取り立てて何かあるわけでもない島国だったが、王も王子も国民も、誰もが自分の国を愛していた。
「それじゃ、行ってくるぜ」
ベクター王子が船の上から、地上にいる父親へ声をかける。
彼は今から、他国へ向かうのだ。国を代表する使者として向かい、一年程はあちらの国で過ごす予定だ。始めての国外に、ベクターも気分が昂揚していないといえば嘘になる。
「向こうに失礼のないようにな」
「それくらいわかっていますよ!」
父親にたしなめられ、ベクターは声色を変える。
処世術というには、些かやりすぎな感はあったが、彼は猫を被るのが上手い。身内の間でのみ素を見せるが、他国の重役と顔をあわせるときなどは礼儀を知りつくし、智に溢れた人物を演じきってみせる。
彼ならば、国外で一年過ごすのも上手くやってみせるだろう。王は己の息子を信じていた。ベクターもまた、父親の期待に応える自信を持っていた。
だが、平穏というものは、音も無く崩れるものだ。
「それは本当か?」
「はい……」
ベクターが海に出てしばらく経った頃、王の耳にとある報告が寄せられた。
曰く、ベクターが近隣の国々を蹂躙して回っている。
その国から直接、何かを言われたことはない。何せ、ベクターの行っている行為は、侵略ですらないのだ。奪い、殺し、その土地ごと破壊しつくすのだという。怒りを吼えるものがいなければ、王の耳に入ることはない。
今回、ベクターの行いが発覚したのも、被害を受けた国を訪れた者がいたからこそのものだった。船にはためく国旗は違っていたが、モンスターを操り、率先して国を蹂躙していたのは間違いなくベクター王子だったという。
「まさか……。
いや、しかし……」
王は頭を抱えた。
息子のことは信用している。しかし、現在、本人は国外にいるのだ。何か、良からぬことを企み、実行していたとしても、王は知ることも止めることもできない。
現状でできることといえば、ベクターを送り出した国に書を送り、彼の存在を確認することだけだ。しかし、それとて完璧ではない。影武者を用意してしまえばすむ話だ。結局、彼を信用するには一刻も早い帰国が望まれる。
とはいえ、相手国との兼ね合いもあり、すぐに連れ戻すのは不可能に近い。第一、海を渡るということ自体が容易いことではない。すぐに準備をさせたとしても、どれだけの時間がかかることか。
「ひとまず、このことは民には知らせぬように」
「はっ」
緘口令を敷いたものの、王はそれが長く持たないことを知っている。
人の口に扉を設置することはできないのだ。情報など、どこからでも漏れていく。特に、こういった流れて欲しくない類の情報というのは、どうしてだか回るのが早い。
実際、王が息子に対する疑心に胃を痛め始める頃には、すっかり国中にベクターの所業が伝わっていた。
今のところ島国は平和そのものだ。被害を受けているのは他の国。しかし、彼が帰ってくれば状況も変わるかもしれない。民の不安は日に日に増し、いつしか王子の帰還を望まない声まで上がるようになっていた。
そんなある日のことだ。ベクターの敗北が知らされたのは。
「ナッシュ王に負けたそうだ」
「死体は見つかっていないらしい」
噂は口から口へと伝わる。そこには、わずかな安堵が見えていた。
自国の王子が死んだのだから、悲しむべきだろう。しかし、民らはすっかりベクターの所業に恐れをなしてしまっていた。今さら国に帰ってこられても迷惑なだけだ。嘘か真か、そんな言葉まで飛び出す始末。
彼らは知らなかったのだ。他者へ向ける悪意というのは、己に振り返ってくるものだということを。
「おい! ベクター王子がっ……!」
悲鳴にも似た声だった。
ベクターがナッシュに負け、死亡したという知らせから数週間後。当の本人であるはずのベクターが帰還したのだ。その姿は国を出たときと然程変わっていない。変わっていたとしても、多少、背が伸び、体格がよくなったかもしれない、という程度のことだ。
「……おい、まさかお前ら、あんな噂を信じてるんじゃないだろうな?」
船を降り、地面に足を置いた途端にベクターが低く唸る。
彼のいた国にも、ベクターの所業は伝わってきていた。それと殆ど同時期に、父親からの手紙もあった。頭の出来が良い彼は、すぐに己が疑われていることを理解し、怒りを覚えた。
手紙もすぐさま返した。怒りのあまり、字が荒くなってしまったが、それでも読めない程ではないはずだ。
あの時と同じ怒りをベクターは今、また覚えている。
周囲の様子が明らかにおかしい。驕っているわけではないが、ベクターは己が王子であるという自覚を十二分に持っていた。帰還したのだから、拍手と暖かい言葉が投げられるものだとばかり思っていた。不穏な噂などに、自国の民が流されるはずがないと信じていたのだ。
「馬鹿か! 侵略ならばまだしも、ただの蹂躙になんの意味がある!」
ベクターは声高に主張した。
他国の資源や土地が奪い取れるというのならば、戦いにも旨みが出る。だが、蹂躙ではそれらは得られない。何の見返りもない争いをしたい人間など、そうそういやしない。
「オレはやってねぇ!」
大きく叫ぶ。周囲にいる民、全員の耳に届いたはずだ。
しかし、心には届いていないようで、ベクターを見る目は相変わらず冷たい。
「――チッ!」
ベクターは舌打ちを残して城へと足を進める。
こんなところで演説していても埒があかない。王である父親をしっかりと説得し、大々的に公表する準備をしていく方が有意義だ。ベクターはまだかすかに信じていたのだ。
長い間、顔も姿も見ていなかったから疑心が生まれただけだ。時間が経てば、この国にいれば、また昔と同じようになれる。民も疑念を抱いたことを謝罪してくれるだろう、と。
それが、いかに甘い考えであったのかをベクターは一年かけてじっくりと知ることとなる。
「お前の姿を見たという者がいるのだ」
「だが、オレが連れていった兵は、オレがあの国にいたことを証明してるぜ」
城に帰ったベクターが真っ先にしたのは、父親の目を覚まさせることだ。
蹂躙された国に、戦場にベクターの姿を見たという情報を持ち出し、王はベクターに真実を話せという。しかし、ベクターは何一つ心当たりがない。己が引き連れていった供の兵に話を聞くように言うが、王は首を横に振る。
「あれらはお前の兵だ」
つまり、ベクターの味方であるため、発言に信憑性がない、ということだ。これに、ベクターは怒りをまた一つ積み上げた。
他国へ行くことになり、護衛のために連れて行った兵は、ベクターが自ら選んだ者達だ。己の味方であることは勿論だが、真面目な性格や能力、そして国に対する忠誠心。そんなものを考慮して選んだ者達だ。彼らの言葉まで疑われるとは面白くない。
「奴らは嘘などつかない!」
テーブルを力一杯叩き、怒声を上げる。
ベクターの激昂に王は目をそらす。ベクターは、そこに恐れの色を見た。
「……まさか、オレが奴らを脅していると思うのか?」
一抹の絶望がベクターの胸を過ぎる。顔は青く染まり、吐き出される言葉は振るえていた。
噂に聞くベクターの力は、国一つを蹂躙できるだけのものだ。脅されれば、大抵の人間は従ってしまうだろう。身に覚えのないベクターとて、神の手を借りたかのような力にわずかな恐れを抱いた程だ。
それを目の当たりにした兵が、その力をちらつかせられながら脅されれば、どうなるかなど明白。
しかし、かといって、そうしているのではないか、と疑われれば気分が悪い。いや、それ以上に胸が痛い。
「は、はは。
そーかい。ああ、そうだったか」
ベクターは乾いた笑みを浮かべた。
信じられていないのだ。己は、他人である民だけではなく、実の父親にも。
裏表のある性格をしているのは自覚していた。猫を被るのが上手くて、人に腹の底を見せぬようにしてきた。故に、父親がベクターの底を読みきれず不安に思う気持ちもわからないではない。
それでも、ベクターは己が良き息子、王子であったと自負していた。
知識には貪欲に。国の未来を見る目は鋭く。誰かと関わるときはより良い関係を築けるように。
この世に生を受けてから、ずっとそうしてきたつもりだった。
「崩れるときは、こんなに早いんだなぁ!」
笑いながらベクターは父親に背を向けた。
もう何も見たくなかった。信じる心などいらないと願った。
それからも、ベクターはいかに己が信用されていないのか、身をもって体験していく。
まず、どれだけの時間が経とうともベクターは民から信頼を得ることはなかった。これは、ベクターが帰還してから、他国への蹂躙が全く行われなくなったことも原因の一つだ。
ただの噂が、人々の不安と疑心を混ぜ込んで形を作っていく。渦中の人物を放って、中身のないモノが真実へと変わっていく様をベクターは成す術もなく見つめていた。信用の欠片も向けられていない己の言葉は、誰にも届かない。
発言力の欠落は、噂の撤回以外にも適応される。国内の政治に関する場でも、ベクターの発言は黙殺されるようになった。
一見するとまともに見える言葉であったとしても、その裏に何か恐ろしい企みが隠れているのではないか。そのような考えからのものだった。感情を隠そうともしていないのか、あからさまに透けて見えた考えにベクターはまた愕然とする。
始めこそ、負けてなるものかという意地で声を上げ続けた。いつかを夢みて、己のプライドを掲げた。
しかし、人の心は折れる。
いつしか、ベクターは口を閉ざした。聞き入れられることのない言葉を吐き出し続けるということは、途方も無い無駄遣いのように思えたのだ。
ギリギリのところで悪意と疑心に歯止めをかけていた言葉が消えたことで、それらは勢いを増した。止まるという選択さえ消し去り、国中の人とベクターの運命を巻き込み転げ回る。
「お前がいては、この国が駄目になる!」
憎悪を込めた声。同時に、空気を切り裂く音がベクターの耳に届く。
素早く身を転がし、己に向けられた攻撃から身を守る。
「死ね!」
暗殺というにはお粗末なもので。賊というには城の警備が仕事をしていない。
ベクターを抹殺しようという動きが、国内や城内で活発化し始めたのだ。自分の家だというのに、ベクターは城の中で気を抜くことができなくなっていた。
夜になれば寝込みを襲われる。
日が出ている間でも背後に気配を感じれば剣が振り降ろされている。
誰からも必要とされておらず、誰からも死を望まれている。深い闇がベクターの周囲を覆っていた。足元からは見ず知らずの者達が恨み辛みを吐き出しながら地獄へ引きずり落そうと手を伸ばしてきていた。
声を消し去った彼は、扉を家具で抑えたこんだ部屋から出ることすらできなくなった。
好転しない状況に精神は磨耗していく。一筋の光すら見えない未来は、恐れの対象となる。部屋の片隅で膝を抱え、どうしてこうなってしまったのかだけを考える。答えなど必要としていなかった。ただ、現在と未来から目をそらしてしまいたかっただけだ。
幾日、そうしていたか。擦り切れたベクターの精神は、あらぬ方向へと堕ちていく。
「そうだ。親父だ……」
虚ろな目をして、ベクターはゆらりと立ち上がる。
「あいつがオレをハメたんだ。
オレを送り出したのもあいつだ。
国への影響力が強いのだってあいつだ。
全部あいつの仕業だったからこそ、オレの言葉を否定したんだ」
未来を捨て去り、見えぬ希望に唾を吐いた彼は、己の苦しみをぶつける相手を探した。理不尽で己の手に余る苦痛をいつまでも握っていることなどできやしないのだ。
光のない瞳で彼は己を守っていた家具を取り払う。壁に飾られていた剣を手にとり、久々に扉を開ける。周囲には誰もいなかった。
「一人くらい見張りをつけていれば良かったのになぁ」
歪に嗤う。
例え、誰かがいたとしても殺すつもりだった。そうでなければ殺されてしまうに違いないのだから。
ゆらりゆらりと歩を進めたベクターは、王のもとへ向かう。
「ベク、ター……?」
「さようならだ。
オレはあんたの思い通りにはならねぇ」
「何を!」
逃げようとする王の体をひっくり返し、背中を踏みつけて剣を降ろす。
赤い鮮血が視界を埋めた。
「これでオレがこの国の王だ!
誰よりも素晴らしい王に、このオレがなってやるよぉ!
疑いの無い、綺麗な国に、ここを――」
新たに誕生した王は、父親の亡骸を前に近いを立てる。
疑心のない国を。人々を作るのだ。ベクターは嗤う。常人とは違った場所に着地してしまった彼とはいえ、疑心に塗れた自分が、清廉潔白な国を作ることなどできないと知っていた。
ベクターは己を疑うような言葉を吐いた人間を処刑して回った。
首を落とし、火で炙り、水に沈める。
時として、それらは見せしめのように行われ、民達に圧力を与えていく。
誰もが口を閉ざした。内心では、恐れていた事態が起こってしまったのだと嘆いた。王となったベクターを、王子のうちに殺せていれば、と考えた者は少なくない。
ベクターはそういった者達も殺した。口にされぬ思いに確証などありはしないが、彼の疑心が何よりもの証拠とばかりに一人、また一人と命を落としていく。墓穴を掘ることすらできなくなり、死体は一ヶ所にまとめて放置された。
腐臭とわいた虫に不快な顔を向ける者さえ国から消える。
淀んだ瞳の王に統治された国は、そこに住まう者全ての瞳を淀ませる。
島国に最後の断末魔が響いた。
腐臭と鉄の臭いにまみれた場所に残ったのは、王であり処刑人でもあったベクターのみ。
「あーあ。ざまあねぇよなぁ。
オレを信じねぇからだ。だから、こーんな目にあうんだよ」
薄っすらと嗤い、すっかり穢れてしまった地面に腰を降ろす。じわりと染み込んでくるのは、ただの湿気か誰かの血か。気にするのも面倒で、ベクターは大胆に背中までつけてしまうことにした。
寝転がってみれば、空は忌々しい程に美しい青を保っている。地上を禍々しく染めてしまうことは容易かったが、遠い空まで染めることはそう簡単なことではないようだ。
「……だれも、いないんだな」
静かな島の中、ベクターは瞳を閉じる。
目蓋の裏に、幾人もの死にざまが浮かび上がる。命乞いや罵倒、断末魔が耳に再現され、ベクターの気持ちを重くする。
彼は、いつかと同じ問答をした。
どうして、こうなってしまったのか。
国を愛していた。民を愛していた。誰かを傷つけたいわけではなかった。
八つ当たりの対象を無くして、ベクターは始めて自分が八つ当たりをしていただけだと自覚する。耐え切れぬ苦痛を分け与えるようにして命を奪っただけだ。
「狂気の王、とかいっていたな」
始めて聞いたとき、何と失礼な二つ名だと思った。
あの時は、狂っているつもりも、狂うつもりもなかったのだ。だが、今になって思えば、あの二つ名はベクターにピッタリだったのかもしれない。
目を薄く開け、軽く周囲を見る。誰もいない世界は、狂気の結果と言っていいだろう。
「ほんとうのところ、どうなんだろうなぁ。
おれは、まともだったか?」
問いかけてみるも、答えをよこしてくれるような人間は存在していない。全て、ベクターが殺してしまった。
「もしかすると、ほんとうのほんとうは……」
とっくの昔に狂っていたのかもしれない。気づいていないのは本人だけだったのではないだろうか。覚えていないだけで、本当に他国を蹂躙していた、またはそう仕向けていたのかもしれない。
客観的に物事を見ることができていた周囲だけが、本当のことを知っていた。考えられないことではないはずだ。
「まちがっていたのは、おれか?」
疑心が胸にわく。
何も信じられなくて。
肯定も否定も外からは与えてもらえなくて。
ベクターは泣きそうな顔をして笑った。
「うたがうな」
剣を手にとる。
「うたがうのなら」
死刑だ。
手にした剣は、真っ直ぐにベクターの心臓を抜く。
赤い血が剣を伝い、彼の体は地面に倒れた。
惨事の中、誰かが姿を見せた。
「あぁ。これは僥倖」
嫌な笑みを浮かべたその者は、島最期の生き残りであったはずのベクターと瓜二つだった。
彼は絶望を抱いて死んだベクターの隣に膝をつく。やけに優しい手つきでベクターの目蓋を閉じさせる。心なしか、亡骸の表情が緩んだように見える。
「争いによってバリアン世界を大きくするだけのつもりだったが、思わぬ拾い物した」
ベクターとよく似た姿が歪み、フードを被った男のものに変わった。
彼は人間ではない。バリアン世界の神、ドン・サウザンドだ。
封印された身であるが、解放を目指して暗躍しいている最中だった。その一環にベクターは巻き込まれていた。彼の姿を借りたドン・サウザンドは、バリアン世界の力を強大なものにするために争いを起こした。絶望や怒り、憎悪を抱いた人々の魂が、バリアン世界の糧となる。
ナッシュに負けたことは想定外だったが、バリアン世界を大きなものにするには十分な被害をもたらすことができた。後は高潔な魂の数を揃え、そのときを待つだけだった。
その間の暇潰し、と、ドン・サウザンドは己が象った姿の持ち主を観察していた。そして、それも今日で終わり。
「争いで堕ちた魂。ナッシュとメラグの魂。
そして、穢されたお前の魂。我ながらいい仕事をした」
ドン・サウザンドは楽しげに笑う。
当初の目的では、多くの魂とナッシュの魂が手に入ればそれで良かったのだが、思わぬ収穫があった。
疑心と恐怖に染められたベクターの魂は穢れきっている。到底、アストラル世界になどいけない。カオスに満ちた魂だ。それ故に、バリアン世界の神であるドン・サウザンドには心地良い。
強いカオスを抱いたこの魂ならば、良い寄り代になることだろう。
「さあ、我の物となるがよい」
ベクターの胸に刺さっていた剣を抜き取り、まだ柔らかい傷口に指を入れる。ぐちゃり、と肉の感触がドン・サウザンドに伝わる。
彼の指が心臓に触れると、赤い光が発せられた。
「その時が楽しみだ」
指を引き抜く。赤い血が辺りに飛び散った。
先ほどの赤い光は、ドン・サウザンドの力の一部だ。彼はベクターの魂に己の力を混ぜ込むことで、いずれ来る復活の時の寄り代とした。時がくれば、ベクターは己の意思でドン・サウザンドの封印と解くだろう。最期の瞬間まで、自身が操り人形であることも知らずに。
遠い遠い未来を思い、神は嗤う。
ベクターが全てを知ったとき、それが彼の最期だ。
きっと、今生の絶望よりもずっと深いそれを見せてくれることだろう。
そう思うと、今はまだ何も知らずに眠っている人形が愛おしく思えた。
END