王は長年、同じ悩みを抱き続けていた。
それは、後継者に関することだ。
彼には妃がいた。囲っている女もいた。しかし、誰一人として、彼の子供を宿さないのだ。あれやこれやと言われるがままに薬や呪いを試したものの、どれも効果はでない。そんな日々が一日、一ヶ月、一年、と続けば不安にもなる。
若いころならばまだ良かった。しかし、彼は老いてしまった。目前、とまではいかずとも、死の姿が薄っすらと見えはじめている。国から良き者を選び出すという手もあるが、今までの慣習からすれば長男に継がせるのが妥当がという思いが強い。
悩みに悩んだ王は、代々伝わる伝説を思い出すようになっていた。
昔、先代の王から聞いた伝説だ。偉大な神だが、その対価は大きい。故に、忘れたままでいられるのならばそれに越したことはない。そんな風に先代は言っていた。
しかし、それでは駄目なのだ。
王は決心する。この国と、王族の血筋のためにも、人知を超えた力に頼るしかない、と。
城の裏側、人の来ぬ森。その奥深くに神は宿っている。王は従者の一人も付けず、夜の道をたった一人きりで歩く。視界が悪く、何度も足を取られそうになるが、彼は足を止めなかった。
しばらく歩き、たどりついた場所。民には隠したままに神を祀ってきた、どこか息苦しくなるような気配すら見える空間だ。
「神よ――」
王はその場に膝をつく。
贄に何を捧げれば良いかなど想像することもできなかった彼は、願いと信仰を一心に捧げるより他に手がなかった。求められれば応えるが、まず始めに差し出すべきものを持たないというのは、交渉をする上で非常に不利なことだと王は知っている。幾多の外交で学んだ術も、人ならざるものが相手ではないも同然だ。
「私に、子供を、息子をお授けください」
何十年来の敬虔な信者のごとく王は願いを捧げた。神聖なその姿は教会の神父にも勝る。
重い空気がわずかにざわめいた。月明かりさえ届かぬ森の中で、暗闇にも負けずに淡く輝いているオレンジ色の髪が揺れた。美しい一連の流れは、まるで何かを誘うようですらあった。
事実、ナニカは光と願いによって、目を覚ましていた。それは幸いなことに、伝説にある神そのものであり、不幸なことに、それは邪神と呼ばれるに相応しい神だった。
神はドン・サウザンドという名を持つ。
彼は思考に応じて目をギョロギョロと動かす。ひたすらに願いを傾けている王にその姿は見えないが、もしも彼が神の姿を見ていたのならば、すぐにでも願いを撤回していたことだろう。
「その願い、叶えてやろう」
およそ、人の喉から発せられたとは思えぬ重低音が王の頭に直接響いた。
王はハッと顔を上げる。咄嗟に立ち上がろうとするが、膝をついたままの態勢で長時間固まっていたらしい体は、持ち主の言うことを素直に聞き入れてはくれない。
「息子が欲しいのだな?」
「そうです。何でも、私にできること、調達することができるものならば、何でも捧げます。
ですから、私と妻の間に息子を授けてください」
切なげな目を何もない空間に向け、あちらこちらへと移動させていく。ほとんど無意識のうちに、彼は視覚を持ってドン・サウザンドの存在を認識しようとしている。脳に響く声だけでは、現状が現実かどうかの判別をつけることができない。人という生き物は、どうしたって疑り深くできている。
一方的に王の姿を目視しているドン・サウザンドは、薄ら笑いを浮かべた。
現状、彼は封印されてしまっている身だ。封じられる直前に、己の力を世界に放ち、復活のために働かせている。今回のことは、上手くいけば己の復活の足がかりになりうるものだ。対価なんぞなくとも、喜んで叶えてやっても良い程に。
しかし、せっかく相手が捧げてくれると言う。それを無下に扱う必要もあるまい。
ドン・サウザンドは王の頭に声を響かせる。
「ならば、今より十月十日後、その日に死んだ者の死体をここへ」
言葉が終わると同時に、王の前に茂っていた草が左右へ押しのけられ、小さめの赤い池が出現した。鉱石を思わせる赤は、こんな時であるというのに王を見とれさせる。
「良いな?
その日、子供が命を持って生まれた日に、命を落した者をここへ放りこむのだ」
「……」
王は少しの間、沈黙を返した。
彼はこの国の頂点に立つ人物だ。望めば多少の無茶は通るだろう。しかし、頂点に立つ者の責任として、越えてはいけない境界線というものも存在している。
死した者を池に放り込む。それは、残された者と眠りについた者の両方を冒涜することになるのではないだろうか。
そんな思いが王の頭をぐるぐると回る。
「嫌ならば、それでも良いのだぞ」
つまらなさそうな声が聞こえた。
王は慌てて口を開く。
「い、いや……!
約束しよう。必ず、その日に死した者をここへ」
咄嗟の決断がどれ程大切なものかをよく知る彼は、戸惑いを見せながらもドン・サウザンドの要求を呑むことにした。自然の摂理に身を任せるには、残された時間は少なすぎる。
姿を見られることがないのをいいことに、ドン・サウザンドはいやらしく目を細めた。
「よかろう。ならば、十月十日後を待とうではないか。お互いにな」
声が遠ざかる。
王を取り巻く空気は相変わらず重苦しく、目の前には赤い池がある。風の音が響くだけの空間に、彼は膝をついた。かすかに体が震えている。達成感でも、安堵からのものでもない。まぎれもない恐怖からの震えだ。
大きな選択をした後はいつもこうだ。臣下達の前では気丈に振舞ってはいても、王とてただの人間でしかない。本当に正しいものを掴みとれたのだろうかと不安にもなる。
彼はゆっくりと息を吸い、同じ速度で吐き出す。
何を思っても今さらだ。答えは選び取ってしまったし、結末はその時がくるまでわからない。王は自分に言い聞かせる。
「十月十日後だ」
願わくば、その時には己の腕の中に子供が眠っていて欲しい。そんな風に思いながら、王はその場を去って行った。
王が願いを捧げてから十月十日後。
城は慌しくざわめいていた。
身重になった妃から、とうとう子供が生まれるのだ。
「男の子だろうか。女の子だろうか」
「どちらにせよ、喜ばしいことだ」
「御二方とも、子供を心待ちにしておられたからなぁ」
どこを歩いても兵の嬉しそうな声が聞こえてくる。
今から生まれくる子供は、国中から祝福を受けてこの世に降りたつ。それは何よりもの幸福で、子供の未来が幸多きものになることを裏付けているかのようだった。
当然、その子供の親となる王がそのことを喜ばぬはずがない。
出産という、己の力が届かぬ範囲のことに落ち着かなさを覚えつつも、未来を夢みて顔が綻ぶのが抑えられない。今日だけで、何人の者に表情のことを指摘されたかわからない程だ。
不意に、王は立ち止まる。
「契約は果たされた、ということか」
森の中で神の声を聞いてから十月十日後の今日、子供が生まれる。おそらくは、願った通りに男の子が生まれるのだろう。
ならば、王も守らなければならないことがある。
今日、死んだ者を赤い池に落す。それが、交わされた契約だ。
子供の性別を確認し次第、民の中で命を落した者がいるかどうかを調べさせなければならない。芽吹いたばかりの命を前に、そのような命を下さなければならないのは気が引けるが、破るわけにもいかない。
「――王っ!」
ため息でもつきたくなった時だ。やけに切羽詰まった声が届く。
「どうした」
「お生まれに!
しかし、王妃様が!」
王の心臓が跳ね上がる。
伝令に来た者も事態に混乱しているらしく、詳しい話を聞くことは不可能だった。しかし、王は最悪の予想を頭の中で組み立てることに成功してしまっていた。
顔を青くしている兵を押しのけるようにして廊下を走る。
目指すは、男児禁制とばかりに追い出されてしまった妃の部屋だ。ことが最悪にせよ、そうでないにせよ、そこへ行けば全てがハッキリするのだから。
「妃は!」
声を荒げ、部屋のドアを開ける。
無作法な音が響いたが、咎める者も顔をしかめる者もいない。
甲高い泣き声が部屋を支配していた。
「――残念、ですが」
出産に付き添っていた幾人かの女が目を伏せる。
刹那の間、王の呼吸が止まった。
長年連れ添ってきた、愛おしい妃。共に国の繁栄を目指し、差さえあってきた最愛の人。いずれくる別れを思い、寂しさを覚えたこともあった。だが、それが訪れるのは今ではないはずだ。
今は、二人の間に宿った命を共に抱き上げ、幸福を分かち合うべき時のはずだった。
「そう、か……」
その場に座りこみ、みっともなく涙を流したい気分ではあった。しかし、王は気力の欠片をかき集めて足に力を入れる。
場にいる女達に情けない姿を晒すわけにはいかない。男としてのプライドと、王としての使命のためにも。
「王妃様は、ご立派に王子をお産みになられました」
一人、うやうやしく王に何かを差し出す。
部屋中に響く声は、差し出された柔らかな布の中から発せられているらしい。
「王子か。そうか……」
一筋の涙を流す。
始めてみた我が子の顔は、どことなく妃の面影を残しているように思えた。
神に願いを捧げてできた子供だ。どちらにも似ていない、という事態も想像していたのだが、杞憂に終わったようだ。大きくなれば、妃と王の特徴を受け継いだ良い男になるだろう。
「ん? これは?」
布の中からわずかに見えた赤い光。
王は王子をくるんでいた布をわずかにめくり、目を見開いた。
「不可思議なことなのですが……。
お生まれになったとき、王子はそれを両の手で握っておられました」
馬鹿な、と切り捨てられることを恐れているのか、おずおずと述べられる。そして、彼女の言葉はそれに足るだけの不可思議さを持っていた。しかし、王はそれを否定することができない。彼は知っているのだ。女の言葉が正しいことを。
「――契約は果たされた、か」
小さな言葉は、王子の泣き声にかき消される。
彼を包む布の中には、赤い鉱石が入っていた。その色に王は見覚えがある。忘れられぬ色だ。暗い森の中で、目を向けずにはいられない色と輝きを放っていた池。二つが無関係なはずがない。
「きっと、神に選ばれた子ですわ」
誰かが言った。
王妃が亡くなったばかりの王に対する、慰みにでもなればいいと思ってのことだろう。優しさからきている言葉とわかっていながらも、王は不自然に肩を揺らしてしまう。
幸い、誰にも気づかれてはいなかったが。
「この国を導く良き王になりますわね」
「神の加護を得た王子ですから、健やかに成長しますわ」
楽しそうな声。嬉しげな言葉。それらを耳にしながら、王は目を閉じる。
彼の願いは叶った。ならば、対価を差し出さなければならない。
「愛しているよ」
死した妃の唇にそっと口づける。
一つの命が産まれた日に、一つの命が失われた。片方は神から授けられ、もう片方は神への贄になる。これでバランスが取れるということなのだろう。
その日の夜、王は誰にも知られぬように妃の死体を運び出した。
赤い池の底に沈んでいく妃を、ずっと見つめていた。
ベクターという名を貰い、国中から愛され、王族として最高の教育を受けた王子は、大きな病気一つせず、順調に成長した。王の想像の通り、大きくなるにつれ、彼は両親の特徴を如実に示すようになっていた。
父親譲りのオレンジ色の髪。母親譲りの紫の瞳。生まれながらに手にしていた鉱石は髪飾りとして加工され、ベクターの一部のように飾られ続けている。
国の民は、心の底から王子のことを愛していた。先代の王の人柄の良さもあったが、何よりも、彼は生まれ出たときに誰かが言っていたように、神の加護を受けた子供だったのだ。
彼がまだ幼い頃、島国だと舐められ、他国からの侵攻を受けたことがあった。民は逃げ惑い、王と兵は戦場に身を投じた。しかし、突然の侵攻だったこともあり、自国の勝利が難しいものであると誰もが知っていた。
しかし、それを救う者がいたのだ。
それがベクター王子。
彼は果敢にも戦場へ飛び出し、神の力を借りて戦場を制圧した。敵国の、たかだか人間程度ではどうにもできない程の力をベクターは見せつけたのだ。
ベクターはそれまで以上に持て囃され、愛された。国民は国の繁栄を確信し、喜びに満ちた。
「流石ですね。王子様!」
「王子は素晴らしいですなぁ」
「国王陛下も安心して隠居できるというものですね」
城の中は明るい言葉で一杯だ。その中心にいれば、誰だって心穏やかに、心地良い気持ちになれるはずだ。普通ならば、そのはずだった。
片鱗を見せ始めたのはいつの頃だったのか。それは誰も気づかぬうちに始まっていた。
誰からも愛された王子は、誰も愛することができなかった。信じることも、許すことも、安堵することもできなかった。唯一、彼は命乞いだけは信じていた。誰だって死は恐ろしく、それから逃れたいの願う。その言葉にだけは偽りはないだろう、と。
「あぁ。お前は、やはり、人間ではないのだな」
「父上。何を言うのですか」
淀んだ瞳をする息子に、王は嘆きを込めて言った。
彼だけは知っていた。王子がただの人間ではないことを。ベクター自身、己は普通の人間であると思っていたのだ。まさか、神によって作り出された命だとは、夢にも思っていない。
「オレは人間だ。
人を裏切り、憎み、蔑む。
どこにでもいる、普通の人間ってやつだよ」
ベクターの顔が醜く歪む。
誰も信じず、愛さず、見下す、腐った精神が表面にでてきたような顔だ。
「私は間違った選択をしたのだ……。
あの時、お前が生まれることを望んではいけなかった」
「あぁ。お可哀相に」
大げさな身ぶり手ぶりを加え、ベクターは嘆きの演技をする。彼の表情は歪んだ笑みを保ったままだ。
「王は気が違えてしまった。
この国のために、そんな奴は殺さねぇと!」
ベクターは手にしていた剣をふり上げる。
避けようと思えば避けられた。だが、王はそれを選択しなかった。
贖罪ではない。もう逃げてしまいたかっただけだ。
日に日に減っていく国民。そこかしこから上がる嘆きの声。止めることのできぬ無力な自分。
何もかもが嫌だった。ここで、死という逃げ道があるのならば、それでいいではないか。大人しく地獄にでも落ちてしまえばいい。それがお似合いだ。
鋭い刃が王の体を切り裂いた。
「逃げちゃったぁ。
悪い王様だねぇー」
王が最期に聞いたのは、嘲るように言ってのけるベクターの声だった。
ベクターのやりかたは、独裁とさえ言えぬものだった。
何もなくとも、民が殺される。そうでなければ、周辺国を蹂躙して回る。世界を滅ぼしてしまいたいとしか思えぬ所業だ。
島国の民は己達の浅ましさを自覚しつつも、ベクターが他国を蹂躙してくれている間だけ安堵することができた。その間、彼は国内に目を向けようとしない。何をしても、何もしないなくても、殺されることはない。
民は日々をすり減らすようにして生きた。反乱を考えたこともあったが、ベクターの持つ神の加護は強力で、屈強な兵は殆どが彼についてしまっていた。非戦闘員が束になったところで勝てるはずもない。
彼らは、一日でも長く生きることで精一杯だった。
しかし、転機が訪れる。あのベクターが負けたというのだ。
兵を失い、ボロボロになった体でどうにか国へ帰ってきた。
誰もが思った。これを逃してはならない、と。
幾多の争いを経験してきたベクターとはいえ、彼自身の体格は然程よくはない。兵がおらぬ今、物理的にベクターを守る者はいない。また、ボロボロの状態だというのならば、神の力を借りることも難しい可能性が高い。
自分達の命と生活を守るために動くのは今しかなかった。
「なっ。貴様、らっ……!」
人間、思いきってしまえば行動は早い。
帰国したばかりのベクターを十数人がかりで押さえつける。狂気の二つ名を持つ者とは思えぬくらいに、彼の身を拘束するのは簡単だった。怪我で痛む体を満足に動かすこともできなかったようで、わずかな抵抗があった後は呻き声が上がるだけだった。
身の自由を奪われたベクターは、すぐさま処刑場へと引きずられて行く。
「ほう。オレを殺すつもりか!」
ベクターは口元を歪ませ、声高に問いかける。
体こそ痛み、呻き声を上げていたが、死に対する恐怖というのは存外薄いものだった。そもそも、いつでも誰かが己の命を狙っている、と疑心していたからこそ多くの民を殺す結末に至ったのだから、ベクターにとっては現状も想定していた未来の一つでしかない。
やり足りぬことこそあれども、恐怖に身を竦ませることなどないのだ。
「首を切るか? 締めるか?
毒を盛るか? 塗りつけるか?
燃える火の中に入れてみるか?
それとも水の中か?」
どれもこれも、ベクターが行ったことのある処刑方法だ。
残酷に、確実に、彼は人を殺し続けていた。
「そうだ! オレ様を殺した後はどうするんだぁ?
誰がこの国を治める?
ナッシュのとこの属国にでもなるか!」
あざ笑う声が処刑場に響く。
その場に集まった民達は表情のない顔でそれをただ見つめる。
「あ?」
流石のベクターも現状の異様さを感じ取り、何とか動かすことのできる首をわずかに傾げた。
「処刑はしない」
一人、処刑台に拘束されたベクターに近づき言った。
「どういう意味だ。
殺す気がねぇなら、とっとと離せ」
民は首を横に振る。
解放する気はない。だが、殺す気もない。一体、何がしたいというのだ。ベクターは苛立つ。昔から苛立ちやすい性質であったが、予測できぬ事態を前にするとその性質は強さを増す。
「あなたを殺しても、死んだ者は甦らない」
また一人、ベクターに近づく。
「これは、私達の気を安らげるための行為」
「故に、死を与えようとは思わない」
いまひとつ要領の得ない言葉ばかりだ。
ベクターはますます意味がわからなくなり、腹立たしさのままに舌打ちをする。
「で、結局――」
言葉が止まる。
正確には、止められる。
「あ、ああああ!!」
ベクターの口から悲鳴が上がった。
狂気の王、死を恐れぬ者、とはいえ、痛みがあれば脳はそれに反応する。
彼は己の腕を見た。拘束されていただけのそこに、何故か短刀が刺さっているではないか。痛みの原因はこれだ。
「殺しはしない」
誰かがいい、またどこかを刺す。
痛みに叫びながら、ベクターは周囲の者達の言葉を理解した。
「ごう、もん……って、わけ、かよ」
想像しなかったわけではない。しかし、無意識のうちに消し去っていた可能性だ。その理由は簡単。それが最も最悪な未来だったから。普通の人間ではないベクターとはいえ、常に疑心に溢れている状態で精神は消耗していた。重ねるようにして、最悪の可能性を考慮することはできなかったのだ。
無駄に痛みを与えられるくらいならば、とベクターは舌を噛み切ろうとする。
「ぐっあ!」
しかし、当然のことながら、民もその辺りのことを想定していた。
すぐさまベクターの口に何かを装着する。口を閉じることができないように。しかし、悲鳴はあげられるように。何とも悪趣味な機器だ。無論、ベクターも殺した民に使ったことのあるものだ。まさか、己の身でその悪趣味さを味わうことになるとは思っていなかったが。
「治療もします。あなたを殺させはしません」
「うがああああ!」
また赤い血が流れる。
叫びながら、ベクターは己を刺した民を見る。そして、心の中でうっそりと笑う。
民の目は死んでいた。人としての機能を失った目だ。どれだけベクターを痛めつけようが、その結果にベクターが死のうが、生き返ることはない。未来に生きることもできず、ただ漫然と呼吸をし生きるだけになるだろう。
苦痛に揺れながらも、ベクターは周囲にいる者達の目も確認する。誰もかれも、似たような目をしていた。
殺してやったのだと思うと、嬉しくてしかたがなくなる。これから、己は苦しみを受けて死ぬのだろう。しかし、共に堕ちてくれる者達がこれほどいる。きっと、先に逝った者達も足を引いてくれるだろう。それが嬉しくてしかたがない。
「全てを壊したあなたが憎い」
そりゃ良かった。
馬鹿にしたように言ってやりたかったのだが、生憎とベクターは言葉を発することができない。
「ぐあぁああ!」
どうにも、悲鳴を上げるので忙しい。
細いものが突き刺さる。鋭いもので切り裂かれる。熱いものを押し付けられる。じりじりと削られる。
毎日欠かさずに誰かしらがベクターに苦痛を与える。そして、治療を行う。回復のスピードよりも、失われるスピードの方が圧倒的に早く、延命にはなっても生存にはならぬ、という状況が続いていた。
同じ空間に閉じ込められ、時間の感覚すら与えてもらえない。すでにベクターは今がいつなのか認識できなくなっていた。
「――ぁあ」
喉が枯れ、悲鳴も上がらない。
目も開いているのか閉じているのか、自分で理解することができなかった。
彼の体は傷だらけで、肌の色を探す方が難しい。治療と称した雑な縫いあとなんぞ、化膿が始まっていて見るに耐えない有様だ。傷口から発熱し、頭も朦朧としている。かろうじて痛みは感じるのがまた苦しい。
今や、ベクターの頭の中は、死のことで一杯だ。
早く殺して欲しい。首を落として欲しい。死にたい。
ぐるぐると思考が堂々巡りを繰り返す。
「やっぱり……」
一つ、声がした。
また誰かが己を痛めつけにやってきたのだ。ベクターはそう思った。
「駄目だ。こんなこと……」
薄れる視界と思考の中で、悲しげな声はやけに明瞭に感じられた。同時に、哀れまれているのだと自覚する。
途端、腹のそこからカッと怒りが燃え上がる。体中を侵している発熱以上の熱量だ。
「こんな風にしても、どうにもならないじゃないか」
ぽたぽたと感じられるのは、民の涙だろう。
ベクターはどうにかして、涙を流している者の顔を見ようとする。かすむ視界を押しのけ、あわぬ焦点を無理矢理あわせる。
「ごめんな。
オレ、こんなことしかできなくて……」
泣いていた。不釣合いな程、大きな斧を持ち、彼は泣いていた。
察しの良いベクターはすぐに理解した。彼は、己を殺すつもりなのだと。いつまでも苦痛に塗れた生に置いておくより、誰も知らぬ暗闇と安楽の底へ落としてやろうという善意が見えた。
そんなこと、許せるはずがなかった。
誰もが死んだ目をしていたというのに、彼の目だけは生きている。なおかつ、己に哀れみを向け、安楽を与えようとしている。偽善だ。欺瞞だ。糞のような感情だ。内心の罵詈雑言は言葉にならない。
そのまま、ベクターは斧が降ろされるのを視界の端に収めながら、ただじっと生きた民を見ていた。
恨めしい。その思いを込めて。
王の死後、死んだ目をしていた民達は、誰からともなく壁画を描き始めた。
描くのは偽りと真実が混ざり合った歴史。
いつかの未来、王を拷問の末に殺した者達がいる、などとは思われたくなかったのだ。
彼らは、王の恐ろしさとおぞましさを描く。そして、最期にはたった一人きりで自分を殺したことにした。
そうすることでしか、彼らは自分達の潔白を主張できなかったのだった。
ドン・サウザンドは封印の中で笑う。
悪意の海で血潮を、砂浜で肉体を、バリアラピスで心臓を、作って生み出した人形は、思った以上の働きをしてくれた。
多くの絶望を生み出した。
流石は、我の自慢の息子だ、と。
END
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ベクターを殺してくれたのは遊馬。