シェフは審判小僧のことが好きだった。
 その気持ちがいつから芽生えたものかは、もうわからない。どの道、時間の感覚など無に等しいこの世界で、どれだけの時間その感情を抱き続けてきていたのかなど、どうでもいいことだ。大切なのは、その思いの強さ。それだけ。
 しかしながら、シェフは意気地のない男だった。少し離れたところから審判小僧を眺めているだけで満足してしまうような男だった。
 自分が作った料理を口にして、笑顔になったときは、遥か昔の感覚を思い出したような気さえした。子供達と遊ぶ様子に、恋心が大きくなるのを感じた。少しずつ成長した恋心は、シェフの背中をそっと押してくれる。
 彼は、本当に少しずつではあるが前進していた。
 声をかけるようになった。挨拶を交わすようになった。雑談をするようになった。時々、一緒に庭の花壇を眺めるようになった。勇気のなかったシェフが、告白してみよう。と、思うくらいには、二人の距離は縮まっていた。
 時間の流れが関係ないこの世界ではあるが、二人の距離がそれほど縮まるまでに、五人のゲストがホテルに訪れては消えていった。
「審判小僧」
「どうしたんだい?」
 声をかければ、笑顔を向けてくれるようになったことに、シェフは内心喜びの涙を流す。
「オレはお前が――」
「見つけたよ。名無し」
 告白する寸前。何ともいえないタイミングで声が聞こえてきた。
「あ、親分」
 飄々とした声の主は、審判小僧の上司であるゴールドだ。薄暗いホテルの中で、彼は独特の輝きを身にまとっているため、非常に目立つ。シェフも当然彼のことは知っている。審判小僧がゴールドを尊敬していることも知っているので、彼を雑に扱うような態度は今までしてこなかった。
 けれど、あまりにも酷いタイミングに、シェフの表情は渋くなる。
「どうしたんッスか。今日の訓練は終わりましたよ?」
「いやね、最近頑張っているみたいだから、ご褒美をあげようかと思って」
 優しい瞳を審判小僧に向けながら言う。
 仕方のないこととはいえ、もはや告白をするような雰囲気ではなくなってしまった。シェフは小さくため息をついた。
 その音が届いたのか、ゴールドがシェフの方に視線を向ける。赤い瞳同士が宙で交じり合う。
 ニヤリ。そんな音がよく似合う笑みをゴールドが浮かべた。
「なっ……」
 思わず声が上がる。
「私の部屋じゃ落ち着かないだろうから、キミの部屋でいいかい?」
「はい。
 あ、シェフ。また今度ね」
 可愛らしい笑みを浮かべ、審判小僧は手を振る。彼の中にはゴールドの誘いを断るという選択肢は存在していないのだろう。シェフは拳を固く握った。いつもの大包丁を持っていたならば、所構わず振り回していたに違いない。
 二人の姿が見えなくなってから、シェフは歯を食いしばる。
「わざとか」
 ゴールドの笑みは、ライバルを牽制するそれだった。
 審判小僧がこの世界にきたときから共にいるゴールドは、誰よりも審判小僧に近く、心を許されている存在だ。今まで、彼のことは審判小僧の親代わり程度にしか考えていなかったが、とんだ誤算だった。
 じっくりと距離を詰めていた自覚はあるシェフだったが、ゴールドはその比ではない。さらに長い時間をかけ、濃密にその距離をつめてきていたのだ。
 このままでは負ける。直感的にそう感じた。
 先ほどの様子を見る限り、まだ恋人だとかそういった関係ではないだろう。しかし、それも時間の問題かもしれない。審判小僧が、ゴールドのことは上司以上には見ることができない。と、いう可能性も捨て切れないが、不確かな未来に期待などしていられない。
「ひとまず……」
 シェフは廊下を歩き始めた。
 時間の感覚がない世界だが、食事の時間はしっかりと存在しているのだ。己の仕事をしっかりとこなすため、シェフは厨房に向かう。途中、胃薬を買っておくのも忘れない。強烈なライバルを目の当たりにして、シェフのか細い神経はすっかり弱ってしまっている。
 心なしか痛みだした腹を抑えつつ、シェフは仕込みをすませてある料理について考え始めた。

(略)