どれほどの迷惑をかけられていようが、当たり前のようにそこにいた存在が消えてしまうと寂しいものだ。カンシュコフは木の板で簡易修理された房を眺めた。
つい昨日まではここに二匹の兎がいた。一匹は昨日出所の予定だった。もう一匹は一生をここで終えるはずだった。
「何やってるんだい?」
ぼんやりとしていたカンシュコフの肩を誰かが叩く。振り返れば、そこには灰色の兎がいた。
「ショケイスキーさん」
この監獄の中では幾分か先輩だ。とはいえ、直接関わることはあまりない。彼は処刑執行人だ。カンシュコフが担当している囚人が殺されるときだけ関わりを持つ。これは本来ならばの話だ。
カンシュコフとショケイスキーは仲がいい。看守と処刑執行人というのは仲が悪いことが多い。それなりに世話をしていれば、看守にも情がわくということだ。二匹の仲がいいのは、キレネンコの存在が一つの理由だ。
どれだけ痛めつけても無表情。どのような手段を用いても死なない。二匹にとってお互いは、苦労を分かち合うことのできる貴重な存在なのだ。
「彼ら、行っちゃったね」
「はい」
自然と視線が下がる。
散々痛めつけられた。心身共に疲れ果てていた。しかし、そんな生活をどこかで楽しんでいるふしもあったのだ。
わがままを言うキレネンコと、マイペースなプーチン。そこに苦労性のカンシュコフがいる。そんな図は、カンシュコフの記憶にしっかりと刻まれていた。
「寂しいの?」
「いえ、とんでもない!」
顔をあげ、大きく首を振って否定する。
相手は囚人だ。逃げられたことに対して自分を責めるのならばともかく、寂しいと思うことなど許されない。自分の心をじっと押し殺す。
「うそつき」
四文字の言葉を聞き取ったとき、カンシュコフの首筋に大きな鎌が添えられていた。声を上げることもできず、静かに息をのむ。視線をあわせると、誰かを殺すときの鋭い眼に刺される。
口を開くが、声は出ない。膝が笑い、今にも地面に尻をつきそうになる。凶悪な囚人のものとは違う。キレネンコの眼とも違う。純粋な殺意がカンシュコフの身を包む。
「ボクとキミの仲じゃない。嘘はダメだよ。
ほら、正直に言ってごらん?」
声色までもがいつもと違った。優しい口調だというのに、まるで尋問にかけられているようだ。
「……うそじゃ、な」
「ダメだよ」
眼と眼が近づく。
死の香りがいっそう強くなる。白目をむきかけたカンシュコフをこちらの世界に呼び戻したのは、首筋にあたる冷たい感触だった。
「さ、びし、い」
やっとのことで言葉を紡ぐ。そのとたん、涙があふれた。
「でしょ?」
あふれた涙は恐怖のためではない。鎌がそっと首すじから離され、膝をつく。涙は止まらず、廊下をぬらす。とめどないそれは小さな雨のようだった。
「無理しちゃダメだよ」
「うーっ。み、ないで、ください、よ……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった自分の顔が恥ずかしくて、カンシュコフは両手で顔を隠した。
「大丈夫。大丈夫。ここにはボクらしかいないよ」
「あん、たに、見られんのも、はずか、しいん、です!」
嗚咽を漏らしながらひたすら涙を流す。
これほどまでの虚しさなど知りたくなかった。彼らがいなくなるだけで、悲しみが押し寄せてくるとは思っていなかった。頭の中には連れて行ってほしかったという声が響く。
看守として恥ずかしい。男としても恥ずかしい。それでもあふれる涙は止まらない。
「ほら、これで見えない」
抱きしめられていた。
ショケイスキーの顔はカンシュコフの肩の上にある。確かにこの体制ならば、顔を見られる心配はない。
反論する力もなくなったのか、カンシュコフは静かに嗚咽をもらす。そのたびに振動が体に伝わる。ショケイスキーはカンシュコフの温もりに瞳を閉じる。
悲しみも、寂しさも、すべて自分の中においてくればいい。その気持ちでいっぱいだ。
ショケイスキーの中には冷たい風が吹いている。いまさら冷たいものが一つや二つ増えたところで構いはしない。カンシュコフにはいつも温かい風を感じてほしい。
「大丈夫。きっとすぐに戻ってくるよ」
本心ではない。
彼が本気になれば、一生ここへ戻ってこないだろう。戻ってくれば、再び処刑執行人であるショケイスキーがその命を奪う。
「友達、だったもんね」
ときにはゲームをし、ときには食事をした。
ろくでもない思い出ばかりだが、楽しい時間をすごしていた。
「……すいません」
しばらくして、カンシュコフが呟いた。同時にショケイスキーから離れようとしたが、がっちりホールドされていて離れることができない。
「あの……?」
「もう少し。ボクのために、いいでしょ?」
表情は見えなかった。しかし、とても寂しそうな顔をしている気がした。
「はい」
ショケイスキーから感じる温もりをカンシュコフはしっかりと受け止めた。
END