日本の首都。その一角にある赤塚区。昭和の面持ちを残した町には、鉄筋コンクリートのビルやマンションの合間を縫うようにして木造建築の一軒屋がいくつも存在している。
 その内の一つ。決して、大きいとは言いがたいものの、立派な二階建ての一軒屋。表札には「松野」とだけ書かれており、家族構成や下の名前は一切示されていない。

「ここがおそ松の家?」
「イメージと違うねぇ」

 純和風の家の前には、テレビや雑誌で見たことのある顔が二つと、その後ろには多数の人間。後者の人々は同種の服に身を包んでおり、ひと目見ただけで所属が同じであるということがわかる。
 また、彼らの手や周囲にある機材が撮影のために使用される物である、ということも、一見しただけで簡単に理解することができるだろう。
 その道の専門家でなくとも、昨今、漫画やドラマ、SNS等でこういった風景が映し出されていることは少なくない。
 そう、一軒の民家前に集まった者達は全員、とある番組撮影のために集まっているのだ。

「もっと豪邸に住んでるんだとばっかり思ってたぜ」
「家の写真を見せてもらったことがあるわけではないし、意外と庶民派のおそ松さんも良いでしょ。
 これは好感度上がっちゃう感じかなぁ」
「今以上に引き離されたらたまったもんじゃねぇな!」
「上からも怒られちゃうしね」

 カメラを意識しつつ、家についてのコメントを述べる二人は、数年前からテレビに出始めて、今ではそれなりに名が売れているタレントだ。
 荒っぽい口調をした黒髪ショートの男が竹田。対する、緩い雰囲気を持った茶髪の男は梅谷、という。

 読者モデル上がりの二人は、平均よりも上の容姿と若者向けの軽快なやりとりで日々お茶の間を楽しませている。
 同事務所に所属している彼らは、半ばコンビのような扱いを受けており、出演すればほぼ共演。冠番組を持たせてもらったかと思えば、二人で一つ、というのが当たり前になっていた。
 本人達としても、心強い仲間が横にいる方が気楽なようで、現状、周囲からの扱いに不満はない。数年後まで今のままのスタンスを貫くのには無理があるだろうけれど、上を目指すための足がけとしては充分すぎる実力と日々を過ごしている。

 そんな彼らが今、撮影していものこそ、二人の初冠番組であり、二人の代名詞的番組。『突撃! あの人のお宅!』だ。
 内容は番組名から察せられるままのもので、竹田と梅谷がタレントや芸人、時には学者の家へと突撃訪問をする、というだけのもの。
 ありきたりな内容ではあるが、若者と絡む大御所の好々爺的反応や、一緒になって騒ぐ芸人達、といった風景がウケ、放送開始から一年以上が経過している今でも高視聴率を維持し続ける番組となっている。

「さてさて、では、改めまして、今日はあの、カリスマレジェンド松野おそ松さんのお宅に訪問したいと思いまーす」
「勿論、本人はそのことを知らねぇ。ガチの突撃がこの番組のウリだしな。
 完全オフの松野おそ松を初放送! ってわけだ」

 そして今日、彼らが訪問するお宅。それが、目の前にある、平凡極まりない民家だった。
 松野おそ松。三年前、とある雑誌に起用されて以降、今に至るまで、いや、今現在も人気を上昇させ続けているタレントだ。世間は、その下がることなく上がり続ける人気に敬意を評し、彼をカリスマレジェンドと呼ぶ。

 容姿としては中の中から中の上、といったところではあるが、ミステリアスな雰囲気と、柔和な笑みが人気の秘訣、と各種雑誌は取り上げていた。
 何せ、おそ松はアンドロイドなのでは、という疑惑がネット上で上げられるほど、謎の多い人物なのだ。
 誕生日と血液型程度ならば公式のプロフィールに記載されているのだが、家族構成や出生、学歴等は全て伏せられており、彼という人物の幼少期についての情報が何処からか漏れることは一切なかった。

 メディアに登場してから今まで、浮いた話の一つもない点も、松野おそ松、アンドロイド疑惑を後押ししている。
 気をつけた上で、彼女の一人も作らずにいる梅谷や竹田でさえ、共演者のアイドルとの噂がまことしやかに語られるというのに、おそ松にはそれすらない。
 それほどまでに、欲望というものが垣間見えることはなく、ともすれば不気味なほどに落ち着いているのだ。

 ただ、女性ファンなどは、安心して応援できるアイドルだ、と語り、男性ファンからは好きなアイドルの傍にいても安心できる、と言われている。
 おそ松の不可思議さは魅力になれども、不評や嫌悪の素にはならないらしい。

 そんな彼は梅谷達とは所属事務所が違っているのだが、よく同番組に出演し、巷では松竹梅トリオ、等といって持て囃されている。
 同年代である、ということに気が緩むのか、おそ松の落ち着きが少し剥がれ、年相応の顔が見え隠れする光景がファンにはたまらないらしい。

 一部、梅谷達のことをおそ松の腰ぎんちゃくだの、虎の威を借る何とやらだと難癖をつける連中はいるが、三人の中が険悪になったことは一度もない。
 仕事の合間に言葉を交わす際も、テレビで見せる顔とそれほど変わらず、彼らは在った。
 だからこそ、この突撃取材だ。

 視聴率のことを考えての結果であるが、これを機に、おそ松の人気がさらに上がればいい、と二人が思っているのも嘘ではない。
 蹴落としあいの激しい業界の中で、心を許せる人間というのはどうしたって限られてしまう。
 所属が違うというのに気軽に声を掛け合える相手というのは希少で、さらなる高みへ足を進めさせるべく背中を押す事だってやぶさかではなくなってしまうもの。

「よし。押すぜ?」
「どーぞ」
「本当に、いいんだな?」
「良いよ。ほら、早く」
「おっしゃ、いくぜ!」

 竹田がインターフォンを押す。
 スタッフ一同は息を呑んで家主の登場を待つ。その中には、おそ松のマネージャーである男もいた。
 実はこのマネージャー、数ヶ月前におそ松の担当となったばかりの新人。研修を終え、始めての担当が松野おそ松ということもあり、血気盛んに仕事に取り込んではいるのだが、今ひとつ冷静さが足りない、ということで、未だ独り立ちさせられていない。
 事務所で最も若手の人間に新人マネージャーを充てる、というのは、ヘタに大御所や経歴の長いタレントに充ててしまうと、マネージャー側で制御することができない、という真っ当な理由があるのだが、今回ばかりは上手くいきそうにもないのが現状だ。

 雑用やスケジュール管理は新人に任せられるようになったものの、仕事選びやおそ松との細かな打ち合わせというのは前任の人間がしている。後者など、新人のいないところで行われているのだから、不平不満というものも生まれる。
 今回の仕事は、前任が新たに担当する予定のタレントが忙しくなり、こちらにまで細かに目をやれない隙を狙って新人マネージャーがオファーを受け、ねじ込んだものだ。
 おそ松の新たな一面を世間に公表し、人気をさらに上昇、確固たるものにしてしまえば、上も前任も文句は言えなくなるだろう。

 マネージャーとして、一人のファンとして、彼は期待と希望に胸を高鳴らせていた。

「……出ないね」
「……出ねぇな」

 二度、三度とインターフォンを押してみるが反応はない。
 薄い扉一枚向こうから足音一つ聞こえてはこず、二人は眉を下げる。
 人の気配すらない。居留守を使われているわけでも、台所やら便所やらの用事でもなさそうだ。

「えっと、もしかして出かけてる、とか?」
「いやいや、スタッフが朝から張り込んでたんだろ?」

 やらせ無し、ガチンコ突撃、ということで、家主が出かける危険性を考え、この番組では事前にスタッフを何人か見張りに置くのが通例だ。今日もそのやり方に変更はなかったはず。
 ターゲットが突然出かけてしまった場合は、やむを得ず出かけ先に突撃していき、帰宅まで用事に付き合う、ということだってしてきた。緊急の対応には慣れている面々で、予測しえぬ事態が起きたのだとしても、何らかの報告が上がってくるはずだ。

「朝の四時におそ松さんが帰宅してからずっと張ってましたが、誰一人家からは出て行きませんでした」

 スタッフの一人が申告する。
 人気タレントであるおそ松の夜は遅い。一時期は番組の合間や移動時間だけが睡眠時間、とまで言われていたほどだ。流石に体を壊す危険がある、ということで今は仕事の量をセーブしているらしいが。

 現在時刻は朝の十時。充分な睡眠が取れているかどうかは微妙なところだ。
 おそ松側としては今日は一日中オフの予定であるし、昼を過ぎるまで眠っている可能性は充分にある。

「まだ寝てるとか?」
「叩いてみるか」

 言うや否や、竹田が扉を叩いた。
 ガラスが揺れ、長時間は聞いていたくない音がマイクを通して記録されていく。

「おそ松ー。オレ、竹田ー。起きろー」
「おっそ松さーん。
 すみませーん、いらっしゃいますかー」

 番組に穴を空けることのないよう、ビデオのストックはいくつかある。一度出直して後日、改めてここを訪れる、という手もなくはない。しかし、この番組の主である二人と、彼らを支えるスタッフ一同としては、この機を逃すまいと意気込んできたのだ。ここで退く、というのは心境的に難しい。

 何せ、おそ松といえば、その穏やかな気性とは裏腹に、何があっても頑なにプライベートを語らない、見せないことで有名なタレントなのだ。気の強い司会に突っ込まれようが、超大御所に促されようが、おそ松は自身の私生活について口にはしない。いつものらりくらりと避けてしまう。

 その隙のなさが良い、というファンは多いけれど、心の奥底では彼の私生活に興味津々のはずだ。
 テレビに出て、脚光を浴びる人間。自分達とは違う次元に住んでいる人間。それに憧れを抱き、夢を描く。それがファンであり、彼らに支えられるタレントは代償として私生活を切り売りしていく。
 多くの業界人はそうやって光を浴び続けている。松野おそ松だけが異端であり続けようとしている。
 事務所側も彼の味方らしく、前任マネージャーはおそ松宅への突撃を一度足りとも許可していない。

 だからこそ、この撮影に大きな期待が詰め込まれていた。
 まだ引継ぎもまともにできていない新人マネージャーを狙い、アポを取り付けたことに作為がないとはいわない。そこまでしてでも知りたい、伝えたい、そして視聴率を取りたい。スタッフ一同、その一心でここまでやってきたのだ。また後日に、では、事務所から許可取り消しがくる可能性もある。
 今日という日を逃せはしないのだ。

「おそ松ー。おーい!」

 ガンガン、と扉が音を立てる。
 スタッフの間にも困惑の空気が生まれ、後数分もすれば、やはり諦めたほうがいいのでは? という声が上がってきそうな雰囲気だった。
 しかし、神は諦めぬ者にこそ手を差し伸べる。

「何ですか、朝っぱらから……」

 今まで開く気配のなかった扉が、横に移動した。つまり、内側にいた人間が鍵を開け、外側との接触を図ってきた、ということだ。

「おお! お前、どんだけ眠りが深ぇんだよ!
 おはよう。『突撃! あの人のお宅!』のお時間だ」

 出てきたのは、薄水色をしたパジャマに身を包んだおそ松。
 半目にあくび、と寝起き感を満載に背負ってきた彼は、少々朝に弱いらしく、口がへの字になっていた。心なしか目も白目がちで少々怖い。

「え、何……?」
「ちょっと、寝ぼけすぎだよ。
 一度、顔洗ってくる?」

 梅谷が声をかけるが、おそ松は困惑顔だ。
 まるで、目の前にいる人物を把握していないかのようにも見える。

「……テレビ?」

 視線を手前の二人と奥にいるスタッフ、そして数々の機材へと順繰りに移動させること数度。ようやく頭が働き始めたらしいおそ松が小さく呟く。寝起きで掠れているらしい声は、いつもの飄々とした雰囲気を消し、どこか神経質な印象を思わせる音へと変化していた。

「これって、テレビですよね?
 松野おそ松、の取材?」

 カメラにも取材にも慣れきっているはずの彼が問いかける。まるでドッキリをくらった素人のような反応だ。
 竹田は豪快に笑いながらおそ松の肩を叩く。

「なーに言ってんだよ。
 おそ松以外の誰をここに取材しにくんだってーの」
「……ふーん」

 呼応するようにして笑みを見せたおそ松だが、明らかに竹田のそれとは色が違っていた。
 爽やかに、かつ朗らかに笑う竹田に対し、おそ松はにやり、という擬音がよく似合う笑いだ。悪いことを考えていそう、とでも言えばいいのだろうか。
 だが、その笑みも一瞬後にはかき消える。

「すみません。ちょっと準備があるので、居間でお待ちください」

 視聴者へ向けられた満面の笑みは、普段、彼がスタジオで見せているものと相違ない。
 邪気のない、爽やかで明るい笑み。
 一秒前の違和感のことなどスタッフも竹田も梅谷も、すっかり忘れてしまう。そうさせるだけの普段通りがそこにはあったのだ。

「準備なんていいよ〜。
 今までも、パジャマのまま一時間テレビに出てた人もいるし」
「いやいや。それは、ね?」
「少しくらいだらしないお前を見せたって、ファンの子はひかねぇって」
「まあまあ、すぐ終わるから」

 地上波に乗るとあっては、妥協など許しがたいらしい。そのまま自宅や休日の過ごし方といった、いつものインタビューに移行したかったのだけれど、おそ松は聞く耳を持たない。
 軽やかに言葉を流し、速やかに竹田達を今へ押し込めていく。多少強引ではあるけれど、暴力的な雰囲気はなく、しかし、一歩も退かぬ意思を彼は見せた。

 ここで駄々をこねて険悪な空気で番組を続けるわけにもいかない。
 梅谷と竹田はアイコンタクトを交わし、画面の外で頷く。別段、着替えたからといって不利益があるわけではない。時間がかかったとしても、カットしてしまえばそれで終わりだ。

「わかった、わかったって」
「押さないで〜」

 おそ松に背を押され、彼らは古びた廊下に足を乗せ、そのまま前へと進む。
 三人の後ろを行くカメラマンは、その姿をしっかりと写した。
 これから私服に着替えてくるというならば、今あるパジャマ姿は非常に貴重なものとなるだろう。百を撮って一を電波に乗せるのが彼らの仕事。数台のカメラが別々の角度からオフのおそ松を見つめる。

 高級感のなパジャマは近所の服屋で売られている量産品だろう。レンズを通しても肉眼で見ても変わらぬ安っぽさだ。さらによく観察してみれば、所々がほつれ、毛玉がついており、数年は着用し続けているのだろうこともわかった。
 カリスマレジェンドには相応しくない。率直にそう思えてしまう。

「では、絶対にここから出ないでくださいね」

 スタッフ達の心を知ってか知らずか、おそ松はそう言うと居間の襖を閉めてしまった。ぱたぱたという足音。そこから階段を登る音。どうやら、彼の自室は二階にあるようだ。

 居間は広いとは言い難く、スタッフを含めた全員が押し込められると少々狭苦しい。
 カメラに収めるべき梅谷らを写せば、必然的にスタッフの体の一部、あるいは大部分が入ってしまうような状態だ。

 幸い、その辺りのことを考慮しなければならないような番組ではなく、むしろ、この場所よりも狭い部屋や家に詰め込まれたこともある。場慣れしているカメラマンはぐるりと部屋を撮る。
 主に使われるのは梅谷と竹田のトークシーンであったとしても、松野おそ松の自宅を写さない理由にはならない。

 部屋の隅ではディレクターと一部のスタッフ、そしておそ松のマネージャーがこれからについて小声で話していた。それぞれが役割を全うする中で、竹田達も自身の仕事をしっかりとこなす。

「どうする?」
「ここはいっちょ、偵察に出るか?」

 カメラを意識しつつ、二人は悪戯気な笑みを浮かべた。
 出るな、とは言われたが、それを律儀に守る必要はないだろう。
 流石によそ様の家を勝手に物色するようなマネはしないが、廊下から部屋を覗き込むくらいならば許されるはずだ。万が一、テレビに乗せられないものがあったとしてもご愛嬌。上手く編集し、なかったことにしてしまえばそれで済む話。

 視聴者が望むもの。
 それを写し、赤裸々に公開するための番組だ。
 良い子ちゃんで座っていては面白みがない。

「それがいいと思う。
 彼が私服を選んでいる姿、というのも面白そうだし」

 梅谷が頷き、二人は降ろしていた腰を上げる。
 愛想程度ではあるが、五分は居間で大人しくしていたのだ。何とか時間切れを言い渡すことができる最低ラインは超えただろう。

 その時だ。襖の向こうから、バタバタとした品のない足音が聞こえてきた。おそらく、二階から階段を駆け下りている音。
 思わず、きょとん、とした顔で二人は音の主を待ってしまう。
 数秒後、激しい音共に襖が開かれる。

「げぇ! マジか!!」

 叫んだのは、襖を開けた家主。おそ松だ。

「へ?」

 梅谷が疑問符を浮かべるのも無理からぬこと。
 つい先ほど準備のために移動したはずのおそ松だというのに、その姿は改善されているどころか、悪化の一途をたどっている。
 ボタンが上から二つ外されたパジャマ姿は非常にだらしがないし、髪はぼさぼさ、あまりお見かけすることのない跳ね具合だ。さらに、口元には涎跡のようなものまで見える。
 玄関口で見たおそ松の方がよほど普段らしい格好といえた。

「お前らなーんで来ちゃってんのぉ?」

 頭を両手が掻き回しながらおそ松が呻く。
 そこにカリスマもレジェンドもない。年相応よりもまだ低い、子供じみた様子だけがあった。

「え? 何でって、さっきも言っただろ」
「『突撃! あの人のお宅!』の収録だってば」

 もしや、先ほどは寝ぼけていたのか? という疑問と共に、二人は改めてここへ来た理由を述べる。しかし、おそ松はその言葉に反応することはなく、じっと自身のマネージャーへと目を向けた。
 細められた目には敵意にも似たものが乗っており、これまた、日頃のおそ松とは正反対の印象を受ける。

「事務所の許可取ったぁ?」

 不満げに問いかけられ、竹田は小さく頷く。
 悪ぶっている彼だが、真正面から敵意を向けられたことはゼロに等しい。演技でも何でもないおそ松の気に充てられてしまうのは当然のことだ。
 竹田をフォローするようにして、梅谷は新人マネージャーへ視線を向ける。暗に、彼から許可を取っている、ということを示していた。

「……ふーん。
 あのさ、オレは、お前が新人だから気をつかってやる、とか、そんなことはぜーったいにないから」

 じとっ、と見つめられ、マネージャーがたじろぐ。
 前任が言っていた言葉が彼の頭の中に蘇る。意味のわからない、担当を外される不満から適当なことを言っているのだ、と、勝手な推測のもと、聞き流していた言葉。

 松野おそ松は危険人物である。

 画面越しに見てきた、仕事仲間として隣で見ていた表情、姿、挙動からは想像もできないような忠告だ。信じろ、という方が無理な話で、真面目に聞こうとすらしなかった。
 そのツケが、ここで清算されようとしている。
 嫌な予感にマネージャーの背筋が凍っていく。

「あの――」

 せめて何か、心の準備を、と言葉の意味を問おうとするが、マネージャーの言葉は、おそ松の笑みによって断絶されてしまう。

「ま! オレはいいけどねー!」

 軽い笑みからは何も感じられない。カリスマレジェンドとしての矜持も、テレビに出る者ならば少なからず背負っている重責も、隠し立てするような暗闇も。
 あるのは楽しげな表情一つで、これこそが生まれたままの、松野おそ松である、と主張するかのようだった。

「んじゃ、もうちょーっとだけ待っててくんね?
 滅茶苦茶面白くて良い絵を用意するからさ」

 軽い口調のままそう告げると、おそ松は襖を閉める。
 かと思えば、再び半分ほど開けてから、付け足すようにして言った。

「居間なら適当に漁ってくれて構わないから。
 そんかし、絶対にここ開けんなよ」

 悪戯小僧のような笑みを居間にいる全員の網膜に残し、おそ松は隙間なく襖を閉めた。そして、スタコラと効果音でもつきそうな足取りで立ち去る。
 階段を上る音の後、二階が騒がしくなったような気もしたが、残された者達はそれどころではない。

 先ほど目にしたおそ松は、本当に、あのおそ松なのか。
 無論、顔立ちや事務所から聞いた住所を鑑みれば、間違いないはずなのだが、受け入れるには些か齟齬がありすぎる。
 松竹梅トリオで仕事をしている時は年相応、という評価は何処へやら。今しがたのおそ松が本来の彼であるとするならば、三人での仕事で見てきた姿は充分すぎる程大人びていたのではないか、という思いでいっぱいになってしまう。

「……とりあえず、ここ見とくか」

 いち早く正気を取り戻したのは竹田だった。小さく声を出し、梅谷へ視線をやる。

 律儀におそ松の言いつけを守る必要もないのだけれど、あえて破る必要もない。視聴者へのサービスも、番組としての面白さも、先ほど向けられた強い敵意のような目を受けるほどの価値があるとは思えなかった。
 居間を抜け出す気持ちなど一片も残らず消え去り、安全な方向へと舵を取る。この場所を見てみよう、という思いさえ、おそ松からの許可がなければ口に出せやしなかったに違いない。

 その気持ちは梅谷も同じであったらしく、弱気になってしまった竹田をからかうことなく話を進めていく。

「えっと、ざっと見た感じ、普通の居間って感じかな」

 じっくり観察する必要すらない狭さの場所だが、ポーズとしてとっておかなければならないこと、というのが一定数存在しているのだ。
 ぐるりと顔を動かし、部屋の隅から隅へと視線を移動させ、広さを観察してから家具へと目をやる。

 年期の入ったちゃぶ台に、型落ちしているであろうテレビ。日に焼けた棚と救急箱。どれも豪華な装飾があるわけでもなく、値が張るようにも見えない。
 テレビで人気絶頂を更新し続けている男の家に相応しいかと問われれば、答えは間髪入れずの否だ。
 一昔前を感じさせる庶民の家を用いた撮影をすると言われれば、誰もが想像するテンプレートのような部屋で過ごすカリスマレジェンドなど、ファンどころか同じく芸能界で活動している梅谷、竹田ですら考えもしなかった。

「あ、あの金魚は可愛いねぇ」

 梅谷が指差したのは、電球カバーから吊り下げられている赤い金魚だ。装飾品の類が多くないこの居間で、赤々としたそれは妙な可愛らしさがあった。

「あれって何だ? 椅子か?」
「たぶん、そうだと思うけど」

 次に二人が目をつけたのは、この場所において唯一といってもいい程、異彩をはなっている物体だ。
 目が痛くなるようなピンク色をした人の手。そんな形をした椅子は、ある種の芸術作品なのだろうけれど、少なくとも竹田や梅谷の感性とは合致しない。

「座ってみてくださいよ」

 梅谷が冗談交じりにスタッフへ言うと、ノリの良い者が名乗りを上げ、人の手へ腰を下ろす。

「どーだ?」
「……普通?」

 スタッフは竹田へ小首を傾げながら答える。
 少々硬い気もするが、気になる程ではない。意外と安定感も悪くはなく、外見さえ気にしなければ普通の椅子として十二分に使用が可能な心地だ。
 見た目からイメージしていたほどのインパクトはなく、挑戦は無難な結果に落ち着いてしまった。

「つまらないねー」
「他に何かあるか見てみましょうよ」

 特に面白いことが起きるわけでもなかった椅子を早々に見限り、スタッフは次なる獲物を求めて梅谷達を促す。

「あ、これ、流行の小説だよね」

 床に落ちていたのは一冊の小説だった。
 おそらく読みかけなのだろう。桃色の紐が本の天辺から生えてる。

 撮っても大丈夫か、という確認をしてから梅谷は手に取った小説をカメラに写した。
 一般的な厚みのハードカバー小説は、猫の写真とタイトル、著名のみという、至ってシンプルな表紙をしていた。何処にでもありそうに見えるが、その小説を知らぬ者はいないだろう。
 何せ、この本は人気小説家、猫屋睦松の最新作なのだから。

 細かな心理描写と作中に必ず愛らしい猫が出てくる、というのが特徴の作家。
 ジャンルは特に問わないらしく、現在、梅谷が手にしているのは『洋館の殺人』というミステリー小説だった。ちなみに、同作者の前作は『さよならが繋いだ恋心』は純愛小説となっている。

「おそ松ってこういうの読むんだな」
「でも、そんな感じするよね。
 見たところ、猫屋さんの小説がいっぱいあるし、好きな作者なのかもしれないね」

 ここを出るな、と釘を刺した際のおそ松はともかくとして、普段、収録の際に共にいる彼を思い起こせば、お似合いの風景が出来上がった。
 爽やかなカリスマレジェンドが、日当たりの良い窓辺で読書をしている。それだけで写真集の一つが出来上がってしまうほど、絵になる姿だ。
 世間の流行を逃さない、というところも中々ポイントが高い。

 小難しい専門書を読む、マニアックな本を読む、というのは知的であったり、人とは違う特別感が出たりするポイントではあるが、そこはかとない薄っぺらさをもたらす危険性もあった。
 その点、流行している、というのは平凡である、ミーハーである、という悪しきイメージもあるものの、世間をしっかり見ている、身近な存在である、という好印象を与えることができる。

 平凡な自分であったとしても、頑張って手を伸ばせば届くのではないか。芸能界において、危うくも絶妙な希望を大衆に与えることもできる技術は重要だ。若手であるならば、無くてはならない、と断言してしまえるほどに。

 知的な本と大衆的な本。
 天秤に乗せて揺らしたとき、松野おそ松に関して言えば、後者の本を選びとるのは戦略としても正しいことだ。

「あ、でも、同じ本が一、二……五冊もあるぞ」

 竹田が指差す方向には、小さな本棚があった。床に落ちていた本はその場所にしまわれる予定だったのだろう。
 六分割された本棚には、各区画に一冊ずつ。ただし、一区画には猫屋の本はなく、もう一区画には猫屋の本はあるものの『洋館の殺人』のみ抜けている状態だった。

 同じ本を複数冊買うというのは、珍しくはあるがありえないと断じられてしまうような希少種ではない。ただし、普通ならばもっと別の場所に保管するか、そうでないならば同じタイトルの本は横並びに置いていることだろう。
 いまひとつ法則性の見えずらい本棚に、竹田だけではなく梅谷やスタッフ達も首を傾げる。

「猫屋さんのもの以外にも少し置いてあるね」
「写真集も同じヤツがあるぞ」

 並べられている本は殆どが漫画か小説で、実用書の類は見当たらない。その中で数冊、またしても同じタイトルが五冊。

「や、まつ……?」
「のまつきゅう、って読むんだよ」

 野松球。豊かで壮大な自然とそこに住まう動物達を撮ることで有名になりつつある写真家だ。中には、単身で乗り込むことが困難とされているような場所の写真まであるのだが、驚くことに彼はただの一人も同行者を連れて行かぬことで有名だった。
 本に近影も載っていないため、彼の素性は謎に包まれている。噂では、筋骨隆々な山男だとも、ターザンのような野性味溢れる男だとも、あるいは絶世の美女だとも言われている。

「良いセンスだと思うよ。
 ボクもこの人の写真好きだし」
「ほーん。
 すっげぇなぁ、こんな場所行ってみてぇ」
「今度企画してみる?」

 写真集のページをめくりながらそんな話をし、ふと梅谷が顔を上げる。
 他に何か目立つ物を探そうと思ってのことだった。

「あれ?」

 彼の目に映ったのは六枚の賞状。
 見知らぬ男性の写真を挟むようにして、一列に並べられたそれらは、一つとして同じ賞ではなかった。皆勤賞、絵の金賞、町内徒競走一位、毛筆の金賞、マラソン大会優勝、釣り大会優勝。バラエティ豊かなそれらに、梅谷はわずかな違和感を得てしまう。
 まじまじと眺め、竹田がそれに気づいたとき、ようやくその正体に気がついた。

「これ、おそ松さんの名前じゃない賞状がある」
「は?」

 梅谷に言われ、竹田も賞状に目をやる。
 カメラも賞状へと向けられ、一枚一枚をズームで撮っていく。

「……マジか。
 あいつ、兄弟いるとか言ってたっけ?」

 賞状の一枚は、間違いなくおそ松のものだった。
 しかし、他の五枚には、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松、の名前が書かれている。些か名づけの法則に苦言を呈したくなってしまうけれど、今の時点で重要なのはそこではない。

 松野おそ松に兄弟がいた。
 そんな話は今まで一度も出てきていないし、本人はその素振りすら見せてこなかった。収録の中で、出演者達が誰一人として兄弟の話など出さず、話題にすら上らなかったとは言わせない。
 番組の趣旨として、兄弟がメインに据えられていたことだってあったはずだ。

「聞いてないけど……。
 でも、ご兄弟の分の賞状だとしたら、ここって実家だよね?
 ご両親とかはいらっしゃらない感じかな」

 おそ松が何男であるかはともかくとして、大抵の場合、介護の必要がなければ男は独り立ちし、家庭を持つというのが一般的な認識だろう。
 連日、テレビに出演し、資産も相当金額あるような男であればなおさらに。
 自身の家と親の家。そこに別荘がプラスされていても不思議ではない環境にありながら、築何十年か、という一戸建てに住み続けているというのは予想外のことでしかない。

 張り込みをしていたスタッフからは特に情報は上がっていない。通勤であれ通学であれ、家を出た人間はおらず、これだけの人数の他人が家に上がりこんでいるというのに顔を覗かせもしない。おそらく、他の兄弟は既に独り立ちし、各々の家があるのだろう。
 何故、おそ松だけが実家に残されているのかはわからないが、存外、面倒見の良い彼のことだ。両親のことを心配してのことかもしれない。

「まだ寝てる、ってことはないだろ」

 現在の時間は朝、という区分にあるものの、昼夜逆転している人間でもなければとっくに目を覚まし、活動を始めている時間だ。家事をしている音も聞こえてこず、おそ松と話しているような声も聞こえない。
 テレビ慣れしている両親ならばともかく、彼らは今まで一度足りともメディアに顔を出したことのない一般人だ。
 顔を出すにせよ、出さぬにせよ、声や音がスタッフ達の耳に届くはず。

「旅行中とかかな」
「あんま、親の話とか聞かねぇけど、おそ松は親孝行してそうだしな」

 一瞬、彼らの脳裏に、死、という言葉も思い浮かんだのだが、それを口にすることはない。親は子よりも先に逝ってしまうものとはいえ、おそ松の年齢を考えれば早すぎるというもの。
 ありえない、と断言はできないけれど、人の生き死は軽々しく言葉にしていいものではない。

「突然帰ってきたらどうしよう」
「頑固親父とかだったこえーかもな」
「おそ松さんのお父さんお母さんだから、そんなに怖そうなイメージはないけど……」

 むしろ、にこやかな姿を想像してしまう。突然、カメラを向けられたとしても、少しだけ驚いて、すぐに微笑んでくれるような。暖かで、人々が理想とする家族像そのもののような存在。
 ただ、それはこれまでのおそ松から得たイメージであって、今日、新しく得た彼を考えれば、理想が現実になるのか、という疑念はある。

 底の知れない、何処か恐ろしい人間。
 松野おそ松の親とは一体、どのような人物なのか。

「……後で菓子でお詫びのお菓子とか買ってきたほうがいいかなぁ」

 臆病風に吹かれた梅谷が唇を人差し指で押さえながら呟く。
 その時だ。

 襖の向こう側から、バタバタと足音が聞こえてくる。
 一つくらいならば先ほどから何度か耳に届いてきていた。。おそ松が何かの準備をしている音だろうと思い、放置していたのだが、今回は勝手が違っている。一人や二人のものではない。おそらく、もっと大勢の、足音。
 梅谷も竹田も、スタッフ一同も、誰も彼もが言葉を飲み込み、静まり返る。

 両親が、兄弟がこの家にいるはずがない、と決め付けたのは誰が最初だったか。

 ガタン、と音がなる。
 襖が開けられたのだ。

「お、そまつ?」

 竹田がか細くなってしまった声で友人の名を呼ぶ。
 襖を開けた彼は、顔を洗い、髪を整えたようでテレビに映るに相応しい姿となっていた。ただし、そんな彼が身にまとっているのは、今まで見たことのないスーツ。
 番組の都合、おそ松がスーツを着ている、というのは何度もあった。それは黒の単色であったり、ストライプであったり、赤であったり、高価なものであったり、テレビ局が用意したのだろうことが一目瞭然であるものばかりだった。

 それに比べて、眼前にあるスーツはどうだ。
 強い水色の生地に黄色いボタン。玩具のような色合いで、仕立ても安物っぽさが満載。バラエティ番組で芸人が着ているようなスーツではないか。

 冗談の類かとも思ったが、おそ松の顔にそのような色は見えない。
 真顔でこそないものの、何らかの感情が乗った笑みとも違う。写真を撮るときのような、精巧に作られた笑み。

 おそ松は竹田に返事を寄こすことなく、居間に足を踏み入れる。

「――え?」

 誰の疑問符だったのか。
 あるいは、その場にいたスタッフ、出演者、マネージャー全員のものだったのか。
 浮かび上がったそれに言葉を割り込ませることができる者など存在していなかった。誰もが状況の整理に思考の大半を持っていかれてしまったのだから。

 足を踏み入れたおそ松は、一人ではなかったのだ。

 先頭にいたおそ松が居間に入ると、また一人、同じ顔をした、何処からどう見てもおそ松である男が居間にやってくる。その次も、また次も。
 悪い夢のような光景は、おそ松が六人に増えたところで収まった。

 同じ髪型。同じ顔。同じ表情。同じ服。同じ体格。
 同じ、同じ、同じ。それが六つ。
 彼らは一列に並び、カメラへ目を向ける。

「さて、松野おそ松は誰でしょう?」

 違う声が六つ。
 しかし、それらは綺麗に混ざり合い、まるで一つの声にも聞こえた。

 目の前にあるモノが、起こっているコトが信じられなくて、誰も声を発しようとしない。それどころか、身じろぎ一つしようとはしないのだ。
 梅谷も竹田も、収録中であることを忘れ、おそ松達を見つめている。

 六人は同時に首を傾げた。
 アイコンタクトの一つもないというのに、寸分違わぬシンクロ率だ。

「どうしたの?
 早く当ててみせてよ」

 またしても同じでいて違う声。
 世間に知られていないクローン技術により、松野おそ松を複製しました、と言わんばかりの同一っぷりだ。否、例え、細胞単位で同一であったとしても、ここまで同じようにはならないだろう。
 それこそ、鏡でもない限り。

「……おそまつ?」

 震える声で竹田が呼べば、六対、十二個の瞳が彼を見た。

「なぁに?」

 彼らが提示した謎かけが、ようやくその場の回答者達の脳へと染みわたる。
 同じにしか見えない、ハズレがあるとは思えない中から、ただ一人を選びだせ、と。

 竹田は梅谷を見る。
 梅谷は小さく首を横に振った。
 ついで、二人はスタッフ一同を見る。
 彼らもまた、わからぬ、とばかりに首を左右に振った。

 全員が六人を見る。
 彼らは楽しげな笑みを見せるばかり。

 混乱を極める中、竹田は一人を指差す。
 誰かが答えなければ、話が進まない。ならば、自分がやるしかないのだろう。今までの芸能生活の中で培った経験則が彼を突き動かした。

 正直、あてずっぽうだ。
 ヒントもなく、区別もつかない。
 一度シャッフルされてしまえば、今、一番左端にいる松野おそ松が何処へ移動したかすらわからなくなってしまうことだろう。そのような状況下で、いつも見てきたはずの彼を的確に当てることなどできるはずもなかった。

「……お、まえ、か?」

 竹田が指差したのは右から二番目。
 他との違いはない。
 頭の天辺からつま先まで、じっと観察してみても同じ。
 髪の毛の本数から、靴下の汚れまで一致しているのではないかとすら思える。

「オレェ?」

 指差されたおそ松は、あくどい笑みを浮かべる。
 軽く小首を傾げ、変更はないのかと言外に問うてくる彼に、竹田は硬い頷きを返した。

「正解はぁ――」

 目を細め、彼は竹田を見る。
 捕食者の目だ。
 喰われる、そう感じた竹田が瞼を落とそうとする寸前。

「――カラ松さぁ!」

 竹田の知るおそ松とは違う、陽気な声色が響く。
 見れば、彼は右手で軽く前髪を掻きあげ、格好つけたポーズをとっていた。

「……へ?」

 押しつぶされそうな重圧から解き放たれ、竹田は全身から力が抜けるのを感じる。そしてそれは、彼だけでなく、すぐ隣にいた梅谷も同様だった。

「ちょーっと、お前らさぁ、なーんで見分けつかないかなぁ?」
「見分けつかなくなるくらいにしろって言ったのはおそ松兄さんでしょ」
「いったいよねぇ。やめなよそのポーズ」
「ヒヒ、流石にこんなゴミクズとは間違えないか」
「ねえねえ! もういい? うっはー! おそ松兄さんの真似疲れたー!
 あれ? ボクって誰? 十四松って何? おそ松兄さんって何?」
「うお、十四松がぶっ壊れたぞ!」
「落ち着くんだじゅーしまぁつ! お前はお前でいいんだぞ!」
「ほっとけば?」
「チョロ松兄さん鬼でんなぁ」
「ほんと、ボク何かよりもずっとドライモンスターだよねぇ」

 六つの口がそれぞれに違う形を取り始める。
 同時に、全くの同一にしか見えなかった彼らが別人のように変わりだした。

 不満げな顔、呆れたような顔、不気味に笑う顔、大口を開けて思考する顔、慌てる顔。
 個性豊かで、同じ顔つきをしていたとしても別の人間であることが何となく理解できる程度には違った雰囲気を持っている。つい先ほどまでの均一さは何処へ消えてしまったというのだろうか。
 瞬きの間に世界線が変わってしまったとしか思えない光景だ。

「えっと、どういうことかな?」

 呆気にとられる面々の中で、一番最初に梅谷が正気を取り戻した。現状を受け入れたのではなく、思考の放棄によって。
 彼は恐る恐る手を上げ、問いかけを口にした。情報がないまま放置されることほど、怖いことはない。

 大きな声ではなかったけれど、梅谷の言葉はしっかりと六人の耳に届いたらしく、言い合いをやめた彼らは、すっかり変わってしまった顔を梅谷に向けた。

「あ、ヤベ。
 忘れてた」
「普通、忘れるとかある?」
「あったんだからしかたねーだろ?」
「頭の中、小六だからねぇ」

 二、三言、言い合った後、本物のおそ松らしき人物が口を開けた。

「オレ、松野家長男、松野おそ松!
 職業タレント! カリスマレジェンド! 人間国宝間違いなし!」

 お前のような松野おそ松は知らない。
 誰もがそう思ったことだろう。しかし、そんな胸中を無視して、おそ松の隣にいた男が引き継ぐようにして口を開いた。後は流れるままに紹介が続けられていく。

「松野家次男、松野カラ松。
 職業は劇団員さぁ。劇団AKATSUKAをよろしく」
「松野家三男、松野チョロ松です。
 職業はダンサー。うちのまとも担当ってとこかな」
「……松野家四男、松野一松。
 職業? 小説家です。まあ、ボクの書くものなんて燃えるゴミにしかならないけどね」
「はいはいはいはーい! オレ! 松野家、いち、に、さん、しー、五男! 松野十四松!
 職業はねぇ! 写真家! いっぱい写真撮るぞー!」
「ビックリさせちゃってごめんね? ボクは松野家末弟、松野トド松。
 職業はデザイナー兼オーナーなんだぁ。トッティーブランド。可愛い服や小物もあるから是非使ってみてね」

「オレ達六つ子!
 同じ顔が六つあったって、いいよな?」

 口調はバラバラの癖に、最後の最後だけは全く同じ言葉を使う。
 その瞬間だけ、彼らは同一の人間となるのだ。
 格好をつけることも、まともぶることも、卑屈になることも、暴走することも可愛さをアピールすることもない。一人の人間としてそこに存在している。

「六つ子……?」

 梅谷が呟く。
 双子や三つ子だって珍しいというのに、六つ子だ。
 現実味がない。しかし、クローンだの何だのと言われるよりかは、幾分かまともな回答だと思った。

「そ、ちなみに、お前らをうちに入れたのはチョロ松ね」
「騙したみたいになってすみません」

 おそ松がチョロ松の肩を叩くと、自称まとも担当である彼は軽く頭を下げた。

「いえ、そんな……。
 むしろ、起こしてしまったみたいで、すみません」
「その辺りは気にしなくて大丈夫ですよ。
 おかげさまで今晩はおそ松兄さんの奢りが決定しましたし」

 知らなかったこととはいえ、一般人に迷惑をかけてしまった、と謝罪する梅谷に対し、チョロ松は微笑みを返してくれる。しかし、おそ松に対しては中々悪徳な色を含んだ笑みを向けていたが。

「あー! そうだ!
 お前らのせいだかんな!
 罰としてお前らが金出せよ」
「うわ。サイッテー。
 普通、そういうこと言う?」
「八つ当たりはみっともないぜ〜?」

 梅谷らへ牙を向くおそ松に、トド松とカラ松が声を投げる。

「いやいや、オレは悪くねぇじゃん?」
「ちゃんと制御できなかったおそ松兄さんが悪いんでしょ」
「すき焼き! 寿司! 焼肉ぅ!」

 一松と十四松の声も混じりこみ、その場は再び六人分の声で満たされていく。声の色も言葉遣いも違っているけれど、あちらこちらから声が上がれば赤の他人である梅谷達はそれらを聞き取ることができない。
 外見ほどではないが、六つ子の声はよく似ている。事の次第がわかっていないため、言葉に大よその検討をつけることもできず、彼らはただただ呆然と成り行きを見守ることしかできない。

「何が何だか、って顔してるね?」

 どうするべきか迷っていた竹田に一人が声をかけてきた。
 おそ松と同じ顔。彼とは違うらしいことはわかるが、先ほどの自己紹介と声をかけてくれた男を繋げることは不可能だった。同一でないことを認識するのが精一杯で、具体的に個々を見分けることはできていない。

「あ、ボクはトド松ね。末弟」

 竹田の困惑を悟ったのか、トド松は改めて名を名乗り、にこりと笑う。愛嬌のある表情だ、という印象だが、わいわい騒いでいる兄達を横目で見る目はどこか冷たい。
 呆れの中に嘲りを混ぜ、無関心でコーティングしているような目だ。

「ボク達はね、賭けをしてたんだぁ」

 再度、竹田達に向けられた表情は、アイドル顔負けの暖かなものだ。瞬間、瞬間で顔に乗る感情が変わっていく彼は、さぞ世渡り上手なことだろう。

「賭け?」
「うん。ほら、ボクらって同じ顔してるでしょ。
 だから、世間に顔がバレたら、すぐにおそ松兄さんと血縁関係にあるってわかっちゃうじゃない?」

 愛想のいい笑みを竹田に向けつつも、彼はしっかりとカメラの位置を確認している。テレビ慣れしているわけではなさそうだが、ただの素人として扱うわけにはいかないようだ。

「おそ松兄さん以外の兄弟は、世間に自分の顔がバレたら。
 逆に、おそ松兄さんは実家に取材がきちゃったら、罰ゲーム。
 その日の晩御飯全額奢り、ってね」

 賭けの内容を説明してくれたトド松は、可愛らしくウインクを決める。
 今時、女性タレントでも中々見ないほど完璧な星の飛ばし方だった。

「……だから自宅への突撃が今まで許可されてなかったのか」
「それだけじゃないけどね」

 トド松は肩をすくめる。
 いくらおそ松が稼ぎ頭とはいえ、一個人の我が侭でその要求が通るとは思えない。タレントのプライベートを曝け出すことで得られる収益は大きい。

「おそ松兄さんってドが十個くらいつくクズで馬鹿だから」
「ちょーっと待て! トド松!
 てめぇ、今お兄様の悪口言っただろ!」
「うわっ、地獄耳? やだねぇ。そっちで兄弟喧嘩してなよ」

 ため息と共に吐き出された言葉へ、いち早く反応したのは、当の本人であるおそ松だった。今の今まで言葉だけでなく手や足まで出して相手どっていた弟を放り出し、末弟へと向かってくる。
 対するトド松は、面倒くさそうに手で追い払う仕草をしつつ、いつでも反撃できるように体の位置を整えていた。

「お兄様に逆らうんじゃねー!」

 おそ松がトド松に飛び掛る。
 無論、黙ってそれを受ける末弟ではない。

 受け流しつづ距離をとるべく手と足を使うが、その行動はおそ松に読まれていた。すぐさまトド松を捕獲するべく伸ばされた手にトド松は目を見開き、その場に組み伏せられる。
 そこからは上下が入れ替わり、右に左にと転がり、他の兄弟を巻き込んでの喧嘩だ。
 もはや、誰が誰なのかを知る術はない。

 機材が被害にあわぬようにと、スタッフ達はカメラを廊下へ持ち出す。
 取り残された竹田と梅谷は六つ子の喧嘩を眺めつつ、ここからどう動けばいいのかを必死に考えていた。

「あのー」

 梅谷が挙手する。

「なに?」

 六人の動きが止まった。一時停止ボタンでもあったかのように、一瞬で。
 どうやら本気の喧嘩というわけではなかったらしい。
 子猫同士のじゃれあいのようなものだろうか。その割に被害は甚大だが。

「すみません。ボク達には区別がつかないので、わかりやすい服装に変えてもらってもいいでしょうか」

 梅谷の提案に、六人は自身の服と、兄弟達の服を交互に見やる。
 始めのクイズをするためだけに、青スーツを引っ張りだしてきたのだが、個性のこの字もない服装では、初対面の人間の目を混乱させるばかりだろう。

「……仕方ないんじゃない?」
「初対面の人に見分けろなんて言うつもりないよ。
 おそ松兄さんがやれって言わなければ、もっとちゃんと相手に気を使った服装を――」
「はいはい、わかったわかった」

 六人は面倒くさがる様子を見せながらも、彼の言葉を了承する。
 自身達がどれほど似ているのかは生まれてからこれまでで嫌というほど聞かされ、理解してきているのだ。

「じゃあ、着替えてくるから待っててなー」

 おそ松らしき男が軽く手を振り、六人全員がぞろぞろと居間から出て、二階へ向かう。どうやら、着替えは上にあるらしい。

「……う、わぁ」

 梅谷が息を吐く。
 張り詰めていたものがじわじわと抜けていくようだった。

「すっごいもの見たねぇ」
「六つ子とかマジかよ」
「マジしかないでしょ、あれは」
「うへー。まだ信じきれてねぇよ……」

 常識や理解を全て吹き飛ばしていくような嵐に、二人は一瞬だけカメラのことを忘れ、正真正銘の本音を口にする。そうでもしなければ思考も体も前に進んでくれそうになかった。

「つか、おそ松、マジでおそ松か?
 あんな奴だったっけ?」
「ボクの記憶とは違うけど……」

 梅谷はおそ松のマネージャーへと目をやる。
 何も知らないのだろうことは予想できていたが、それでも、この場にいる人間の中でもっとも真実に近い場所に立っているのは彼だろう。

 砂粒程度の希望を抱いてみるが、結果は予想通り。新人マネージャーである彼は泣きそうな顔をして首を横に振るばかりで、事の真実など、むしろ彼の方が知りたそうですらあった。
 不安と混乱に挟まれ、目は薄く潤んでいる。いい歳だろう、と揶揄する気になれる者はいない。

 あの、爽やかで優しいおそ松が、子供のような態度で荒っぽい口調をしており、カリスマという言葉を捨て去ったかのような傍若無人っぷりを発揮していたのだ。
 誰もが心情としてはマネージャーの味方である。
 共に肩を叩きあいたいくらいだった。あれが本性であるというのならば、詐欺もいいところだ、と。

 同時に、事務所がおそ松のプライベートをひた隠しにしよとした理由もわかる。ギャップでは納まらないキャラクターの差異による混乱を避けるため。そして何より、あの言動によってファンを遠ざけてしまわないようにするためだ。

「……どうしよう」

 呆然と新人マネージャーが呟くのも致し方のないことだ。
 良かれと思って、手柄にしたくて、とってきた仕事がこんな事態を招いてしまった。カメラに映ってしまったものをそのまま放送すれば、彼のクビは殆ど十割の確率で飛ぶだろう。
 かといって、スケジュールを組み、スタッフと機材を集めた番組の都合上、なかったことにしてください、では通らない。
 意見を通すには相応の代償が必要になる。

 静まり返る部屋。
 顔を青くしているマネージャーにかけてやれる言葉などなく、梅谷や竹田は自分達の役割さえ放棄してしまっていた。口を開くことさえ億劫になってしまうほど、衝撃の余韻は大きい。

「おっまたせー」

 そう長くない時間が経過すれば、襖が開く音と同時におそ松の声がやってくる。明るく、軽い口調から察するに、気分は上々のようだ。

「……いえ、全然」
「どったの? すっごく疲れた顔してるよ?」

 生気のない顔で天上を見上げていた二人とスタッフ達に疑問符を向ける。原因に心当たりがないわけではないくせに、白々しいことだ。

「世間を賑わせてるカリスマレジェンド(笑)がこんなドクズじゃ、ショックも受けるんじゃない?」
「お前も口悪いねぇ、チョロ松」

 ご丁寧に、「カッコワライ」まで発音したチョロ松に、おそ松は意地悪気な笑みを見せる。
 また喧嘩が始まるのか、と何人かのスタッフが身体を硬くする中、それ以上の何かが起こることはなく、平然とおそ松が居間の中に入ってきた。
 細かなところはわからないが、彼らの中には一種のラインが引かれているのかもしれない。ただただ気分でなかっただけ、という線も捨て切れないけれども。

 長男を筆頭に再びぞろぞろと入ってきた六つ子は、それぞれ違った着こなし、色の同じつなぎを身にまとっていた。全く別の物を着る、という発想がなかったのか、六つ子であることをアピールしたいのか。真偽はわからない。
 あえて追求の言葉を口にする者もいなかった。

「どう? これでわかりそう?
 もう一回自己紹介いる?」
「できれば頼む」

 竹田の言葉にオッケーのハンドサインを向けたおそ松は、弟達に目で合図を送る。

 その結果、以下のようなことが判明した。
 つなぎの上半身部分を腰で巻いているのがおそ松とトド松。前者は赤、後者は赤のつなぎであることが特徴。
 きっちり前を締め、平均的な気こなしをしているのがチョロ松と一松。前者は緑、後者は紫。さらに、こちらの場合、姿勢が悪い方が一松、という見分け方もできた。
 特殊な着こなしとしては、カラ松がつなぎの前を大胆に開け、中にきている黒のタンクトップを見せびらかしており、十四松はその逆。上げすぎなほどつなぎのチャックを上げ、口元まで襟で隠している。

 見分けがつきやすくなったとはいえ、六人分の着こなしを覚えるのは大変なことだ。特に、限られた時間に収めるため、カットを多用される視聴者側のことを考えれば、現在の光景は優しくなさ過ぎる。
 ということで、急遽、彼らには簡易的な名札が配られ、各々、左胸の辺りに装着することとなった。

「これさ、着替えた意味ある?」
「パッと見である程度、違いが認識できたらいいんでしょ」

 チョロ松の文句に対し、一松は諦念したように答える。
 その隣では、軽く体を伸ばすおそ松と、そんな長男を眺めているカラ松の姿があった。

「しっかし、これでちょっとは楽になるな」
「おそ松にしては見事な演技だったぞ」
「だろ? もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「ふっ……断る」
「えぇー、何でー」
「演技というのは、あの、いつもの、松野おそ松さん、ってことですか?」

 二人の会話に梅谷は素早く割り込む。
 あれやこれやと納得していないこと、受け止め切れていないことは多数あれど、いつまでも呆けているわけにもいかない。これでも芸暦は重ねてきているのだ。仕事のスイッチを無理やり押し込み、インタビューを開始する。

「そうそう。
 あれねー、事務所から言われてやってたんだよねぇ」

 馴れ馴れしい態度、否、交流してきた期間を考えればおかしくはないのだろうけれど、それでも、相手が松野おそ松だと思えば異常にしか思えぬ態度だ。
 おそ松は梅谷の肩に腕を回し、ため息をつくかのごとく愚痴を零していく。

「お馬ちゃんの応援してるときにスカウトしてきたくせにさ、その性格だと売れないから演技しろ、って言うんだぜ? 酷くない?
 まあ、そうしたらモテるって言われたし、ちょーっと頑張っちゃったりなんかしてさ。
 そのうち、こいつらも働き始めたりなんかしだしたから、丁度良いやってことで賭けをして、うちに来なけりゃ演技は続けますよー、来たら演技やめますよーって約束にしたの」

 その話を新人マネージャーにするのは、まだ先の予定だったのだろう。独り立ちさせることができる段階でない人間に教えるには、大きすぎる秘密だ。インターネットを通じて様々な悪行がばれてしまうこのご時勢。どこから松野おそ松の本性がバレるかわかったものではないのだから。

 だが結果としては悪手だったのかもしれない。
 何も知らされぬが故に、彼はこの仕事を請けてしまい、おそ松の演技はあっさりと捨てられるハメになった。

「ぶっちゃけ? オレってやっぱカリスマレジェンドだし?
 素の性格でもイケると思うんだよねー。いい加減、面倒になっちゃってたし、良いタイミングだったのかも」
「お前のファンはショックを受けるかもしんねぇぞ」

 竹田の真っ当な言葉に、おそ松は笑みを返す。
 カリスマレジェンドであった松野おそ松とは違うけれども、邪気のない、暖かな笑みだ。

「大丈夫だって。
 オレのファンなら、どんなオレでも愛してくれるって」
「ボクは止めることをオススメするかな。
 素のおそ松兄さんって、ギャンブル大好き、お金大好き、お酒大好きのクズだからね。
 オフの日は一日中パチンコとかザラにあるよ?」

 さらりと兄の生活を晒すのはトド松だ。
 ギャンブルに金に酒。どれもタレントとしてのおそ松とはかけ離れたものだったが、本人は特に否定する素振りをみせない。それどころか、今日も近所のパチンコに行く予定だった、と聞いてもいないことを語り始める始末だ。

「テレビで見るおそ松兄さん、気持ち悪かったからね。
 みんな、三秒でチャンネル変えてたし」
「隣で酒かっ喰らってる奴が画面の中でキラキラした笑み浮かべてるって、ちょっとしたホラーだから。
 吐き気で死ぬかと思うレベルだから」
「そこまで言う?」

 途端に真顔になるおそ松。
 流石に弟達から総出で気持ち悪い、と言われるのは堪えるらしい。

「ま、オレが無職になっても、カワイー弟達がオレのこと養ってくれるしぃ?」

 すぐに調子を取り戻したらしい彼は、片目を閉じて弟達へおねだりする。
 トド松のようなわかりやすい可愛らしさはないものの、好意的に感じてしまう愛嬌はあった。

「おそ松、自分の面倒は自分でみるんだ」
「は? 絶対嫌ですけど」
「ゴミクズに養われるとか、有害物質でしかないよ」
「ワンナウトー! ツーアウトー! スリーアウトー! バッター交代!」
「その時は是非、縁を切ってね、おそ松にーさん」
「お前らさぁ! 本当! もっとおにーちゃんに優しくすべきだからね!」

 ヒモの才能があるのでは、と梅谷は思ったものの、実弟達には愛嬌が通用しなかったらしい。
 拒絶の二文字しかない返答の連続に、おそ松の目からは涙が零れる。悲しみではない。怒りの涙だ。

「大体、お前らそんな風に言ってっけど、オレが働きだすまで、だーれも働こうとしなかったじゃねーか!」
「ボクはハロワに行ってただろ!」

 口では何と言っていようとも、松野家六つ子の長男はおそ松だ。その下に控える弟達は、多かれ少なかれ彼からの支配を受けていた。無意識ではあるけれど、根本の部分では、おそ松に追従する傾向にあったのだ。
 そのため、おそ松が働かないと決めたのならば、下もそれに倣う。
 おそ松はそのことにちゃんと気づいていた。知っていてなお、仕事もせず、だらだらと兄弟六人で過ごす日常を選び取っていたにすぎない。

 ちなみに、おそ松がタレントとして世に出たのは、二十代後半になってからのこと。
 秘匿されているわけでもないその情報は、梅谷や竹田だけでなく、スタッフ達も知っていることだ。その情報に加え、たった今おそ松の口から出た言葉を合わせれば、空白の期間に気づくことは容易い。

「えっと、もしかして……」

 梅谷が小さく声を出す。
 確認するのが怖かった。
 まさか、カリスマレジェンドとまで呼ばれた男が、学校にも仕事にも行っていない期間があったなどとは思いたくない。

「んーとねぇ!
 オレ達高卒! ニート!」
「ひっ!」

 思わず梅谷は息を詰める。
 四年制大学を卒業後、ニートをしていたのかと思いきや、空白の期間は想像以上に長い。かろうじて中卒は避けたらしいが、だからといって、学校を卒業後、ニートをしていては学歴も何もあったものではない。
 その上、おそ松はギャンブルや金、酒が好き、とも聞いている。
 どう考えてもクズの所業だ。カリスマレジェンドに(笑)がつくのも納得できるというもの。

「そういえば、トド松さんはさっき、トッティーブランドのデザイナー兼オーナー、と言っていましたね」

 梅谷が思い出したかのように話を振る。
 六つ子というインパクトのせいで薄れてしまっていたが、始めの自己紹介では、いくつか無視できない単語があったのだ。

「そうだよ。女の子に喜んで欲しいな、って思って作ったんだ」

 愛らしい笑みを浮かべるトド松。彼の後ろで、一松が小さな声で、アザトッティーという単語を発していることについては触れないほうがいいだろう。

 トッティーブランドといえば、世間の十代から二十代の女性に親しまれているブランドだ。
 全体的に愛らしいものが多い一方で、絶妙な地味さを持つデザインや痛々しさを持つデザインも生産されており、飽きさせないことでも人気を博している。

 さらにいえば、その便利さや丈夫さも売りの一つだ。
 バッグや装飾品だけに限らず、登山用の杖や将棋盤、碁石に至るまで、何故そこをチョイスする? と疑問に思われながらも、固定客をしっかりと掴む強かさは並大抵のものではない。

 このブランド、世界的に有名なフラッグコーポレーションの助けによって設立され、たった一人のデザイナーによって生産品の全てがデザインされてきたというのだ。世間が興味を持たぬはずがない。
 各店舗の店長もオーナーの顔を知らず、その正体を知っているのは、フラッグコーポレーションのボスだけ、と言われ、ネット世界でも様々な憶測が飛び交っていた。
 その答えに、まさかこのような場所で出会うことになるとは、誰が想像したことだろう。

「お姉さん、よかったらこれ、使ってね。
 テレビの仕事って体力仕事だって聞いてるよ。頑張って」

 笑みを浮かべたまま、女性スタッフにのみ渡されたのは、トッティーブランドのマークが入った膝サポーターだ。お洒落なデザインに似合わぬ品であるが、仕事をする女性にはありがたい品であることは間違いない。
 また、人気に応じた高価さがあることも当然で、トド松からサポーターを手渡された女性スタッフ達は一様に笑みを浮かべている。

「今まではおそ松兄さんとの賭けがあったから顔出しNGだったけど、これからはバンバン出ちゃおうかなー。
 その時はよろしくお願いします」

 プレゼントという名の賄賂こそ手渡さなかったものの、媚を売っておくことは忘れない。それが末弟、トド松だ。

「これからはあんたらも顔出しすんのか?」

 トド松の発言を受け、竹田は他の兄弟を見る。
 賭けに勝つために正体を隠していたのが末弟だけだとは思えない。小説家や写真家とて雑誌やテレビに顔を出す時代だ。一松や十四松がどのような作品を世に出しているのかは知らないが、インタビューや講演会を断ったことくらいはあるかもしれない。

「……ボクは、別に」
「オレはやっとこのスーパービューティフルな顔を世に出すことができることに喜びを感じている!
 カラ松ガールズ&ボーイズには長く待たせてしまったからなぁ!」
「チッ。クソ松が」
「痛っ!」

 竹田から目をそらした一松は、否定の言葉を紡ぐ。言動の端々から、卑屈な様子を見せていたのは彼だ。自信がない故に、賭けが終わった今でも、人に自身を晒すことを怯えているように見えた。
 それと真逆の反応をしたのがカラ松。
 格好をつけて前髪を流し、カタカナ発音の英語で己を賛美する。
 ナルシスト、という言葉が可愛らしく見えてしまうほどの自己愛っぷりだ。

 言葉を遮断され、鬱陶しいその様子に腹を立てたらしい一松がカラ松の脛を蹴る、といった行為がなければ、自己賛美はまだまだ続いていたことだろう。
 一言目を聞いただけでげんなり、としてしまっていた竹田は心の片隅で一松に感謝を述べた。

「そういえば、カラ松、さん? は、劇団員だっつってたっけ」

 脛を撫でるために背を丸めているため、胸元の名札が確認できない。つなぎの色と、直前の会話によって何とか判別することができたが、正解している自信は少ない。
 疑問符をつけながらの言葉に、カラ松は肯定の言葉を口にした。ついでに、さん付けはいらない、とも。

「赤塚区を中心に活動している劇団AKATSUKAに所属している。
 ずっと被り物をしていたせいで、できる役がどうしても狭まってしまっていてな。
 ようやく色んな役に挑戦できるというものだ」

 痛みから立ち直り、改めて竹田の方を向いたカラ松の言葉に痛々しさはない。素顔で舞台に上がれることを純粋に喜んでいるらしい。
 無理に格好をつけていないその姿こそ、素のままの彼なのだろう。装飾過多の言葉と大げさな振る舞いをなくした彼の笑みは純朴で、根は素直な性質なのだろう、と思わせる。

「AKATSUKAで被り物……。
 って、あんた、あの謎の役者で有名な?」

 いくつかのキーワードを頭に浮かべた竹田が、驚愕で表情を染める。

 劇団AKATSUKAといえば、都心から離れた場所にある赤塚区を中心に活動している劇団だ。特に大きな施設や観光地があるわけでもない地区で活動しているにも係わらず、集客数は都心に引けをとらない。
 以前から密かに人気のあった劇団なのだが、ここ数年でその知名度はうなぎのぼりになっている。

 その理由が、たった一人の演者。
 舞台を見た人々が必ず口にするその人は、常に仮面や被り物で顔を隠していた。彼は表情が窺えないというのに、見る者の感情を強く揺さぶる演技をしてみせた。

 ひっそりと作られている劇団のホームページにも名前は掲載されておらず、団長へのインタビューでもその正体が明かされていない。
 声や体格から、その役者が男であることは確定してたものの、たったそれだけの情報で素顔を割り出せるような人間が存在しているはずもなく。
 結果、彼は顔の良し悪しが全く関係しない、超演技派の役者として、演劇界隈にその存在を知らしめたのだった。

「謎の役者……良い響きだ。
 そう、ミステリアスに包まれた――オレ!」
「お前ってさぁ、マジで何で生まれてきたわけ?
 もうちょっとマシな頭になってから生まれなおしてこいよ」
「えっ」

 意気揚々と両手を広げ、竹田の問いに答えていたカラ松に舌打ちをプレゼントしたのはチョロ松だ。
 オマケとばかりに付け加えられた毒舌は、的確に相手の心を抉ったらしく、カラ松は感情の見えない呆然とした瞳になる。

「ちなみに、ボクも被り物してダンスやってました。
 アレ、結構息苦しいし、激しい動きするとズレるしで面倒だったんだよね。
 ようやく脱げると思ったら清々するっていうかさ。やっぱり顔を隠して仕事するって無理があるよね?
 せっかく顔出しできるようになったんだし、今度はトトコちゃんやにゃーちゃんのライブでバックダンスとかさせてもらおうかなぁ」

 立て板に水を流すごとく、チョロ松は言葉を落としていく。一切の摩擦を感じさせない彼の言葉に割り込むことは許されていないらしい。
 竹田はかろうじて、最後のトトコ、とにゃーという名前に思い当たることができた。

 彼女らは今をときめくアイドル達だ。
 ターゲットとしている年齢層が似通っているためか、彼女達は互いを意識し合い、ライブにテレビにと忙しい日々を送っている。現在は女王様気質のトトコと、妹系デレデレアイドルのにゃーという住み分けが両事務所によって進められているらしい。

「この間のにゃーちゃんのライブのダンサー見ました?
 アレ、ひっどいよね。にゃーちゃんの魅力が全然生かされてない。
 いくら背景とはいえさ、アイドルの魅力を満点に引き出すには相応の実力が必要だと思うんだよね。大きな大会で優勝するくらいのさ。
 その点、ボクは合格間違いなし。何てたって、日本大会で優勝したこともあるからね。
 別に名前とか覚えてもらう必要もないけどさ、翡翠って名前でやってます。調べてもらったらボクの実力はすぐにわかってもらえると思うし、にゃーちゃんやトトコちゃんのライブに相応しいってこともわかってもらえるはずだよ」
「チョロ松、チョロ松。
 ライジングしてるライジング」

 鈍い光を瞳に宿し始めたチョロ松を止めたのは、長男たるおそ松だった。
 彼はチョロ松の袖を軽く引きつつ声をかける。ライジング、という単語の意味を竹田は理解することができなかったが、おそ松の声かけにより、常軌を逸しようとしていたチョロ松の目の色が落ち着いていったことだけはわかった。

 正気に戻ったらしいチョロ松は照れくさそうに笑っていたが、植えつけられてしまった恐怖心はそう簡単に消えやしない。隣にいた梅谷もそれは同じだったらしく、指先が微かに震えていた。

「おそ松にーさん!」

 どーん、という効果音と共に飛んできたのは、黄色いつなぎを着た十四松だ。
 元気良くおそ松に飛びつき、目を輝かせている。

「もう六つ子ってこと隠さなくていいんッスよね!」
「おー、これが放送されたら解禁だな」
「解禁! 解禁!
 そしたら、オレ! 出版したい写真集がありマッスル!」

 口元は見えないけれど、十四松の瞳は楽しげな色を目一杯乗せており、見ている側まで嬉しくなってしまうような心地だ。

「何出すんだ?」
「家族写真!」

 そう言うと同時に、シャッター音がする。
 いつの間にやら手にしていたらしい十四松愛用のカメラから発せられたようだ。

「オレと、トッティと一松にーさんとチョロ松にーさんとカラ松兄さんとおそ松兄さんと母さんと父さんの写真!
 集めて皆に見てもらいたインコース!」
「お、いいじゃん。
 イケメンに撮ってくれよー」

 無邪気に言う十四松の頭をおそ松は撫でるようにして叩く。
 出版の許可が出たことが嬉しかったのか、十四松は笑い声を上げながらぐるぐると回転し始める。意味のわからない行動だが、ツッコミを入れる兄弟はいない。
 こんな写真がいい、写真を選ばせてほしい、と意見を述べるに留まっていた。
 変わりない兄弟の様子に、彼が喜びの舞めいた行動をすることは、特別でもなんでもなく、日常の一部なのだろうことがわかる。

「十四松さんは今までどんな写真集を?」
「これ!」

 微笑ましい一幕に心を穏やかにしつつ、梅谷は問いかけた。せっかくなのだから、番組を通じて十四松の写真集を宣伝してあげようと考えたのだ。
 すると、十四松はピタリ、と回転を止め、近場の本棚から一冊の本を抜き取った。

「え、それって」

 十四松が取り出した写真集は、彼らが六つ子だと知る前、竹田と梅谷が手にしていた物だった。
 謎に包まれた写真家、野松球の写真集。

「そんで、一松にーさんのはこれ!」
「ちょっ、十四松!」

 一松が静止しようとするも、時既に遅し。
 秘境にまで単身で足を踏み入れるような十四松の身体能力に、座り仕事の多い小説家が勝てるはずもなく、いとも容易く一松の手がけた小説がカメラの前に曝け出される。

 猫の写真が表紙に使われたその本は、猫屋松の物に相違なかった。

「……どうせ、ボクの書く小説なんてゴミクズですよ。
 放送するときはモザイク加工でもしておいて」

 タレント二人とスタッフ一同に自身が書いた作品を知られ、一松は皮肉っぽい笑みを浮かべる。あらかじめ予防線を引いておくことで、後々のダメージに備える。臆病な彼なりの処世術だ。
 しかし、それを邪魔する者がいる。

「一松、お前の小説は幾人ものガールズとボーイズを感動させている。
 自分を卑下するのはやめ――」
「るっせぇんだよ!」

 すぐさま一松を庇い立てるような言葉を吐くカラ松だが、守ったはずの弟によって背中を思いっきり蹴り飛ばされた。
 兄弟達はいつものこと、とスルーを決め込むが、梅谷達は反応に困ってしまう。状況を鑑みれば、カラ松の扱いは通常通りなのだろうけれど、だからといって、無視するのも良心が痛むというもの。
 いくら口調が痛々しいものであったとしても、彼の言葉は間違いなく弟のために吐かれたものなのだから。

「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ、平気だとも、
 うちのマイリトルブラザーは少々荒っぽくてな」

 カラ松は手を差し伸べてくれた梅谷に笑みを返すが、目尻に涙が浮かんでいる。
 少しばかり哀れっぽいカラ松が放置されている隣では、十四松が一松の腰に抱きついていた。そこだけ見れば仲睦まじい兄弟そのものだ。
 勢いよくタックルされてしまったため、一松の口からは呻き声じみたものが上がっていたけれど。

「一松にーさんの表紙、ボクが撮った写真なんだよ」
「合作ってことか」

 竹田は十四松の手元にある本を眺めながら、心の内側で合点がいった、と呟く。
 野松球の写真集と猫屋松の小説が五冊ずつある理由。それは、自分を除いた兄弟達へのプレゼントなのだろう。いいや、もしかすると、兄弟達が自発的に購入している、という線もありうる。

 一松とカラ松の間には暴力が発生しているが、兄弟仲自体は悪くなさそうだ。
 男兄弟、それも全員同じ年が六人も揃っているとなれば、喧嘩の一つや二つ、殴り合いの三つや四つ、あって当然というもの。
 彼らの間に殺伐としたものは感じず、慣れ親しんだが故の日常感がそこにはあった。

「ちなみに何だけどさぁ」

 色濃い個性をむき出しにしている彼らに流されるままになっていた竹田の袖をトド松が引く。唇は軽く尖っており、可愛らしい女性がする仕草そのもの。成人男性がしていいものではない。
 だというのに、不思議とトド松がするそれに違和感や嫌悪感はなかった。
 本性を露にしたおそ松がしていた、と仮定すれば、気持ちが悪い、という感想になってしまっていただろうに。

「この撮影っていつまで続ける感じかな?
 ボク、番組の作り方には詳しくないから……」

 物を知らなくてごめんね? と、トド松は上目遣いをする。
 流石に竹田や梅谷が彼を性的な対象に見ることはないが、どうにも甘やかしてやりたいような、様々なことを許してやりたいような気分に陥ってしまう。
 末っ子パワー恐るべし、とトド松の兄にあたる五人が白い目を向けていたことなど知るよしもない。

「えっと、今回は二時間スペシャルにする予定だから、できれば夜まで撮影したいんだけど」

 放送する時間が、実質二時間に満たないとしても、撮影する時間はその倍を優に越えなければならない。番組のテンポを重視するため、放送するわけにはいかないようなモノをカットするため。また、視聴者が楽しむことのできないような、何も起こらぬ時間を無かったことにするため、長めの撮影は必須事項なのだ。
 無論、本日の撮影に関してのみいえば、カットする隙があるのかすらわからないような怒涛の展開ばかりで、夜まで時間をかける必要はないだろう。あと一時間もカメラを回していれば、充分すぎるほどの画が撮れるに違いない。

 しかし、竹田はスタッフに目配せをする。
 余計なことを言わぬように、と。そして、スタッフ達もそれを重々承知していた。否、それどころか、出演者である二人よりもずっともっと、それを望んでいた。

 ここでより多くを撮り、素晴らしい画を得る。
 そうすれば、二週分の話題を独占できる可能性だってあった。
 局にかけあって、二時間どころではない、四時間スペシャルにすることだって可能だろう。それだけのビックニュースが、今、カメラの中に納まっているのだ。

「はあ? お前ら、そんなに居座るつもりなの?」
「何でおそ松兄さんがそんな顔してんの。
 仮にもテレビ側の人間でしょ。撮影時間くらい把握してなよ」

 嫌そうな顔を隠しもしないおそ松の頭をチョロ松が引っぱたく。
 テレビと縁のない者ならばともかく、カリスマレジェンドとして様々な番組に引っ張りだこであったおそ松が長い収録時間を知らぬはずがない。

「だってせっかくの休日だよ?
 本当なら一秒たりともカメラの前にいたくないのに、特別にいてあげてるんだよ?
 気をつかってそろそろ帰るべきじゃない?」
「どんだけ上から目線なんだ!
 もうカメラ回ってんだから仕事なんだよ!」
「やだやだー。お仕事やすみたーい。仕事したくなーい」
「ゴロゴロすんな!」

 一分一秒でも早くカメラを追い出したい、という気持ちを素直に吐露するおそ松。
 チョロ松が説教をしてみるものの、我が侭いっぱいを解放した長男がそれを聞き入れるはずもない。怒鳴られると同時、畳の上に寝転がり、そのままゴロゴロと右へ左へと動き回る。
 狭い居間の中にいる兄弟達や梅谷達、そしてスタッフの足とぶつかろうがお構いなしだ。

 眉をつり上げたチョロ松が足でおそ松を踏み止めるまでその蛮行は続き、動きを止めた後でも駄々をこねる声はやまない。
 兄弟一同の呆れたため息など、オレ様何様長男様なおそ松には届いていないようだった。

「てかさ、ボクお腹すいちゃった」

 鶴の一声ならぬ末弟の一声。
 おそ松は駄々をこねることをやめ、自身を踏みつけているチョロ松をじっと見る。

「朝から何も食べてねぇもんな」
「お腹すいたー!」
「……父さんも母さんも旅行中だからね」

 十四松の目はおそ松と共にチョロ松へ。
 一松とトド松の目はカラ松へと向けられる。

 カラ松とチョロ松は互いに顔を見合わせた。
 いつもならば朝食を用意してくれている両親は、現在旅行中で家にいない。ニートを抱えていた頃の鬱憤やら心配やらが近頃爆発しているらしく、彼らはしょっちゅう何処かに出かけているのだ。

 作り置きをして行ってくれることもあるが、今回の旅行は長期になるらしく、自分達でどうにかしなさい、という言付けだけが置いていかれていた。
 すなわち、誰かが作らなければ食事は出てこない。

「……オーケイ。
 このカラ松。愛しいブラザー達のため、腕を振るおうじゃないか」
「おいトド松。言いだしっぺはお前なんだから、手伝えよ」
「えー! 何でぇ!」

 格好をつけるカラ松。
 トド松の腕を引いてさっさと台所に向かうチョロ松。
 残された三人は特に何かをする素振りも見せず、それぞれちゃぶ台の前に座っていく。何となくの定位置があるらしく、三人の間は均等に開けられていた。

「……おそ松兄さん」
「ん?」

 一松がぼそ、と声を出す。
 明確に何かを言葉にはせず、彼はスタッフ達へ軽く目線をやった。

 竹田や梅谷にはそれが何を意味しているのか理解できなかったが、おそ松にはしっかりと伝わったらしい。あー、と間延びした声が上げられ、飾りっけのない瞳が竹田と梅谷を映す。

「あのさ、オレ達六人兄弟なわけよ」
「そりゃ見てたらわかるけど」
「冷蔵庫にも限りがあるわけで、余分な材料なんて入ってないの」

 セールの度に、冷凍できるようなものは買い溜めているけれど、それにも限度はある。
 何より、あればあるだけ食べてしまうのが松野家の六つ子だ。常に生存競争と化したおかず戦争を繰り広げている彼らの胃袋は異次元じみており、満たされることはない。
 食料を買う金はあれども、進んで買い物に行く者はおらず、かといって外食ばかりする気にもなれやしない。
 故に、他人様に分け与えるような物は何一つとして存在していないのだ。

「朝飯とか昼飯がいるなら適当に買ってきてね。
 ちょっと行ったところにスーパーもあるし」

 ひらひら、と無気力に振られた手からは明確な拒絶が感じられる。
 大抵の家では、善意によって食事が振舞われ、そうでなくとも近場から何かを買ってきてくれる、そのためのお金を支給してくれる、といったことが多かった。無論、金銭に関しては丁重にお断りしているし、画としてそれが必要である場合は後ほど返金もしているけれど。

 おそ松はそのいずれも選択しない。
 あくまでも、突然押しかけてきた客人、として、スタッフや竹田達を扱う所存なのだ。

「みんなの食事風景を撮るのは大丈夫?」

 梅谷が尋ねると、それは好きにしたらいい、という声が返ってくる。
 幼い頃から、同じ顔だと、六つ子だと注目されてきた彼らからすれば、今更テレビカメラなどあってないようなもの。ほんのわずかさえ気を散らすことはない。

「飯っていつもあの三人が作ってんの?」
「んー、別に決まってはないよ」

 竹田の質問におそ松が答える。
 とはいっても、ちゃぶ台に上半身をくっつけた状態での問答であり、そこに誠意は見えない。

「昼とか夜とかはどっかで食べてきたりもするよ。
 そもそも、家に六人全員が常に揃ってるわけでもないしね」

 それぞれが金銭を得るようになってから、各々人脈も増えた。昔の知人友人だけではない付き合いの中で、共に食事をとったり酒を飲んだりすることもある。
 おそ松の場合、時期や収録している番組によっては、家に帰れないということもあった。
 加えて、十四松の場合は国外まで仕事をしに行くことも少なくない。

「オレは一人だったら適当に外食するけど、一松なんかは自分で作るだろ?」

 話を振られた一松だが、返答は上下に動く首のみ。
 兄弟達とわいわいやっている間ならばともかく、こんな静かな問答の中で、知らぬ者と口を聞くのは勘弁願いたいらしい。

「っていうか、おそ松兄さんは立ち入り禁止だけどね!」

 口を閉ざした一松の代わりとばかりに、十四松が声を上げる。

「立ち入り禁止?」
「そう! 入ったら、カラ松兄さんにすっげー怒られんの!」
「あいつお兄様には塩対応だからさー。ふっつーに全力で殴ってくんの。
 兄弟一馬鹿力のくせにさぁ。マジビックリ」

 カラ松の力がどの程度のものなのか、梅谷や竹田には知る術がない。
 しかし、自由奔放な面をありありと見せているおそ松が忌避する程なのだから、余程の力で殴られるのだろう。

「そりゃおそ松兄さんが悪いでしょ」

 白飯をよそった茶碗を盆に乗せて六つ運んできたトド松が話題に入ってくる。

「料理できないわけじゃないくせに、ちょっと目を離すと、とんでもないことしでかすんだから」
「え、何したの?」
「べっつにー?
 ちょーっと色んなもん混ぜてチャーハン作ってやったり、ハンバーグ作ってやったりしただけぇ」

 今時、料理下手な芸能人を見ることは少なくない。
 毒の無い食材から毒を作り出すような人物も存在しているし、得てして、そういった人物は面白おかしく番組に取り上げられがちだ。
 なので、多少の料理下手には耐性があるつもりで、気軽に梅谷は尋ねたのだ。
 だが、トド松の口から放たれるおそ松の料理に関しては、続く言葉がなかった。

「はぁー?
 あのさ、チャーハンにジャムやらきゅうりの漬物やらから揚げ粉を入れる意味なんて理解できないし、ハンバーグにねるねる駄菓子とかホイップクリームとか蜂蜜とか入れる意味もわっかんないからね?」
「何か余ってたからさ」
「だったら、その余ってたものを有効活用できる料理作ってよ!」

 思わず口を押さえたのは竹田だった。
 甘い物を好ましく思っていない彼にとって、ホイップクリームやら蜂蜜やら駄菓子が入ったハンバーグというのは、ちょっとした兵器になりうる。
 かろうじて頬を引きつらせるに終わった梅谷としても、あまり想像したくない料理であったことに違いはない。

 再び台所へと引っ込んで行ったトド松を見送り、おそ松は言葉を落とす。

「まあ、うちで料理がちゃんとできるのはあの三人だよ」

 居間から台所を見ると、手際よく野菜を切り、卵をといているチョロ松と、それらを調理しているカラ松が目に入る。彼らの所作からは慣れを感じ取ることができた。

 おそ松曰く、それなりに料理ができるのはカラ松。元来手先が器用であり、尚且つ見た目を重視する彼は、盛り付けにまで気を配った料理をしてくれる。
 チョロ松は失敗を恐れ、レシピ通りにしか作らないため、六つ子好みの味、というのを作るには母の作ったメモが必要なのだ。また、分量をきっちり量るため、出来上がりに大そう時間がかかってしまうのが欠点らしい。
 女子力の高いトド松はお菓子作りが得意そうに見えるが、実のところ、そうでもない。むしろ、彼の作る料理は大雑把きわまりなく、男飯、という単語がよく似合う出来だ。何となくで作るため、味にはばらつきがあるが、三人の中で最も手早く料理を作るのはトド松だったりする。

「オレはさっきトド松が言ってた通りだし、一松は基本ねこまんま。
 十四松にいたっては、包丁持たせるのが怖い」
「たはー。照れますなぁ」
「褒められてへんでー」

 結果、両親が、特に母である松代が不在の期間は、殆ど必然的にカラ松ら三人が食事係となっていた。

「ちなみに、あいつらの手前にあるテーブルが、父さんと母さんが飯食う場所ね」

 不意に、この番組の趣旨を思い出したのか、おそ松は見える範囲で台所の説明をしてくれた。
 立ち入り禁止が故に、説明できるのは極々一部分に関してのみではあったけれど。

「今日、親御さんは?」
「旅行。
 息子放って自分達は暢気にあっちこっちふらふらしてて、羨ましいったらないね」
「……おそ松兄さんが番組で温泉とか行くからでしょ」

 心底羨ましげにおそ松は言うが、一般家庭から考えてみればそれほど珍しい事象ではないことだ。いい年をした男を放って旅行に出かけることの何が悪い。
 そもそも、成人男性が六人揃って未だ実家暮らしであることの方が問題だ。いつまで料理に洗濯、と親に甘えるつもりなのだろうか。料理を任せられない、と判断されている三人に至っては、日頃の手伝いすらしているのか怪しい。
 ならばせめて、旅行の一つや二つ、進んでプレゼントするくらいの気概があってもいいはずだ。おそ松にせよ一松にせよ、他の者達全員、それができるだけの稼ぎを得ているはずなのだから。

「お前、親御さんを大事にしろよ」
「してるよ。親は子供が病気もせず、元気にいるのが一番でしょ?」
「オレ元気だよ! 元気いっぱい!」

 言っていることは間違いではない。
 間違いではないのだけれど、決定的に間違っている。

「じゅーしまーつ。
 味噌汁置くから暴れちゃ駄目だぞ」
「あいあい!」

 カラ松がちゃぶ台に味噌汁を並べていく。
 どうやら朝食の準備が終わったらしい。彼の後ろにはチョロ松とトド松がそれぞれおかずを手にして並んでいた。

「わぁ、美味しそうだねぇ」
「やんねぇから」

 純和食の匂いに梅谷が感嘆の声を上げるが、その返答は素気無いものだった。六対の眼孔からは、自分達の取り分を減らしてなるものか、という強い意志が見える。
 味噌汁と白米。焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたし。それぞれ一人前ずつきっちり揃う。ここから梅谷や竹田の分を捻出しようと思ったら、六つ子がそれぞれ自身の取り分から分けてやる必要があった。

 夕飯は大皿におかずが盛られるため、自分の分の食事を労力なく確保できるのは朝のこの時だけ。その貴重な食料を他人に分けてやろう等という優しさを持ち合わせる六つ子はいない。
 食事が並び、六人が自身の席へつく。

「いただきまーす」

 六つ分の声が重なり、同時に箸が動き出す。
 味噌汁に手をつける者、鮭を食べ始める者。食べ方一つとってみても様々であるが、同じ顔をした六人がそれをしている光景、というのはどうにも物珍しく、愉快に映ってしまう。

 騒ぎに騒いでいた彼らが黙々と食材を口に運び、咀嚼していく。
 それにつられるようにして、梅谷や竹田、その他スタッフ達も口を噤む。話しかけること、打ち合わせをすることを禁じられたわけではなかったけれど、誰もが沈黙を守っていた。

 静かな時間は先ほどまでの六つ子との差異を強調し、番組の緩急をつける役に立つ。また、余計な情報が追加されないことで、六つ子以外の人間達は頭の中をゆっくりと整理することができる。
 番組を信仰させるべく、気を確かに保ち続けていた梅谷らにも休息は必要だ。
 おそろしいことに、撮影はまだまだ続くのだから。

「ごちそーさん」

 一口一口をしっかりと咀嚼し、味わった食事が終えるにはしばしの時間がかかった。
 全員が同時に皿を空にし、両手を合わせる。

「おそ松、自分の分は自分で漬けておけよ」
「えー」

 告げられた言葉におそ松は不満の声を上げる。しかし、カラ松の細められた目に睨みつけられれば、あっさりと敗北の旗を振る。どっこいしょっ、と年不相応であろう掛け声を共に立ち上がったおそ松は、自身が使っていた食器類を台所へと運んでいく。こんな時ばかりは立ち入り禁止の命も解かれるらしい。

「で、こっからどうする?」

 食器を片付けたおそ松は居間へ帰ってくるのと同時、ようやく落ち着いてきた竹田達に問いかける。

「え?」
「え? じゃないでしょ。
 収録、続けるんでしょー?」

 こてん、と傾げられた首に他意は見えない。
 食事前に駄々をこねて転がりまわるほど仕事を拒絶していたというのに、あの時の名残は欠片も見えなかった。腹が膨れたことで気持ちが切り替わったのか、単純に時間の経過による許容か。
 判別はつかないけれど、番組側にとっては幸いなことだった。

「この番組ってさ、タレントやら学者やらの家の紹介しつつ、お前らがツッコミ入れたり、話脹らましたりしてるだろ。
 うち狭いし、そんな大したもんないんだよねぇ」

 確かに、松野家は大きくない。
 狭いとはいわないけれど、極普通の一軒家という範疇からはから抜け出せず、今まで梅谷や竹田が突撃してきた豪邸や変わった家々とは雲泥の差である。
 しかし、だからといって、この家にある物が他の出演者達と比べ、見劣りするか、と問われればそうではない。

 ここはあの松野おそ松の家であり、彼の六つ子の兄弟が住まう場所であり、彼らそれぞれも顔こそ知られていなかったものの、知る人ぞ知る著名人ばかりだ。
 物はなくとも者はある。
 ここに突っ込んでいかず、何処へ突っ込めというのか。

「大丈夫。良い感じの編集をうちのスタッフがやってくれっから。
 お前とオレらは適当に見て、話してってすりゃいいよ」
「お前らんとこのスタッフ有能で有名だもんねぇ」

 竹田が胸を叩くと、おそ松はニヤリ、とした笑みを返す。

「んじゃ、お前らもお兄様と一緒に家の紹介してこうぜ」

 相手の了承もとったことだし、とばかりにおそ松が楽しげな表情で弟達へ呼びかけた。

「えー。それ、おそ松兄さんの仕事でしょ」
「ボクらを巻き込むな」
「……嫌だ」
「ハハー! 勘弁勘弁!」
「ふっ……断る!」
「何でだよー!」

 次々にお断りの言葉を繰り出す兄弟達へおそ松は声を上げる。
 構ってちゃんな彼としては、久々に集まった兄弟全員とゴロゴロしていたいのだ。だが、駄々をこねても意味のない仕事が目の前にある以上、働かなければならない。
 我慢に我慢を重ね、仕事のために重い腰を上げるのだから、せめて、兄弟と一緒にいることくらい許されるべきだ。
 竹田達としても、六つ子が全員揃ってくれているというのは美味しい話なのだが、兄弟側がそれを拒否するというのであれば引き止めることができるだけの理由がなかった。

「ボクは出かけるよ」

 長男の不満を無視し、一松が立ち上がる。見知らぬ人間に囲まれていたことが余程のストレスだったらしく、誰よりも先に戦線を離脱することを選択した。
 猫背をさらに丸くした彼は、誰の言葉も聞くつもりはないとばかりに早足で玄関へ向かい、便所サンダルを履いてさっさと家を出てしまう。

 行き先は路地裏の猫のもとなのだろうけれど、そのことについて言及する兄弟はいなかった。
 待てよー! と叫ぶおそ松の声があるだけだ。

 非常識の塊のような六つ子達とはいえ、立派に社会の一員として働いているのだ。常識の範疇として、野良猫に餌を与えることが問題である、ということは認識している。
 血縁者や古い友人ばかりがこの場にいるのであればともかく、見知らぬ人間、まして、カメラ前でそのようなことを言えば、売れっ子作家である一松を攻撃する格好の餌となってしまう。

 図太い六つ子の中で比較的繊細な心を持っている彼だ。見知らぬ人間からの誹謗中傷に気を病み、ふさぎこんでしまう可能性は低くない。
 であれば、ここは黙するのが正解というもの。

「ボクは上でデザイン考えてるねー」

 次に戦線を離脱したのはトド松だ。家から出て行くほどではないけれど、長時間、カメラの前でネコを被り続けるのは面倒だ、と判断したらしい。
 もっともらしい理由をつめ、軽く手を振ってから二階への階段へと向かっていく。

「カラ松兄さん! デュエットしマッスル!」
「オーケイ。マイリトルブラザー。最高のハーモニーを奏でようじゃないか」

 末弟に続くようにして、十四松とカラ松も階段へと足を運ぶ。
 バタバタと騒がしい足音を立てたのはおそらく十四松で、その後、かすかに聞こえたゆったりとした足音がカラ松のものだろう。初対面である梅谷や竹田の目から見ても、松野家五男はわかりやすく落ち着きが全くない人間であった。

「ボクは庭で体作りしてるから。
 クソ長男、スタッフの皆さんに迷惑かけんじゃねーぞ」
「チョロちゃん酷くない?
 お兄様のこともっと信頼しろよ。
 そして構えよ!」

 最後まで残っていたチョロ松も、行き先を決めたようだ。
 人差し指でびしっとおそ松を差し、釘をさしておくことも忘れない。

 今までならば、賭けのためにネコを被っている、という安心感があった。
 だが、賭けの勝敗が決した今、本来のおそ松を全開にしている彼が、周囲にどのような迷惑をかけるか。想像に難くない。

「ほざけ」
「ひっでー!」

 傍若無人な兄弟達の中で、かろうじてツッコミの役割を得ているチョロ松は、おそ松を筆頭にした六つ子達が世間からどう見られているのかを理解している。
 特に、かつての相棒であるおそ松に関しては、その鬱陶しさと面倒くささまでよくよく知ってしまっていた。
 芸能人である梅谷や竹田には失礼な話かもしれないが、六つ子という枠組みから見れば、彼らとて一般人と相違ない。赤塚に住んでいるわけでもない人間が、全開のおそ松についていくのは至難の業だろう。

「とにかく!
 ボク達まで恥かくんだから、節度を守ってよね」

 冷たい瞳と共に、罵声を残してチョロ松は立ち去る。
 居間に置いていかれたおそ松は一拍の後、眉間にしわを寄せてつつも、仕方ない、とばかりに頭を掻いて表情を一転させてみせた。
 切り替えの早さは芸能活動において必須事項ともいえる能力だが、おそ松の場合は生まれ持っての才能だ。
 何処に行っても目立つ六つ子の長男。その程度の能力もなしに世間を出歩くなどできるはずもない。

「ほーんと、五人の敵、って感じだよねぇ」

 おそ松は肩をすくめる。
 生まれてこの方、この世に兄弟がいなかったことなど、カラ松が生まれるまでの一瞬の間しかない。それ以降から今まで、同い年の男が一つ屋根の下で暮らしてきたのだ。
 年がら年中、四六時中、仲良しこよしというわけにもいかないだろう。

「ボクは一人っ子だから、兄弟がいるって羨ましいけどなぁ」
「えー? 兄弟なんていてもいいことなーんもないよ?
 失敗を弟に押し付けることができるくらいで、後はおかずも玩具も何でもかんでも取り合いだし」

 柔らかく笑いながら羨ましさを口にした梅谷に半目を向け、おそ松は語る。何せ六人だ。取り合いの規模も大きい。殴る蹴るは当たり前で、時には凶器すら登場した。幼い頃など生傷、涙、罵倒は絶えず、やりすぎた場合にのみ両親からの鉄建が飛んできた。
 そうなれば最悪の事態で、痛い思いをし、説教を受けた上で喧嘩のもとが没収されてしまう。痛い思いをするだけで、得るものが何も無い瞬間は非常に虚しい。

「まあいいや。
 一松はともかく、他の松にはちょっかいかけてやろ」

 外に出てしまった一松以外であれば、家の中を回っているうちに顔を合わせることになるのだ。一緒にカメラに映っている時間が長いか短いかの違いでしかない。
 弟達にとっては迷惑極まりない決意を胸に、おそ松はどこから行くかなぁ、と頭を掻く。

「この居間はもういいよね?
 待ってる間に色々みたでしょ」
「うん。ちなみになんだけど、それって兄弟それぞれの本棚?」

 梅谷が指差したのは、一松と十四松それぞれが出版した本が五冊ずつある棚だ。

「そーだよ。一松とトド松とチョロ松はオレらの部屋にも本棚持ってっけど」

 棚の左上に貼り付けられているシールの色によって誰の棚かわけているらしい。よく見てみれば、一松と十四松の出版物以外は漫画しかない棚の左上に赤いシールが貼り付けられていた。
 一松の小説が並んでいない棚には紫色。十四松の写真集がない棚には黄色が張られている。

「朝飯はいつもここで食べんの?」
「兄弟が揃ってるときはね。
 あと、適当にゴロゴロすんのもここ。
 小説書く奴がいたり、ギター弾く奴がいたり、ノートにデザイン描いてる奴がいたりしてる」

 一般的な広さの家とはいえ、成人男性六人が住まうと考えれば、空間が狭くなってしまうのも致し方のないこと。当然、彼ら個人の部屋があるはずもなく、どのような作業をするにしても、共同スペースでしか行うことができない。
 まだまだ枯れぬ彼らとしては、非常に困った事態に陥ることもままあるのだが、思春期から成人ニート時代とこの家で暮らし続けてきた彼らだ。
 不便や不満はあるものの、実家という安心感を天秤に乗せれば、あっさりと後者に傾いてしまう。

「んで、あっこが台所ね」

 適当に指差す先には台所。
 カラ松達が朝食の準備をしている間に充分説明をした、とばかりにおそ松は台所を無視し、居間を出る。竹田と梅谷が慌ててその後を追った。

「あっこがトイレ。
 うちの末っ子さぁ、いい年して、オバケが怖いだの何だの言ってんの」
「気持ちはちょっとわかっちゃうかなぁ」

 梅谷は苦笑いをしつつも、トド松を肯定する。
 幽霊の類というのは、どうしても駄目だという人間が一定数存在しているもので、それは、子供だとか大人だとかで線引きできるようなものではない。
 一種の本能のようなものなのだろう。

 幸い、梅谷は幽霊というものに対し、強い恐怖心は抱いていない。できれば怪談話は聞きたくない、オカルト番組を見た後は少し怖いような気がする。その程度のものだ。
 しかし、そんな彼であったとしても、松野家のトイレ前は少しばかり怖い。

 決して広くない廊下に、明かりは一つ。
 年期の入った家はどうしても薄っすら汚れているし、廊下はギシギシと音を立てる。今はまだ日が出ているので廊下も明るく、多少の汚れや音に怯えることはないけれど、真夜中、ここを歩けと言われれば、相当な恐怖になることだろう。

「えー? わっかんねぇなぁ。
 毎日毎日通ってる廊下だし」
「日本家屋って趣がある代わりにちょっと怖いところあると思うよ」
「そういうもんかねぇ」

 おそ松からしてみれば、生まれ育った家だ。
 洋風であろうが和風であろうが、自身のテリトリーであることに違いはなく、また、自分のテリトリーにおいて彼は頂点であるという自負があった。故に、恐れるものなど何もない。例外として両親の存在があるが、彼らは別格だ。

「ま、それで被害被ってんのはオレじゃないからいいけどね。
 チョロ松なんて、トド松が夜中トイレ行く度に起こされっから」

 その光景を想像したのだろう。竹田が小さく噴出した。
 オカルトを全く信じていない彼からしてみれば、いい年をした男がトイレ一つのために兄弟を起こす、というのは中々に面白い光景だ。しかも、その兄弟の顔は同じだというのだからなおさら。

「お前の兄弟でそんな怖がりいるのかよ」

 少なくとも、おそ松が幽霊を信じているという話は聞かない。心霊番組にも出演していたが、涼しい顔をして座っていたと竹田は記憶している。
 今日よりも以前に知っていたおそ松と、今日知ったおそ松は何もかもが違うけれど、それでも、彼が幽霊を恐れるようには見えない。飄々と、のらりくらりと生きる彼に恐怖は不似合いだ。

「いるよー。オレとあいつは一緒だけど違うからねぇ」

 ははは、と笑いながらおそ松は歩を進める。
 一緒だけど違う。その言葉に竹田達は疑問符を浮かべながらも、詳細を聞く気にはなれなかった。本来ならば、視聴者が求めているであろう答えのため、問いかけなければならなかったのに。そのために口を動かすことはできない。
 現場にいる者だけがわかった。

 おそ松が引いたライン。
 無言で、しかし明確に、彼は分けているのだ。
 あちらとこちらを。

「で、あっこが庭」

 廊下から指差した窓。その向こう側には、狭いながらも庭と呼べる空間が確かにあった。
 六つ子の誰かの趣味なのか、あるいは彼らの両親の趣味なのか、盆栽がいくつか並んでいる。他には物干し竿があるだけで、他に目立ったものはない。

 そんな空間の中に、先ほど別れたチョロ松がいる。
 ただ立っているわけでも、庭の手入れをしているわけでもない。
 体をゆっくりと動かし、準備運動のようなものをしていた。

「毎日精がでるねぇ〜」
「これも仕事のうちだからね。
 自己管理もきっちりできてこそのプロでしょ」
「まーたライジングしてる」

 窓越しに言葉を投げあいながらも、チョロ松は体を動かすことをやめない。動きがある方がテレビ的にいいだろう、という配慮ではない。
 同じ年の兄と会話をするために体を止める、という発想がないのだ。
 チョロ松にとって、兄弟とやりとりをする、といった行為の優先順位は限りなく低い。無論、兄弟を軽視しているからではない。あって当然、いて当然。だからこそ、特別の順位をつけるにも至らない。それだけの話だ。

「あの頃のボクとは違いますぅ。
 どっかの馬鹿長男と違って、常識人なボクはやることやってるだけですぅ」
「うわっ。腹立つ顔しやがって。
 ねぇ、あの顔。あの顔、全国に流してやってよ」

 ただでさえ小さい黒目をさらに小さくし、歪に歪められた唇が突き出される。誰がどう見ても、話し相手を小馬鹿にしている顔だ。
 向けられた相手であるおそ松はすぐさまカメラマンの腕を引き、チョロ松を指差す。

「大体、常識人とか言ってるけど、あいつドルオタだからね?
 レイカがアイドルに復帰した途端、グッズ買いあさってるからね?」
「誰だよレイカって! にゃーちゃんだっつってんだろ! ぶっ殺すぞ!」

 数年前、熱愛の末にアイドルを引退した橋本にゃー。彼女は二年ほど前に芸能界へ復帰した。理由は様々噂されているが、一番多く、そして正しいだろうものは彼女の破局だろう。
 双方、互いについてコメントを残すことこそしなかったが、何らかの問題が起こり、破局に至ったことは明白。
 お嫁さん一歩手前から急転直下し、無職と化した彼女は再びこの世界に足を踏み入れた、というわけだ。

 チョロ松はかつて愛していたアイドルの復帰に狂喜乱舞した。目下の夢は、彼女の後ろでダンスを踊る、ということだが、おそらくそれは叶わない。
 何かの拍子に叶ったとして、重度のドルオタである彼が、アイドルを前にして職務に全うできるはずがないのだ。

「にゃーちゃん、可愛いですよね。
 今、トト子ちゃんとアイドル界を二分する勢いですもんね」

 梅谷の言葉におそ松の目が光る。

「そーだ! お前、トト子ちゃんとレイカだったらどっち取るんだよ!」
「えっ!」

 一秒たりとも静止しなかったチョロ松が硬直した。
 先ほどまでの滑らかな動きは消え去り、まるでオイルを差し忘れたブリキの玩具のように軋んだ動きでおそ松を見る。その表情には困惑と絶望がみっちりと塗り込められている。

「そ、そんな……。
 ボクには、選べないっ……!」

 悲痛な声と共に、チョロ松の膝が地面につく。
 よくは見えないが、梅谷と竹田の目には涙のようなものが零れているようにも見えた。

「やーい。トト子ちゃんに言ってやろー!」

 きゃっきゃと笑うおそ松。
 竹田は彼の肩を軽く叩く。

「トト子ちゃんって、あのアイドルの弱井トト子のことだろ?
 知り合いなのか?」
「幼馴染で、オレ達のアイドル!」

 鼻の下を軽くこすりながら、元気一杯の返事が寄こされる。

「今までは、六つ子ってこと隠してたから共演NGだったけど、これからはどんどん入れてね!
 つーか、そのくらいの特権があってもいいだろ! こんなに頑張ってるんだし!」
「っざけんな! 抜け駆けなんて許さねぇからな!」

 シュッ、と音がした。
 竹田がそう知覚したとき、すでにソレはおそ松の脳天を直撃していた。

「ってー!」
「お、おそ松! 大丈夫か!」
「大丈夫じゃねーよ!
 あんの野郎……!」

 窓の向こう側から投げ込まれたのは拳大の石。
 開かれた部分を的確に狙って投擲されたそれは、おそ松の脳天に傷を作り、赤い血を噴出させている。
 頭の出血は激しいものになりやすいとはいえ、笑って見過ごすには石の勢いと出血量が多すぎた。周囲はざわめき、梅谷などは顔を青くしている始末。

 だが、被害者であったはずのおそ松は違う。
 顔を怒りに歪めたかと思うと、颯爽と窓から身を乗り出し、外へ飛び出す。
 誰かが彼を止めるよりも早く怪我人は地面に着地し、加害者である男へと拳を振るった。

「カリスマレジェンド様に傷を作るとはいい度胸じゃねーか!」
「カリスマ(笑) レジェンド(笑)」
「カッコワライを発音してんじゃねーよ!」

 そして巻き起こるのは殴り合いの喧嘩だ。
 二階にいる兄弟達にも罵声やら打撃音やらが届いているはずだが、誰一人として顔を見せようとはしない。巻き込まれるのは御免、ということなのだろう。

 喧嘩の端々から察するに、トト子というアイドルには兄弟全員が執着しており、常に誰かが抜け駆けをしないか監視し合っているらしい。
 そのかいあって、今のところ六つ子全員横一列。付き合うどころか、恋愛対象としてみられる、デートする、プレゼントを貰う、といったことも達成されていないようだった。
 足の引っ張り合いをしていることが原因なのだろうけれど、彼らはそれを止めるつもりがないらしい。

「チョロ松のことをドルオタだ何だ言ってたけど、おそ松も大概な感じがするな」
「彼はアイドルであるトト子ちゃんではなく、幼馴染としてのトト子ちゃんが好きみたいですけどね」
「それも恋愛対象か、って言われると微妙な線じゃね?」

 好きではあるのだろう。性欲も伴うのだろう。
 けれど、それらは憧れの延長線上であり、もっとも身近で歳が近い女性に向けられただけの欲求のようにも感じる。

 タレントとして成功し、女などより取り見取りであるはずのおそ松に浮いた話がないのはそういった精神面が原因なのかもしれない。本性を隠すため、ということも間違いなくあるのだろうけれど、素の彼を見ている限り、愛欲と性欲が繋がっているようには思えなかった。
 いや、彼だけではない。六つ子全員が、憧れや情愛と恋愛の区別をつけぬまま、大人になってしまっているのだろう。

 奇妙なバランスで成り立っている幼児性を竹田はおそ松とチョロ松から感じ取っていた。同時に、そういったアンバランスさこそが、なんとも言えぬおそ松の魅力の一つであるということを知る。
 きっと、愛や恋を実体験として知ったおそ松は、一つ、ただ人に近づくのだろう。
 そうなるべきだ、と思う一方で、今のままであってほしい、という気持ちも確かにあった。

「はっはっは−!
 長男舐めんなよ!」
「くっそー……」

 気づけば、兄弟喧嘩に決着がついていた。
 両者、ボロボロの様相を成しているが、地面に伏しているのはチョロ松。彼の背に足を乗せているのはおそ松だ。
 体力仕事であるダンサーを打ち負かすだけの体力と身体能力を持つおそ松に竹田と梅谷は軽く拍手を送る。じっくりと見ていたわけではないけれど、良い試合であったように思う。

「そうだ、せっかくだし、罰ゲームな」
「は? 聞いてないんだけど」

 チョロ松から足を退けたおそ松が、名案が浮かんだ、とばかりに指を鳴らした。
 どうせ余計なことを思いついたのだろう、とチョロ松は迫り来る予感に顔を顰める。

「何か、かるーくでいいから踊ってやってよ。
 その方がテレビ的に面白いだろうし」

 ね? とおそ松がスタッフを見る。
 答えは是でしかない。スタッフ一同、首を勢いよく上下に揺らして肯定の意思を伝えた。

 プロのダンサーで特集を組むことだって少なくない。
 それも、正体不明の、おそ松の兄弟の、ダンサーだ。そんな彼の動きを撮る許可がでたのならば、カメラに収めたいと思うのが普通だ。
 その映像を電波に流せば、どれだけの視聴者が食いつくだろうか。どれだけの数、動画サイトにアップロードされることだろうか。想像だけでも凄まじいことになっているが、いつだって現実はその上を言ってくれる。

「……ま、そのくらいなら」

 スタッフ達の反応を見て、少し面倒くさそうではあったが、チョロ松はおそ松から下された罰ゲームを了承する。
 彼の思惑としては、スタッフ達からの期待に応えたい気持ちが二割。後の八割は、思っていたよりはまともで、面倒でもなく、金もかからない罰ゲームでよかった、という安堵の気持ちだ。

「軽くするだけだから音は入れないよ」

 そう宣言した瞬間、チョロ松の体を地面に沈みこむ。
 足を大きく広げ、地面に手をついていた。そこから、徐々に、リズムを刻むようにして立ち上がっていく。音楽はかかっていない。あるのは、周囲の家から聞こえてくる生活音くらいのもの。
 だというのに、何故か、その場にいる全員が、何らかの音を認識していた。
 惹き込まれるような動きに、脳が音を誤認する。

 立ち上がりきったチョロ松は、スローテンポで体を動かす。伸びきった指や足が美しいシルエットを作り出す。
 指先が動く。肘が曲げられる。小首を傾げ、まるで携帯電話を用いて通話しているかのような錯覚を見せたかと思えば、それはすぐに放り投げられる。
 ゆったりとしたテンポが一転し、アップテンポへと変化した。

 腰を入れ、振り抜くような回転。観客のハートめがけて何かが飛ぶ。
 綺麗な姿勢がわざと崩され、猫背のような状態で揺らめき、親指で軽く鼻がこすられる。一、二、のリズムを取ったかと思えば、チョロ松は見事なバク転を決め、そのまま片手で逆立ちの状態を維持してみせた。
 いくつかの技が決まり、最後は髪を掻きあげるようにして彼は制止した。

 激しく波打っていた水面が一瞬で静まり返る。
 その落差についていけたのはおそ松だけだった。

「さっすがー」

 パチパチ、とやる気のない拍手が響く。
 その音に、見惚れ、惹きずりこまれていたスタッフ達の目が覚める。

 途端に巻きおこったのは、拍手の嵐だ。
 撮影であることも、音が入ってしまうことも忘れ、全員が手を叩く。

「……どーも」

 ぶっきらぼうというには、赤く染まった頬が隠せていない。
 への字の口をさらに下げてはいるが、目元は嬉しそうに緩められており、声色から感じるほど頑なな雰囲気は感じられなかった。

「んじゃ、次行きますか」

 喧嘩でついた汚れを払い、おそ松は再び窓を経由して室内へと入る。

「おいこら! 廊下が汚れるだろ!」
「へーい」

 チョロ松の説教を聴き、おそ松は靴下を脱ぐ。そして、そのままトテトテと左右の手をペンギンのように軽く広げ、何処かへ走っていく。

「こっちが風呂ねー」

 おそ松が消えた先から声がした。
 梅谷と竹田は顔を見合わせ、そちらの方向へと足を進めていく。

「大体、父さんと母さんしか入らない風呂ね、ここ」

 開け放たれた扉の向こうには脱衣所。さらにその先に浴槽が見える。
 靴下を脱衣所にある洗濯籠に放り込んだらしいおそ松は、つなぎの裾をめくり上げた状態で浴場にいた。シャワーで汚れを軽く落としているらしい。
 濡れタオルで拭いたのか、頭から流れていた血の跡も消えている。

「おそ松さん達はここを使わないの?」
「六人もいるからさ、最後の方になったら湯がきったねぇの。
 しかも冷たい。一々暖めてたら金もかかる、っつーことで、オレらは近所の銭湯を使ってんのよ」

 あらかたの汚れを落としたおそ松は脱衣所に戻り、体を軽く拭く。

「この辺りの人はオレ達のことよーく知ってっからさ、テレビとかに情報流れないようにお願いしとくの大変だったんだぜ?」

 同じ顔が六つともなれば有名にもなるだろう、と竹田達は心の中で頷く。
 彼らは思いもしないのだ。名が知られている理由が、六つ子であるという奇特性以上の悪辣さのためである、などとは。まさか、あの松野おそ松が、下の兄弟達と合わせて、悪魔の六つ子として恐れられた悪童であったとは未だ想像もつかない。

「じゃあ、銭湯が潰れたら困るな」
「だねー。そうなったら、友達に頼むかなぁ」

 竹田の感想に同意しながらも、おそ松の声は明るい。全く困っていない様子だ。

「友達?」
「うん。すっげー金持ちなの。流石にテレビに名前出すのは不味いかなーってくらい。
 だから、あそこの銭湯潰れるってなったら、その友達に金出してもらうかなぁ」
「自分達が出せよ」

 思わず冷たい声が飛び出てしまう。
 おそ松の言う「友達」とやらが、どの程度の金持ちなのかは知らないが、銭湯がなくなって困るのがおそ松達であるのならば、融資するのはおそ松達であるべきだ。彼らは一般人とはかけ離れた存在で、六人分の金を集めれば相当な額になることは想像ではなく、れっきとした事である。

「えー。やだよー。
 オレの金はお馬さんと銀の玉と彼女に消えるんだからさぁ」
「彼女?」

 梅谷の声が裏返る。愛欲と性欲を混同させていると判断をくだしていたおそ松から、まさかの爆弾発言だ。
 予想を外してしまっていた衝撃よりも、こんなところでスキャンダル発覚か、という衝撃の方が断然に大きい。竹田はとっさに目配せし、いざとなればこの部分をカットしてもらえるよう、スタッフへ通達する。

「そ、彼女」

 慌てる竹田や梅谷、スタッフらを横目に、笑いながらおそ松は両手で長方形を形作った。
 一瞬、呆けてしまったがすぐさまそのジェスチャーの意味することを竹田は察する。

「……その彼女ってさ、十八禁の幕の向こうにいっぱいいる?」
「あったりー!」

 つまりはアダルトビデオ。
 成人男性ならば一度や二度、それ以上に何度もお世話になる品だ。

 脱力してしまったのは梅谷と竹田だけではない。
 カメラを担いでいるはずのスタッフでさえ思わずその場にへたり込むほどだった。

「どーした?」
「……いや、別に……」

 ニヤケ面から察するに、こちらをからかうつもりで意味深な言い方をしたらしい。中々にイイ性格をしている男だ。

「んじゃ、次は二階へごあーんなーい」

 脱力する面々の横をするすると通り抜け、廊下へと飛び出す。そのまま、バタバタと階段を駆け上る音が聞こえてきた。確かに、もう一階で回れるような場所はないけれど、それにしたって一足飛びな感じがしてならない。
 梅谷は脱衣所をちらりと見る。

 狭い空間の中に閉じ込められた生活感。一つ一つを掬い上げ、問いかけに変え、番組にしていくのが自分達の仕事であったはずだ。それが、おそ松の前では、六つ子の前では崩されっぱなしだ。
 古さを感じられる洗濯機に対して買い替えを進言し、六人分並べられた色違いの桶とそれぞれ違ったメーカーのシャンプーやリンス、石鹸について尋ね、洗濯籠から見えているカラフルな服にツッコミを入れるべきなのに。

「……行くか」

 竹田も梅谷と同じ気持ちなのだろう。
 少しばかり脱衣所に名残惜しさを滲ませながらも、立ち上がり、二階へと向かう。家主を放って、脱衣所に長居するわけにもいかず、彼を無理やりこの場へ引き戻すことは不可能だろうことは予想できている。

「おっそい」

 階段を昇り始めると、最上段で仁王立ちしたおそ松が待ち構えていた。
 遅いとはいっても、彼がその場所へ向かってから今まで、二分も経っていないはずだ。

「意外と気が短いんだな」
「寂しいの駄目なんだよねぇ。
 オレが構って欲しいときは常に構っててほしいの」

 我が侭をあっさりと言ってのけるおそ松だが、不思議と嫌悪感はない。それどころか、仕方ない奴だ、という優しさが心の内側から溢れ出てきてしまう。
 竹田と梅谷は、この日、生まれて初めてヒモニートを養う女の気持ちの末端を理解した。

「で、こっちが父さんと母さんの部屋ね」

 おそ松が指差す先は、襖で硬く閉ざされており、中の様子は一部たりともわからない。
 開けても? と目線で問うと、おそ松は肩をすくめながら首を横に振る。

「流石にそれは駄目。
 何出てくるかわっかんねーし」

 両親の部屋に用事などないため、今現在、両親の部屋がどのような様相を成しているのかおそ松は知らない。変なものが放置されていた場合の精神的ダメージを考えれば、襖は閉ざされたままにすべきなのだ。
 たとえ、それが夫婦仲良好の証となる物であったとしても、実の息子への精神的被害は大きすぎる。

「見ていいのはこっちね。
 オレ達の部屋」
「マジで六人一部屋かよ」
「狭い家だし仕方ないだろー」

 ガラリ、と開けられた襖の先。竹田達が思っていたよりも二周りほど狭い部屋が現れる。建物の概観や敷地から考えれば妥当な広さではあるのだが、成人男性六人が共同で使っている部屋だと思えば狭く感じてしまう。
 しかも、その部屋の中には大小それぞれの本棚が三つと、二人は余裕で座れるソファが置かれているのだ。
 現在、そのソファの上には、ファッション雑誌を手にしたトド松が寝そべっている。

「もう二階?
 おそ松兄さん、ちゃんと一階の案内したの?」

 トド松は雑誌を持ったまま、疑わしげな目だけでおそ松を見た。確か、彼はデザインをする、と二階へ上がったはずだが、その様子は一切見られない。
 休憩にしてはあれから一時間も経っておらず、早すぎる。

「やったっつーの。
 うち狭いんだからさ、そんな時間かかるわけないだろ」
「ちょっ、何で座るのさ。
 狭いんだからやめてよねぇ」

 乱暴に頭を掻き、おそ松はずんずんと部屋に入っていく。そして、そのままトド松が寝そべっているソファの隙間へ自身の尻を下ろす。当然、先にいたはずのトド松が追いやられる結果となるのだが、それを気にする長男様ではない。
 素知らぬ顔で深く腰掛けていく。
 結果、追いやられたトド松は寝そべるのをやめ、おそ松の隣に座りなおすこととなった。

「ここの説明は?」
「したよ。オレ達の部屋でーす、って」
「それ何の説明にもなってないよね?」

 最早、そこにあるのはテレビの収録現場ではなく、二人の日常風景だ。
 適当にだらだらと、意味も糧もない会話を繰り広げるだけ。
 かろうじて、トド松はカメラのことを気にしているが、だからといって自身が率先して動く気はないらしい。

「おそまーつ、仕事。仕事中だから今」
「えー」
「ほら、呼ばれてるよ。カリスマレジェンド兄さん」
「ひっどい棒読みだな、おい」

 竹田が声をかけるも、兄弟間のじゃれあいのネタにされて終わってしまう。
 どうしたものか、とスタッフが頭を悩ませ始めるより先に、奇妙な沈黙が部屋を覆った。口ばかりペラペラとよく動いていた二人の間に、突如として静けさが舞い降りたのだ。

 じっと見つめあうおそ松とトド松。
 沈黙であるはずなのに、部屋の雰囲気はどこか違っている。牽制とも、睨みあいとも違う何かがそこにはあった。

 それもそのはず。
 周囲からはわけのわからぬ沈黙であろうとも、二人の間では意味のある沈黙、否、会話なのだ。
 テレパシーのような超能力的なものではない。ただ、二十数年、オレはあいつを地で走り抜けてきた六つ子は、目線だけで完璧なまでの会話が可能となっていた。

 それはアイコンタクトというレベルでは収まらず、感情から細かなニュアンスまで、完璧に汲み取ることができるとんでも技術なのだ。
 彼らはこの技を、食事中のような口を使えないときや、今のように水面下で面倒ごとを押し付けあう際に使用している。

「あの、おそ松、さん……?」

 数分が経過し、恐る恐る梅谷が声をかける。
 だが、返答はない。おそ松とトド松は完璧に六つ子の世界に入り込んでしまっていた。

 どうしたものか、と梅谷と竹田も目を合わせる。
 何時間もこのまま、ということはないだろうけれど、それでも長期戦になる予感だけはひしひしと感じ取れてしまう。いくらカットできるとはいえ、現場にいるものの体力と時間は確実にそぎ落とされていく。

 その時だ。
 神が哀れな二人を救うかのごとく、一つの偶然を起こした。

「うおあぁっ!」
「カラ松にぃさあぁん!」

 二人分の悲鳴。その直後に響く、何か重量のあるモノが地面に落下した音。

「――まさか」

 梅谷の顔が青く染まる。
 声と音。その二つが示す結論は一つしかない。
 とっさに竹田が窓へと駆け寄る。現実を直視したところで、できることは皆無に等しい。本当に何かしたいと思うのならば、駆け寄るよりも先に救急車を呼ぶべきだろう。あるいは、一階に降りて怪我の具合の確認、応急処置が適切な行動だ。

 しかし、人というのは混乱する生き物。
 テレビ番組収録中の事故。年に何度か聞く事柄ではあるけれど、己が目の前で起きるとなれば受け止め方も変わってくる。
 企画のことや今後の行く末。それら以上に人命の文字が頭に強く描かれ、とにもかくにも動かずにはいられない。そこに冷静な判断というものは存在していない。

「まーた落ちたの?」

 悲鳴を聞いてもなお、無言であり続けたトド松が言う。
 呆れた色のみで構成されたその声に、竹田の足が窓の手前で止まる。

「……え?」

 兄弟が落ちたのだ。屋根から。
 運が良くとも骨折。悪ければ死ぬことだってありえる事故だ。
 それを、また、だとかいう言葉で完結させていいはずがない。ましてや呆れるなど、あっていいはずがない。

「お前っ――!」

 目の前で起きた事故により、冷静さを欠いていた竹田は、ついカッとなる。窓へ向けていた足を転換させ、大股でトド松へと近づいてゆく。
 彼の細くない腕が未だ雑誌を離さぬトド松へと伸ばされた。
 そこで竹田の行動は終わりだ。

「おそ松っ!」

 強い眼差しがおそ松を睨みつけた。
 胸倉を掴みあげるはずだった手は、横から伸びてきた彼の手により、寸前のところで静止している。

「ごめんね? ビックリするよねぇ」

 浮かべられているのは笑み。紛れもなく、目も口角も雰囲気も、全てがおそ松の笑みを肯定している。ただ一つ、竹田の腕を力強く握り締めている手を除けば。

「うちのカラ松ってすっげー丈夫なの。
 あのくらいヘーキ。石臼を頭にぶつけられたってその日のうちに帰ってくるくらいだから」

 竹田の腕が悲鳴を上げる。これ以上の圧力を加えられれば、骨にヒビが入ることは確実だ。訓練を受けていない人間が出していい力ではない。

「で、でも……」

 青い顔をしたまま、梅谷が反論の声を上げる。
 いくら丈夫とはいえ、相手は人間だ。限度というものがある。おそ松は石臼を頭にぶつけられても、と言っているが、それをそのまま信じられるはずがなかった。
 男兄弟が一つ屋根の下で暮らしているのだ。時には過激な喧嘩をすることもあるだろうし、扱いが雑になる人間も出てくるだろう。
 しかし、だからといって、目の前で苦しむ人間を見捨てる理由にはならない。

「そんなの、おかし――」
「失礼するぜ、おそ松フレンズ」

 おそ松とトド松の対応に異議を唱えるべく、梅谷が声を張り上げるとほぼ同時、渦中の人物がやってきてしまった。
 それも、頭に包帯を巻いてはいるが、実に元気そうな姿で。

「お、今日はちゃんと手当てしてんじゃん」
「チョロ松がやってくれた」
「三回怒られてもなおんなかったもんな」

 スタッフの間をすり抜け、梅谷の横を通りながら話を続けていく。途中、おそ松が竹田の腕を強く握っていることに気づいたらしく、カラ松は目を細め、唯一の兄を睨みつける。

「フレンドに暴力を振るうのはいただけないな」
「ちっげーって。ちょっとしたすれ違いだよ。
 な? 竹田。オレが言った通りだっただろ?」

 ウインクと同時に竹田の腕が解放される。
 血が一気に流れ出し、指先がじんじん痺れているのが感じられた。

「……あ、あぁ、そうだな」

 震える声で応えながら、竹田はカラ松の姿を観察する。
 青いつなぎに血の跡はない。頭以外で怪我をしていそうな場所も見つからない。足取りも確かで、骨にヒビどころか、捻挫すらしていない様子だ。
 やせ我慢にも見えないので、正真正銘、ほぼ無傷である、ということなのだろう。

「オレは十四松とのセッションに戻るが、喧嘩はするなよ。
 トド松。おそ松をちゃんと監視しておいてくれ」
「気が向いたらねー」

 ひらひらと手を振り、トド松は確証のない適当な返事をした。
 安心できる要素は何もなかったはずなのに、カラ松はそれで満足したらしく、意気揚々と再び屋根の上へと舞い戻っていく。弟を信用しているのか、元より期待していないのか。判断に迷うところだ。

 彼が去った後、部屋は静まり返る。誰も動かない。動けない。
 頭上から十四松の嬉しげな声だけが聞こえてくる。

「カラ松兄さんは本っ当に丈夫だよ。
 人間じゃないって言われても不思議じゃないくらいね」

 初めに声を発したのはトド松だった。
 自身の胸倉を掴み上げようとしていた人間に、彼は微笑みかける。それは天使のものではない。小悪魔のそれだ。

「んで、すっごいドジでもある。
 だから、屋根から落ちるなんて日常茶飯事だし、外に出たら車とぶつかったりしてるよ。
 うちの兄さんのことを心配してくれるのはありがとう。
 ビックリさせちゃったのはごめんね?」

 愛らしい上目使い。悪意は見えない。
 純粋に礼を言っているし、謝罪もしている。

 カラ松が丈夫だというのは本当のことなのだろう。よく怪我をするのも、事故にあうのも。そして、それに対して呆れをぶつけられる程度には、彼の立ち位置が低いというのも。
 軽んじているわけではなく、蔑んでいるわけでもない。ただただ、漠然とした順位付けがそうなっているだけ。竹田はそう直感し、背筋を凍らせる。

 六人もいるのだ。この兄弟は。
 一人二人の中での最下位と、六人の中での最下位ではわけが違う。どれだけの数、後回しにされるのだろうか。どれだけの数、低く見られるのだろうか。

「ねぇ、竹田」

 おそ松の腕が、先ほど竹田の腕を潰そうとした手が、肩に回された。
 思わず体が硬くなる。きっと、竹田と同じことを考えていたのであろう梅谷も息を呑んで成り行きを見守っている。

「お前、オレに感謝しなきゃいけないよ?」

 笑み。天真爛漫、と称してもいいほど、無邪気な笑みだ。

「へ?」

 力が抜けそうになる体を叱咤し、竹田はどうにか態勢を保つ。

「もし、お前がトド松の胸倉掴みあげてたらさ、今頃はテレビに出らんない顔してたぞ」
「は? 何で?」

 あっけらかんとしたおそ松に、恐怖心を忘れた竹田が問いかける。

「あいつすっげーブラコンだから、弟に手ェ出されたら止まんないのよ。
 後のこととか、相手のこととか考えない。顔面ボッコボコにされるか、四肢の骨を折られるか……。
 どっちにしても碌な目にはあわねぇよ?」
「怖がらなくてもいいよ。おそ松兄さんが止めてなかったら、ちゃんとボクが止める予定だったし。
 勿論、ボクは言葉での静止だよ? 末っ子に暴力は似合わないからねぇ」
「ケッ。可愛い子ぶりやがって」

 何も知らぬ人間がカラ松に抱く印象は大体同じだ。
 厨二病、痛々しい、気が弱い、温厚。

 例に漏れず、梅谷達もそういった印象を抱いていた。
 だが、それは誤りだ。勿論、それら全てが間違っているとは言わない。痛々しい言動も、怒鳴られただけで涙目になってしまうような気の弱さも、確かにカラ松の持つ性質の一つだ。ただ、それに加え、強い暴力性と、それに伴った力を持っている、というだけのこと。

 温厚な性格だからこそ、内に秘められた暴力性が露になることは少ない。
 その分、発揮された時の爆発力が尋常ではないのだ。

「落ち着いた?
 じゃあ、わかるっしょ? カラ松は別にオレらの中で最下位にいるわけじゃないって」

 全てお見通しだ、とでも言いたげに告げ、竹田を解放したおそ松は彼の肩を軽く叩く。
 ぱちくり、と目を瞬かせ、竹田はあぁ、と声を漏らす。

「……怪我をしてるのに放置されたらたまんねぇよな」
「そういうこと」

 おそ松はニッコリと笑う。トド松は目を逸らし、自分は違います、とでも言いたげな顔だ。目を見れば、兄と同類であることは簡単にわかってしまうというのに。

 二階へ上がってきたカラ松に対し、おそ松は怪我の手当てをしてもらったのか、と問うた。三度言われてもなおらなかった、とも。
 すなわち、カラ松は怪我をしても、自前の丈夫さを過信し、放置する癖があるということ。そして、再三の注意を受けてもなお、手当てをしようとしていなかったことが察せられた。

 そんな次男の怪我をしっかりと手当てしてくれる三男がいる。
 秘められた暴力性をよく理解し、事前に止めるべく手を打ってくれる兄弟達がいる。
 彼ら六つ子に、上だの下だの言うのは野暮というものだったらしい全員横並び。一列に並んで立っているのだ。

「そっか。
 ごめんね」

 松野家兄弟に対する誤解に気づいた梅谷は、素直に謝罪を口にした。
 責めたてるような言葉を放つ直前だったとはいえ、おそ松がそれに気づいていないはずがない。

「別にいいよ。
 オレ達もちょーっとやりすぎちゃう時もあるし」

 酷い目を見るのはカラ松だけの役割ではない。パチンコに勝った兄弟が市中引き回しの刑にあうこともあれば、誰かの失敗や、やらかしを押し付けあうことなどしょっちゅうだ。
 しかし、その頻度を考えたとき、カラ松がその位置に割り振られる場合が多い、というのは、些か否定しにくい事実だったりする。
 カラ松が最底辺にいるからではなく、彼の性格と運の悪さが原因ではあるのだけれども。

「というか手、大丈夫?
 何だかんだ言って、おそ松兄さんも大概馬鹿力だから」

 トド松が心配そうに竹田の腕を見る。
 幸い、長袖を着ているので人目にはつかないが、彼の腕にはおそ松の手の形がくっきりと残っていた。

「ごめんねぇ? ちょっと力加減間違えちゃってさ」
「普通、間違える?
 やだやだ。これだから元喧嘩番長は」
「それ、あんまし人のこと言えないってわかってる?
 お前も結構、悪評たってたじゃん」

 二人の会話に、竹田は隠し切れぬ苦味を表情に出してしまう。
 腕の痛みから考察するに、元、は余計な単語だ。昔取った杵柄だと言い張るには、腕を潰さんばかりに込められた力は強く、また、人の壊し方をよく理解している者のそれだった。
 口にしてしまえばテレビ的に問題になりかねないうえ、おそ松の評判を落とすことになる。友人とは手と手を取り合い、上を目指したいと願っている竹田は静かに思いを飲み込んだ。

「六つ子に生まれたよ〜」
「あいあい」

 やいやいとおそ松達がやり取りをする中、屋根の上からギターの音と共に歌声が聞こえてきた。二つの声と一つの楽器が奏でる歌は、竹田や梅谷が知るどの曲とも違っている。
 彼らにしか歌えぬ曲だ。

「カラ松さんと十四松さん?」

 梅谷は窓から顔を出し、屋根を見上げる。
 十四松の姿は見えなかったけれど、足を組んで屋根に座っているらしいカラ松の足だけは目視することができた。

「あいつら歌、好きなんだよねぇ」
「よくあの曲弾いてるよ。
 ご近所さんに見られると恥ずかしいからやめて欲しいんだけどね〜」

 憎まれ口を叩いているトド松だが、言葉に反してカラ松達を止めるような動きは見せない。聞き入っているようにも見えないけれど、兄達が奏でる歌を気に入っているのだろうことがわかる。
 自分達のために作られた、自分達にしか向くことのないメロディーと歌詞。
 そこに含まれた甘露を竹田達は知ることができない。

 だが、想像ならばできる。
 舌の上でとろけるような、それこそ、周囲の目を無視していられるほどの甘さと依存。

「……良い歌ですね」
「そーお?
 ま、あらアイツらに言ってやってよ。たぶん喜んで三時間くらいライブしてくれるよ」
「それはいらないです」
「だよなー」

 茶化すような物言いだったが、弟達が褒められて悪い気はしないのだろう。おそ松の顔は穏やかな笑みを浮かべている。その、兄としての表情は、ここにきていなければ見ることのできなかったものだ。
 今までのおそ松のようなカリスマ性はかすんでしまったけれど、それを惜しいとは思わなくなっている。それどころか、クズで馬鹿な彼の方が良いとすら思えてしまうのだ。
 横並びであるはずなのに、少しだけ五人よりも見通しが良いところに立っている長男様にはそれだけの魅力があった。

「なあ、この本棚ってどれが誰の何だ?」

 竹田が横並びにされている本棚を指差して問う。
 おそ松がこちらの話を聞いてくれているこの瞬間を逃すわけにはいかなかった。悲しいかな、彼が兄弟との会話に夢中になれば、第三者であるスタッフや竹田達の声は届かないことの方が多い。

 ありのままの彼らでも充分に面白く、素晴らしいものが撮れるが、仕事と役割はまっとうせねばなるまい。視聴者の中には、梅谷や竹田のファンもいるのだ。
 ゲストと対話し、番組の流れを握る必要がある。そのためには、わずかな隙を見つけ、声をねじ込むのが最良の方法だった。

「一番でっかいのがチョロ松。中くらいのが一松で、ちっせぇのがトド松」
「ボクと一松兄さんは資料とか入れるのに使ってるけど、チョロ松兄さんのは無駄な本が多いよねぇ。
 自己啓発とか買っただけで読んでないマナーの本とか」
「ちなみにエロ本はその本棚の上から二段目の奥に隠してるぞ」
「うっわ。おそ松兄さん、まだ兄弟のそういうの把握してるの?」

 トド松は心底嫌そうな顔をしてみせる。当然だ。性に関する部分など、プライベート中のプライベート。肉親に知られて良い気がするはずがない。
 だが、それを聞かされている梅谷達の方はどのような顔をすればいいのだろうか。

 エロ本のくだりさえなければ、チョロ松の所有する本について色々ツッコミを入れることもできただろうに、話題の全てをおそ松の暴露が持っていってしまった。
 彼は番組側に主導権を渡すつもりがないらしい。

「長男だからな」
「それ何の言い訳にもなってないからね!」
「……ちなみに、他の弟のエロ本の場所も把握してるのか?」

 やけくそ気味にとんでもないことを問うたのは竹田だった。
 ギョッとした顔でスタッフや梅谷が彼を見る。
 別段、性欲のなさを売りにしているわけではないが、だからといって、その色をわざわざ曝け出すようなキャラでもない。半分アイドルのような存在である竹田にとって、色恋や性の臭いというのは邪魔にしかならないのだ。

 上手く使えば、女性人気を維持したまま男性人気を獲得することも可能だが、それは事務所や周囲とよくよく相談した上で決行されるべきこと。
 こんなところで、気まぐれに放たれるべきではなかった。

「もっちろん!」

 しかし、竹田の行動が幸をそうした。
 おそ松は楽しげに笑い、弟達が隠し持つエロ本の在り処を口にしていく。流石に、トド松は自身の隠し場所を言わせまいと抵抗したが、長男に勝てるはずもなく、あっけなく押入れの奥をバラされてしまう。
 揚々と語るおそ松の意識は、隣にいる弟半分、目の前にいる竹田半分に注がれる。会話の端をしっかりと握り締めることに成功した。

「エロ本なおしてる場所に、何だこれ? 自意識との付き合い方?
 よくこんなもん置けるな。オレだったら毎回萎えるわ」
「チョロ松はオレ達の中では常識人気取ってるから、ポーズだけでもとっておきたいんだろうねぇ」
「ぶっちゃけ、おそ松兄さんの相棒やってた時点で常識人とはいえないけどね〜」

 竹田は手にとった本をパラパラとめくる。
 中身はよくある自己啓発本で、心の静め方や、自分の見つめなおし方、それらをこなすことによって得られるメリットについてイラストつきで解説されていた。

 少なくとも、竹田と梅谷が見たチョロ松に、このような本が必要とは思えない。
 自信満々という風には見えなかったけれど、特別メンタルが弱いようにも、感情的なようにも見えなかった。むしろ、兄弟達をまとめようと懸命になっているしっかり者、という印象が強い。
 何より、庭先で見せてもらったダンス。あのような素晴らしい表現ができる人間が周囲の目を気にしている姿が想像できなかった。

 芸能界に身を置いている人間だからこそ、竹田も梅谷も、第三者の目というのがいかに節穴かをよく知っているのだ。
 ファンはよく見ている。しかし、結局のところ、人間の本質的な部分まで見透かしてくるような人間は極一部しかいない。表面だけを見て、適当なことを言っている人間に心の一部分を割り振ってやる必要がどこにある。
 無駄に傷つき、この世界から転落していく人間の何と多いことか。

「常識人気取ってるって言うけど、そんなに変な人なの?」

 『自意識との付き合い方』を覗き込みながら、梅谷が問いかける。

「変っていうか、ふっつーにクズだよ。
 おそ松兄さんと一緒。小さい頃は相棒として二人で好き放題してたし」
「好き放題してたのは全員だけどな。
 お前もカラ松とよく色々してたじゃん」

 そう言うや否や、おそ松は何か思いついたらしく、ソファの後ろにある押入れを開けた。
 二段に分かれている押入れの上部分には敷布団。下には服や小物の入った引き出しがごちゃごちゃと並べられている。下段に関しては、それぞれの引き出しがあるらしく、綺麗に六色が揃っていた。

「じゃじゃーん」

 効果音と共におそ松が引っ張り出してきたのは、一冊の本。表紙には『思い出』と書かれており、それがアルバムであることが察せられた。

「何々?」

 梅谷が近づくと、おそ松は適当なページを開いてくれる。
 中身は予想通り、家族写真のようなものがいくつか貼り付けられていた。

「……そっくり」

 思わず零れた言葉は、あまりにも率直な感想だ。
 アルバムの中にある写真達に写っているのは、かなり幼い顔をした六つ子だった。今のような色違いで個性のある着まわしをしている服ではなく、まったく同じ色、同じ形、同じ着かたをした、見分けのつかない六人。
 個性も何もあったものではない。
 誰が誰でも同じ。誰をおそ松と呼ぼうとも、カラ松と呼ぼうとも、大差はなさそうだ。

「だろ?
 オレ達がこうやって個性出し始めたのって中学生になってからだからさぁ」

 ページがめくられる。
 そこにいるのもやはり見分けのつかない六人だ。

「これ見てよ。
 弟のおやつまで食べて怒られるチョロ松――に役を押し付けられたトド松」

 指差された一枚の写真には、「もうしません」という札を首から下げ、玄関前で正座させられている男の子の姿がある。アルバムを見る竹田、梅谷の目ではその男の子が誰なのか判別がつかない。

「あー、それ覚えてる。
 その頃は母さん達もボクらのこと見分けられなかったから、いっくらボクはトド松だよ! って言っても信じてもらえなかったんだよねぇ……」

 言われてみれば、写真の中にいる男の子は、どこか不服そうに見える。おそらく、冤罪であることを認めてもらえなかった、という思いが態度に出ているのだろう。

「何でおそ松はそのことを知ってるんだ?」
「聞いたし見てたからねー。
 チョロ松と一緒になって、トド松のこと指差して笑ってたよ」
「酷い……」

 六つ子ともなれば、写真の中にいる瓜六つの区別もつくのだろうか、という考えで問いかけた竹田だったのだが、真相は予想よりもずっと酷いものだった。
 へらへらと笑いながら告げられた正解は、梅谷の眉を下げさせるだけの効果を持つ。

 しかし、過去、被害にあっていたはずのトド松は、口先で文句を言うばかりで、平然とした様子だった。いつものこと、と諦めているようにも見えない。
 魚が泳ぐように、鳥が飛ぶように、人が息を吸うように、特別な何かを感じさせるようなことではない、とでも言いたげな態度なのだ。

「別に酷くねぇよ?
 全員が同じようなことしてたしな」
「頻度は明らかにおそ松兄さんとチョロ松兄さんがダントツだったけどね」

 半目でおそ松を見るトド松だが、そこに怒りはない。一抹の呆れと、昔を懐かしむ色があるばかりだ。

「結構、やんちゃだったんだな」
「いやいや、結構なんて言葉じゃすまないレベルだったからね?」

 竹田がしみじみ言うと、トド松が凄まじい勢いで否定してくる。
 幼い頃のおそ松どころか、本当のおそ松自体を今日知ったばかりの竹田達からしてみれば、カリスマレジェンドが本当はギャンブル癖のあるクズで、なおかつ昔はやんちゃだった、という事実だけでいっぱいいっぱいなのだ。結構レベルですませておいてもらいたい。

 本来ならば、ここで昔はどうだった、という話の膨らませ方をするのがセオリーだろう。しかし、竹田と梅谷にその勇気はない。王道に乗せたが最後、おそ松の口からどんな事実が飛び出してくるのか。想像しただけで恐ろしい。
 芸能生活で培われた作り笑顔を貼り付けて、二人は別の話題を提供すべく部屋を素早く見渡す。

「そういえば、押入れにあった引き出しには何入れてんだ?」

 記憶の中から問いかけに相応しい物を見つけ出すことに成功した竹田が押入れを指差した。番組的には、六人全員分とまではいわないが、この場にいるおそ松とトド松の私物くらいは撮っておきたいところだ。
 常識外れの彼らとて、小さな引き出しに入るような私物は常識の範囲内の物が入っているだろうことだけが強く願われる。

「えー。オレ、最近使ってないから、何入れてるか忘れちゃった」
「ボクのはアクセとか日焼け止めとかだよ」

 アルバムをソファの上に置き、おそ松が押入れへと向かう。
 そして、赤色の小さな引き出しに手をかけると、何の躊躇いもなく引き開けた。

「マーク入れるのが面倒になった宝くじでしょー、花札にぃ、昔十四松が拾ってきたヘビの抜け殻……。
 おっ、居酒屋の割引券あるじゃん! ラッキー!」
「うわ、おそ松兄さんの引き出しきったな。
 もう少し小まめに整理しなよ」

 トド松が顔を顰めるのも無理はない。
 開けられた赤い引き出しの中には、様々な物が全く整理されずに放り込まれていたのだ。適当に上から放り込んでいっただけであることを示すように、古びた割引券は引き出しの一番下に押し込められていた。
 中に入っている品々も、無記入の宝くじや花札ならばまだ使いようもあるけれど、ドロドロに溶けた飴やビールの王冠など、ゴミにしかならないような物も多い。

 おそ松の生活空間が清潔に保たれているのは、一重に母や兄弟の力によるものなのだろう。素の様子を見るからに整理整頓が不得意そうではあったけれど、これは想像以上かもしれない、と梅谷はこっそりとため息をつく。読者モデルを通ってきている彼としては、自らの周囲が綺麗に片付いていないというのが耐えられないのだ。

「んだよ。じゃあ、お前のとこはどうなんだよ」
「ボク? ボクはちゃーんと整理してるよ。
 今時は清潔感のある男がモテるしね」

 兄弟の多い家の中で、唯一のプライベート空間である、と言っても過言ではないだろうそこをトド松はあっさりと公開してくれた。おそ松もそうであるが、生まれながらにしてプライベートもくそもないような家庭環境下で育った彼らからしてみれば、何かを隠す場所、などというものは、あってないようなものなのだろう。
 一応は自分だけの場所、という建前があったとしても、同じ屋根の下にある以上、誰かが勝手に触れることは容易なのだ。故に、彼らにとって、自分の私物を晒すという行為は、さして抵抗があるような行為ではないように見えた。

 かくして開かれたトド松の引き出しの中は、おそ松のそれとは違い綺麗に整頓された空間であった。
 イヤリングや指輪、ネックレス、ブレスレット。そういったアクセサリー類がきちんと分けられており、見る者の目をも楽しませる。さらに、空いた空間には香水が少し。そして、鍵が二つ。

「これって何の鍵?」
「個人契約してるロッカーの鍵だよ」
「は? 何それ。
 聞いてないんだけど」
「言ってないからね」
「何で?」

 梅谷の質問が、思いもよらぬ事態を引き起こす。
 あっさりと答えたトド松に対し、おそ松は目を丸くしていた。初耳、という言葉が顔いっぱいに書かれている。だが、トド松も別段、隠そうとしていたわけではないらしく、キョトリ、とした顔をして言っていなかった、という事実を素直に認めた。

 納得がいかないのはおそ松だ。
 長男であることを厭うこと多々あれど、弟達のことは全て把握しておきたい。その上で、頂点に立つのならば、まあやってやってもいい、と思っている。
 だというのに、あろうことか、その弟が長男である自分の意思に反するとは何事か。

 第一、自分達は六つ子の兄弟だ。オレがあいつでオレ達はオレ。隠し事を作る必要などなく、また、できるはずもないのが当然なのではないのか。
 かつて、兄弟そろってニートをしていた頃も、似たようなことがあった。その時、トド松は言っていたはずだ。もう何も隠さない、全て話す、と。事が収束した後、何も報告しなくてよい、と言ったのは三男であり、長男ではない。ならば、長男である自分には報告を入れるのが筋だろう。

 そんな、あまりにも自分勝手で、どうしようもない怒りが腹の底からせぐり上がってくる。

「いや言えよ! 何一人だけロッカーとか契約してんの?
 何入れてんの?」
「しょっちゅうは使わないアクセとか香水とか、あと……」
「あ! コイツ目ェそらした!
 お前、金入れてるだろ! 通帳か?! 現金か?! まさかカードじゃねーだろうなぁ!」
「や、やだなぁ。そんなわけないじゃん!」
「その澄んだ目やめろ! いくら澄んだ目してみせても、顔にしっかり書いてあんだよ!」

 真っ直ぐにおそ松を見つめる目は、一見すると透明に澄んでおり、隠し事など何もないように思える。しかし、六つ子の長男として、末弟のことをよくよく知っているおそ松の目は誤魔化せない。
 目の傍ら、こめかみから頬にかけて、そこには大きな字で「金を隠し持っています」と書かれていた。

 兄弟全員が職につき、金銭を得られるようになった今、かつてのように兄弟の金に手をつける者は殆どいなくなった。全く、といえないのは、急な出費や思いつきで手を伸ばすことがあるからである。
 ちなみに、この件は兄弟の誰が、というわけではなく、兄弟全員が持っている要素だ。

 その額は時として十万を優に超える。
 ニート時代であれば、盗られても野口が数枚であったが、今は元々の所持金額からして違っているのだ。抜き取られる額が比例して増大するのも当然のこと。
 一軒屋や高級家具には興味のない六つ子だが、趣味嗜好の類には糸目をつけない傾向にある。特に、上から三人はその傾向が非常に強い。ギャンブルにファッションにアイドル。散財のしようならばいくらでも。

 弟に舐められている節があり、それを受け止める自身によっているカラ松は、滅多なことでは弟の金に手をつけるようなマネはしない。だが、残りの長男三男は違う。
 大っぴらにクズを展開させているおそ松はまだしも、常識人を気取っているチョロ松まであっさりと弟達の金に手をつけるのだ。そのことを被害者が責め立てたとて、飄々とかわしてしまう長男と、無茶苦茶な理論を積み重ねてくる三男では怒りの発散さえできやしない。
 結果、二人の間に挟まれているカラ松が八つ当たりの対象となってしまうのは、悲しいけれども自然な流れであった。

「警察だ! 隠し事警察を出動させる!」
「呼んだ?」
「はっや!」

 謎の単語をおそ松が発した瞬間、部屋の前にチョロ松が現れる。それも警察官のコスプレをして、だ。

「相方は?」
「まだ帰ってきてない。
 それより――」

 チョロ松はトド松を見た。
 ニタリ、と酷く歪な笑みを浮かべて。

「――何があったのかなぁ?」
「ひぃっ!」

 怯え、肩を揺らしたトド松は、盾を求めて竹田の後ろへと下がる。勿論、手の中には件の鍵を握り締めて。
 たった数歩分の距離ではあるが、心の平穏を保つためには必要な距離だった。

 状況に困惑を見せたのはトド松とチョロ松の間に挟まれる形となってしまった竹田だ。
 おそ松が何を言っているのかわからず、ただただトド松が怯えているという事実しか理解できない。周囲も同じようなもので、なにやらトド松がピンチらしい、ということだけしかわからない。

「ちょっと、どうしたんですか。
 落ち着いてください」

 梅谷が仲裁役を買って出る。
 一先ず、加害者になろうとしている人物を止めるべきだ、と判断し、チョロ松へと歩み寄った。その間、三男は抵抗する様子も見せず、じっと竹田の後ろにいるトド松を見ていた。

「どうした、ブラザー」
「何かあったんッスか?」

 屋根からベランダへ降り立ったらしい二人が顔を出す。騒ぎを聞きつけてやってきた様にも見えるが、それにしては焦った様子が見られない。
 口元には笑みを浮かべ、あたかも、微笑ましい兄弟模様を眺めているようだった。

「末っ子がオレら秘密作ってたんだよー。
 酷くない? しかも、金を隠し持ってるっぽいんだよねぇ」

 金を隠すのは当然だ。しかし、そのありかを気取られてはいけない。察知されたが最後、隠している、という事実を含めて、それは罪となる。
 それが六つ子間における暗黙のルールだ。

「ほぅ?」

 自ら弟の金に手をつけはしないカラ松だが、他の兄弟と共に、ということであれば、喜んで強奪に参加するし、必要であるならば暴力を振るうことさえ厭わない。クズの中に生まれた彼が心優しいだけの男であるはずがなかった。
 唯一の弟として、普段トド松を可愛がっている十四松も同じだ。誰かと、であれば末っ子を脅迫する悪い兄にあっさりと変貌してみせる。

「トドまぁつ? ほら、話してごらん?
 お前のシークレットゾーンには、いくら入っているのか」
「トッティ! 隠し事はなしでっせ!」

 四対一。圧倒的不利な戦況に立たされたトド松は、脳の中でこの危機を脱出する算段をたて始める。少なくとも、もう一人、やるとなれば長男三男に次いでえげつない四男が帰宅する前に全てを終わらせなければならない。
 でなければ、いつかのように市中引き回し、もしくは貼り付け獄門。何にせよ、碌な目にはあわないのだから。

「おいおい、お前ら弟を虐めんなよ」
「竹田ぁ。ちょーっとそこどいてくんない?」
「おそ松さん、落ち着いてくださいよ。
 トド松さんが怯えてるじゃないですか」

 二人がかりでおそ松達を説得にかかる。さりげなく、スタッフ達はトド松を守るようにして動き始めた。
 兄弟間での出来事とはいえ、これは犯罪行為だ。善良なる市民として、被害者を守らなければならないし、今まで世話になってきたタレントが獄中にぶち込まれるような事態は未然に阻止すべきだ。
 だが、おそ松はそれが気に喰わないらしい。
 目を鋭く光らせ、威嚇の態勢をとる。

「うわーん! 助けてー!」
「あざとい真似してんじゃねーぞ!」
「オレ達にはバレバレだぞトッティ!」

 渾身の演技で助けを求めるトド松。
 共に同じ時間を過ごしてきた兄弟達にはバレバレで、よくよく観察すれば素人目にも演技であることを見抜くのは容易い。しかし、今は状況が状況だ。
 冷静にトド松を観察できるような者はおらず、スタッフ一同に加え、梅谷達はあっさりと騙されてしまう。

 改めて守りを固めようとする動きを見せ、兄達の顔はよりいっそ恐ろしく歪む。
 騙した者への怒りか、騙された者への怒りか。
 どちらでも同じだった。矛先は一寸足りともブレはしない。

「一松!」

 チョロ松が叫んだ。
 この場にはいないはずの弟の名を。

 その時、トド松を守るため、彼の背後に陣取っていたスタッフの肩に軽く衝撃が走った。何か、とてつもなく軽いものがあったたような感覚。
 一度、反射的に肩を見て、何もないことを知る。疑問を抱えたまま、再び正面を向き、彼は気づく。
 そこに、先ほどまではいなかった者がいることに。

 紫のつなぎが見えた。
 それがトド松に覆いかぶさり、すぐさま竹田の肩を乗り越え、おそ松達側へと着地する。

「こんなゴミクズ、だぁれも気づきませんよね」

 半目をさらに細め、歯を見せて笑う彼の指先には、トド松が持っていたはずの鍵があった。
 チャリ、と音をたて、鍵が部屋中の証明を反射して光る。

「よくやった一松!」
「お前はできる子だな!」
「今夜は寿司食おうぜ!」
「やったー!」
「っざけんなよ!」

 何時の間にやら帰ってきていた一松の活躍により、見事ロッカーの鍵は奪取されてしまった。はしゃぐ兄弟達を目の当たりにし、トド松もついつい荒っぽい口調になってしまう。
 見つかってしまった時点である程度は諦めているものの、だからといって黙って貯金が消えていくのを見ていられるはずがない。
 盾として使っていた竹田を押しのけ、トド松は兄弟達のもとへと歩いていく。

「それボクのだからね!」
「知ってる」
「兄さん達だって、お寿司でも焼肉でも充分食べられるだけの収入があるのに、何で他人のお金狙うかなぁ?」
「それブーメランだってわかってる?
 オレ、お前がこの間、カラ松の財布から三枚抜いたの知ってかんね?」
「えっ?」
「カラ松兄さんはいいの!」
「えっ?」

 トド松が鍵を奪おうとすると、兄弟達は次々に鍵を投げて回す。いじめっ子といじめられっ子の構図ではあるが、不思議とそこに悲壮さはない。被害者側のトド松が非常に強気なのが原因かもしれない。
 本人も元加害者であることが証言から判明しているため、同情心すらもう湧いてこないほどだ。

「それにしても、一松さんすっごいですね」
「え?」

 スタッフの一人が言う。
 曰く、一松はトド松の背後にいた人間の肩を蹴る形で跳躍し、鍵の奪取に向かったらしい。だが、踏み台にされた人間は倒れることなく、むしろ、何が起こったのかさえ気づいていなかった。
 体の使い方をよくよく知っている人間だからこそ出来る芸当だ。

「小説家にしとくのは勿体無いなぁ」

 鍛えていない状態であの身体能力を有しているのならば、スポーツ選手としてでも活躍することができただろう。種目によってはオリンピック選手になることだって夢ではなかったはずだ。
 それがどう間違えれば元ニートの小説家になるというのだろうか。
 世界とは上手くできていないものである。

「ねぇ、夜はクソ長男の奢りなわけだし、昼はトッティに奢ってもらおうよ」

 散々口喧嘩を繰り広げていたチョロ松が提案する。
 夜の確定事項が忘れ去られていなかったことに対し、おそ松は苦い顔をしたが、他の兄弟達の顔は明るい。

「いいねぇ!」
「えー、何で……」
「これ、返してほしくないの?」
「ほしい!」

 チョロ松が見せ付けるようにしていた鍵にトド松が手を伸ばすが、さっと引っ込められた鍵は一松の手に渡る。

「ほしい〜?
 なら、相応の対価がいるよねぇ〜?」

 悪い顔をした一松がトド松を煽る。
 返して欲しくば、昼食を奢るといえ、と。

「い、言ったら、返してくれるの……?」
「勿論。ほらぁ、さっさと言ってみろよ」

 六人分の昼食代とロッカーに保管してある諸々の金銭。天秤に乗せる必要すらない。どちらの方が重い比重を持っているのかは誰もが知っている。
 その上で、兄達はトド松に奢る道を提示してみせた。

 金を欲していないわけではない。今までのやり取りがただのプロレスだったわけでもなければ、テレビを気にして作った道でもない。
 単純に、ロッカーを探し出すのが面倒だったのだ。

 鍵は奪い取った。これでトド松は自身の金を得ることができない。それはいい。とても楽しいことだった。しかし、彼の金を自分達が得るのは非常に難しい。これはよくないことだ。
 金を得るには手の内にある鍵がどこのロッカーのものなのかを知る必要があった。生憎、鍵自体にそれを示す刻印はなく、珍しい形状をしているわけでもない。

 赤塚区の何処かにある、と断定できるのであれば五人で総当りもできたかもしれないが、ドライモンスターことトド松だ。赤塚区から離れた場所のロッカーを使用している可能性は非常に高い。ニートを脱し、ツテや手段が増えたおそ松達とて、できることとできないこと、というのが確かに存在しているのだ。

 いつ手にできるかわからぬ大金と、すぐに得られる昼食。
 彼らの天秤は容易いほうへと傾いた。

「昼食、奢るから……」
「あ〜? 聞こえねぇなぁ!」
「昼食! 奢るから!」
「もっと! 懇願するようにぃ!」
「昼食を、奢らせていただきますからぁ!」
「哀れっぽく!」
「ちゅ、昼食を、おごらせて、いただきますからぁ!」
「アッハァー! いいぞ! なら、飯の後、返してやるよぉ!」
「いや何これ。地獄絵図なんだけど!
 お前ら見ろ! スタッフさん達の顔!」
「いまさらだねー」

 ツッコミを入れるにはあまりにも遅すぎた。
 スタッフの顔色を見るのであれば、警察のコスプレをしてきた時点から見ていて欲しかったし、トド松と一松が謎のSMプレイに興じてすぐ止めてほしかった。
 最終的に、トド松は一松の腰に縋りつき、目尻から涙まで流していたのだ。ゴールデンタイムのお茶の間に流していい映像であったか否かは中々に悩ましいところである。

「んじゃ、飯食おうぜ。
 もう、結構な時間じゃね?」

 おそ松に言われ、竹田が腕時計を確認すると、確かに時刻は十二時半を過ぎていた。昼食をとるには違和感のない時間であるが、竹田や梅谷の記憶が正しければ、六つ子はつい数時間ほど前に朝食を食べていたのではなかったか。
 腹ごなしというには充分すぎるほどの暴れっぷりを見せ付けられてはいたが、腑に落ちない気持ちになってしまう。

「何処行くの?
 言っとくけど、焼肉とかお寿司とかはなしだからね!」
「ならば、大空に羽ばたくことを禁じられ、金色の衣をまとった――」
「何言ってかわかんねーから却下で」
「えっ」

 カラ松は数度、視線を彷徨わせた後、小さな声でからあげが食べたい、と告げた。

「からあげ?
 ……なら、赤塚酒場いく?」

 元相棒として、一抹の優しさが働いたらしいトド松は、カラ松の小さな声を拾い上げる。
 近場でからあげが美味しい店といえば、六つ子がニート時代から世話になっている赤塚酒場だ。真っ昼間から営業しているその店は、長い時間をかけ、酒も飲める定食屋としての色を強めつつある。夕方からならばともかく、お天道様が高い位置にある時間帯から営業していると、どうしても学生や主婦のたまり場になってしまうのだ。

「いいねー。
 すぐそこだし、酒も飲めるし!」
「お前は仕事中だろうが!」

 酒酒、と体を揺らすおそ松をチョロ松が引っ叩く。昼間から飲むことについては苦言を呈するはずもない。彼はその昔、ニートをしていた頃、酒を入れてから面接に行こうとしたつわものなのだから。

「じゃあ移動するよー」

 叩かれ、じんじんと痛む頭を抑えながら、おそ松が先頭に立つ。いつもは下の五人を率いるのみだが、今回はその他大勢の人間も彼の後に続かせる。
 自分というアイデンティティーを確立させるため、他人より色濃い個性を身につけた次男以下五人に比べれば、竹田や梅谷、スタッフ一同という人数をまとめるのは苦でもなんでもない。
 演技とはいえ、カリスマレジェンドをやれていたのはこういった技術と経験あってこそだったのだろう。

 ぞろぞろと人数を引き連れて歩くこと数分。六つ子に主導権を握られながらも、竹田達はどうには会話をこなしていた。おそ松は勿論のこと、兄弟達も謎多き人物ばかりだ。質問はいくつあっても足りない。

「みなさん、休日は何をしているんですか?」
「本を読んだり、体作りをしたりしてますよ」
「ボクは美術館に行ったり、ネットサーフィンをしたりしてます」
「あと、囲碁とか山登りとかでしょ」
「一松兄さんは黙ってて」

 意外なことに、トド松は渋い趣味を持っているようだ。低く引きつった笑いと共に提供された答えではあったが、ギャップという面では良い味を出している。
 若者の流行を担っているブランド主が持つ趣味、ということで、囲碁などにも改めてスポットライトが当たる機会にもなるだろう。

「オレは美の追求を――」
「カラ松兄さんは釣りと歌!」
「えっ、あ、あぁ……。
 そうだな。セイレーンの歌声を――」
「はいはい」

 一度目は十四松によって遮られ、二度目はおそ松によって言葉が途切れる。痛々しい言い回しであることは確かであるが、最後まで聞いてやってもいいのではないかと梅谷は思う。しかし、その直後、これが毎日のことだとすれば、途中で終わらせたくなる気持ちもわからないでもない。呆れにも似た感想を抱くこととなった。

「しっかし、最近、おにーちゃんはお前達が何してるかぜんっぜん知らないよー」

 眉を下げ、悲しげにおそ松が言う。
 売れっ子である彼だ。帰宅し、休みを満喫するというのは非常に難しいことだった。絶頂期に比べれば拘束時間が減少したのだが、丸一日の休みは厳しい。

「…………ハッ」

 目蓋を半分降ろし、カラ松が笑う。

「んだよぉ」
「いや、よく言う、と思ってな」
「確かに」
「うんうん」
「言えてるー」
「どの口が」

 弟からは非難轟々だ。未だに弟の隠しエロ本の場所を把握し、行動や秘密の全てを暴こうとする男が何を言っているのだ、と。梅谷らも若干の困惑はあったものの、おそ松の本性を知ってからわずか数時間。彼が兄弟に対して執着を持っていることは理解できていたため、口を挟むことはしない。
 どちらに味方しても面倒にはるのは目に見えている。

「なんだよー。お前ら!
 十四松とオレはなっかなか家に帰れないんだぞ!」

 他の四人は家からの出勤、もしくは在宅ワークが可能な職種だ。休みが不定期であるため、日がな一日共にいるというわけにはいかずとも、朝食と就寝くらいは一緒に行えていることが多い。

「おそ松兄さんの本当の姿がテレビに出たら、すぐ仕事干されるから安心したら?」
「それでもいいんだけどさぁ」
「おい」

 思わずツッコミを入れたのは竹田だ。
 人々の憧れの的である彼が、煌びやかな世界をあっさり捨てるような発言はやめてほしい。自身達は夢を売る仕事をしているのだ。面倒になったら丸めて捨てて、あっさりと放り投げることなどできないほど、この世界は重い。そう、信じているというのに。

「あ、あそこがオレ達の行ってる銭湯ね」

 おそ松は話を切り上げ、昔ながらの銭湯を指差す。
 先ほどまでの言葉の何処までが本気で、何処までが冗談だったのか。あるいは、中途半端なことは言わず、一から十まで真か偽かで染まっているのか。わかっているのは彼ら六つ子だけだ。

「まだ閉まってますね」
「昼だからな。
 夕方くらいになったら開くよ」

 正面入り口には、午後四時から午後十時まで、という張り紙がされている。出来ることならば取材をしてみたかったのだが、営業時間外に突撃するというのは問題がある。前もってアポをとっているのであればともかく今日頼んで今というのはまったくもってよろしくない。

「全員で銭湯に行くの、久しぶり」

 心なしか嬉しそうな声で一松が言う。
 兄弟が全員揃っていない生活を寂しく思っているのはおそ松だけではないのだ。

「だな」

 兄弟が仕事を始めていく中で、最も就職が遅かったのは一松だ。一歩を踏み出すことを恐れ、兄弟の離別を恐れ、それでも頑張ってここまでやってきた弟の嬉しそうな表情に、おそ松は目元を緩める。
 優しく頭を撫で、幸福感を共有するべく、大きく声を上げた。

「よし、んじゃ、今日は久々にちんこあてクイズでも――」
「うぉおい!
 何言ってんだ! この馬鹿! ボケ!」

 即座に飛んできたのは、何処から出してきたのかもわからぬハリセンだ。
 チョロ松のツッコミと共にやってきた衝撃は、音の割りにおそ松の脳へダメージを与えない。

「何々ぃ。
 どったのチョロちゃん」
「何、じゃねーよ!!
 テレビ! これ! テレビ!
 あ、カメラさん、ここカットで。もしくはピー音で」

 ゴールデンタイムに放送される番組だ。タレントが口にしているシーンをそのまま流すことはできない。その単語をお茶の間に流して許されるのは、某国民的五歳児くらいのものだろう。

「……ち?
 え、何だって?」

 竹田は目を丸くしたまま言葉を発する。
 あまりにもこの場に不釣合いな単語に、脳が思考を停止してしまっていた。よく知っているおそ松と、今の彼が違っていることはもう受け入れ済みだと考えていたのだが、どうやらまだまだ甘かったらしい。
 あのおそ松が、という感情がどうしても溢れ出る。

「だから、ちん――」
「やめろって言ってるだろ!」

 再度それを口にしようとしたところで、再びチョロ松のツッコミが入った。二度目ということもあってか、今回はハリセンではなくアッパーカットが見事に決まっていた。

「まあ落ち着け、チョロ松。
 次はお前も出題者側に回ればいい」
「そうじゃないんだけど?
 回答者なのが不服なんじゃないんだけど!」

 大ボケは長男だけではない。優しくチョロ松の肩を叩いたカラ松も長男に負けず劣らずのクズで馬鹿だ。格好をつけた言動を好むわりに、下ネタや全裸というものに抵抗がなく、ちんこあてクイズなる邪悪な催しにも肯定的な様子を見せている。
 トド松は付き合いとして、残った四男、五男は兄弟と遊ぶのがただただ楽しいのだろう。
 ツッコミを受けて地面に付しているおそ松を横目に、次は誰が回答者になるのだろうかと議論を重ねていた。

「あの、もしかしてなんですけど、それって言葉のままの?」
「馬鹿だよねぇ。いい歳してさぁ」

 震える声の問い掛けに、トド松は遠まわしな是を返す。ついでに、自分だけは他と違うとアピールすることも忘れない。実際はノリノリで出題者側に回っていたとしても、普段を知らぬ梅谷達がそのことを知ることはできないのだから。

「えぇ……。
 マジかよお前」

 地面とのキスから立ち直ったおそ松へ竹田が賞賛にも似た声を投げかける。
 普通の神経ではできないことを彼はやってのけているのだ。そうなりたいとは欠片たりとも思わないけれど、ある種の畏怖ならば胸に宿ってしまう。
 人間、どのように生きてくればそこまで振り切ることができるのだろうか。

「そんなに驚くこと?
 脱ぐのって楽しいじゃん」

 服についた汚れを払いながら、おそ松はきょとんとした顔をしてみせる。
 カラスは黒。それに何故疑問を持つのか。そんなことを問うような表情だ。

「いや……。
 う、うーん?」

 わからなくもない。女の裸は性的な興奮をもたらすが、男の裸というのはどうしてだか笑いを誘う。特に同性に対して。
 竹田にも覚えがないわけではないのだが、だからといって自身の男性器を見ず知らずの人間に晒すだろうか。酒が入っている状態ならばまだ可能性はあるかもしれないけれど、話を聞く限りおそ松達は素面のはず。
 曖昧に肯定することは憚られた。

 特に、この会話が全国に放送される可能性を思えば、タレントである竹田や梅谷が発することのできる言葉はない。ヘタに頷いてしまえば、各所からの批難は免れないだろう。
 今時はインターネットを介してちょっとしたことが大火事になりかねない時代だ。石橋を叩きすぎるくらいが丁度良い。

「えー、面白いよな、カラ松」
「オレのビューティフルな肉体美は、パーフェクトなあまり、笑いすら引き出すのさ……!」

 額に手を置き、ポーズをばっちり決めてカラ松は言う。あまりの痛々しさに、おそ松は再び地面と友達になることを余儀なくされた。

「痛い、痛いよーカラ松ぅ。
 いてて、あばら折れちった」
「何? くっ……。
 どうしてオレは人を傷つけてしまうんだ。
 これほどまでにラブとピースを愛しているというのに!」
「あー! やめてぇ〜!
 全部いっちゃうから〜」

 バタバタと地面をもがくおそ松と、その隣で格好をつけながら痛々しい台詞を発するカラ松。カオスが極まったこの空間を地獄と呼ぶか、コントと呼ぶかはその人間の感性と置かれている状況による。
 間近で見せられている竹田達の感想としては、前者に軍配が上がった。

「……行きましょうか」
「オッケー!
 行きまっしょう!」

 肩を落とした梅谷に呼応し、声を出したのは十四松だった。兄弟達の傍らで野次を飛ばし、カウントを取りと忙しそうにしていたのだが、他の人間の存在を忘れたりはしていなかったようだ。

「おそ松兄さん、行くよ」
「おにーちゃん骨折れてて動けなーい。
 いちまつぅ、おんぶしてよー」
「え、無理……」

 あえてカラ松を無視し、長男に声をかけた一松だったが、予想外の応えに返す声が震える。
 成人男性一人を抱えられるほどの力はない。試すまでもない事実だ。おそ松とて一松の長所は柔軟性と身軽さであることをわかっているはずなのに、時にこうした甘えたを見せることがあった。

「放っていくわけにも行かない、か」
「え、チョロ松がおぶってくれるの?」
「一松、右足」
「……わかった」
「無視は酷くない?
 って、あ、ああ、待って待って」

 呆れ声でチョロ松が指示を出せば、一松はすぐさま委細承知したと右足を掴む。その時点でおそ松も次の行動が理解できてしまい、慌てて静止の声をかける。しかし、時すでに遅し。
 残された左足をチョロ松が掴むと、松野家三男四男は息をピッタリあわせて歩き出す。
 二人の力を合わせれば、大人一人を引きずることくらいわけはないのだ。

「いた、いたたた、おい! 痛いって!」

 アスファルトが服を痛めつけ、その内側にある皮膚を、肉を攻撃してくる。
 痛みにおそ松が悲鳴を上げるが、取り合おうとする者は誰もいない。兄弟は勿論のこと、梅谷や竹田、スタッフ一同も見て見ぬふりだ。
 おそ松を嫌っているわけではないのだが、ここで手を貸せばまた兄弟喧嘩が始まり、話が脱線していくのが目に見えている。ならば、あえて無視をすることで、この場を離れることを優先させるのも手というもの。

「銭湯といえば牛乳ってイメージがあるな」
「あるある〜。
 ボクらも飲むよー」

 地面から聞こえてくる声を無きものとし、竹田と十四松が和やかに会話を始める。

「昔はみんなで一つだったんだ。
 いっつもおそ松兄さんがめっちゃ飲む!」
「今考えたらつまんないことで喧嘩してたよねぇ」

 トド松がしみじみとしてしまうのも無理はない。
 今となってはたかが数百円。喧嘩するくらいならば一人一本の購入で済む話だ。

「でも……。
 悪くはなかった、よね」

 軽く目を伏せた一松は過去に思いを馳せる。
 毎日、毎日、見飽きた顔を五つ眺め、馬鹿をやっていた。くだらない喧嘩とコントを繰り広げ、加害者にも被害者にもなった。
 世間様から見れば侮蔑の対象にしか成りえなかったのであろう日々だったが、一松はあの時代に戻りたいと思う瞬間さえあるのだ。

 兄弟がいつも隣にいた。
 同じ場所にみんながいた。

 強い依存心と執着心。
 立派な社会人として生きていくためには、我慢をするか捨て去るかを選ばされる感情だ。一松はなし崩し的に前者を選ばされた。叶うことならば、今すぐにだってニートに逆戻りし、兄弟達と箱庭の世界で暮らすことを選びたい。

「一松」

 進行方向を見たまま、一松の方を少しだって見ることなくチョロ松は言葉を発する。

「コーヒー牛乳とフルーツ牛乳。
 どっちがいい?」
「え?」
「今日、銭湯行ったら飲むでしょ?」

 当たり前のように尋ねられた選択肢の裏にあるのは、優しい兄の思いだ。一本を六人で分け合うという行為は、単純な節約だけが目的ではない。
 幼少期から当たり前のように刷り込まれ、大事に抱えてきた六つ子共通の認識。
 一人は六人であり、六人は一人。
 それを改めて確認するための行為でもあるのだ。

「一松兄さんは寂しがり屋さんだからね。
 たまには付き合ってあげるよ」
「ボクもみんなで分けたインサート!!」
「……お前ら」

 弟達からの言葉に、一松の目じりに水分が浮かぶ。
 家にいる時間が長い彼は、その分、孤独の寂しさも多く抱え込んできた。

「フッ……。
 寂しいときはいつでもこの、カラ松の胸に――」
「うるせぇ。だぁってろ」
「照れ隠しはよくないよ〜」
「ゲッ、いつの間に抜け出してんの」

 気づかぬうちに一松とチョロ松の手から逃れていたおそ松は、からかいの声と共に肩に手を回してくる。鬱陶しいことこの上なく、一松は彼の顔を押しやろうとするが力の差があるためか、本気で引き剥がそうと思っていないためか、二人の距離が開くことはない。

「……まーたオレら無視か」
「しかたないよ」

 竹田と梅谷は六人の様子を一歩引いたところで眺めていた。
 今しがたまで、彼らと並んでいたはずなのに、気づけばいつも後ろにいる。彼らのテンポに追いやられ、自然と輪から外されているのだ。

 そして、一度外れてしまったが最後。
 自然を装って戻ることは難しい。

「仲良きことは美しきかなってね」
「そんな言葉で片付けていいのか、あれは」

 梅谷は肩をすくめる。その是非を決めるのは自分達ではない。世間やファンの人々でもない。
 六つ子、彼ら自身でしかないのだ。


 その後、どうにか会話に無理やり入りこみ、話しているうちに目的の場所にたどり着いた。
 彼らが馴染みにしている酒場は、松野家からそう遠くない位置にある。
 店の概観は、趣があるというのは良すぎる言い方で、率直に言えばボロい。開店して間もないのか、店内に人の姿は見えなかった。

「ここがおそ松の行き着け?」
「そうなるかな。
 日本酒美味いよー。どう? 一杯?」

 あわよくば、自分も一杯ひっかけようという魂胆が見え見えだ。

「駄目ですよ。二人とも。
 まだまだ先は長いんですから」

 梅谷にたしなめられ、おそ松は肩をすくめる。勝算の低さはわかりきっていた。あまり期待もしていなかったのだろう。あっさりと身を引き、笑顔をカメラに向ける。

「ざーんねん! 梅谷ちゃんったらお堅いのねぇ」
「おそ松の頭が軽すぎなんだろ」

 バーン、とカラ松がピストルのジェスチャーをおそ松へ向けて打ち抜いた。言っていることはまともなのだが、行動が伴わない。加えて、兄弟一頭がすっからかんであるカラ松が言っていい言葉でもない。
 おそ松はすぐ下の弟の脳天にチョップをかまし、そのまま店内へと直行していく。

「おじさーん。席空いてる?
 って見りゃわかるか!」

 建てつけの悪い扉を開け、取材許可を取ることもなく堂々と足を踏み入れた。後に続く六つ子達も同様。最後尾にいるカラ松だけが頭を抑えながらの入店だ。

「ほら、みんなも入ってきなよ」

 おそ松が手招きすると、梅谷と竹田が店内へ入る。
 カメラが入るのは、取材の許可が下りてからだ。

「こんにちは。ボク、梅谷和也と申します。
 実は、今、『突撃! あの人のお宅!』という番組の収録中でして――」
「何だ、おそ松! とうとう負けたのか!」

 梅谷が全て言い終わるより先に、店主の豪快な笑い声が店内に響く。外にあるマイクにもその笑い声はしっかりと届いていることだろう。
 愉快ということを前面に押し出す笑い声に、唇を尖らせるのは当然おそ松だ。

「そーだよ。
 ったく。おかげで、晩飯はオレの奢り!
 あー、あー! やだやだ」
「ん? 昼飯を奢るわけじゃないのか」
「それはトド松。あいつ、まーたオレらに隠し事してたんだぜ?
 信じらんねぇよなぁ」

 六つ子は席の案内を待たない。
 特等席に陣取るのだといわんばかりに、迷いなく席についていく。

「ま、お前らがちゃーんと代金を払うようになったわけだし、こちとら誰の奢りでも大歓迎だ」
「おっちゃんったらひどーい!
 とりあえず生六つー!」
「アルコール入れんなつってんだろ!
 おじさん、ウーロン茶六つで」

 おそ松はわぁ、と嘆くフリをしつつも、さりげなく生ビールを頼もうとし、チョロ松に再度叩かれる。店主はそんないつもと少しだけ違った光景に笑いながらも、心得たと厨房へ向かう。
 途中、梅谷達の存在を思い出したらしく、店の外でたむろしているスタッフ達に声をかけた。

「おい、あんたらも入んな。
 何か食べるなら後で聞くから」
「えっと、撮影しててもいいんでしょうか」
「好きにしな」

 店主からの許可を得て、スタッフ達もようやく店内に入る。
 昭和の面持ちを残している店内の壁には、今月のオススメや一押し商品が書かれた紙、アイドルのポスターなどがベタベタと貼り付けられている。レイアウトも何もない配置だが、どこか懐かしさを覚えてしまうスタッフも多い。

「梅谷と竹田も食べたら?
 今ならトド松の奢り!」
「え、流石にそれは……」
「遠慮しちゃってるじゃん。やめてあげなよ」
「とか言いつつ、自分が奢るの嫌なだけでしょ」

 一松の言葉に梅谷も同意する。
 殊勝な態度をとっているようにも見えるが、腹の中では一円でも奢る金額を減らしたいと思っているに違いない。それがわからぬ梅谷ではなかった。
 だからといって、責めるつもりもない。
 兄弟にならばともかく、今日会ったばかりの他人に食事を奢りたくない、という心理はよくわかるし、梅谷や竹田とて会ったばかりの人間に奢られるのは気が引ける。

「自分の分くらい自分で払うって」
「そう? なら別にいいけど。
 ちなみにオススメはこれ。もちじゃがチーズ。うっまいよ」

 チェーン店でありがちな品を指差しながら、おそ松はその頬を緩める。オススメ、というのは嘘ではないらしい。だが、食レポ等々を通じ、日本中の美味い物を口にしてきたといっても過言ではない松野おそ松が、このような食べ物に相好を崩すというのはどういうことなのだろうか。
 
 特別な素材や調理法を用いているのであれば、評判が評判を呼び、何処かしらの局が取材を申し込むはず。しかし、この店を扱った番組に覚えはない。店内を軽く見渡してみても、テレビや雑誌に取り上げられた旨を示すような張り紙も存在しておらず、この場所が極々普通の、特筆すべきところなど何一つない居酒屋であることは明白だった。

「おそ松兄さんは炭水化物好きだからね……。
 ボクは手羽先にしようかな」
「マスター! オレはからあげだ!」
「いつも注文は後でまとめて言えつってるだろ!」

 六杯のウーロン茶を注ぎながら、店主は怒鳴るようにして返す。だが、その声色に怒りはなく、常連客と店主独特の雰囲気がかもし出されるやり取りとなっていた。
 梅谷達もメニューに目を通し、適当なものを選ぶ。

「ここには結構来るの?」
「仕事が忙しいとき以外は割りと。
 赤塚の外で飲むと人目とか気にしないといけなかったからさぁ。本っ当、飲む店が限られてて困ってたんだよね」
「地元でも騒がれることあったんじゃないの?」
「ないない。オレ達、ガキの頃から有名だったし」

 問題としては、あまりにも有名すぎたため、地元の人間からおそ松が六つ子である、という情報が漏れてしまうことの方が懸念される事案だったと言う。
 使える手は全て使い、ゲーム盤を完成させたとはいえ、生ものは御しきれないのが世の常。人の口を全て縫い付けられぬ以上、黙する期間が長ければ長いほど、綻びが大きくなるだろうことは予想されていた。
 このタイミングで決着がついたのは幸いだったのだ。

「決まったのか?」

 店主がウーロン茶とスタッフ一同の飲み物全てテーブルに置き、ようやく注文をとりにくる。

「オレもちじゃがチーズとつくね、釜飯と牛筋煮込みね」
「からあげ定食を頼む」
「サバ煮定食で」
「……手羽先とおにぎり」
「えっとね、えっとね!
 ラーメンとししゃもとハンバーグ!」
「どういう組み合わせ?
 あ、ボクは旬野菜のサラダと麦ご飯、あと鳥の塩焼き」

 六つ子とはいえ、好みは様々。彼らの注文は何一つとして被ることがない。店主は素早い指先の動きで彼ら全員の注文をメモする。殆ど同時に言われているというのに、書き漏らすことがないのは長年に渡って店をやってきたが故の職人芸だ。
 一連の流れに唖然とした表情を見せていた梅谷と竹田は、店主と目が合ってようやく自身の注文を口にすることができた。

「……すごいっすね
 今の全部聞き取れたんっすか」
「慣れだよ、慣れ。
 こいつら、大抵六人揃ってきやがるからな。
 嫌でも慣れるってもんだ」

 嫌味のない笑顔と共に返された言葉は、予想とそう違わない。ただ、先ほどのおそ松の言葉では、一人でも来店しているような雰囲気だったというのに、店主の言葉からは兄弟揃っての来店が多いように感じられた。
 竹田の素朴な疑問に店主は気づくことなく言葉を続けていく。

「昔は同じもんばっか頼んでたってのになぁ。
 六つ分のお好み焼き作らされたり、餃子焼かされたりしたもんだ」
「ボクらが個性出し始めたのって中学二年生くらいのときだったっけ」

 テーブルに肘をつき、トド松は過去を振り返る。
 考えも行動も、姿形も、何もかも六人が横並びであった時代。そして、それが崩れていった時代。
 きっかけが何だったのか、そもそも、何かしらがあったのかすら覚えていないけれど、兄弟は少しずつ変化し、違う個性を獲得した。
 嫌ではなかった。自然な流れだと思った。しかし、少しだけ、寂しくもあった。

「店主さんはおそ松さん達と長い付き合いなんですねぇ」
「長いってもんじゃねーよ。
 こいつらが可愛い六つ子から悪魔の六つ子になって、赤塚の悪魔になるまでずーっと見てたからな」
「ちょっと、これテレビで流れるんだからね!
 変なこと言わないでよー」

 快活な店主の口をふさいだのはトド松だ。余程話されたくないことがあるらしい。「悪魔」などという単語から、大よその検討はついてしまったが、追求はしないほうがいいだろう。
 何も知らないフリをしているのがテレビ的に一番安全だ。

 ちなみに、事の次第としては、個性が出るまでの時代、地元のガキ大将をしていた悪魔の六つ子時代。個性が出た後、中高と番長にまで伸し上がり好き勝手し放題を繰り返した結果、不良という不良が膝をついた赤塚の悪魔時代、となっている。

「――幼い頃のおそ松達って、どんな風だったんッスか?」

 あまり気はすすまなかったのだけれど、スタッフからの指示が出てしまっては仕方がない。竹田は動揺や不満を見せることなく、平素と変わらぬようすで店主に尋ねかけた。
 学生時代ならばともかく、それ以前ならばテレビで流す分にも問題のないエピソードばかりなのではないか、という期待もあった。

「あー、まあ、悪ガキだったよ」

 店主の目が泳ぐ。
 不味い、と梅谷と竹田の直感が告げる。だが、今度は店主も空気を読んだらしく、幾分かオブラートに包まれた言葉達が飛び出してきた。

「この辺り一帯のガキ大将って感じで、いっつも偉そうにしてたな。
 大人を煙に巻くのがうまくてな、頭も無駄に良かった。
 テストの点は散々だったらしいが」
「おそ松だけ0点だったな」
「っかー! お前、んなことよく覚えてんねぇ」

 小学生時代のテストのことなどもう記憶の彼方だ。言ってしまえば、おそ松には高校生時代のテストの記憶すらない。追試の記憶がかすかに残っている程度で、後は遊んで喧嘩しての毎日だった。
 幼い頃とて生活に大差はなかったはずだ。無邪気に残酷に、大人をいたぶることだってあった。逆にやり返されることもあの時は多かったような気もするけれど。

「全員がおそ松の名前使って悪さした時なんて傑作だったな」
「おそ松分裂事件」
「あー、あったねぇ。そんなことも」
「分裂? しようか?」
「やらんでいい」

 兄弟の名前を借りるなど常套手段で、使わない日の方が少なかった。ただ、あの日はたまたま、五人全員がおそ松の名を騙り、当の本人であるおそ松は普通にバレて捕まっていた。
 ちなみに、類似事件として、カラ松事件、チョロ松事件、と兄弟全員分があるのはお約束、というやつだろう。

 ひとしきりおそ松達の昔話をオブラートに包みながらしてくれた店主は、一言断って席を後にする。何だかんだで三十分は話してしまっていたので、そろそろ調理に取り掛かろうということらしい。
 おそ松達は食事が待ちきれないのか、テーブルを叩いたりコップを揺らしたりして催促を行う。そして、その度に店主から怒られては不満げに、だが楽しげな顔をしてみせた。

「何か楽しそうだな」
「んー?」

 竹田が声をかけると、おそ松は不満げなフリを放り投げて、ニヤけた顔を晒す。
 いや、おそ松だけではない。テーブルを囲むようにして座っている兄弟達も似たような顔をしていた。

「そーんなことないよ」

 嘘だ。だが、悪意のある嘘ではない。
 大切なナニカを隠して、自分だけの宝物にしようとしている子供の顔。
 庇護欲をくすぐってくれそうなその表情に、女性スタッフの一人が口元を抑える。
 タレントとしてのおそ松ではなく、等身大の松野おそ松に彼女が惹かれた瞬間だ。

「ほい、もちじゃがチーズ」
「うっひょー! これこれ!」

 おそらくは冷凍してあったものをレンジで加熱しただけであろう料理が運ばれてくる。とにかく出せる物から出すことで、六つ子の催促を黙らせる、という技なのだろう。
 店主の目測どおり、あるいはいつも通り、おそ松は目を輝かせて料理にかぶりつく。残された五人が不平不満を漏らすが、それぞれ早めに出来る料理からどんどんと運ばれてくるので、しばらくすれば不満は全て鎮火された。
 定食を頼んだカラ松とチョロ松にはおひたしと味噌汁、米だけを先に出してくる辺り、やはり店主は手馴れている。

 六つ子達は自分が頼んだ料理、あるいは他の兄弟が頼んだ物から一口拝借しつつ食事を進めていく。無論、ひと悶着もふた悶着も発生するのだが、一つ一つに構っていてはきりが無い。
 梅谷と竹田も食事に舌鼓を打ちつつ、横からおかずが掻っ攫われぬよう攻防を繰り返した。

「これはオレの!」
「ん〜? そうだったか。すまんな」
「あの、ちょっと……」
「何時の間に? ごめんなさインサード!」

 どうやら、彼らは竹田や梅谷を狙っているのではないらしい。兄弟と共に食事を取る際は、近くにいる者の食事に手を伸ばす、ということが習慣化されているようだった。何とも迷惑な話なのだが、店主はその光景に驚きもしない。それどころか、外野から梅谷達を応援する始末。
 きっと、ここに一般客がいたとしても、彼らと同じく六つ子の餌食になっていたのだろう。

「――喰った喰った!」
「ごちになりまーす」

 戦争のような食事を終え、竹田も梅谷もすっかり疲れきってしまっていた。今までこのような争いに巻き込まれたことのなかった彼らの戦績は非常に悪く、追加のおかずを何度か頼んでしまった。だというのに、腹八分目にも満たぬ具合だといえば、六つ子の強さがよくわかることだろう。
 すっかり満腹になった五人はトド松に伝票を渡す。

 よく食べていたとはいえ、地元の居酒屋だ。六人合わせても二桁万にはならない。妥当な金額が書かれたレシートを見て、トド松はため息をつきながら財布を出す。
 トッティブランドのピンクの財布。可愛らしいデザインだが、男性が持っていても不自然ではない形状が人気の物だ。

「はい、お会計お願いします」
「まいどあり。いやー、今日もいい食いっぷりだったなぁ。
 次は飲みにこいよ」
「もっちろん!」

 右手でブイサインを作ったおそ松に、店主は一つ、思い出したかのように言葉を投げた。

「そうだ。もう、お前らのこと、黙ってなくていいんだろ?」

 片方の口角だけを器用に上げ、店主は目を細める。
 彼は六つ子のことをよく知っていた。彼らの家と程近い距離にある店だ。悪魔による無差別爆撃にあったことは数知れない。つまり、そういったことを全てぶちまけてもいいのだろ、と目が当ていた。

「いいよぉ。
 でも、これが放送されるまでは待っててね」

 おそ松も笑う。
 賭けが終わった今、芸能界に思い残すところはない。
 続けられるというのならば続けるし、干されるというのならば身を引くだけだ。その結果、五人の弟達がどういった道を選ぶのかは神のみぞ知るところ。

「他の奴らにも伝えとくからな」
「お願いしマッスル!」

 両腕を振り上げ、十四松は笑う。
 テレビに出ている偽者のおそ松はもう飽きてしまった。何処かの誰かが本物のおそ松のことを好きだというのならば、それは歓迎すべき応援だ。けれど、あんな嘘を応援されても嬉しくともなんともない。
 兄弟一素直な彼は、本当のおそ松が早く広まればいいなぁ、と思ったのだ。

「さて、空洞は満たされた。
 オレはあるべき場所――そう、舞台へと向かうとしよう」
「日本語喋れクソ松」

 格好をつけ、立ち去ろうとしたカラ松の背に一松がドロップキックをかます。便所サンダルを装備した猫背の男がしたとは思えないほど、その動きは滑らかであった。
 背後から強い一撃を貰ったカラ松は数メートル先に倒れこむ。
 骨が逝っていてもおかしくない音がしたが、どうにか無事らしく起き上がろうとする気配がした。

「い、いちま〜つ?
 何故、飛び蹴りをしたんだぁ?」
「ケッ」

 涙目で一松を見るカラ松だが、攻撃をした本人はそっぽを向いて会話をしようとしない。

「カラ松はぼーっとしてるとこあるからなぁ」
「えっ。それと攻撃にどういう関係が」

 仕方ない、とでも言いたげに言葉を吐いたチョロ松に対し、竹田は思わずツッコミを入れてしまう。
 どう考えてみたところで、カラ松がしっかりしていないことと、背後から強烈な一撃を与えられることが繋がることはない。因果が二、三周回った末に、捩れて切れて繋ぎなおされたとしか思えない。

「で、何処に行って、何時頃に帰ってくんの?」

 未だ立ち上がることができずにいるカラ松の目の前におそ松が屈みこむ。一つ下の弟を見る彼の目にからかいの色はなく、真剣な色だけが写っていた。
 どうやら心配しているらしい。
 梅谷としては、成人男性の行き先及び帰宅時間の心配よりも、後ろから打ち込まれた攻撃による怪我の心配をしてやるべきなのではないか、と言いたくてしょうがないのだが、他人の家族の問題なのだから、と堪えた。

「劇団に行って、夕食までには、帰る」

 体を伏せたまま、カラ松は普通の言葉で正確に行き先を告げる。彼の思う格好良い言葉を使えば、再び一松からの攻撃をくらうはめになる、という判断の結果だ。
 先ほど言っていた舞台云々とは、彼が所属している劇団のことだったらしい。

「じゃあ、夕飯の買い物お願いね」
「任せておけ。オレが最高の材料を揃えてやるぞ」

 どうにか体が回復してきたらしく、上半身を起こしながらカラ松はサムズアップをトド松へと向ける。面倒で力のいる仕事を押し付けられたようなものだが、不満の色は見えない。カラ松の顔に浮かんでいるのは満面の笑みだった。
 徐々に起き上がっているカラ松を前に、おそ松もスッと立ち上がる。

「お前、携帯はちゃんと持ってんの?」
「……忘れた」
「じゃあ、一度取りに戻りまショータイッム!」

 ようやく立ち上がったカラ松の右腕を十四松が掴み、そのまま家の方面へと駆けて行く。突然のことに脳の処理が追いつかなかったらしいカラ松の悲鳴が遠ざかるのを聞きながら、残された四人は顔を見合わせた。

「ボクはこれからダンスの練習に行くから」
「……締め切り近いから、帰る」
「新作考えたいし、ちょっと遠出して美術展見に行こうかな」

 三人の行き先はバラバラで、かろうじて一松の向かう先に十四松とカラ松がいるだろう程度。次に六人が顔を合わせるのは夕飯時になってしまうだろう。
 眉間にしわを寄せたのはおそ松で、どうやら誰も自分と共にいようとしないことが不満だったようだ。
 弟達はすぐさま目線のみで面倒くさい兄を押し付けあい始めるが、折れる者がでるはずもない。

「なあ、おそ松。
 よかったら、オレ達にこの町の案内してくれよ」
「家はもう充分見たしねぇ」

 隅から隅まで見たわけではないけれど、あの狭い家を探索するよりも、広い町に出たほうが話は広がるだろう。ご近所では有名らしいおそ松なのだから、面白いエピソードや会話を撮影できる可能性もぐっと高まる。
 梅谷達としては番組のことを考えた末の発言であって、決して弟達の肩を持ったわけではない。
 しかし、結果としてはそうなってしまう。

「じゃ! おそ松兄さん仕事頑張って!」

 一瞬、おそ松が梅谷達に気をとられた。その隙に三人は駆け出した。
 チョロ松はあっという間に遠ざかり、緑の背を人の視界からもカメラのレンズからも消し去り、一松は路地裏へと駆け込む。トド松は小道を通り、人ごみの中に紛れてゆく。

「あ! お前ら、待て――」

 手を伸ばし、制する言葉を吐くも時すでに遅し。
 弟達の姿はすっかりおそ松の前から消え去り、回り続けているカメラに写っているのは彼と梅谷、竹田の三名になってしまっていた。

「っざけんなこら!」

 憤り激しく、目を吊り上げて弟達を回収すべく力強い第一歩を踏み出す。
 しかし、それを黙って見ているだけの竹田ではない。おそ松の足が二歩目を地面につけるよりも先に、竹田が彼の二の腕を強く掴む。
 振り返ったおそ松の眼光は鋭く、一触即発の空気が流れる。

 しかし、この場においておそ松の味方は一人もいない。スタッフ一同の心としても、弟達がハケて行ってくれたことはとてつもなくありがたいことだったりする。もう時刻も昼を過ぎた。ここいらで、御しきることのできる画がほしい、というのは贅沢でもなんでもない話。
 自由奔放が服を着て歩いているような六人を写し続ける、というのは大変な作業なのだ。

 六人が揃っているメリットも勿論あるのだけれど、撮影から数時間でこれほどまでに心身ともに磨耗している。これ以上、兄弟全員を同じ場所において番組を続行するというのは無謀が過ぎる。

「お前が弟大好きなのはわかったけどさ、オレ達の身にもなってくれよ。
 何も今生の別れ、ってなわけでもないんだ。家に帰ればまた嫌でも一緒に過ごすんだろ」

 竹田の真っ直ぐな目がおそ松を射る。
 見れば、彼の後ろに立っている梅谷は乞うような目をしている上に、スタッフやマネージャーも各々おそ松に願いを捧げているかのような顔をしていた。

 数の力とは偉大だ。
 幼い頃、六つ子という特性を生かして好き放題やってきたおそ松はそのことをよくよく知っていた。それが大人になって、こんな風に返ってくるとは思いもしなかったけれど。

「――わかった」

 深呼吸を一つ。
 頭に昇った血をゆっくりと落とし、気持ちを切り替えるために少しだけ目を閉じる。昼間の最中に作られた暗闇は、おそ松が冷静さを取り戻すために必要なものだった。
 余計なものは何も見ず、自分の奥底にある繋がりにだけ意識を集中させる。
 か細いソレを感じ取ってようやく心を落ち着けることができた。

 緩やかに持ち上げられた目蓋の裏にあった目が竹田と梅谷を写す。六つ子の長男でありながらも、テレビに出る人間としての色を滲み出させる瞳に、竹田はほっと息を吐き出して手を離した。もうおそ松を捕らえている理由はなくなったのだ。

「ここいらの案内だっけ?
 お安い御用よ。何て言ったって地元も地元だからね〜」

 鼻歌交じりにおそ松が歩を進める。それは、先ほど弟達を追うべく足を向けた方角とは真逆の道だ。

「何処に行くんですか?」
「んー。どこにしよっかな」

 悩むような言葉を紡ぎながらも、おそ松の歩みに迷いはない。口では何と言っていても目的地はしっかりと決まっているらしい。
 彼の本性を知ってしまっている今、先の見えぬ行き先に不安はあるものの、相手は一人だ。スタッフ一同、そして梅谷、竹田は、何かあったとしてもどうにでもなるだろうと自分に言い聞かせることで心の平穏を保つ。

「ずっとこの辺りに住んでんのか?」
「引っ越しすらしてないよ。
 子供が六人もいると引っ越しどころじゃないんだろうね」

 ただでさえ、金も時間もかかるようなことだ。やんちゃばかりする男子六人を引き連れて別の土地へ移住しようとは、とてもではないが思えないことだろう。有名な洋画のように、何処かに一人取り残してしまっていたとしても不思議ではない。もっとも、あの映画の場合、家族は旅行に行っていただけなので、家に帰りさえすれば子供との再会は容易いものだったが。

「あはは、大変だったんだねぇ。
 でも羨ましいよ。ボクは何度も引っ越しして、その度に友達作りから始めないといけなかったし」
「そういう経験はないねぇ。
 オレ達はどこ言っても「松野さんとこの六つ子ちゃん」って扱いだったし」

 小学校を卒業しても、中学を卒業し、地元の高校に通うようになっても。周囲の顔ぶれが変わるだけで、扱いも第一声も変わらない。
 いつだって彼ら六人は十把一絡だった。

 幼い頃はそれでよかったけれど、思春期に入り、自己を確立しようとし始めた頃は酷いもので、周辺地域の大人で六つ子に迷惑をかけられていない者はほぼいないだろう、という程だ。
 温厚そうなカラ松も、常識人ぶっているチョロ松も、静かな一松も、根元から明るさを感じさせる十四松も、人好きするトド松も、そして、おそ松も。誰も彼もが荒れに荒れ、互いにぶつかり、周囲に反発し尽くした。
 当時を知っている者は、現状の六つ子を見て苦笑いを浮かべるばかりだ。

「やっぱ六つ子って目立つのな」
「そりゃね。同じ顔が六つだもん」
「ボクもビックリしちゃった」
「小学生くらいのときは、オレら自身もいまひとつ見分けついてなかったからな」
「えっ」

 他人が見分けられないというのはわかる。梅谷達もスーツを身にまとった彼らを見分けることができなかったのだから。しかし、おそ松達は同じ立場の人間。同じ六つ子。
 テレパシーだの何だのという特殊能力を期待することはないけれど、兄弟の見分けくらいつくだろう、というのが普通の考えだ。
 目の前にいる人間が兄か弟かもわからぬ生活など送れる気がしない。

「それってどんな感じ?」
「どんな感じも何も……。
 それが普通だったから、それ以外がわっかんねーって」

 極端に言ってしまえば、幼い頃は相手が誰でも良かったのだ。
 上も下もない横並びは今よりもずっと強くて、目の前の同じ顔が兄か弟かなど気にしなかった。故に、相手が誰でもよかった。自分でない、という一点だけが確かであれば、後は何だって構わない。
 誰かに間違えられたとしても嫌な気持ちになることはなかった。それがお説教でなければ。

「ちょっと体験してみたいかも、ですね。
 その感覚」
「オレもオレもー。
 一人っ子とか体験してみたい」

 今朝も兄弟の多さに愚痴を零していたおそ松だが、今は傍に弟達がいないことと、目的地までの到達時間の関係上、言葉の流れを止めようともしていない。
 食事の状態から始まり、喧嘩、罪の擦り付け合い、監視体制等々、おおよそ一人っ子には理解できない様子が垂れ流され続ける。

「あ、ここ、すっげー怖い親父が住んでんの。
 オレはチョロ松じゃねーっつってんのに容赦なく拳骨食らわすんだぜ?」

 愚痴をスッパリと切り捨て、垣根向こうの一軒屋を指差すおそ松。苦い思い出をヘラヘラしながら語る様子を見れば、何だかんだ言いつつも、親父とのやり取りが嫌いではなかったのだろうことが察せられる。
 竹田が笑いながら言葉を返そうとするよりも先に、青々とした垣根の上に禿頭が現れた。

「お前達が悪さをしなけりゃ拳骨もいらないんだがな」
「げっ」

 笑みを浮かべていた顔が曇る。
 どうやら、彼が件の親父らしい。

「立派に働くようになったかと思ってみりゃ、中身はなーんにも変わっとらんな」
「うっせ。おっさんも働け」
「年寄りをこれ以上働かせてくれるな。
 こちとらもう爺だ」

 タイミングが良いのか悪いのか、垣根の剪定をしていたところだったらしい。脚立の上に乗っているらしい男は、一段高い位置からおそ松を見下ろしている。
 誰しも、幼少期の自分をよく知っている人間と今の知り合いを会わせたくない、と思うもので、例に漏れずおそ松も同様の心境だった。
 親父の方もそれを理解しているらしく、実に意地悪気な笑みを浮かべている。

「その様子じゃ、弟達に負けたみたいだな」
「まーね」
「良かったじゃないか。
 これで何にも気兼ねしなくていい」

 子供の考えなど手にとるようにわかる、とでも言わんばかりの親父に、おそ松はバツが悪そうな顔をする。そっぽを向き、会話を拒否する態勢だ。しかし、それを許す竹田ではない。

「子供んときから見てても、やっぱ見分けってつかないもんッスか?」

 やらかしてきた悪戯悪さも気になるが、直接触れる勇気はない。こちらの話題でも視聴者は充分に喜んでくれることだろう。尋ねたところでカットになるくらいならば、少しでも提供できるものを、だ。
 声をかけられた親父は竹田とカメラを何度か見た後、小さな笑みを浮かべてくれる。
 頑固親父、といった雰囲気が感じられるものの、愛想が悪い人ではないようだ。

「今だってつかねぇさ。同じ服着てりゃ誰が誰でも一緒、ってもんだ」
「おっさんは人違いでも気にしねーしな」
「おそ松だろうがカラ松だろうが、悪さするのが早いか遅いかの違いだろ。
 どうせ全員同じ悪ガキなんだ。いつ叱ったって同じだろ」

 罪を擦り付け合う六つ子であり、自身を偽ることを非としない彼らだ。巡り巡って罪の所在がわからなくなるなどしょっちゅうあること。ほとほと困り果てる大人達の中で、この親父は誰が誰であろうと気にせず拳骨を振るい続けた。
 悪さの度に殴っておけば、いずれ全員を殴ったことになるだろう。それが彼の持論だ。

「……なるほど」
「おい! 納得すんなよ!」

 ある意味では賢い選択なのかもしれない。そう思った梅谷が深々と頷けば、おそ松が瞬時にツッコミを入れる。実の父親以外に殴られたことなど、とは口が裂けてもいえないが、本当に自分ではない罪によって拳骨を食らうあのやるせなさは忘れられない。

「まあ、殴ったところで反省するような連中じゃなかったけどな」

 親父はおそ松を見ながら、苦笑いとため息を漏らす。

「一人叱りゃ六人で復讐にきてたな。
 普通に何事もない時もありやがるから、こっちとしては数日警戒しっぱなしだった」
「あー……」

 心当たりがあるらしく、おそ松は親父の方を向こうともしない。
 カメラよりもさらに向こう側の風景を見ているようだ。

「気まぐれだったんだな」
「ん、そういうわけじゃ、ねーんだけ、ど」

 完全には否定できない。しかし、感覚的な部分ではしっかりとした違いがあるのだ。一人のために復讐を遂行するか、その一人をマヌケだと嗤ってやるか。
 両者の違いを他人に説明することは難しい。
 おそらく、言葉を商売にしている一松とて、それを成すことはできないのだろう。

「おそ松」
「え?」

 名を呼ばれ、振り返る。

「人様に迷惑かけてちゃいかんぞ」

 一瞬、おそ松は子供に戻ったような心持になった。
 あの頃に比べ、親父の頭はすっかり寂しくなってしまったけれど、豪快な笑みはちっとも変わらない。しわの数が増えたくらいだ。

「……さぁね」

 含みのある笑みを向け、歩き出す。
 いつまでも親父とお喋りを楽しむ趣味はない。

「あ、待てって」
「待ってよー」

 竹田と梅谷は親父に軽く会釈をしてからおそ松を追いかける。

「やだやだ。年取るとどうしてあぁも説教臭くなるのかねぇ」
「あの人は元々説教する人なんだろ」
「説教ってほどでもなかったですよ」

 両脇から立て続けに言われ、おそ松は激しく頭を掻き毟る。できることならば、先ほどの下りは全てなかったことにしてしまいたいくらいなのだ。
 子供扱いを受けるというのは、テレビに出るようになってから今まで、すっかり久しい感覚になってしまった。

「……あ、そこ」

 話題を逸らす物を無意識に探したおそ松は、一軒の小さな店を見つける。

「レンタルビデオ?」

 小さな店には、全国展開しているレンタルビデオ店の名前が書かれている。規模は小さいものの、外から見た感じ、閑古鳥が鳴いているようには見えない。繁盛している、とも言いがたいように見えるが、時間が時間だ。仕方がないだろう。

「オレらがよく利用する店。
 今夜の彼女でもちょっと見繕ってこようかなー」

 ふらふらと店内へ向かうおそ松を梅谷が制する。
 「彼女」という言葉に不穏なものしか感じられない。否、想像はつく。梅谷とて男だ。レンタルビデオ店に存在する「彼女」など、たった一つしか思い浮かばない。

「待って待って!
 仕事中! 仕事中だから!」
「大丈夫、大丈夫。
 見るのは終わってからだから」
「そういう問題じゃねーよ!」

 竹田も参戦する。
 もとより、おそ松とて本気で今夜のおかずを探すつもりはない。大した抵抗もせず、引きずられるようにしてレンタルビデオ店から遠ざかっていく。
 一応、名残惜しげな声を上げることは忘れない。

「何だよ、何だよ。
 お前らだってお世話になるだろー?」
「そういうノリは深夜番組でやってくれ」

 竹田と梅谷は元読者モデル、という経歴柄、深夜のノリが全開になっている番組に出演したことがない。それはおそ松も一緒だったのだけれど、これからは変わってくるだろう。
 この性格で深夜番組出演拒否、となるなどありえない。

「別に深夜じゃなくても良くない?
 昼間っからセックスする人間もいーっぱいいるよー」
「わわわ! おそ松さん!」

 あまりにも堂々とした態度で発せられたその単語は、少なくともテレビ関係者であるならばもう少し慎重に扱われるべき言葉だった。
 梅谷が両手を振り回してみるが、空気中の振動と化したその言葉を霧散させることはできない。
 非情であるが、世の摂理だ。

「ん?」
「それは駄目です!」
「え? 何が?」
「何って……」
「もしかしてセックス?」
「それです!」
「ちょっとカマトトぶんなよー。
 梅谷だってAVくらいみたことあるだろ?
 あ、今時の若者らしくパソコンとか?
 カーッ! 羨ましいねぇ!」

 何とかして止めようとするが、おそ松の暴走は止まらない。何が悪いのか、とでも言いたげにあれやこれやと爆弾を投下してくる。
 別に梅谷とてカマトトぶっているつもりはないのだ。男である以上、ピンクな映像も、本も目にしてきているし、学生時代から今まで、幾度となく性行為も繰り返してきている。ただ、それをあえて口にしないだけだ。彼にもイメージ、というものがあるのだから。

「おそ松! 落ち着けって!」
「これが落ち着いてられっか! こちとら六人兄弟。
 パソコンなんてもの買い与えられてなかったっつーの!
 何でかトド松だけスマホ買ってたけど!」

 中々しっかりした末弟だことで、と竹田梅谷ペアは胸中で合唱する。時間差で生まれてきただけのはずだが、末は末らしく甘え上手なようだ。
 考えてみれば、スタッフ全員に愛想を振りまき、寄せてきていたのは彼だけだったような気もする。

「いいよねぇ。兄弟が六人もいない家はさぁ。
 オナニーだってし放題だもんねぇ」

 唇を尖らせるその顔は、人によっては母性が擽られるかもしれないモノだった。しかし、その口から吐き出される言葉があまりにも酷い。つけ加えるのであれば、やはり、テレビに出る人間が容易に発していい言葉でもない。

「おそ松さん!」
「んだよ。お前らはカワイー彼女いたんでしょ?
 セックスしまくってんでしょ?
 オレなんて未だ経験ゼロだからね? 年齢と童貞暦が一緒だからね?」
「えっ、それは……」

 梅谷が言葉を詰まらせる。
 モテていることが通常営業である彼だ。成人式を執り行った後、数年が経過しているというのに性行為を経験したことがない人間がいるなど、都市伝説級の話に思えてしまう。
 まして、あの松野おそ松だ。演技であったとはいえ、あのカリスマ性。学生時代に女の子をはべらしていました、と言われても不思議ではなかったというのに。

 有名タレントである彼にアプローチをかけてきた女性も少なくなかったはずで、不名誉な未経験を捨てる機会はいくらでもあったはずだ。
 いくら勝ち負けがかかわっているとはいっても、愛を理解しきっていないとはいっても、興味関心の塊でしかないであろう誘惑によく耐えられたものだ。

 おそ松は半ば引きずられるようにしていた態勢を振りほどき、自分の足で歩き始める。
 苦い顔をしつつ、彼は軽く頬を掻く。

「うちの兄弟はマジでヤバイからね。
 抜け駆けとか絶っ対に許さないの。オレがこうしてカメラの前に立ってるのが不思議なくらい」

 本来ならば、おそ松がカメラの前に立った時点で、何処からか嗅ぎ付けてきた弟達が現れるはずだった。一人だけ職に、それも上流階級の職につくなんぞ許されるはずがない。
 手酷い断罪を受け、六人まとめてニートに転落。
 それがいつも通りの流れであったはずなのだ。

「……どーしたのかねぇ」

 弟のことなら何でも知っている自信があったおそ松だが、このことばかりは、全員が働き始めてから数年経つ今でもよくわからない。
 潮時だった、というだけなのか。
 だとすれば、少し寂しいかもしれない。

 そんなおそ松の思いがじわり、と体から滲み出る。
 隣に立っていた竹田や梅谷だけではない。カメラを回していた人間も、同時に息をつめた。赤いつなぎを着、名札をつけた男は、彼らがよく知っていたはずの松野おそ松は違うはず。もっとクズでどうしようもない人間のはず。だというのに、哀愁を漂わせる彼の姿に、カリスマレジェンドと称されていた男を見た。

「――あ、ここがオレら御用達のパチ屋ね」

 誰もが口をつぐむその中で、おそ松だけがあっさりと気分を切り替える。
 派手な電飾を見上げるその顔は、実に楽しげだ。今までの流れから察するに、ちょっと打っていこう、と言い出しかねない雰囲気を察してしまう。

 唐突な切り替えに、まだ完全に慣れることはできない。しかし、それができなければ、おそ松含めあの六つ子達とはやっていけないのだ。たった半日程度の出来事だというのに、徐々に耐性がつき始めているのが感じられた。
 竹田はおそ松が次の言葉を発するよりも先に、右腕をとる。逆の腕は梅谷がしかと握る。

「え? どうしたの?」
「いいえ?」
「べっつにー?」

 いい笑顔を見せつつ、竹田と梅谷はずんずんと前へ進んでいく。この道が何処に続いているのかすらわからないけれど、銀の玉と軍歌からは引き離すが吉だ。
 幸い、おそ松は古くからこの辺りに住んでいるのだから、道に迷って彷徨うハメにはならないだろう。

「パチンコってオレやったことないからさ」
「マジで? 今度一緒に打とうよ。
 色々教えてあげちゃうよ?」
「ボクは負けるの嫌だからなぁ……」
「馬ッ鹿、そのスリルがいいんだろー」

 番組の最中にパチンコ屋へ入られては困るけれど、話題にさえ出してはいけない、ということはない。むしろ、エロスの方向へ行くよりは幾分か大衆向けといえる。
 ここまできてしまったからには、もはやおそ松のイメージなどあってないようなもの。ダウンアップに気を使う必要は一切ない。

「負けるのが嫌なら一円パチとかあるよ」
「何それ」
「銀玉一つ一円。
 でっかく勝つことはないけど、でかく負けることもない」
「へー、それくらいなら……」
「決まり決まり!
 次の休みが合ったら行こうぜ!」

 パチンコ仲間が増えることが嬉しいのか、おそ松の頬はわずかに赤く染まっている。
 今にもスキップしそうな勢いだが、左右を拘束されているため、彼の歩みは多少浮かれているだけに留まっていた。

「あとさ、競馬も行こうよ〜。
 お馬さん可愛いよぉ」
「馬は好きだけど、競馬はわっかんねぇわ」
「教える教える!
 やっぱりさ、一人でやるのも楽しいけど、みんなでやったらもっと楽しいじゃん?」

 楽しいことを共有したい、と思う気持ちは人として当たり前のものだ。男であれ女であれ、老人であれ子供であれ、人間が社会性を持った生き物である以上、価値観を確かめあい、絆を深めるのは本能といえる。

「本当にギャンブルが好きなんだね」
「メッチャクチャ好き〜」

 正直なところ、梅谷にはその良さは欠片もわからない。ちょっとした興味のために誘いに乗ってはみたが、おそ松と共に行った後は店に入りすらしないだろう。
 稼いだお金をパチンコや馬に費やすくらいならば、株でもやっていたい、というのが梅谷の思考だった。

「こうさ、こうさ。
 勝つか、負けるか、ってスリルがたまんないんだよねぇ」
「もっと健全にスリル味わえよ」

 対戦型のスポーツに励めば十二分に味わうことができるはず。わざわざ金をかけてギャンブルに赴く必要はない。身体を動かすことをよしとしないのであれば、ジェットコースターのような乗り物で臓腑がひっくり返るようなスリルを得ればいいのだ。

「いいじゃん。楽しくお金がもうけられるなんて最高だよ?」
「負ける可能性は無視なの?」
「オレくらいのカリレジェになれば、負けなしも余裕よ!」

 鼻の下を人差し指でこすり、胸を張る。
 彼の戦歴を知っている弟達がこの場にいれば、矢継ぎ早に否定の言葉を積み上げてくれたことだろう。
 おそ松は強い勝負運を持っているため、ここぞというときに外すことはない。しかし、適当に遊ぶ、あぶく銭を稼ぐ、といった目的意識で手を伸ばした場合、往々にして有り金を全て持っていかれていた。

 ニートを脱却してからは、全財産を浪費するようなことはなくなったが、これは単純に収入が増えた結果だろう。番組にCMにと大忙しなタレントの収入を空にするのは困難なのだ。

「ここは良い町だね」

 ギャンブルの話を終え、他愛もない雑談をしていると、梅谷は柔らかな声色で言った。

「そうか?」

 おそ松からしてみれば、慣れ親しんだ町。良いとも悪いとも思わない。

「大きな建物も多いけど、そうじゃない風景がたくさんある。
 昔と今を混ぜ込んだみたいな場所だ」
「そこに、ちょっと変、も付け足してな」
「確かに」

 からかうように言葉を挟んだ竹田へ、梅谷は同意を返す。どちらの声にもトゲはなく、悪い意味での変、ではなく、良い意味のそれなのだろうことがわかる。
 しかし、おそ松にその意図は伝わらない。
 彼は軽く首を傾げ、不思議そうに目をしばたかせる。

「そうか? その変の町と変わんないよ」

 仕事の都合上、赤塚を離れる機会は多い。日本全国、田舎から都会までを見てきたという自負もある。それらと地元を比較した場合、特筆すべき事項があるとは思えなかった。
 田舎と都会の中間地点に位置するような町並みは確かに首都東京の一角には見えない。だが、他所の都道府県に行けばありきたりな世界だ。

 おそ松と同じく、日本全国を動き回っている梅谷らもその意見には同意するだろう。
 ドがつく田舎ではなく、かといって大をつけていい程の都会でもない。そんな町はどこにだってある。だが、違うのだ。他の地方にあるそれと、この赤塚は。

「何つったらいいんだろうな」

 竹田は頭を掻く。
 上手い言葉が見あたらない。

「うーん、何でも許してくれそうな感じ、かな」

 言葉の引き出しを端から開けて回り、ようやく自身の気持ちと近しいものを見つけ出す。

「冷たいわけじゃなくて、適度な距離感を知ってる気がする」
「あー、それはあるかもねぇ」

 何せ六つ子を内包し、かの有名なミスターフラッグの本拠地もある。その他、怪しげな研究所から後ろ暗さしかない工場まで。多種多様に揃っている町だ。
 観光や遊びに程度ならばいいかもしれないが、腰を落ち着けるとなれば少し難しい。

「おかげさまでオレ達ものびのびやっていけたし」

 両親が自身達をこの町で育ててくれていなければ、どうなっていたことか。少なくとも、おそ松は今のように楽観的で享楽的な性格にはならなかっただろうし、弟達のことを心底疎んでいた可能性だってある。
 自由に、奔放に、そして長男として生きることができているのは、人としての土台をこの地で作れたからこそだ。

「流石に駅前は色んなお店がありますね」

 三人とその他大勢がやってきたのは赤塚駅だ。
 それまでは民家と昔ながらの商店が多かったけれど、この辺りになればビルやチェーン店が建ち並ぶ。

「向こうの方のスタバでトド松の奴、こっそりバイトしてたことあったんだぜ?」
「最新の流行を探るため?
 仕事熱心なんだね」
「違う違う」

 進行方向から少し外れた位置を指差したおそ松に、梅谷が感嘆の声をあげるが、すぐさま否定の言葉が被せられた。見れば彼の表情は苦々しく歪んでおり、愉快な思い出ではないことを如実に示している。

「オレらがニートしてた時代の話。
 一人、さっさと暗黒大魔界クソ闇地獄カーストから抜け出そうとしやがっててよ」
「あんこ……何だって?」

 さらりと出てきた単語に聞き覚えはない。竹田が怪訝そうな顔をして問いかけてみたが、当時を思い出して頭に血が上り始めているらしいおそ松には届いていないようだった。

「可愛い女の子とおっしゃれーなカフェでバイトだよ?
 普通、言うよね。何なら誘うよね?
 うちの末弟はそうしないんだよなー。黙って自分だけ一抜け決め込むつもりなんだよなー」

 極普通の感性からすれば、ニートを謳歌しているほうが問題であり、そこから抜け出そうとしたトド松に非はない。兄弟に何も告げないことに多少は思うところがあれど、十二分に擁護できる範疇だ。
 しかし、素のおそ松には何を言っても無駄だ。こと、弟のこととなれば余計に。

「たまたまオレらが店に行ったらさ、兄弟だって知られたくないから帰れっつーんだぜ?
 しかも、女の子に嘘ついて合コン行こうとしてたし。
 そんなの良くないよねぇ。お兄ちゃんがちゃんと叱ってあげないとだよねぇ」
「あまり聞きたくない気もするが、そうもいかないよな……。
 何をしたんだ?」

 生唾を飲み込み、恐る恐る尋ねた竹田。
 おそ松は目を細め、悪魔のように笑う。

「本当のトド松を教えてあげただけだよ」

 語尾にハートマークでもつけてそうな言い方であったが、表情はそんな可愛らしいものではなかった。
 これ以上、突っ込んだ話を聞くのは危険だろう。発言はカットすれば済む話だが、竹田達に精神的なダメージが降りかかる恐れがある。
 梅谷やカメラマン達も退くことを選択したらしく、口を開く様子はない。

「んで、あそこがカラ松が気に入ってる釣堀」

 奇妙な沈黙が生まれて数秒、おそ松は場の雰囲気を無視して言葉を発する。
 話しながらも動かし続けていた足は、いつの間にやらおそ松が目的に定めていた場所へたどりついていたようだ。高いフェンスの向こう側に大きな水溜りと、数人の男が釣り糸をたらしているのが見えた。

「カラ松さんは釣りがお好きなんですね」

 話を広げつつ、目線でスタッフに合図を送り、釣堀へ取材の許可を取らせに行かせる。

「トド松も好きで、結構二人で行ってるみたい。
 オレはカラ松の愚痴とか悩みとか聞くときにくる程度かな」
「次男、でしたっけ。
 やはり重い重責が?」
「はは、そんなわけねーじゃん」

 からりと笑う彼に悪意はない。見当外れなことを言う梅谷が面白い、という感情だけがその瞳にはあった。

「あいつは頭空っぽのくせに、色々考えようとするときがあるんだよ。
 変わらなくたっていいのにさ」
「人は変わるもんだぜ」
「うちはうち、ってやつだよ」

 おそ松の世界は狭い。
 どれだけ世間に出ようとも、赤塚から遠く離れた土地へ足を運ぼうとも、根本の世界が広がることはない。

 たった六人と両親。そして数えるほどの友人。
 それだけで構成されている世界は、強固であると同時に脆い。特に、繋がりの強い兄弟の部分が少しでも欠けてしまえば、とたんに崩れ去ってしまうような場所だ。
 故に、変化を嫌い、抜け駆けを憎む。

「……まあ、そうも言ってられなくなっちゃったんだけど」

 小さな呟きは、過去に思いを馳せてのものだ。
 各々違う職に就き、帰宅することさえ叶わない兄弟がいる。ニートだった頃とは何もかもが変わってしまった。おそ松にとって、喜ばしくない変化であったことは間違いない。
 しかし、そのきっかけを作ったのは彼自身。

「それより入ろうよ。
 許可取ったんだろ?」

 遠くを見る淀んだ瞳が瞬き一つで切り替わる。
 クズで子供っぽいけれど、生気があり現在を見ている目だ。

「え、えぇ。
 そうですね。行きましょうか」

 帰還してきたスタッフの手はオッケーを示している。無事に取材の許可が下りたらしい。
 おそ松は先陣をきり、二人はその後を追う。

「このエサの臭いを嗅ぐと釣堀だな〜って思うよ」

 釣竿と一緒に渡された小さな容器には、練り状の釣りエサが入っている。本格的な釣りと違い、ルアーや生餌のようなものは置かれていない。
 三人は並んで低い椅子に座り、返しのない針にエサを突き刺していく。

「ここの釣堀はあんまし釣れないから期待はすんなよ〜?」
「おいおい、営業妨害で訴えられるぞ」
「別にいいって。
 ぼーっと座ってるのが良いんだからさぁ」

 軽く手を振りながら言うおそ松の視線の先には、この釣堀の主の姿がある。カメラにこそ映っていないけれど、遠くない距離にいるので彼の言葉が聞こえていないということはないはずだ。
 せっかく取材の許可を出してくれたのに、と梅谷は眉を下げるが、主から怒声が放たれることはない。表情に留められているわけでもなく、彼はただただダメな息子を見るような穏やかな瞳と笑みをその顔にはめ込んでいる。

「じーっと待つのになれるところだからなぁ」

 釣りを楽しんでいた一般客の一人が言った。

「考えごとするにもいいな」
「何せちーっとも魚が釣れないからな!」

 あちらこちらから声が上がり、最後には笑いの大合唱がおきる。
 そこにはちゃっかりとおそ松の声もあった。

「おそ松ー、負けたかぁ!」
「おう! マジで悔しいわー」
「これに懲りたら無謀な賭けはやめるんだな」
「バッカ。次は勝つんだって」

 気楽にぽんぽんと交わされている言葉に気づかいの様子は一切ない。親しい間柄ならではのものにも見えるが、おそらくそうではないのだろう。
 この釣堀を頻繁に利用するのはカラ松とトド松であって、おそ松は然程着ていないような話しぶりだったはずだ。

「常連さん?」
「んにゃ、知らねー。
 向こうはオレ達のこと知ってっかもだけど、オレ達の方はそうじゃないって多いから」

 念のために尋ねてみたが、反応は予想通りのものだった。
 六つ子という特殊な出生である彼らを知るものは多くとも、その逆も然りとはならない。一方的に知られ、当たり前のように話しかけられる。
 おそ松にとってそれは非日常のことではないし、その対応にいちいち人見知りすることもない。

 平然と言葉を返し、次の瞬間には相手の顔すら忘れているのだろう。
 そう思わせるほどにおそ松の声は冷えたものだった。

「ここでも色々やってっしね」
「釣堀で何やるっていうのさ……」

 梅谷が肩を落とす。
 銭湯での件を考えると、全裸で堀の中を泳ぐ、という光景が真っ先に思うかぶ。しかし、お世辞にも澄んでいるとは言い難い水だ。服を着たままだとしても、たとえ、指の一本だとしても、進んで水に触れようという意思は生まれない。

「例えばねぇ」

 おそ松がたとえ話を使用としたその時だ。
 三人が釣り糸を垂らしていた堀の水が動いた。平面的な動きではない。立体的に。盛り上がるように。

「一松とー」
「十四松のー」
「デリバリーコント」

 現れたのは同じ顔。
 紫色のつなぎと黄色のつなぎ。名乗りの通り、一松と十四松だ。
 突如現れた彼らに呆然としている梅谷らを放って、二人は言葉を続けていく。

「本当は勘の鋭い」
「白雪姫ー」

 二人がつなぎを脱ぐと、一松は黒いローブ姿に、十四松は白雪姫を模したらしいドレスへとはや代わりする。何処にその裾を押し込んでいたのかは甚だ謎であるが、ツッコミを入れる時間さえ彼らは与えてくれない。

「もし」
「はいはいはいはーい!」
「このリンゴを――」
「それ、毒リンゴっすよね?」
「え? い、いや、違いますけど」
「本当かなぁ」
「本当、本当。
 ただの美味しいリンゴ」
「でも、おばーさん、ボクの継母だったりしない?」
「えっ!
 ……ち、違います、けど」
「本当にぃ?」
「本当に!」
「じゃあ頂き――とみせかけてどぅーん!」
「ぐおぁっ!」

 十四松が勢いよくリンゴを一松の口に押し付けると、鈍い悲鳴と共に土佐衛門が一つ出来上がる。仰向けでぷかり、と浮く一松は微動だにせず、白目をむいている状態だ。
 笑いも焦りも、ただの少しの反応すらできず、息を呑む二人を十四松の瞳が写す。

「…………」

 沈黙。
 見詰め合う時間がしばし続くと、梅谷と竹田の間に挟まれていたおそ松が立ち上がる。

「よし、じゃあ次行くか」
「えぇ! 待って、ねぇ、もっと、あるんじゃないかなぁ!」
「目の前の光景を放ってくのか?
 嘘だろ!」

 まさかの放置に二人が語気を荒げて詰め寄っていく。
 何が起こったのか理解が追いついていない状態ではあるが、これをこのまま放っておいていいとは思えない。ボケならば回収しなければならないだろうし、そうでないのならば力なく浮かんでいる一松を助けなければならないだろう。

「いいって、そのコントは終わり。
 ツッコミがいらないパターンのやつだから」
「パターンって何!」

 二人の思いは届かなかったのか、おそ松の対応はそっけないものだった。払うように軽く手を振り、そのまますたすたと出口へ向かって行く。
 あまりにもな対応に、とうとう梅谷は頭を抱え、その場にうずくまってしまった。

「――別に、放っておいてもらっていいですけど」

 歩くおそ松。うずくまる梅谷。その間に挟まれ、視線を右往左往させていた竹田は、耳に入ってきた低い声に目を見開く。

「……一松、さん」
「こんな燃えないゴミに敬称?
 そんなの必要ないよ」

 ゆっくりと振り返れば、そこには水浸しになった一松が立っていた。
 リンゴが強打したはずの口からは血の一滴すら流れておらず、腫れや痣も見えない。彼の体が濡れていなければ、あのコントそのものが夢や幻の類であったのだと錯覚してしまっていただろう。

「あんなの、ただのコントだから」
「い、や……。
 コントっていう感じじゃなかったぞ……」

 あえて言葉にするのならば、ドメスティック不条理。
 ボケらしいボケは皆無。ツッコミを挟む余地すら寸分もない爆弾だ。

「ボクらよくコントしマッスル!」
「十四松とやるのは久々でしたなぁ」
「家におらんですからなー」
「それは寂しいでんなぁ」
「申し訳ありまセンター!」

 ぽんぽんと投げては返される言葉達を聞けば、あの不条理はとるに足らぬ日常の一部であることが窺えた。彼らの頭の中と生活に興味を惹かれると同時に、酷く恐ろしいものに思える。
 少なくとも、竹田や梅谷はあの不条理を一週間も見続ければ気が精神的な疲れがあちらこちらから噴出するだろう。
 また、演じる側に成ることもできない。

 思いつかない、という理由が一つ。
 あの短い、ツッコミも笑いも生産性も存在していないコントもどきのために汚い水に入るという決断を下すことはできない、というのがもう一つの理由だ。

「なぁにやってんのー?」

 困惑と恐怖に固まる二人へのんきな声が届けられる。
 さっさと外に出てしまったおそ松のものだ。

「早くしてよ〜。
 置いてってテキトーに遊んできちゃうよぉ?」

 言葉だけを見れば、二人を小馬鹿にして煽っているようにも見えるが、間延びした声にその色はない。心底から弟二人を無視し、梅谷らを待っている。
 現状に違和感はないのだろう。
 彼にとっての日常がそこに在るだけで、いちいちそれに反応する梅谷と竹田が悪いのだ。

 時間の経過によって多少の余裕が生まれた脳と目で周囲を見れば、今の状況についていけていないのは竹田と梅谷を含めたスタッフ一同のみ。
 のんびり釣りを楽しんでいる利用者達も、店の主も、近くを通りがかる人々もみな、何も言わない。何も驚いていない。

「わしらは慣れとる」

 しわがれた声で鈍く笑いながらそう言った男がいた。

「なれ、るもんですか」
「もう十数年、こんな感じじゃからな」

 幼少期、少年期、青年期と、図体は大きくなったが中身は殆ど据え置きの六つ子達だ。不条理、理不尽、意味不明はお手のもの。何かが起こるたびに反応を返していては長生きできないことは必至。
 適当に流し、笑い、怒る。
 それくらいが丁度いい。

「お〜い、無視はよくないよ?
 お兄ちゃん、心臓がキュッてしちゃうから」

 呼んでも反応が返ってこなかったことが気に食わないのか、おそ松は唇を尖らせる。

「えっと、一松さん達は」
「オレは帰るよ。
 原稿、書きかけだから」
「送りマッスル!」

 元気な声と共に、十四松は一松の腹へ腕を回す。そのまま自身の脇へ引き寄せ、横に抱え込んだ。そして、地を蹴る。
 コンクリートが削れそうな勢いで踏み出された一歩は、まるで宙を行くかのようにして前進していく。一度、二度と続け、釣堀の入り口に設置されているフェンスを楽々と飛び越えた。

「気ぃつけてな〜」

 人間業とは思えぬスピードで駆け抜けてゆく弟の背中へ軽く声をかける。返事はなかったけれど、おそらくは距離の問題で聞こえてこなかっただけだろう。

「……スルーでいいかな?」
「いいんじゃね?」

 六つ子の在り方について悩むのはやめよう。
 本日何度目かの決心を胸に、二人はのろのろと釣堀を後にした。

 そこからの道のりは比較的穏やかなもので、通り過ぎる住人達と軽く会話をしたり、町の風景についてコメントをしたりの連続であった。おそ松の過去について触れてくる者もいないではなかったけれど、そのどれもが表面的な部分だけで、彼らが悪童として名を馳せていたこと以上の情報は何も出てこない。
 テレビということを考慮してくれているのか、おそ松からあらかじめ圧力がかかっていたのか。どのみち答えはわからないのだから追求はしなかった。

「いやー、こんなに濃い一日は始めてでした」
「面白いっしょ」
「しばらくは食傷気味だろうけどな……」

 刺激的ではあった。否、刺激的過ぎた。
 道中、幾度となく撮影を続行してもいいのかと迷い、自問自答に耽ったことか。
 この映像がお茶の間に流れれば、世間からはどのような反応が返ってくるのだろう。是もあれば非あり、大騒動へとドミノ倒しのごとく発展していく光景が眼に浮かぶ。

「でも、悪くなかったぜ」

 竹田は沈みゆく夕日で顔を彩り、テレビ用ではない純粋な笑みをおそ松へと向ける。

「本当のお前は面白いし、この町も面白い」
「良い町だよ。本当に。
 オレらみたいな奴が住むのにうってつけ」

 後頭部で指を組みながら目を伏せた。

「だから、この町を荒らされたら、ちょーっと怒っちゃうかもね」

 穏やかな横顔に反して、その声にはトゲがある。
 安寧を脅かす者への警告は、竹田達に向けられているのではない。カメラの向こう側。いずれ放送されるこの番組を見ている視聴者へのものだ。

「確かに、お前達が揃って他に引越し、ってのは想像できねぇな」

 無茶を詰め込み、通りを引っこ抜くような連中だ。バラバラに暮らすのならばまだ御すこともできるかもしれないが、六人が揃った状態ではどうにもならないだろう。
 わずらわしいご近所関係に煩わされ、国家権力の世話になることだってあるかもしれない。

 それらから逃れるには、人のいない山や森の奥深くにもぐるしかなくなってしまう。彼らならば狩猟で生活できそうな気もするが、一応は生まれてから今日まで日本の首都で生活を続けきたのだ。今更、文明の利器が及ばぬ場所へ追いやられるのも辛いものがあるはず。
 結局、松野の六つ子が面白おかしく、自由に幸福に揃って生活するにはこの町が必要なのだ。

「わかってくれる?」

 開かれた片目が竹田を映す。
 お茶目な表情ではあるが、そこに妥協の色はない。

「おそ松さんって結構ブラコンみたいだもんね。
 一緒にいたいんだろうなぁ、って思うよ」
「はあ?」

 純粋な善意と本心から生まれた言葉を口から発しつつ、梅谷は真綿のように柔らかな笑みを浮かべる。これでテレビの前にいる女性の何十、何百人かは胸をときめかせたことだろう。
 しかし、対するおそ松の声は真逆。
 低く、嫌悪と威嚇が混じったような音をその口から吐き出した。

「ブラコン?
 オレがぁ? 冗談はやめろよな」

 眉間にこれでもかという程にシワを寄せ、否定の言葉を紡ぐ。照れ隠しにしては強すぎる拒絶だが、彼を見る竹田と梅谷に怯えは見えない。

「同い年の兄弟が五人もいるんだよ?
 飯は常に奪い合い、比較されて、一緒くたにされて。
 敵だよ、敵。ブラコンなんて冗談じゃないっての」

 口先で何を言い、どれだけの表情を浮かべたとして、もう騙される二人ではなかった。

「そうなの?」
「あったりまえだっつーの!
 むしろ、ブラコンはあいつらだからね?
 すーぐ、お兄様に助け求めにくんの!」

 素のおそ松と出会って一日にも満たぬとはいえ、彼は非常に底が知れぬわりにわかりやすい性格でもある。兄弟に対する深い愛情と、外敵への強烈な殺気。その二つさえ抑えていれば松野おそ松という人物を八割は理解したといえるだろう。
 芸能生活で見せていた演技力を用いてそれらを隠しているようだが、一度気づいてしまえば後は容易い。

「まず、トド松!
 あいつのデザインでカラーシリーズ? ってのがあるだろ」
「五色のやつですか?」

 カラーシリーズというのは正式な名称ではない。トッティーブランドの愛好者が自然とそう呼び始めたデザインのものだ。
 彼の手がけるデザインのなかで、とある色達がメインにすえられたとき、必ず共通したものが見えることからその名称がつけられている。

「そうそう。あれ、兄弟のイメージカラー使ってやってんの。
 青ならカラ松。やたらギラギラしたデザイン。
 緑はチョロ松。地味でだっせーやつ。
 紫は一松で、ネコのモチーフ。
 黄色が十四松。軽くて持ち運びやすい。
 んで、赤がこのオレ。おそ松。シンプルで絶対何処かに松がついてるやつ」
「……なるほど」

 おそ松が上げた特徴は、確かにカラーシリーズの特徴だ。服や鞄からハンカチといった小物まで、いずれかの色がメインにすえられたときの雰囲気はあの兄弟達に合っているように思える。

「十四松は大体、色んな写真を混ぜて出版してんのに、一種類の動物だけが特集されたやつあるだろ?」
「パンダとか狼とかのやつか?」
「あれはオレ達のパジャマね」
「えっ?」

 動物とパジャマ。この二つが繋がらない。
 一瞬、二人の脳裏をよぎった、きぐるみパジャマ、という単語はこの際無視しておくことにする。まさか、成人を越えた男のパジャマがそんな愛らしいものだとは思いたくもないのだ。

「むっかし、母さんが冗談で買ってきたんだよねぇ。
 オレがパンダで、カラ松が狼。チョロ松がカエルで一松がこうもり、十四松はキリン、トド松がウサギってやつ」

 あえて黙した二人に構わず、おそ松は言葉を重ねていく。
 残念なことではあるが、きぐるみパジャマという選択肢を顔面に叩きつけられてしまったようだ。

「……あの写真集、人気でしたね」

 想像したくはない。しかし、脳が勝手に同じ顔を六つと、それぞれの動物を組み合わせてしまう。見目としては悪くないが、それでもどこかげっそりとした気持ちになってしまうのは仕方のないこと。
 梅谷はやや肩を落としながら返事をする。

 事実、十四松の出した動物特集シリーズは人気で、第二弾まで発行されていた。野生の凶暴さや自然との調和を上手く写し取っているそれは他の写真集以上に魂が入っているように思えたのだ。
 その理由に兄弟があるのならば、それはそうだろう、と竹田達は納得してしまう。

「一松は小説に絶対オレ達をモデルにしたキャラを入れてる」

 おそ松は耐え切れないとでも言いたげに、喉から笑い声をもらす。

「可愛いのがさぁ、兄弟と大喧嘩したときに小説書くと、モデルにしたキャラに良い思いさせたりすんの。
 たまーに、同じように喧嘩させて、話の中で謝ったりしてさぁ」

 ちゃんと口に出さなければ伝わらぬ謝罪もあるだろう。だが、物語の中のそれだけで満足できることもある。同じ腹の中で過ごし、同じだけの年月を歩んできたからこそ、彼は、他の兄弟は、素直になれぬ四男の謝罪に仕方ない、という言葉と許しを返してやれるのだ。

「チョロ松の場合は自分で振り付けを考えるときにオレらっぽいのを入れる」
「おそ松達っぽいの?」
「あー、ほら、今朝のダンス、覚えてる?」

 松野家の庭で行われたダンスのことを言っているのだろう。無論、答えは是だ。年単位で記憶に残るような技巧であったものを十数時間程度で忘れることなどできやしない。

「あれなんて典型だよ。
 携帯使ってるみたいなのはトド松。回ったときのは十四松が野球好きだからで、猫背っぽいのが一松。鼻の下をこするのはオレの癖で、髪の毛を掻きあげるなんて格好付けはカラ松」
「へぇ〜」

 互いをよく知っているからこそ気づけることで、一番付き合いの長いおそ松ですら本性まで知りえていなかった竹田や梅谷では察することすらできない部分だ。
 おそらく、チョロ松のファン達でさえ、彼の振り付けに共通したイメージがあることを知ることはなかっただろう。それほどに、チョロ松は上手く特徴を落とし込んでいた。

「んで、カラ松は――」
「楽しそうな話をしているじゃないか。
 おそ松〜?」

 最後の弟について話そうとおそ松が口を開くと、心地良い低音が響いてくる。

「ゲッ。お前、こんなとこで何してんの」
「光のもとに立ち、振舞うレッスンを終えたところさ」
「……いつから聞いてた?」

 仰々しく両腕を広げたカラ松へ、おそ松は胡乱気な瞳を向けた。
 聞かれて困るような事柄を話したつもりはないけれど、聞かれていないことを前提に話していた事柄だ。湧き出るのは良い予感は全くしない。

「んん〜?
 そうだなぁ、トド松のデザインがオレ達六つ子をイメージしている、というところから、かな」
「それって最初っからじゃねーか!
 とっとと声かけてこいよ!」
「邪魔をしてはいけないという、オレからの心遣いだ。
 ありがたく受け取ってくれ」
「なーんにもありがたくねぇんだよなぁ!」

 周囲は徐々に暗くなり始めているというのに、カラ松は格好をつけてサングラスをかけている。色を通して見る世界は見え辛いものだろうに、彼の足取りに不安な要素はなかった。

「ち、な、み、に!
 オレは役になりきるときにブラザー達を欠片を持っているぜぇ」
「欠片、ですか?」

 声高に、軽やかに宣言してくれたのだが、言っている言葉の意味がわからない。欠片とは何か。物なのか気持ちなのか。あるいは観客として兄弟の誰かが存在しているということなのか。
 梅谷が首を傾げると、隣でおそ松が深いため息と共に首を左右に振った。

「それじゃわっかんないでしょうが」
「why! 何故だ!」

 いいから、とカラ松を押しのけ、おそ松が解説を行う。

「こいつ、役になりきると帰ってこれないときがあるのよ」
「は? どういう意味だ?」

 疑問が飛び出るのも当然のことだ。
 竹田達とて、俳優や役者と繋がりがあるけれど、役から帰ってこれなくなった人間の話など聞いたことがない。成りきるあまり、日常生活に影響が出る程度のことはあるらしいが、それとて、すぐさま自身の異常に気づくことができると聞いていた。
 人間には今までの人生があり、経験がある。架空の人物に心の奥底から成りきることは不可能のはず。

「頭が空っぽの馬鹿だからさ。
 心の奥底、真ん中の柱まで成りきっちゃうんだね」
「自分の才能が恐ろしいぜ……」
「褒めてないぞー」
「えっ……?」

 役者の才能を持っていることは素晴らしいことだが、その対価が自身という存在だというのはいただけない。おそ松の瞳には何処か苦々しい感情が見え隠れしていた。

「だから、役に成りきる前に、兄弟との思い出とか癖とか、まあ、とにかく色々頭に詰め込ませてんの」

 カラ松という一人の人間が、架空のキャラクターに乗っ取られぬようにするには、それが一番手っ取り早かったのだ。一から何かを作り上げるのは難しいが、在るモノを詰め込むだけならば労力もそうかかりはしない。
 横着といわれればそれまでだが、思春期もとうに過ぎ去り、人格形成が終わってしまった人間の真ん中に彼自身を作り上げるのは並大抵の努力では叶いそうになかった。
 たとえ、周囲がその手助けをしたとしても、肝心のカラ松がその努力を放棄するに違いない。
 でなければ、彼はニートなどというものにならず、立派に社会のレールに立っていただろう。

「オレのブラザーに対するラァブ。
 そして、ブラザー達のオレに対するラァブ!
 二つがオレをオレたらしめているの、さっ!」
「イタイイタイ。
 あ〜、あばら三本は逝ったよぉ〜」
「な、何故だ!」

 胸を押さえ、ゆっくりとうずくまってゆくおそ松へカラ松は驚愕の声を落とす。梅谷と竹田も軽く胸を押さえていたのだが、六つ子の上二人はそれに気づかない。

「ま、まあ、そんな感じ」
「仲の良いご兄弟で羨ましいです」

 膝を曲げて地面の傍からおそ松が言葉を投げれば、梅谷が痛みを堪えた顔で返してくれる。

「一方的に愛されて困っちゃうわ」
「ん? おそ松、それは違うだろぉ?」

 もし、この場にカラ松がいなければ、苦笑いの演技をしたおそ松でこの場は納まっていたことだろう。また他愛もない雑談を交えつつ前へ進み、家に帰る。それだけで済んだはずだ。

「お前の話をまだしてないじゃないか!」

 勢いよくサングラスを外し、悪戯を楽しむかのように細められた目を兄へと向ける。

「は……」

 おそ松の顔がわずかに青くそまった。
 夕暮れの赤さを持ってしても隠しきれぬその色は、明るい世界でみればより鮮明な青となっていたことだろう。

「オレはべっつにお前らのこと好きとかじゃねーよ?
 むしろ敵だと思ってっからね!
 五人の敵!」
「ふっふーん。
 なら、お前が撮影時に身に着けている色はどう説明するんだ?」

 跳ねるようにして立ち上がり、声色を強めて反論を口にする。だが、カラ松は聞く耳を持たない。鼻を鳴らし、おそ松をさらに追い込むべく、探偵のごとく人差し指を彼へと向けた。

「色ぉ?」

 怪訝な顔をしてみせるおそ松だが、演技の皮は剥がれつつある。強気な瞳に反し、目元は緊張からわずかに痙攣するというわかりやすさだ。

「お前、衣装や小物の色にオレ達の色を一つも使わなかったことはないだろ」
「そりゃ五色もありゃ、どれか一つくらいは入ってくるっつーの。
 オレじゃなくて番組やらスタイリストの采配だ」
「普段はつけないブレスレットやネックレスの類もか?」
「そうだよ」

 六つ子のイメージカラーというものは、確かに珍しい色ではない。青や緑、紫などは男性に当てはめやすい色であるし、黄色やピンクと言った色もテレビウケしやすい色だ。全てを揃えるというのは難しくとも、一つや二つならば何処かしらに使われていても違和感はない。
 色と小物、もしくはモチーフが常に一緒というのならばともかく、いずれかの色が使われている、というだけでは兄弟を思ってのことだと断言することはできないだろう。

「ならば、共演者はどう説明してくれる?」

 一つが否定されただけで白旗を上げるつもりはないらしい。目を光らせ、再度おそ松への攻撃を開始する。

「一松が書いた小説をこっ酷く批判した批評家がいたが、彼と同じ番組にはもう出ないのか?」
「事務所の都合だ」
「トッティーブランドの愛好者をイナゴのようだと評した女優とは?」
「そんな奴いた?」
「十四松の写真に加工疑惑を向けたあの雑誌。
 あれ以来、おそ松のインタビューは載らなくなったな」
「偶然だろ」
「バックダンサーなんて余計なアクセサリーだって言ったあの歌手、今頃何してるんだろうな」
「流行り廃りがあるからしゃーねぇわな」
「……強情な奴め」
「お前こそ」

 火花を散らす二人を前に、竹田と梅谷は背筋が凍るような思いをしていた。
 名が売れれば批判する人間が出てくるのは当然の節理。正体を隠していたとはいえ、売れっ子である一松らもその中に組み込まれるのは致し方のないことだ。
 有名税として粛々と受け入れ、時の流れを待つしか解決策はない。

 だが、おそ松はそれをよしとしなかったのだろう。

 事務所は彼と批評家の共演の全て拒否することとなった。それなりに有名な話ではあるのだが、その根本的な理由に触れようとする者は誰一人としておらず、何か、余程気に障ることを言ってしまったのだろう、とだけ噂されていた。
 女優に関してもそれは同じで、今も映画にドラマにと活躍している彼女であるが、おそ松がレギュラーとしてすえられている番組にだけは出演したことがない。
 歌手に関してはヘタをすればおそ松が潰した可能性まである。発展途上、あともう一息で売れっ子、という程度の歌手であったため、少し手を回せば芽を摘むことは容易いはず。

「……オレ達、悪口言わなくてよかったな」
「そんな気、これっぽっちもなかったけど、良かったよ」

 彼の弟に悪意を向けたことは一度もない。
 小説も写真も良いものであると思っていた。しかし、加工疑惑のデマを信じてしまうだとか、ちょっと批判の尻馬に乗ってしまうだとか、そんな些細な過ち一つでおそ松は二人の敵になっていただろう。
 親や視聴者の目よりもそれは恐ろしいことだ。

「ことあるごとに一松の小説を紹介してるだろ!」
「そういう仕事なんだよ!」
「絵より写真を推すのは!」
「単純にそっちのが好きなだけ!」
「あー、もう。
 そろそろ行きますよ」

 次から次に証明のための言葉を吐くカラ松と、上手く交わし続けるおそ松では決着はつきそうにもない。唾を飛ばしあいながら戦い続ける二人を背後から竹田と梅谷が羽交い絞めにしていく。

「カラ松さんも後は帰宅するだけなんですよね?
 なら一緒に帰りましょうよ」
「…………了解した」

 梅谷が言えば、カラ松は渋々頷き、体から力を抜く。あのまま放っておけば、間違いなく拳と蹴りが飛び交う争いに発展していただろう。

「ここカットね!
 ぜんっぜん、事実じゃないけど、余計な誤解されたくねぇから!」

 おそ松の方も竹田から解放され、スタッフに向かって指示を飛ばす。面白い画ではあったが、共演拒否や若い歌手の芽を潰した疑惑辺りは恐ろしくて使えたものではない。彼からの言葉がなくともカット予定だ。

「カラ松ぅ、今日の晩飯、何?」

 ころりと態度を変えたおそ松はカラ松に擦り寄り、肩に腕を回す。

「何を言っているんだ。
 今日はお前の奢りだろ〜?」
「チッ。覚えてやがったか」
「忘れるわけないだろ。
 寿司にするか、肉にするか……。
 ブラザー達が首を長くして待っているだろうさ」

 軽口を叩き合う二人の背中をカメラが写してゆく。
 長男であるおそ松へ兄という敬称をつけぬカラ松は、等しく六つ子の兄なのだろう。同じように並んだ背中は不思議と広く見えた。
 黄昏の闇は彼らの間に流れる空気に第三者が触れることの出来ぬ神聖な郷愁を添える。

「あ、いたいた」

 進む二人の向こう側に四つの影。
 こちらの姿を見つけ、ぱたぱたと軽い足音と共にやってくる。

「おっそいよ」
「晩御飯! 晩御飯!」
「寿司にしよう……」
「ぜってぇ逃がさねぇからな!」

 可愛くない成人男性四人はあっという間におそ松とカラ松を囲む。まだ夜にもなりきっていないというのに、晩の食事を待ちきれず迎えにきたらしい。
 何とも気の早いことだが、囲われた二人はまんざらでもない様子だ。

「珍しく迎えにきたと思ったら、そっち目当てかよー」
「それ以外に理由あるわけないじゃん」

 憎まれ口も嘆く口も、演技であり本心でもある。
 それが家族というものだ。少々、度が過ぎることもあるようだが。

「梅谷ー。竹田ー」
「おう」
「何?」

 おそ松が手を上げる。

「そろそろ解散でもいい?
 オレ、こいつらと晩飯行くから」

 二人は顔を見合わせ、カメラマン達にもアイコンタクトを送る。
 濃く、長い一日だった。フィルムに収められた映像は充分すぎるほどの良になっているはずだ。スタッフ一同が静かに頷けば、梅谷らも同じ動きを返す。

「了解。んじゃ、最後の締めだけ付き合ってもらうぜ」

 六人の背を無言で撮り続けるというのも締めとしては最適かもしれないが、番組としての終わり方も全うしなければならない。竹田はおそ松を呼び寄せる。

「んっと、何してたっけ、この番組」
「おい。ちゃんとこれ見たことあるんだろうな」
「あるある。えっと、うん、あるよー」
「嘘っぽい……」

 おそ松を二人が挟むようにして立つ。真正面にはカメラが一台。

「今日は一日ありがとうな」
「次はアポとってくれよー」
「番組の趣旨から外れるのでそれはナシで」

 軽く総括をしていくのがいつもの流れだ。
 あれやこれやと口に出していくと、今日という日がどれほど濃密だったかが再確認できてしまう。思い出すだけで精神的な疲労が蓄積されていくのだから、松野の六つ子、恐るべし、といったところか。

「それでは皆さん」
「まった来週ー」

 カメラに向かって笑みを浮かべ、手を振れば撮影は完了する。

「はい! 終了です!」
「お疲れさまー」
「つっかれたぁ……」

 カメラマンの声を合図にして、スタッフ一同も全身から力を抜き、身体中に溜まった疲労を存分に感じることとなった。

「お疲れー」

 どうにか立つ気力を保っているのは梅谷と竹田くらいのもので、おそ松は労わりを込め、彼らの背を叩く。悲鳴を上げる彼らを笑いながら、スタッフ達にも声をかけて回る。
 彷徨わせている視線を見れば、彼が礼儀や労わりの気持ちだけでそれを行っているのではないことがわかった。どうやら、誰かを探しているらしい。

 彼の向こう側で大人しく待っている五人の兄弟は、やいのやいのと互いに言葉を交わしながら大人しく待ってくれている。どの店に行くかを相談しあっているようだ。
 喧嘩に発展する様子がないところを見るに、本命は既に決まっており、今はおそ松を待つついでに相談ごっこを楽しんでいるのだろう。

「あ、いたいた」

 左へ右へと動いていたおそ松の瞳が一人の男を捕らえる。

「事務所の方にちゃんと言っといてくれよな」

 無邪気な笑みと共に言葉を差し出されたのは、新人マネージャーだ。一つの苦難を乗り越え、肉体的にも精神的にも疲労困憊であろうところにおそ松のあの台詞だ。
 鋭い威力を持ったそれは、トドメとなる。

「後のことはそっちで話し合ってくれればいいから」

 一難去ってまた一難。いや、マネージャーにとってはここからが本番か。

「んじゃぁねー」

 人の心に杭を打ちつけておいて、本人は軽やかな笑みとステップで兄弟の世界へと帰っていく。物理的に外傷を与えてのそれであれば、性質の悪いサイコパスという意見で満場一致だ。
 しかし、幸いなことにおそ松の言葉は物理的な殺傷能力はなく、ただただマネージャーの顔を青く染め上げただけに終わる。

 こうして、番組史上初の波乱は終わりを迎えた。
 後日、無事に放送とあいなったこの映像が世間のあちらこちらで騒ぎを巻き起こす結果となったのだが、その件に関しては皆まで言う必要もないことだろう。