ルカには悩んでいることがある。
日常のささいな悩みではない。人生を大きく左右する悩みだ。他人に相談することさえできない。
「こんなに悩むのは始めてだよ……」
河原の石に腰掛けてため息をつく。
彼とて、今までの人生で悩み事を抱えてことくらいある。しかし、現在、彼が直面している悩みと比べれば、その他のモノなど吹いて飛ぶ程度の軽さだ。おそらくは、今後もこれ以上の悩みなど出てこないに違いない。
「子分」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、立ち上がると同時に思わず前へつんのめる。
バランスを崩したままに、顔から地面へと直撃しそうになった。
「……何をしとるんだ」
「あ、ありがとう。スタン」
ルカと地面のキスを防いだのは、背後から声をかけてきたスタンだ。現在、彼は影の姿ではなく、人の形を取っている。先ほどまではルカの自宅でマルレインと喧嘩をしていたはずなのだ。こうして、河原にやってきたということは、喧嘩が終わったということだろう。
喧嘩が終わったのは喜ばしい。しかし、今のルカにとって、スタンと二人っきりで顔をあわせるというのは喜ばしくない状況だ。
「貴様の母親が呼んでいたぞ」
「わざわざ呼びに来てくれたんだ」
「ふん。女共がうるさいからだ」
口の悪さは照れ隠しだとルカは知っている。これでも、苦楽を共にしてきた仲間だ。魔王とはいえ、スタンがそれなりに優しい性格をしていることくらいは身に染みていたりする。
スタンの優しさを受けるのは嬉しい。戦いが終わり、平和な日常を彼と過ごすことができているのも嬉しい。
しかし、ルカの悩みの種はスタンなのだ。
先導するようにルカの前を歩くスタン。彼の背中をルカは見つめる。影の時からは想像もできない程広く、しっかりとした背中だ。あの姿で怒鳴られれば、相応の威圧感や威厳も見える。
そんな彼のことがルカは好きだった。
告白はもうすませてある。スタンも同じ思いを返してくれている。
同性同士の恋愛が成就しているにも関わらず、他に何を悩むのだろうかと思われるかもしれない。ルカ自身も、スタンへの思いを自覚したときには、これから先、これ以上の悩みなど存在しないに違いないと思ったものだ。だが、人生を甘く見てはいけない。上には上があった。
「余は少し散歩してくる」
家の前にまでやってきて、スタンが言った。
「わかった。気をつけてね」
「誰に言っている?
余は大魔王スタン様だぞ」
ニヤリと笑い、犬歯を見せる。実に悪役らしい顔つきだ。
彼が本気になれば、テネル周辺のオバケなど一掃してしまえる。これは誇張でもなんでもない。ルカもそれを知っているので、笑顔を返すだけに留める。
スタンが立ち去り、ルカは顔を俯けた。
「ボクってやつは……」
ため息が出てしまう。
ルカは改めてスタンの優しさを実感していた。
極力、ルカから離れているのは彼の優しさだ。何も問いかけてこないのも同様だ。スタンは黙ってルカの答えを待ってくれている。普段は短気で、身勝手な彼がだ。
「でも、すぐには決められないよ。
魔族になれ、だなんて」
数日前に言われた言葉は、今もルカの耳にしっかりと残っている。真剣な声も、眼差しも、忘れることなどできない。
人間と魔族は寿命が違う。すなわち、どれだけ二人が互いを思っていたとしても、寿命という絶対的な壁が二人を引き離す。スタンも悩んだだろう。だが、彼は決心し、ルカに魔族にならないかと提案してきた。
魔王の子分としても、人間のままでいるより魔族になった方がそれらしい。ずっと共にいれることや、魔力が底上げされることにより使える魔法の幅も増える。ただし、人の道を外すことになる。
一度、魔族になれば元には戻れない。両親や妹、友人達が死んでもルカは生き続ける。その苦痛を考えれば、悩むのも当然だ。
そして、置いていかれる苦痛がわかるからこそ、また迷う。ルカがスタンからの提案を断れば、置いていかれる苦痛を味わうのはスタンなのだ。いつも強気で、涙なんぞ無いようにしか見えないスタン。だが、きっとルカが死ねば泣くだろう。それくらいの自信はルカにもある。
「母さん」
家に入り、台所にいる母に声をかける。
「あら。おかえりなさい。
あのね、ルカにお使いを頼みたいの」
いつもの用件だ。これだけのために、魔王を使い走る母ところが、母の凄いところだ。
「ボクを育てるのって、大変だった?」
お使いを請け負う前に、聞いておきたかった。
この問いかけで、悩みの答えが出るとは思っていない。けれど、聞いておかなければならないことだと思っていた。人間として生まれた息子を、人間として今まで育ててくれた母だ。道を踏み外すにしても、彼女には報いなければならない。
「……別に?」
「え? べ、別に……?」
母は可愛らしく首を傾げていた。
気をつかって答えた言葉ではない。
「私だけで育てたわけじゃないもの。
それに、あなたは昔から大人しかったし、手間のかからない子だったわ」
「そ、そう……」
確かに、ワガママらしいワガママを言った記憶はない。そもそも、言ったところで聞いてもらえるような家族ではない。厳しいわけではなく、相手がマイペースすぎて。
「ねぇ、ルカ」
エプロンで手を拭きながら、母が近づいてくる。
息子の目から見ても綺麗な女性だ。子供が二人もいるとは思えない。
「子供はいつか旅立つものよ。
それが男の子ならなおさら」
母はにこりと笑った。
ルカはその時点で白旗を揚げることにした。どうしたって、母には敵わない。全てお見通しなのだ。
「私もお父さんも、みーんな、旅立ちは笑顔で見送るわよ」
あの日、魔王に影を支配された息子を見送ったように。
END