメールのやり取りをしていた。
 現在、兄弟間では彼が真っ先に童貞を喪失するのではないか、という疑惑が上がっており、要注意人物との御触れが出ている。いざとなれば兄弟一丸となって彼の邪魔をするのだろうことは、深く考えずとも浮かんでくる光景だ。
「みんなも可愛いよ〜」
「ありがとー!」
 少しトド松が言葉を向ければ、女子からは黄色い声が次々に上がる。
 面白くないのはその場にいる男子全員だ。無論、チョロ松も中に含まれる。
「早く教室に帰りなよ。
 次の授業が始まるよ」
「はーい」
 軽く促されたトド松は、兄の言葉に従う。
 別段、女子全員を虜にしよう、というわけではないのだ。ただ、自分を甘やかしてくれる人は多ければ多いほど良い。その程度の考え。
 女子と仲良くすると男子からの不興を買うのだが、その程度でへこたれるようでは松野家元六つ子の一角は務まらない。欲するモノのためにできあがる敵なんぞ眼中にすらない。
 とてとて、と自身の教室に戻るべく廊下を歩けば、また女の子が声をかけてくれる。
 律儀に一つ一つ返事をし、女の子から名前を呼んでもらう。
「……ふぅ」
 そして、こっそりと息を吐くのだ。
 実のところ、トド松は現状に未だ慣れていない。
 ずっと六つ子として、一つの集団で生きてきたのだ。今更一人になりましょう、と言われても困る。甘えん坊な自身を知っているだけになおさら辛い。可愛い女の子達がちやほやしてくれたところで、かつての同一固体であった日々の暖かさには敵わないのだから。
 ふと、外を見る。
 空でも見て気を紛らわせようと思ったのだ。
「あ……」
 校庭の隅に、見知った三つ、いや、一つの固体が見えた。
「松野ー!
 そろそろ授業始まるぞー!」
 何処からか声がする。
 固体を指す苗字に、パッと顔が上げられた。
 三対の瞳は同じ色をし、声をかけてくれた者を見ている。
「わかったー!」
 声が一つ返される。
 その様子を見て、トド松は少しばかり悲しくなってしまった。
 校庭から下足室に向かう彼らは、まだ一つの固体なのだ。遠目からでは、血を分けた兄弟。元同一固体であるはずのトド松でさえ彼らを見分けることはできない。
 欠けに欠け、半数となってしまった固体を見ると、トド松は置いて行ってしまったことに罪悪感のようなものが湧き出てくる。まだあちらに後ろ髪を引かれている分、残された者達の辛さがわかってしまう。寂しさや焦りが伝わってきてしまうのだ。
「トド松君? どうかしたの?」
「……ううん。
 なーんでもないよ!」
 それでも、トド松はあの場所へ戻るわけにはいかない。
 個を持つことは寂しいが、辛いことばかりではなかった。誰かに見分けてもらうこと、自分のしでかしたことで怒られたり、褒められたり、と正当な評価が下されるのはとても嬉しいことだった。
 だからこそ、トド松は願わずにはいられない。
 早く、あの兄達も自己を確立させればいい、と。
 全員が別たれたところで、兄弟であることに変わりはない。ならば、早く全員が一人になってしまえばいい。そうすることによって、初めて生まれるモノもあるはずなのだから。
 だが、トド松の思いは届かない。



 おそ松を始めとした三人が自己を確立させてからおよそ一年。彼らが全員中学二年生になっても、残された三人は一つのままだった。
「カラ松、お前またおそ松兄さんと一緒になって喧嘩してきただろ」
「ボクが悪いわけじゃない。
 おそ松兄さんが巻き込んだんだ!」
「言い訳しない!」
 頬や腕に擦り傷や打撲痕を残したカラ松と、それを治療しているチョロ松が向かい合って座っている。一応、チョロ松からしてみればカラ松は兄、という呼称をつけなければならない人物ではあるのだが、弟である一松や十四松と同固体である期間が長すぎた。
 もはや、本当にカラ松が兄なのかどうかも怪しい、とチョロ松は密かに思っている。
 そのことについて当の本人であるはずのカラ松は言及しない。彼もまた、自身が次男なのか、はたまた四男か五男なのか明確な判断がついていないのだ。時折、次男である、ということを口にはしているが、馴染んだ様子は全く見られない。
「でもさ、本当にいい加減にしなよ。
 いつか取り返しがつかなくなるよ……」
「怪我、痛い?
 大丈夫?」
 怪我をしたカラ松を心配そうに見ているのは、彼と同一固体である一松と十四松だ。同じ色、形の服に身を包んだ彼らは一見すると見分けがつかない。近頃、自己の確立をより明確にし始めているトド松やチョロ松では一瞬、判断に迷うことがあるほどだ。ちなみに、おそ松に関しては長男だから、という謎の言葉を持ってして三人の見分けをつけているのだから流石と言える。
「ヘーキだって。
 んなビビんなよ」
 顔中に絆創膏を貼っている次男を見て、トド松は小さく嘆息する。
 まさかとは思うが、このまま一生、三人で一つのまま在るつもりなのだろうか。中学二年生といえば、世間では厨二病発症のシーズンとして有名だ。誰もが自己を主張し、大人の手前の手前であるにも係わらず自分は特別な人間で、もう一人前である等と両の手を上げて宣言し出す。
 現に、学校ではそういった傾向を滲み出してきた同級生たちがちらほら見られるようになってきていた。トド松やチョロ松の自己の確立が進んでいるのも厨二病の一環といえなくもない。
 だというのに、彼らは変わらない。相も変わらず三人で一つ、自己など放り投げて解け合っている。
「カラ松はちょっと能天気すぎ」
 一松が呆れたように言う。
 先に手当てを受け、様子を見ていたおそ松は彼の言葉に頷いた。
「そうだぞ。オレの弟で、オレより弱いんだ。
 あんまし怪我ばっかしてっと心配するだろ?」
「強くなればいいんだろ!」
「体でも鍛えるの?」
「カラ松は飽き性だから無理だよ」
 やいのやいのと言葉を投げあう一つを見ていれば、彼らはやはり彼らで、違う存在である、ということを認識することができる。薄っすらではあるが彼らにも自己はあるのだ。ただ、確立されるのが遅いだけ。
 その理由はいくつかあるが、一つ上げるとするならば、皮肉なことではあるが「彼らの性格」が原因だ。
 カラ松は飽き性で能天気。自己を作り出すことを考えはするのだけれど、すぐに投げ出してしまう。いつか、必要なときがくれば自然と一人になるのだろう、と考えているのが透けて見えるようですらある。
 次に、一松。彼はカラ松とは真逆で熟考する性質の人間だ。チョロ松よりも真面目の気がある彼は、大いに悩み、考え、袋小路に入る。思考のために周囲を観察することで、他人の嫌な部分や、同一固体として見られている自分ばかりが目に入り、自身が消失していることも抜け出せない要因だ。
 十四松はそもそもがスローペースだ。自身を崩さぬ彼は周囲からの影響を受けない。自分以外の二人がまだ同一固体として存在しているならばそれでいい、というタイプだ。彼を一人にするよりも、他の二人を一人一人にしてしまう方が効率良く独立させられるだろう。
 彼らの性格が相まって、自己の確立まで今一歩及んでいない。
「喧嘩するなら外に行ってよねぇ」
 埃をたてながら喧嘩をする一つにトド松は吐き捨てる。
 彼らを無理やり引き剥がすことはできない。そのままが良い、というのならばそれもいいと思っているのだ。おそらく、他の二人の兄もトド松と同じことを思っているに違いなかった。
 一つであろうが三人であろうが、彼らが兄弟であることにやはり変わりはない。見守るのも、愛、なのだ。
「一松はさぁ、どうなりたいの?」
 とある日の帰り道、共に帰宅部である十四松と一松は家路についていた。チョロ松は図書室、トド松は女の子。おそ松はまた不良に呼び出され、カラ松はそれに着いて行ってしまっていた。
 まだ空は明るく、何処からか聞こえてくる川のせせらぎが心地良い。
 そんな穏やかな世界の中、十四松が発した言葉は重く響き、地面に落ちる。
「……どうって言われても」
 不良にはなりたくないが、それに近しい位置にはおそ松がいる。ならば真面目に、と思えばチョロ松。社交性を目指せばトド松。パッと思いつく席は既に埋まっており、今からその位置につこうと思えば、誰かの二番煎じにしなってしまう。
 大体からして、一松は一人になる自信がなかった。
 他人は怖い。何を考えているのか、何をしようとしているのか予想を立てるのが難しい。その点、同一の固体は違う。大体のことがわかってしまうし、怖さや痛みを分散できる。ずっとこのままでありたい、と願うことを罪とする兄弟はいないはずだ。
「難しいよねぇ。おそ松兄さん達はすごいや」
 十四松は足元の小石を軽く蹴り上げる。
 コツン、コロコロ、と転がった石は、誰かの靴に当たって動きを止めた。
「よぉ、松野」
「え……。
 だ、誰?」
 二人は同時に眉を顰める。
 目の前にいる男達は、同じ学校の制服を着用しているが、見覚えはない。ただ、赤や金に染められた髪からして、まっとうな人間でないことだけはわかる。
「この間はよくもやってくれたなぁ」
 一人が手にしたバットを地面に叩きつけながら吼えた。
 十四松と一松は互いに手をとり、身を寄せ合う。温厚な二人にとって、目の前にいるような不良は別世界の人間だ。関わりなどあるはずもない。
 だとすれば、彼らが言っている「松野」とは、カラ松のことだろう。彼はおそ松と共に喧嘩に明け暮れているのだから。
「ボ、ボクは一松、です」
「ボクは十四松」
 勘違いを解かなければならない。
 その一心で二人は声を出す。
 彼らは長男や次男とは違う。喧嘩をすることもあるが、彼らほどの強さを二人は持っていなかった。複数人の不良、それも武器を所持している相手とやりあえるとは思えない。
 だが、現実は無慈悲だ。
「あ? それが?」
 男は首を傾げる。
「えっと、たぶん、あなた達が探してるのはカラ松で――」
「んなこった、どーでもいいんだよ!」
 言うや否や、男の一人が一松に足払いをかける。ほぼ同時に十四松は首を捕まれ、そのまま地面に押し付けられた。
「おそ松の野郎と散々ボコボコにしてくれてよぉ!」
「舐めてんじゃねーぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
 憎悪の言葉が地面の上に伏している二人に浴びせられる。どれもこれも、カラ松に向けられるはずだったモノだ。だが、先ほどの態度を見れば二人の主張は無駄なのだ、ということが嫌でもわかってしまう。
 彼らにとって、カラ松は「カラ松」でないのだ。同じように、一松は「一松」でなく、十四松も「十四松」ではない。
 喧嘩の強いおそ松ではなく、似ているようで似ていないチョロ松やトド松でもない。いつもおそ松の隣にいて、彼らを殴ったカラ松であり一松であり十四松へ、彼らは怒りを向けたのだ。
「――十四松、逃げて!」
 とっさに一松は近場の男に飛び掛る。背中はまだ痛むが、それどころではない。
 このままでは本当に殺されてしまうかもしれない。せめて、弟だけは逃がしてやりたい。その一心だった。
「テメェッ!」
 ゴッ、と鈍い音が骨を伝って一松の鼓膜を揺らす。
 どうやら頭を殴られたらしい。打ち所が悪かったらしく、一瞬にして一松の視界が歪む。手足からは力が抜け、重力のままに崩れ落ちていく。
「一松兄さん!」
 十四松が手を伸ばす。
 だが、届かない。
 どさり、と一松が地面に落ち、指の一本も動かさずにいるのを見ていることしかできなかった。
「い、いちま……」
 自分と同じ体から赤い血が流れ出るのを十四松は呆然と見ていた。
 今、殴られたのは一松で、自分は怪我をしていない。痛くない。なのに、胸は痛い。
「あ? こいつ、気ぃ失いやがったぞ」
「つっまんねぇーの!」
「ま、もう一人いるし、いいんじゃね?」
 何対もの目が十四松に向けられる。
 これから、自分は男たちに殴られるのだ。たった一人で、助けを呼ぶこともできずに。
 あまりにも滑稽だった。自己を確立させることなく、同一固体でいたはずなのに、結局、最後は一人なのだ。殴られ、気絶したのか死んだのかもわからない一松も一人ぼっちだった。
「あ、アハ、アハハハハハ」
 十四松は笑う。
 不良共が気味悪がり、何度も何度も執拗に殴り、蹴り、踏みつけ、骨を折っても、なお笑っていた。
 事の原因となったカラ松を恨む気持ちはない。一足先に一人になってしまった兄弟達を憎く思う気持ちもない。意識を飛ばしているというのに不良共に殴られている一松を哀れむ気持ちもない。
 ただただ、愉快だった。
 どれくらいの時間をそうやって過ごしていたのだろうか。日は沈み、カラスも寝床に帰ってしまっているであろう頃合になっていた。十四松の不気味な笑い声も途切れ、不良共は荒い息をどうにか整え、横たわる二人を見下ろす。
 どちらもボロボロで、血まみれだ。
 死んでいる、と告げられれば信じてしまうような有様だ。
 途端に、恐ろしくなった。
 まだ中学生の齢で、人を、殺してしまったのかもしれない、という、まともな人間であるならば耐えられない現実。
「オ、レは……悪くないからな!」
 その言葉を皮切りに、次々に悪くない、という言葉が吐き出され、最終的に彼らは蜘蛛の子を散らすがごとくバラバラと解散していった。当然、救急車に連絡を入れたものなどいるはずもない。
 だが、幸いだったのか、二人は早い段階で発見された。たまたま通りがかった学生が通報してくれたのだ。
 響くサイレンの音に、一松は薄く目を開ける。
「……こ、は?」
 掠れた声を出すと、傍にいた救急隊員が笑みを返してくれた。
「大丈夫かい?
 意識はある?
 ここは救急車の中だよ」
 救急車、という言葉を噛み砕き、一松は自身が意識を失う直前まで見ていた光景を思い出す。
「じゅ、し……つは?」
「十四松?
 ああ、キミと一緒にいた子だね。
 大丈夫。一緒に乗ってるよ」
 その言葉に車内を見渡そうと、一松はゆっくりと首を動かす。
 体は痛いが、再び気絶するほどではない。
「――――あ」
 見つけた姿に、目を見開いた。
 呼吸器をつけられ、全身ボロボロの弟。目は硬く閉ざされ、二度と開くことがないようにさえ見える。
「こ、こら! 落ち着きなさい!
 大丈夫、大丈夫だから!
 おい! 鎮静剤!」
 痛む体も忘れ、我武者羅に暴れた。今すぐに十四松の隣へ行き、その体温を確かめたかったのだ。本当に人の体温を残しているのか。もしかすると、もう、すでに、冷たくなっているのではないか、などと、馬鹿なことを考えてしまう自分を律するために。
 意味のない母音を口から垂れ流しながら、動いた。
 だが、鍛えられた大人である救急隊員に敵うはずもなく、一松はあっさりと動きを封じられ、鎮静剤が投与された。外部からの刺激により、一松の意識は再び遠のいていく。
 ぶれる視界の中、十四松の胸がわずかに上下していることだけを確認し、彼はゆっくりと眠りについた。
 一松が次に目を覚ますと、見慣れぬ壁と天井があるベッドの上だった。
 どうやら眠っている間に適切な処置を受けたらしく、腕や頭には包帯が巻かれている。ぼんやりと周囲を見ると、涙目になっている母と目が合った。どうやらベッドの脇に設置されている椅子に腰掛けていたらしい。
「良かった……。
 もう、心配させないでちょうだいよ」
 はらはらと涙を流す母曰く、一松の怪我は入院を必要とするレベルのものではなく、今日にでも自宅に戻っていい、とのことだった。腕の骨折や打撲も、一、二ヶ月で完治する見込みだそうだ。
 自身の体についての説明を聞きながら、一松は静かに起き上がる。確かに体は痛むが、動けない程ではない。
 個室にしては少々広く見える部屋をぐるり、と視線だけで眺める。
「じゅ、しま、つ……」
 思わず声が震えた。
 一松が眠っていたベッドの隣には、もう一つ、ベッドがあった。
 空ではない。同じ体格、同じ顔の少年が横たわっている。
 一松よりも痛々しいその体には点滴のための針が刺さっており、よりいっそう見る者の心を縮ませる。心電図が表示されていない分、死を心配することはないが、それでもひと目見ただけで重症である、ということがわかってしまう。
「一松……」
 ふらつきながらベッドを降り、十四松の傍らへ歩を進める。そんな一松を見て、松代は悲痛な呟きを零す。
 六つ子である彼らが、どれほど互いを大切にしているのか、母は知っているのだ。怪我をした二人の息子。心に傷を負った息子。その両方を目にし、平然としていられる母親はいない。
「お、きてよ……。
 十四松、起きて……」
 眠る体にかけられたシーツを軽く握り締める。
 小さく、それでも何度も何度も声をかけた。今すぐ、彼の声が聞きたかった。大丈夫、だと。痛い、と、何でもいいから言葉にしてほしかった。
「……母さん、飲み物を買ってくるわね」
 今は二人っきりにしてあげよう。
 松代はそう思い、席を立つ。
 腹を痛めて生んだ子供とはいえ、その繋がりは六つ子に劣る。心の痛みも、それを受け止めるための時間も、きっと松代では作ってやれない。
 この場を離れることだけが、彼女にできる唯一のことだった。
 彼女が部屋を出て、数秒。足音が聞こえなくなると同時に、一松の目からは大粒の涙が零れ落ちる。
 吼えはしなかった。慟哭を腹から響かせてやりたかったが、理性とプライドが邪魔をした。
「ごめん、ごめん……。
 ボクが、オレが、もっと強かったら」
 早々に意識を飛ばしてしまった。
 痛みや苦しみを共有してやることさえできなかった。
 そんな自分が不甲斐なくて、悔しくて、憎かった。
 兄であるはずなのに、同一の固体であるはずなのに。何が六つ子だ、何が兄だ。今、横たわる弟のためにできることはなく、できたこともなかった無力なクズがいるだけじゃないか。
 一松は唇を噛み締める。赤い血が溢れ、口の中を鉄臭くしても構いはしない。
 不良共によって袋叩きにされた十四松は、もっと痛かったはずだ。
「一松! 十四松!」
 涙を零し始めてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
 部屋の出入り口から聞きなれすぎた声が飛び込んできた。
 誰がきたのかを確認することなく、一松は黙って涙を零しながら十四松を見続ける。
 わざわざ視線を向けずとも、足音や声で兄弟達が駆けつけてくれたことはわかっていた。
「大丈夫か?」
「誰にやられたの?」
「十四松兄さん、起きる、よね……?」
「くっそ、何でこんな」
 口々に兄弟達が慰めや心配、怒りの言葉を零していく。
 こんな時ではあるが、変わらぬ兄弟達に一松は安堵さえした。自分達は同じ存在ではなくなってしまった。だが、兄弟であるのだ、と改めて実感することができたのだ。
「オレは、大丈夫だ、よ……」
 我が事のように思ってくれている兄弟達を少しでも安心させてやるため、一松は無理やり作った笑みを顔に貼り付け、彼らの方へと振り返る。
 似たような顔が四つ、これまた似たような表情をしているのだろう、と。
 結果として、その予想は当たっていた。
 ここ一年で蓄積されたはずの自己を何処に置いてきたのか、とばかりに四人は同じ顔をして一松と十四松を見ている。彼らを見分けることができるのは、同じ存在であった者だけだろう。
 一松は全員を見分けることができた。そして、一人を見分けた瞬間、世界が暗くなったのを感じた。
「どうした?
 怪我が痛むのか?」
 顔を硬直させた一松に、カラ松の不安げな声がかかる。
 容量を遥かに超えて溢れ出たのは、憎しみだった。
「――お前のせいだ」
「え?」
 一松は薄暗い瞳でカラ松を睨みつける。
「全部、全部、お前のせいだ!」
 勢いよく立ち上がり、折れていない手でカラ松の胸倉を掴み上げた。
 普段であれば、すぐにやり返されて終わりだが、この状況下で弟に手を上げるほど、カラ松は腐っていない。
「オレと十四松が何でボコられたか知ってるか?
 お前の代わりだよ!
 馬鹿みたいに喧嘩なんてするから。オレはやめろって何度も言ったのに!」
 口からは憎悪が、目からは涙が、一松の体から外へと吐き出されていく。
「頭カラっぽで考えなしなお前のせいで、十四松がこんな目にあったんだ。
 何も悪いことなんてしてないのに。
 大人しくて、優しいヤツなのに。
 六つ子だからって、お前なんかと間違われて、オレだって、こんな目にあって……」
 弟を守れなかった自分はクズだ。
 しかし、攻撃対象となるような原因を作ったカラ松は、それを下回る。
「お前なんて兄貴じゃない!
 お前なんてオレじゃない!
 お前なんて、お前なんて……!」
「ちょっ、一松!
 落ち着いて!」
 激しい怒りはそのままカラ松を飲み込もうとする。
 今、一松の腕は片方が折れている状態であるというのに、このまま放っておけば彼がカラ松を縊り殺しそうな迫力さえそこにはあった。
 慌ててチョロ松が二人の間に入りこみ、一松の手からカラ松を解放する。
「深呼吸して。
 ここは病院だよ? あんまり騒いだら他の人の迷惑になる」
 未だ、興奮冷めやまぬ状態の一松へ言葉を重ねていく。
 その隙におそ松はトド松と共にカラ松を病室の外へ連れ出した。
 話し合いや殴り合いで解決できるのならばそれでもいいが、今の一松の精神や体を見るにどちらも期待できそうにはない。一度、距離を置くのが正解だ。
 部屋の中からは一松の泣き声がかすかに聞こえてくる。
 一つ上の兄であるチョロ松に全てを吐き出している最中なのだろう。
「……あんまし気にすんなよ、カラ松」
「そーだよ、どう考えたって手を出したほうが悪いんだから」
「…………」
 おそ松とトド松の言葉は届いているのか、いないのか。カラ松は始終無言で病院の床を眺めていた。そんな弟の様子を、おそ松は目を細めて見つめる。
 そこへ、時間をかけて飲み物を買いに出かけていた松代が戻ってきた。
「あら、あんた達、こんなところで何してるの?」
「色々あってさぁ」
 トド松がちらり、と病室へ目を向ける。
 中から聞こえてくる声はずいぶんと小さくなったが、それでも一松が泣いていることはわかる。
「……母さんにはわからないけど、あんた達にはあんた達なりに、色々あるのね」
 細かなことはわからなかったが、何かあったのだろう、ということはわかった。また、それだけでよかった。
 今までも、六つ子達は何だかんだと問題を起こしながらも、手を取り合い、時には足を引っ張ったりしながら解決してきた。十四年間、そんな彼らを見守り続けてきた松代だからこそ、彼らを信頼しているのだ。
「でも、今日のところは帰りなさい。明日も学校でしょ。
 一松は朝になったら私と一緒に家に帰るから」
「……うん」
 おそ松は頷く。
 一松達のことは気になるが、今夜は松代の言葉に従っておくに限る。
「トド松、チョロ松連れてきて。
 オレはカラ松と先に行ってるから」
「わかったよ」
 おそ松はカラ松の腕をとり、半ば無理やり立たせる。
 抵抗する気力も自主的に動く気力もないらしい彼は、されるがままに歩き出した。
「大丈夫だって。
 明日になれば十四松だって目を覚ます。
 そうすりゃ、一松だって言いすぎた、ってわかるよ」
 病院の廊下を歩きながら、おそ松はカラ松に声をかける。しかし、返答がよこされることはなかった。おそ松は病院を出たところでしばし待ち、トド松達と合流してからタクシーで自宅へと戻ることとなった。その間もカラ松は一言たりとも言葉を発することなく、徹頭徹尾無言を貫いていた。
 おそ松はそんなカラ松の手をとる。やはり抵抗はなかった。
 ずっとこの手を握っていなければ、自分の知る弟がどこかに行ってしまうような気がしたのだ。
「はい、今日はとっとと寝よ。
 それが一番。それでいいのだ」
「現実逃避って言うんだよ。それ」
「でも、寝るのには賛成。
 何だか疲れちゃった」
 トド松は伸びをしながら、賛成を口にする。
 長距離を移動したことに加え、兄達の容態や精神状態が酷すぎた。相応の疲労感が彼らの体をじくじくと支配していた。
 彼らは賛成するや否や、風呂にも入らず手早く布団を敷く。
 六人用の布団は、四人で寝るには少しばかり広すぎたので、全員が中心部分に寄る形になった。
「……おやすみ」
 誰かの声が聞こえ、彼らは目を閉じる。
 願わくば、目が覚めたときには全てが元通りになっていればいい、という淡い期待を胸に。
 だが、おそ松は朝が来るよりも先に目が覚めてしまった。
 世界はまだ暗く、自分達が置かれた状況もなんら変わっていない。
「って、あれ?」
 違った。何も変わっていない、ということはなかった。
 見れば、トド松の向こう側にいたはずの兄弟がいない。
 カラ松が、いなかった。
「――や、べっ」
 静かに言葉を落とし、おそ松は布団から出る。
 幸い、服を着替えるのも面倒なままに寝たため、そのまま外に出ることができた。彼の考えが正しければ、事は一刻を争う。
 愛用のスニーカーを履き、すぐに町へ飛び出した。心当たりはいくつかあるが、少なくはない。手がかりがないこの状況では、一つ一つしらみ潰しにいくより他にないのがもどかしい。
「くっそ。わかってたのに、油断したっ!」
 病院で一松と十四松を見たとき、おそ松は胸が苦しくなった。
 少なくとも、あの時、目を開けて涙を零していた四男の心は、ボロボロだった。今にも砕けてしまいそうで、支えてやらないといけない、と直感した。
 壊れてしまわないようにそっと触れ、ヒビを修復してやらなければ。そう思っていた。
 一松が、怒りと憎しみを吐き出すまでは。
 あの瞬間、おそ松の最優先事項が更新された。
 身体的にボロボロになってしまっている十四松よりも心が砕けかかっている一松を。それよりも、心を欠けさせようとしているカラ松を。
 他の誰も気づかなかった音におそ松だけは気づいていた。
 心が砕け散る音。割れた音。まだかろうじて散らばっていない欠片達を一刻も早く拾い集めてやらなければ、という衝動に押し動かされた。だからこそ目を離さずにいたというのに。
 まさか、寝入った隙をつかれるとは思わなかった。
「思いとどまっててくれよ、カラ松……!」
 おそらく、カラ松は十四松達をあんな目にあわせた不良を探しているに違いない。やらかしそうな輩にはおそ松も覚えがあるし、いざというときのために溜まり場だって知っている。
 そのどれかに彼はいるはずなのだ。
 足が震えるのも無視して走り続けると、路地裏から鈍い音が聞こえてきた。
 丁度、件の男達が溜まり場にしているBarのある路地だ。嫌な予感がした。
「……カラ松」
 そっと顔を出し、探している姿を見つけてしまい、おそ松は低い声を出す。
「おそ松兄さん」
 カラ松がいた。
 鬱蒼と笑みを浮かべ、手には金属バット。足元には死屍累々とばかりに倒れる不良共。
 暗くてよく見えないのが幸いした。これがお天道様の下だったならば、思わず口元を押さえてしまうほど赤々としていたことだろう。
「お前、これ……」
「オレさ、もう喧嘩やめる。
 これっきりだ」
 その声を、一人称を聞いて、おそ松は自分が遅かったことを察した。
「腹が立っても殴らない。
 殴られてもやりかえさない」
 普段の喧嘩で、武器を使うのはおそ松の方だった。
 こちら側にダメージはなく、相手へ与える痛みは倍増する。その方が効率的だったから。
 だが、存外、優しいところのあるカラ松は違っていた。
 彼は相手を殴るとき、一方的なものにしたくはない、といつだって拳を使っていた。おそ松は、漢らしい弟へ密かに拍手を送ったことさえあったのだ。
「オレはあいつらを守ってやらなきゃいけないからな」
 今回、彼が武器を手にしたのは、あまりにも許しがたかったのだろう。
 弟を傷つけられたことが、「次男」としては、到底、許容できなかった。相応の制裁を。そのためには拳よりも武器を。完膚なきまでに相手を痛めつけられる手段を。
「悪いな、おそ松兄さん」
 どろり、とした瞳に、おそ松は苛立ち、近場に伏していた不良を蹴り上げる。
 朝になれば澱んだ光は隠されてしまう。巧妙に沈められた闇を、この弟は一生、抱えていかなければならなくなってしまった。こんな糞野郎共のせいで。
「……いーよ。
 オレだって、喧嘩が好きなわけじゃないし」
「そうだったか?」
「そーなの」
 カラ松は赤く染まった金属バットを投げ捨て、おそ松の傍へとやってくる。
「帰るか」
「おう」
 声だけ聞けば、今までと変わらぬ弟があるように思えた。
 けれども、彼の中にある心は、もう散ってしまった。今から長い長い時間をかけてかき集めたところで、完全には戻らない。
 本当ならば、ちょっと喧嘩っ早いが、とても優しい次男になるはずだった。皆を率いるのがおそ松の役目ならば、置いていかれそうな弟の背中を押してくれるのがカラ松だった。
 いずれ、度量の広い兄貴肌を周囲の人間も知り、彼を頼ってくるようになるはずだった。過ちには拳を。善意には抱擁を。そんな風にして好かれていくはずだった未来は失われた。
 欠けてしまった兄を見て、一松は何を思うのだろうか。
 おそ松は次の心配事に頭をやる。
 真面目で察しのいいあの四男は、すぐにカラ松が欠けたことに気づくだろう。原因が自身の言葉だったこともセットで。そうして、また自分を責めるのだ。同じように、変わってしまった次男を責めるのだ。
 カラ松が欠けている限り、一松は今日のことも、欠けさせてしまったことも忘れられない。
 風化せぬ罪悪感がどのようなモノになるかなど、考えたくもなかった。
「あー、せめて、十四松は真っ直ぐ育ってくれよー」
「何だ。兄さん。
 オレ達六つ子は皆、真っ直ぐ育ってるだろう」
 楽しげに笑うカラ松の頬には血が付着していた。
 おそ松はそれを苦笑いしながら指で拭ってやる。
「そうだな。みーんな、可愛いオレの弟だよ」
 こうして、同一固体であった六つ子は、中学二年の夏休み前に一人一人、別の存在へと生まれ変わった。
 翌日になって、カラ松の変貌を目の当たりにした一松は、一度だけ苦しそうな瞳をしてみせたが、すぐにまた恨み辛みを吐き出した。言わずにはいられない、といったところだ。
 それに対してカラ松は、昨晩のように無言でいるわけでも、今までのように反論するわけでもなく、苦々しげに目を伏せながら一松の思いを全て受け止める。
「お前の言うとおりだ。
 オレが考えなしだった」
「今更、何を言ったって遅いよ。
 無駄なんだ。終わったことは変えられない」
「そうだな。だから、これからのオレを見てほしい」
 心を欠いた姿が一松を苛立たせる。
 お前はそんな人間ではなかっただろう、と吼えたい欲求が腹から胸までを満たす。
「もう喧嘩はしない。
 お前達にとって良い兄になる」
「……飽き性でカラっぽな人間の言うことなんて信用できないよ」
 その言葉には、一抹の願いがこもっていた。
 変わってしまったというのは勘違いで、数日もすれば今まで通りの兄がそこに在ればいい。そんな、身勝手で、しかし切実な願いだ。
「一生信用してくれなくてもいい。
 だが、オレはもう間違わない」
 カラ松はその言葉を違えることないまま大人になる。
 お礼参りをされようとも、チンピラに喧嘩を売られようとも、彼は一切の手出しをしなくなった。逃げる努力はするが、それが不可能だと悟ったならば後はサンドバッグ状態だ。
 おかげで、中学を卒業するまでの間、カラ松の学ランはボロボロだった。
 また、その弊害とばかりに、彼はやたらとビビりになってしまったことも変化の一つだ。
 今までは殴り殴られで脳内物質が大量に放出されていたのだろうけれど、一方的な暴力ではそうもいかない。延々と与えられる暴力に怯えるのは必然で、いつしか彼がおそ松に次いで喧嘩に強かったという事実は忘れられていくこととなる。
「カラ松、お前はもうちょっと一松にやりかえしたほうがいいんじゃないか?」
「ふっ……。可愛い弟に手を上げられるわけがないだろ」
「あー、はいはい」
 長男であるおそ松を除き、カラ松は兄弟に手を上げることがなくなった。
 最初は一松もカラ松にボロを出させようとちょっかいをかけていたが、中学を卒業する頃にはそれもなくなる。変わらぬ兄と、それにより蝕まれる自身の心から逃げたのだ。
「お前もオレに甘えていいんだぞ?
 オレはお前達全員の兄なのだからな」
 自己を確立させた、というよりは、一人ですらなくなった感のあるカラ松は、自身の空白を埋めるように演劇部へと足を運んだ。そうして完成したのが、今、チョロ松の目の前にいるやたら格好をつけたがるイタイ存在だ。
 頭も心もカラっぽになってしまった彼にとって、演劇とは非常に相性がよかったらしく、在学中は何度か主役をこなしたこともある。ただし、その演技が抜けきらず、もしくは抜くことすらできず、今もなお日常において格好をつけられるのはウザいことこの上ないのだけれども。
「ウッザ」
「うっ……」
 格好をつけるカラ松を見下すのは一松だ。
 自己嫌悪と人間不信の狭間に落ちた彼は、結局持ち直すことができず、卑屈の塊のような人間になってしまった。もっとも、カラ松への感情は中学時代から薄れることなく溜まり続けているので、世界の最底辺に位置しているのは自分ではない、とも思っているようだが。
 おそ松はどうしてこうなったんだか、とため息をつく。
 カラ松はビビりになったが、一松に対してはことさらリアクションが派手だ。
 誰も口にはしないし、カラ松自身はそう思っていないのだろうけれど、アレは一種のトラウマ、というやつなのだろう。理由や過程がどうであれ、一松に責め立てられることをカラ松は恐れる。それは、イコールで自身が兄として失格であった、という記憶と結びついてしまうから。
 一松はそのことに気づいている。
 その上で、いつまでも過去を引きずる兄に苛立ち、棘を向ける。
 悪循環だ。何年経っても変わらない。
「ねー! 喧嘩はやめよーよ!
 野球しよ! 駆けっこでもいーよ!」
 冷たい空気が流れた二人の間に入ってきたのは、これまた変わってしまった十四松だ。
 かつての大人しさを放り投げた彼は、ある意味天真爛漫、ある意味気の違えた男として、今も松野家を走り回っている。
 あの大怪我を負った瞬間から、彼は変化を完了させていた。目覚めて一発目の台詞が、生きてた、という大笑いを伴った言葉だったのだからその場にいた全員が焦った。
 打ち所が悪かったのかと、頭のネジが吹き飛んだのかと、右へ左への大騒ぎだ。
 しかし、検査の結果は異常なし。
 十四松本人もまともに話をしてさえみせた。
 変わったのか彼の価値観だ。
「オレさー、死んだかと思ったんだぁ。
 一松にーさんも、オレも。
 んで、思ったんだ。人って、死ぬときは一人なんだーって。
 いつ死んでもおかしくないんだーって」
 へらへらと笑いながら言う言葉は重く、それを発する彼の瞳には狂気と常識の色が浮かんでは消えていた。
「だからさっ!
 人生、楽しく生きることにしたんだぁ。
 周りの目とか、色々、気にしないで好きなことして生きる!」
 そんな宣言を受け、兄弟達は少し迷いながらも頷いた。
 かつての片割れがそれを望むのであれば、手助けをしてやろうと。
 怪我が治ってからの十四松は核弾頭、と言っても相違ない破壊力を伴って学校中を、町内中を駆けた。その規模や異常性は、兄弟達が手を貸すごとに極まっていくこととなる。
 傍から見れば、十四松は怪我によって障害を負ったキチガイに見えるかもしれない。
 だが、兄弟達だけは知っている。
 十四松は普通の人間で、常識も、世間体も知っている。律しようとすれば、そうすることもできる。ただ、その必要性を捨ててしまっただけだ。それでいいよ、と兄弟が許してしまっただけだ。
「野球するなら外でしてよねー」
「……オレはしないよ」
「えー、楽しいじゃん野球!」
 騒がしい弟達を横目に、おそ松はあの日、あの夜、蹴り上げた不良共のことを思い出す。
 本当に最悪な連中だった。完全犯罪をこなせるのであれば、真っ先にヤツラを殺してやりたい。
 あんなことさえなければ、今も一松とカラ松は仲良く過ごしているはずだった。一松は卑屈にならず、真面目を貫き通しつつも、弟としての可愛らしさを残したままの優しい子になっただろう。
 十四松も狂喜に走ることはなかったはずだ。おっとりとした雰囲気をまとい、暴走しがちな兄弟達をやんわりと引き止めてくれるストッパーになるはずだった。まさか、加速装置になるとは誰が思っただろうか。
「ねー、おそ松兄さんも一緒に遊ぼうよ!」
 軽い衝撃が体の側面にかかる。
 十四松のタックルだ。
「えー。オレ、今日はちょっとコレを……」
「またパチンコかよ!
 いい加減にしろよ長男!」
 チョロ松のツッコミが今日も小気味良く家に響く。
「ま、これもいいかもなぁ」
「えっ! 野球? する?!」
 おそ松は笑う。
 不良共のことは許すつもりはないし、出会ったらボコボコにしてやる自信がある。
 だが、今の在り方に不平不満があるわけではないのだ。
 おそ松自身はカリスマを口にしつつも果たされる目処など立つはずもない日々を無為に過ごしているし、チョロ松も周囲と上手く合わせているように見せているだけで、実際のところは中々のクズだ。社交性豊かなトド松は腹が黒く、人の弱味を握り懐柔することを良しとするヒモ男。
 どいつもこいつもクズばかりの社会不適合者。
  自分達は一が六で、六は一。別れてみても、くっついてみても、十には成りえない。全員がまとまったって一人前にはなれなかった一つの六つ子。
 だから、これでいいのだ。


END