世界を分類から解放した後、ルカは実家で以前のように過ごしていた。変わったことといえば、家族が増えたということだろう。
「ルカ。お母様がお使いに行ってきてと言っていたわよ」
「また? たまにはアニーに行って欲しいよ……」
肩を落としたルカは、元王女のマルレインを見る。
彼女が着ているのは、赤いドレスではない。至極普通で質素なワンピースだ。ルカの母は、彼女にもっと可愛い服を着せたいのだとよく口にしているが、金銭的なことを気にしているのか、彼女が要求を受け入れたことはない。
それでも、マルレインはいつも幸せそうだった。楽しそうに笑い、時には落ち込む。そんな、どこにでもいる普通の女の子になっていた。ルカとしては、王女として生きていた彼女よりも、今の方が好きだったりする。等身大で一生懸命に生きている姿は、どうしたって好感が持ててしまう。夕食の仕度を母とする後ろ姿を見ては、幸せを実感する毎日となっている。
赤の他人であるマルレインをあっさりと受け入れてくれた家族には感謝するばかりだ。
ベーロンが行方不明になり、分類という拘束も解けた今、マルレインに帰る場所はない。当初はルカの顔を見に来ただけだと言っていた彼女だが、今ではすっかり家族の一員だ。
ルカの母が彼女を気に入っていたし、お人好しばかりの家族構成ということもあって、帰る場所のない女の子を外に放り出すようなマネはしなかった。無駄に広い家には空き部屋も数多くあったため、目立った問題はなかったことも、すんなりと受け入れられた理由の一つだろう。
「じゃあ行ってくるよ」
何を買うのかを聞いてから、ルカは玄関扉に手をかけた。お使いはもはや日課のようなものだ。分類がなくなったとはいえ、ルカの影は薄いままだし、押しに弱い性格も変わっていない。要領のいい妹に負けるのは必然といえる。
「何だ。またお使いか。
買い物に行く暇があるのなら、余の為に働かんか。この子分め」
以前とは違う部分がここにも一つ。
「スタンだって、具体的に何をするかは決まってないんでしょ。
ボクに何をしろって言うのさ……」
足元から背後に延びた影へ言葉を返す。
本来の姿を取り戻したはずの魔王様は、今もルカの影の中だ。
とはいっても、別に悪さをすることが目的ではない。単純に、子分であるルカを手足のように使うためだ。現在は、世界征服に向けての準備期間である。と、いうのはスタンの言葉。平和な毎日をルカ達と共に過ごしている姿を見る限り、広がった世界を眺めるだけで満足しているようにしか思えない。
「そこを考えるのが、子分の役目だろ」
「えー」
胸を張って言われても困る。
ルカは善人だ。悪いことなど、悪戯レベルでも思いつかない。そんな青年に、世界征服のための仕事を考えろといわれても困るだけだ。
「何だその返事は!」
「だって……」
「ええい。貴様、少し口答えが多くなったのではないか?」
ペラペラな体を震わせて怒鳴るが、そこに迫力はない。
分類が解けたためか、単にスタンに慣れたのか、確かにルカは口答えすることが多くなっていた。それでも、何か言いつけられれば素直に従ってしまうというのは、体に染み付いた習性だ。今も、何だかんだといいつつ思考をめぐらしていた。
「世界征服、か」
村へ向かいながらルカは考える。意識として持っていた世界よりも、実際に広がっていた世界は狭いものだった。王国も見知らぬ街も存在していなかった。その反面、今の世界は全く知らない場所にまで広がっている。
世界が広くなったか、狭くなったか。非常に難しい問題だ。そんな世界を支配しようとするのは、さらに難しい問題に思えてならない。第一、世界征服とは具体的に言えば何なのだろうかともなる。
ルカとスタンが出会った瞬間、あるいはそれ以前から、スタンからは魔王という分類が外れていたように思える。人々は彼を恐れなかったし、魔王マップにスタンの存在は載らなかった。それ故か、当時のスタンから聞く世界征服というのも漠然としたものでしかなかった。一度、ルカが世界からはじき出されてしまった際には、物語に出てくるような世界制服劇があったようだが、ルカとしては賛同できない世界征服方法だ。さらに言えば、偽悪者とも称されるスタンに似合うとも思えない。
頭を悩ませているうちに、ルカは村のアイテム屋に着いた。頼まれていた物に手を伸ばし、ふと視界の端に映ったものに意識を奪われる。
「どうした? さっさと買って帰るぞ」
スタンが声をかけても、ルカはそれから目を離すことができなかった。
「何をぼーっとしとるんだ!」
苛立ったような声にようやく我に変える。
少し迷ってから、ポケットの中のスケールを数える。旅をしていた際に得たお金は家に置いてきているが、それでも目当ての物を買う程度のお小遣いは持っていた。
「ねぇ、スタン」
「何だ」
ルカは自身の目を奪っていた物を手に取る。
「交換日記しようよ」
そう言うと、スタンの返事を聞かないうちにお使いの品と、一冊の綺麗なノートを購入した。
「待て待て。何で余がそのようなことをせねばならんのだ」
帰路の途中、ようやくのことでスタンが言葉を口にした。呆れているというよりは、弱々しいといった方が正しい口調だ。
「世界征服のためには、人間のことをよく知らないとね。
ボクもスタンのことをもっと知りたいし」
「人間のことなんぞ知らずとも世界征服くらいできるわ!
交換日記とやらなら、あの糞生意気な娘とでもやっておればいいだろ」
手を振り払うような仕草をして、スタンは本来の姿に戻る。ルカのものとは違い、長く伸びている耳がスタンとルカの種族の違いを感じさせる。
彼はそれ以上の反論は聞きたくないとばかりに先へ先へと進んでしまう。遠ざかる背中を追うようにルカは手を伸ばした。
「ボクは、人間だから。
言葉にしないと平穏を保てないし、文字にしないと不安になるんだ」
真剣な目がスタンを射抜く。
ルカが口にしたのは、いつだったかスタンが言った言葉だった。
「なおさら、あの小娘としているべきだな」
無理矢理にルカの手を振り解いてしまわないのは、スタンの優しさだろう。
「マルレインのことも、わからないことはたくさんあるよ。でも、彼女は人間だから。まだ、少しはわかる気がするんだ。
でも、スタンのことはわからないことだらけだ。
魔族だし、魔王だし、悪いことも考えるし、でもボクの傍にいてくれるし、子分だって言うし……」
言葉を重ねるごとに、ルカの視線は下へ向かっていく。
情けない子分の姿を目にして、スタンはため息を一つ吐いた。
「人間というのは本当に情けない生き物だな」
鋭い爪のある手が、ルカの頭を撫でる。
「最初は貴様からだぞ」
「――うん!」
ルカは顔を挙げ、笑みを浮かべた。
END