とある島国の王は、いっこうに跡継ぎが生まれないことを不安に思っていた。彼はそれほど年を取っていたわけでもなく、次世代について考える猶予は十分にあったのだが、良き王として民から愛されていた王は、己の亡き後にこの国を導いていく存在が気がかりでしかたがなかったのだ。人はいつ死ぬかもわからない。何かあってからでは遅いのだ。打てる対策があるのならば、早急に進めるべきだと常々考えていた。
それ故に、王子を欲した。良き教育を受けさせ、民が愛してくれる己の背を見せて育てたかった。それが、次世代のための策だと彼は信じていたのだ。
誰よりも王の傍にいた妃もまた、彼の考えを受け入れ、信じていた。自身の腹に命を宿すためにまじないを受け、勧められるがままに薬を飲みもした。周囲が焦らなくてもいい、と口添えをしてくれたとしても、国を愛する二人は止まることをしなかった。
そんなある日のことだ。王が嗜みの一つとして囲っていた女の一人が子を宿した。そのことに気づいた女は、すぐに城を離れ、国の端で密かに子供を生んだ。この国では、継承者争いを避けるべく、妃との子供以外は殺してしまうか、追放してしまうが慣わしだったためだ。願わくば、母の血を色濃く継ぐか、女であればいい。母となった彼女はそう思っていた。
だが、現実は残酷なものだ。生まれた子供は、男で、王の血を色濃く継いでいた。王族にのみ現れるというオレンジ色の髪は、彼女を絶望に叩き落としながらも、希望のごとくきらめく。こうなってしまえば、子供の存在を隠し通すのには無理があった。最後まで女は足掻いたが、子供が乳離れをした頃、彼女と息子は国王の目の前に連れ出されることとなってしまった。
「間違い、ありませんわね……」
王の隣に座る妃が零す。どう見ても、女の腕に抱かれている子供は王の血を引いた男だ。すなわち、王が待ち望んでいた存在と言っていい。
本来ならば殺すか追放するかの二択だ。しかし、王は迷っていた。このまま、愛する妃に子供が宿るのを待つばかりでいいのか。いつになるかわからぬ、不確定なものに頼っていいのか。目の前の子供を王子にしてしまえば、未来への道を一歩踏み出すことになるというのに。
妃は王の迷いを察していた。同時に、己の腹に子を宿すのは、酷く困難なことなのだろうということも、彼女はわかってしまっていた。愛する王と国のために、彼女は決断を下す。
「その子を王子として迎え入れましょう」
「だが……」
「いいのよ。この国の、未来のためだもの」
妃は微笑み、子供とそれを抱く女の前に膝をつく。周囲がざわめいたが、彼女にとってそんなものは蚊ほどの存在感もないらしい。
「あなたの子供を私達にくださる?
きっと、大切に、立派に育てますから」
女はこの国の民だ。妃の優しさも、彼女が民を子供のように愛し、慈しんでくれていることを知っている。ならば、己の腕の中で眠っている子供も、幸せにしてくれるに違いない。少なくとも、殺されることや、追放されることはないのだから。
二人の女は目をあわせる。
「はい」
女の目から涙が流れた。おそらく、我が子を抱くのは、今が最後になる。もう二度と会うことはないだろう。母と呼んでもらうことすらなかったが、それでも我が子の幸せのためならば、己の悲しみなど捨て置ける。彼女もまた、辛い決断を下したのだ。
子供が女の腕から妃の腕へと渡される。
「名前は?」
「……ベクター、でございます」
この日、国に王子が産まれた。
王子が生まれてから十数年程の月日が流れた。一人で立つことすらできなかったベクターも、今では王子としての風格を身に付けていた。他国からの要人と顔をあわせたときも、何一つ恥ずかしくない振舞いを見せ、相手国の使者を唸らせた程だ。
未来を担う存在として、彼は安寧と生きていくことは許されていなかったのだから、それは当然の結果といえるだろう。物心ついたときには、すでに王としての教育が施されていたのだ。武術を学び、知識を得て、王としての振る舞い方を授けられた。楽しい人生だと思ったことは一度としてなかった。誰もが羨む食事も、所作の一つ一つを監視され、咎められると思えば砂と同じ味しかしない。
少しの空き時間、ベクターは日当たりの良い自室から外を眺める。青い空の下で民が蠢いているのが見えた。これが雨の日だとしても、人数が減るだけで民が蠢いていることには変わりない。いつもと同じ、変わらぬ風景だ。
彼にとって、民とは紙上と伝聞の上にだけ存在するモノで、実際に動いている姿を見ても、いまひとつ理解できぬモノだった。生活様式や仕事、彼らを生かすために必要な物や政策。そんなものは知っている。だが、それだけだ。
「……わからん」
小さく言葉を零す。
ベクターの父である王は、民に慕われているらしい。王は民のことを考えるべきなのだと言う。
だが、ベクターにはそれらがわからない。
慕われることがわからない。意味は理解できても、それがどういうものなのかがわからない。民のことを考えようにも、その存在を理解できない。
己の頭が欠陥品なのかと考えたことも、ないわけではない。しかし、ベクターに物事を教える教育係共は一つをこなせば三を渡してくる。これは、ベクターにそれだけの力があるという現れのはずだ。
ならば、何故に理解できないのだろうか。ベクターも努力はしている。こうして、外を眺めるのも努力の一環だ。時として、知識を百聞くよりも、一つの現実を見る方が遥かに有意義なことある。先人達が残してくれた、ありがたくも一向にベクターの役にたってくれぬ言葉を胸に、彼は今日も外を眺める。
いっそのこと、あの蠢きの中に身を投じてみるのもいいかもしれない。ベクターは薄っすらと笑みを浮かべる。対人ようの作られた笑みではないそれは、どこか禍々しさを感じさせた。
彼の口角が下がったのは、そのすぐ後だ。
ぼんやりと全体を眺めていたベクターの視界が、一つに集中する。そうして目に収められた光景は、ありふれたといっていいものだった。
一人の女と一人の娘。仲睦まじい親子だ。互いに目を合わせ、幸福そうに笑みを浮かべている。見れば心が温まる様子を目に、ベクターの瞳は暗い色を宿す。
「民、ねぇ」
低い声だ。そこに憎悪が見え隠れしているのは気のせいではない。日当たりが良いはずの部屋が、どこか薄暗くなる。冷え冷えのした空気は、ベクターから生み出されている。
守るべき、大切にするべき民。王が幸せそうな親子の光景を見れば、喜びの言葉を口にするだろう。ベクターは想像に容易い言葉に苛立ちを覚えた。
彼は王子だ。その風格を持ち、教育を受けている。だが、どうしても、民を思う気持ちだけは養うことができなかった。ベクターがその身に宿す民への思いは、純然たる憎悪だ。
時折、目に映る民の姿はいつも幸福そうであった。誰もが笑みを浮かべ、今日や明日の希望を抱いている。いつだったか、どこかの国の使者がこの島国を褒め讃えていた。中には世辞も含まれていたのだろうけれど、本心が欠片も混じっていなかったということはないはずだ。教育の結果か、天賦の才か、ベクターは人の心の内を読むことに長けていた。それ故に、他者から見れば自国が素晴らしいということは理解できていた。
「ベクター様」
不穏な空気を打ち壊したのは、名前も知らぬ城の従者だ。
扉の前に立つその体は屈強で、有事の際にはその身を持って国と王を守るのだろうことがわかる。
「稽古の時間です」
「わかった」
端的な会話を済ませ、ベクターは足を進める。
一日の内に、彼が外を眺める時間などほんのわずかしかない。外へ出るといえば、稽古や学びのため。遊ぶ行為を知らぬわけではないが、つまらぬ王族の遊びを学んでいるだけなので、別段楽しくもなんともない。
蠢く民の中に身を投じる暇など、ベクターにはなかった。
今日もこれから先は予定が詰まっている。民に憎悪を向けることさえもうできない。彼は呆れたように鼻から息を吐いた。自分の人生に対してか、感情に対してか。あるいは、幸福を当たり前のように享受している連中に対してか。答えを導き出す必要はないだろう。
教育係が一を差し出せばベクターも一を受け取る。次は三、五、と日に日にやるべきことの難易度や量は増えていく。どこかに上限があるはずだが、今のところベクターにはそれが見えてこない。そもそも、どこを目指しての教育なのかもいまひとつわからなかった。
立派に、とは言われても、具体的なことは何も告げられていない。国と民を背負うと言われても、後者がわからないのだからどうにも思えない。
むしろ、教育係共は己が身に宿っている憎悪を消させるべきだろう、というのはベクターの考えだ。このことは彼の胸にのみ存在しているので、誰一人としてそれを実行できずにいることは棚上げだ。
「所詮、王妃様の子供ではないのだろ?」
稽古場へ向かう途中、誰かの声がベクターの耳に入った。
入った先から耳と言わず、鼓膜から腐り落ちていきそうな声と言葉だ。
「急がずともよかったというのにな」
口の軽い彼らのおかげで、ベクターは早いうちから己が母と呼ぶ女が母親でないことを知ることができていた。いちいち話す必要もないと感じているので、このことは王も妃も知らない。彼らは、未だにベクターのことを何も知らぬ子供だと思っているだろう。
ベクターは幼い頃に事実を知ってしまったのだが、悲しみを覚えることはなかった。元より、母親と濃い繋がりを持っていたわけではない。毎朝顔を合わせ、言葉を交わしもするが、それだけだ。彼女が母であろうがなかろうが、どちらでも構わなかった。
囲われていた女の子供だというのに、殺されずに生きているだけ儲け物だ。
「耳も目も、腐るなぁ」
口汚い言葉を吐くのは構わない。どうせ、黙っていたとしても顔を見ればベクターにはわかってしまう。無表情な顔の裏に、へりくだる顔の内側に、渦巻く腐臭と悪意が見える。
ただ、その汚いものに己が侵されていく感覚は気色が悪い。
「あの方に仕えることになるんだろうか」
「さてなぁ」
どこへ行っても同じような言葉が聞こえてくる。ベクターの予定も把握していないというのに、よくもまあ恐れずに口を開けるものだ。聞かれていたら、と思いはしないのだろうか。想像すらできぬ程に愚かなのか、たかが囲われ女の子供、と侮っているのか。
「だが、聞いたか?」
不意に、声色が変わった。
ベクターは黙々と進めていた足を止め、気配を殺す。
「王妃様がご懐妊なされたそうだぞ」
明るい色に、ベクターの時が止まる。
「本当か?」
「あぁ。王子か姫かはわからんがな」
「いやいや、どちらにしてもめでたいことだ」
「王の御歳ならば、今からでもまた王子を育てられることだろう」
楽しげに会話が弾む。彼らと壁を一枚挟んだところで、ベクターがどのような顔をしているかを知らないからできることだ。
ベクターは壁に背を預け、ずるずるとその場にへたりこむ。その顔は血の気が引き、青く染まっていた。表情に名をつけるとすれば、絶望、という名が当てはまる。
今までの短い人生を振り返ってみても、幸せだとは思えない。
褒められたことも、優しくされたこともない。厳しい指導を受け、それらをこなしても当然と見なされてきた。父や母と呼ぶ者に何かを伝えたところで、二、三言の返事があるだけだった。
凍えぬ部屋はあった。飢えぬ食事はあった。学ぶ環境はあった。
蠢く民が、当たり前のように享受しているらしい、幸福、というものはなかった。
「――ハッ。馬鹿馬鹿しい」
誰にも聞こえぬよう、言葉を吐き出した。
顔を膝に埋め、頭を両の手で抱える。今は何も見たくも聞きたくもない。今まで平気だと思っていた言葉や態度さえ、今の自分には鋭い刃と化すことが目に見えている。
「全部、無駄だった、ってかぁ?」
認めてもらおう、などとは思っていなかった。だが、努力とやらを重ねれば、周囲が感じているものを己も感じられるようになると信じていた。目的のために物事を進め、こなしていくことは辛くなかった。
それが、か細い希望だったのだということに、ベクターは始めて気づいた。
「くそっ」
暴れて、当り散らしたい気分になる。
今まで、少しずつ積み上げてきていたものが全て無駄になる。努力も、押し殺していた憎悪も、希望にすり替えていた辛さも。
たった一つの命が全てを脅かす。
「――そうだ」
ベクターはゆらりと立ち上がった。
誰かがその様子を見ていれば、まるで幽鬼のようだった、と言うに違いない。それ程に、彼の体に力はなく、纏うオーラに生気というものは見えなかった。
彼はふらりと歩く。不思議なくらい誰とも出会わず、己の部屋へ戻る。
薄暗いままの部屋には誰もおらず、ベクターは一度だけ外を見た。民は相変わらず蠢いており、どこの誰とも知らぬモノが楽しげな顔をしている。もはや、ベクターはそれに対する憎悪を隠そうとはしなかった。
己ほど努力もしていないだろうモノが、あれほど幸福そうにしている。許せない。世界は何とも理不尽で、すぐにでも壊れてしまえばいいと思う。彼は歪に笑う。
壁にかかった短剣をそっと手にし、部屋を出る。彼の心はもう決まっていた。
道に迷うことなく、真っ直ぐに目的の場所へ向かう。右手に感じる重みは、今までの人生で最も高揚感のあるものだ。
少しして、目的地にたどりつく。目の前にある、他よりも幾分か豪華な扉を前にして、ベクターは一度深呼吸をした。事を成すときは、心を落ち着かせていなければならない。
そして、彼は無遠慮に扉を開けた。
「あら、ベクター。
お行儀が悪いですよ」
部屋の中、豪華なベッドの上に女が座っている。優しげな顔だ。
今までベクターが見てきた彼女の顔も、穏やかなものであったが、それとは全く違う顔だ。母親の顔、とでも言えばいいのだろうか。
「聞きましたよ」
ベクターの内心に反して、彼の声は常通りのものだった。
「子供が、できたそうですね」
弟なのか妹なのか。それどころか、兄弟と言っていいのかすら謎だが。
「え、ええ。そうなの。
驚かそうと思って黙っていたのだけれど、誰から聞いたの?」
「誰だっていいじゃないですか」
声を聞くだけで、女の心が手に取るようにわかる。
心の内側でベクターは唾を吐いた。
王子として引き取った彼のことを女はそれなりに大切にはしてくれた。いじめられた記憶も、あからさまに冷たくされた記憶もない。だが、愛してはくれなかった。
実の子ができた今、他の女の股から出てきたベクターのことが邪魔になったのだろう。顔には出さず、己の子が男の子であると判明するまで追い出すこともせず。腹の奥底にだけ黒いものを抱えている。
「どうせ、死ぬんだからなぁ」
これも、未来への対策の一つだ。
歪んだ笑みのままに女の口を抑え、ベクターは短剣を振りあげる。
腹の中の命がこの世に出てくる前に、己の障害と化す前に、壊してしまえばいい。
「静かに、ね?」
まずは喉を掻っ切った。一瞬、くぐもった悲鳴が響く。だが、それもすぐに消えうせた。
女につけた傷は、すぐには死なぬ程度の深さだったが、声が出なければそれでいい。ベクターは口を抑えていた手を離し、女の腹へ目を向ける。目だった膨らみはないが、そこに命があるらしい。
「さようなら。
オレの赤の他人さん」
躊躇などしなかった。
短剣を何度もつき立てる。そのたびに、赤い血が噴出す。命の残骸が短剣についていたかもしれないが、そんなことはどうだってよかった。大切なことは、間違いなく仕留めることなのだから。
「ふぅ……」
周囲が赤く染まった頃、ベクターは短剣から手を離した。
この部屋にある命は彼のものだけだ。
「んじゃ、とっとと退散しますか」
血は適当に流して、城の外に行くつもりだ。一度くらい稽古をサボって民に紛れ込むというのも、王子らしくていいだろう。偶然、悲しいことに、王子が不在の間に妃が死んでいたとしても、ベクターには関わりのないことで通するもりだ。
賊の仕業に見せかけるために、部屋を荒らして金品を奪おうとベクターが足を踏み出す。その、はずだった。
「あ?」
何かが邪魔をする。
抵抗を受けて、ベクターは後ろを振り返った。
「なっ。こいつ……!」
そこには、ベクターのマントをしっかりと握っている妃の死骸があった。
掴まれているのは、普段から愛用しているマントだ。こんなところに置いていけば、犯人がまる解りというものだ。しかし、かといって最期の力を振り絞って捕まれた手から逃れられる程、ベクターの力は強くない。
焦る気持ちを抑え、打開策を考える。しかし、そう上手く良案は浮かばない。時間が経てば経つ程に焦りは積もり、危険性は増す。
「妃様っ?!」
背後から聞こえた声に、ベクターは目を閉じた。
どうやら、己がやった行為というのは、終わりを早めただけらしい。
絶望はなかった。全てが無為に帰した脱力感だけが彼を埋め尽くしていた。
妃とその腹の中の子を殺したベクターは、至極当然に死刑を言い渡された。
纏っていたマントも、装飾品も引っぺがされ、ボロのズボンだけを履いている状態にされた。みすぼらしい格好ではあるが、意外とまともな常識を知っている彼は、現状を鑑みれば己の姿は正常なものだと認識していた。
だが、それと憎悪を抱くのは別の話。
処刑場の真ん中、首切り台の前につれてこられてもなお、ベクターは恐怖を抱かず、世界に対する憎しみだけを抱えていた。
「見よ」
かつて父と呼んだ男が冷たく言い放つ。
促されるままに視線を向ければ、鈍い音を響かせながら首切り台が横へ移動していくのが見えた。今まであれが動いたところは見たことがないので、今回は特例だということだろう。
「ここには、先祖代々伝わる神が宿っている」
罪人の首を落す場所に宿る神。どう考えても碌なものではない。
つけられた首輪と繋がっている鎖を王が引く。小さな呻き声をあげて、ベクターは首切り台があった場所を覗きこむ。
深い、底が見えぬ穴だ。よく見れば、透明な水で満たされているようだ。
「お前は、今から神への供物となるのだ」
王が言うや否や、周囲にいた兵がベクターの足に鉄球を付ける。子供には過ぎた重量だ。このまま水に落されれば、浮かび上がることはない。冷たく暗い水の底で、ベクターは腐りゆくのだ。たった一人で。
憎悪を込めて王を睨む。しかし、彼は意にも返さず、無言でベクターの背を押し出した。
「神よ。王の血を引く者を捧げよう。
その対価として、私の妻を蘇らせたまえ」
バランスが崩れ、頭から水に落ちる。すぐ後に鉄球も水の中に落されたらしく、態勢はすぐに逆転した。
頭上に見える光はだんだんと薄れていく。下を見れば、何もかもを飲み込まんとする闇がある。
それでも、やはりベクターの心は憎悪で染まっていた。
生まれたことを認めたくせに、否定ばかりされてきた。周囲が甘受しているものすら与えられなかった。言いつけられたことをこなしても、成果をあげても、世界は何一つ変わることがなかった。
そんな世界ならば、もっと早くに見切りをつけてしまえば良かった。そうすれば、身も心も憎悪に染まらずにすんだ。
「神よ」
ベクターは水の中で叫ぶ。声は音にならず、無駄に呼気が消えるだけだと知っていても叫ばずにはいられない。
「オレの命ならばくれてやる。
だから、オレに力を。世界に復讐する力をよこせ!」
燃え上がる憎悪を、屈辱を、世界に知らしめてやるためならば命など惜しくはなかった。それは、どうせ死ぬのならば、などという思いからではない。命よりも何よりも、己が身を焦がす感情をぶつける方が大切で尊いものなのだ。
冷たい水の中で、ベクターの体だけが熱を持っていた。
途端、足元から悪寒が走る。
驚いて下を見れば、得体の知れぬ触手がベクターに迫っていた。一瞬、抵抗しようと体が動く。しかし、頭の中に直接入りこんできた声が、それを抑えた。
「その願い、聞き入れてやろう」
証拠などいらなかった。
ベクターはその声を神だと確信した。例え、それが悪魔であったとしても、願いを聞き入れてくれるというのならば、ベクターにとってそれは神でしかない存在になる。
「貴様の死後、その魂がどうなろうと、構わぬというのならばな」
「構わねぇよ。
あいつらに、世界に、復讐できるってんならなぁ!」
肺に残っていた酸素を全て吐き出して叫ぶ。
姿の見えぬ神が笑った気がした。
「――ぐぅっ」
ベクターの心臓に痛みが走る。同じくして、体に力が宿る。筋力的なものではない。もっと、超次元的な力だ。
「ならば、貴様に我の力を貸してやろう。
存分につかうが良い。死が訪れるその時まで、な」
「あぁ、そうさせてもらうぜ」
応えると、ベクターの足につけられていた鉄球が外れる。これで上へ戻れるようになった。
光の方へ戻りながら、彼は生まれて始めて、楽しい、という気持ちを理解した。これから始まる良からぬことを想像するだけで、ベクターの胸は踊る。
水飛沫があがった。
ざわめく周囲を見渡し、ベクターは口角を上げる。
「さあ、良からぬことを始めようじゃないか」
まずは誰から殺そうか。
己を殺そうとした王。
陰口を叩いていた者達。
幸福そうに笑っていた親子。
全てに復讐しなければならない。数日では終わらせない。ゆっくりと、時間をかけて復讐を果たすのだ。
急いて仕損じるのは、妃のときだけで十分なのだから。
この日、狂気の王が誕生した。
彼が別の国の王に敗北し、命からがら自国まで帰ってくるまでその命は続いた。
「もう良いのか」
「ああ、負けた王は王でいられない。
なら、自分で決着をつけねぇとなぁ」
「そうか」
血の臭いと焦げた臭い。
炎の熱さと乾いた血の冷たさ。
ベクターは剣を己に向ける。
「契約は守るぜ」
胸に付き刺さった剣は、彼の鼓動を止めるには十分なものだった。
END