暗い暗い世界からゆっくりと浮上していくのを感じた。
 どこまで浮上しても見えない光に何の疑問も抱かず、まぶたを押し上げる。
「――ここは」
 青年は呟く。
 彼の足はしっかりと地面を踏みしめているが、周囲の風景に覚えはない。まして、眼前に見える古びたホテルなど、己の記憶の中をどう掘り返したところで出てくる気がしない。
 黒い瞳がホテルをぼんやりと映す。とりあえずは、そこに入り、ここがどこなのかを知るべきだろうと足を踏み出す。
 その途端、彼は体中から冷汗が流れるのを感じた。
「どこだ。ここは!」
 先ほどのように、答えを求めず零した言葉とは違う。今度の言葉は、明確な答えを求め、腹の底から上げた怒声のような圧迫感を持った言葉と声だった。
 青年は踵を返し、ホテルとは逆の方向へ駆け出した。そちらには深い森がある。薄く霧がかかっており、視界は悪い。ついでにいえば、湿気た土は彼の足を重くするばかりで、足を動かすごとに体力を奪っていく。
 息を切らせながらも、青年は足を止めなかった。目指す場所がどこかもわかっていないのに、確かな目的地を彼は持っていた。しかし、その目的地を探すにも、彼の足はのろく、限界があった。
「――欲しい」
 掠れた声で言う。
「欲しい。足が。速い足が。無限に走れる足が」
 この世界に神はいない。
 だが、この世界は思いの強さが全てだ。
 ゆえに、その出会いは青年が呼び寄せた必然だ。
 己の息だけが聞こえていた青年の耳に、何かが地面を削るような音が聞こえてきた。
「ん? 誰だテメェ」
 何かは青年の前で立ち止まった。
 現れた男の体はボロボロで、所々に血の跡が見えた。お世辞にも善人には見えなかったが、青年はそんなことは気にもとめない。彼が気になったのは、先ほど聞こえてきた音と、男の後ろに薄っすらと見える抉れた地面だ。
「新入りか? まだ、名前もねぇみたいだし」
 男が青年の顔を覗きこむ。
 黒い瞳同士、宙で視線が交わる。
 青年は不気味に口角を上げた。男の言葉など、彼にはどうでもよかった。
「お前だ」
 どろりとした声は、まるで質量を持ったかのように男に絡みついた。
 この欲望だらけの世界で、長い時間を生きてきた男は、現状が自分にとって良くないものであることにすぐ気がついた。彼は自分が見つけてしまった青年が、どのような理由で、この世界にきたのかは知らない。わかるのは、絡みつく青年の欲が言葉を通し、自分を捕まえていることだけだ。
 自慢の速さも、動きを封じられては意味がない。
「オレは、お前が欲しい」
「離し、やがれ……!」
 欲の強さがものをいう世界だ。男は青年に対抗するべく、取り込まれたくないという欲を強くしようとする。まだ走りたい。まだ轢きたい。頭を働かせ、胸の内を熱くする。
「その速さが欲しい。お前がオレの足になればいい」
 どろどろと吐かれる言葉はまるで呪詛だ。男は彼の欲の深さに脂汗をかく。今までみたどのような人間よりも、青年の欲は深く、暗い。闇と呼ぶのも躊躇われるような暗さが彼の欲には存在している。
 ふと、恐ろしさを感じている自分に気がついた。
「冗談、だろ……」
 今まで、好きに生きてきた。何をしても許されるようなこの世界で、男は誰にも負けず、一人で楽しく生きていた。自分の性格が歪な形をしていることは気にならない。他の住人だって同じようなものだったからだ。
 そんな風に生きて、何を恐れることがあったのだろうか。
「お前、何だ。何で、そんな――」
 深い闇は誰とも違う。他人を傷つけることに悦びを感じているのではなく、他人の迷惑をかえりみない行為を好いているのでもない。
「オレは、地獄へ行く」
「じごく……?」
 青年はぎらついているのに光のない目を男へと近づけた。
「アイツは地獄にいるはずだ。あんなどうしようもない奴は他に行き場所がない。
 なら、オレもそこに行くべきだ。そうだろ? 何で、オレはこんなところにいる。早く探さなきゃいけねぇ。早く見つけないと、早く迎えにいってやらねぇと。
 地獄ってのは、辛いところなんだろ? 酷い鬩ぐに合うんだろ? アイツには耐えられねぇよ。好きなことだけやって生きていたんだ。楽しいことと、気持ち良いことだけをしてきたような奴なんだ。
 泣いてるかもしれねぇ。想像もできないけどな。助けを求めてるかもしれねぇ。そんな奴じゃないけどな。アイツはいつも一人なんだ。独りぼっちなんだ。だから、オレが行ってやらないと。なあ?
 でもな、オレの足は駄目だ。人の足なんて役にたたねぇ。だから、お前をよこせ。お前が足になればいい。お前が走ればいい。オレが操縦してやるよ。
 そしたら地獄なんてあっという間さ。オレが『お客様、お迎えにあがりました』とでも言えば、アイツは笑ってオレのところにくる」
 つらつらと語られる言葉は、時折乾いた笑みを交えていた。
 男は青年の狂ったような叫びを耳にしながら、意識を少しずつ手放していった。もはやどう足掻いても、青年の一部になることは逃れられないことらしい。
 半分以上溶けてしまった意識の中で、男は青年の持つ欲がどういった形のものかを知った。
「お前は醜い嫉妬と執着心の塊か」
 思考の中で思い描いた言葉は青年に届いていたのだろうか。
 何もわからなくなっていたが、男は餞別に青年へ名を送った。
「どこまで行っても地獄には行けねぇ。それでも走り続けやがれ。
 なあ、タクシー?」

END
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4月1日設定です。
この先に書くGHSに、このたくしーが現れる保障はありません。出る可能性もないことはないです。