真夜中、ルカは目を覚ましてしまった。
 月は濃い雲に隠され、世界は闇に包まれている。
 闇に慣れた目で辺りを見ても、旅の仲間達はぐっすりと眠っており、目覚める気配は微塵もない。今日も歩き通し、戦い通しだった。体力は限界に近かったはずだ。それに加え、今の仲間達は精神的にも疲れている。
 自分達が生まれ、今まで生きてきていた世界が作りものだったと聞いたのは、つい最近のことだ。王女だと思っていた少女は人形で、広いと思っていた世界は狭かった。自分を形成していたものが、根底から崩れた瞬間だった。
「……起こしちゃ、悪いよね」
 小さく呟き、そっと部屋を出る。気配を消す必要がないくらいに影が薄いというのは、こんなとき便利だ。
 現在、ルカ達は諸悪の権化とも言えるベーロンを倒すため、今はトリステに向かっている。野宿も多いが、今日は宿につくことができた。明日にはトリステにも着いているはずだ。
「寒いなぁ」
 ルカは息を吐いて手を温める。
 ここはいつでも雪が降っている。白くて、寂しい場所だ。せめて月明かりがあれば美しく見えるのだろうけれど、今は本当に何も見えない。雪のために音も聞こえない。
 寒さに身を震わせながらも、ルカはその場から動くことができずにいた。
「ボクのいない世界、か」
 思い出すのは、自分がいなかった世界のことだ。
 極限まで影を薄くされてしまったあの日からしばらく、ルカは自分が存在しなかった世界を体験させられた。誰の目にも止まらず、気づかれず、認識されない。今までだって、多少はそういったことがあった。だから、慣れているとさえ思っていた。なのに、それが当然になった世界の恐ろしさといったらなかった。
 オバケでさえ彼を認識しなかった時間は、今のように静かなものだった。だからこそ、ルカはこの静けさに心をざわめかせる。
 いなかったことにされてからトリステを見つけるまで、思いつく限りのところを回った。実家にだって帰った。それでも、ただ一人を除いて、誰もルカのことを覚えていなかった。姿を見てもらうことさえできなかった。
 息苦しさと、寂しさが同時に溢れた。だから、ルカは自分がどういう経緯をたどってトリステに着いたのかはよく覚えていない。
 気がつけばトリステの前にいた。そして、元に戻る方法を教えてもらっていた。
「あれは、ボクの知っている世界じゃない。
 スタンもロザリーさんも、みんなおかしかった」
 ベーロンからしてみれば、あちらの方が正しい世界なのだろう。滞りなく進み、魔王と勇者が戦う。少しスリルのあるゲームだ。ルカの知っている世界とは全く違う。
 自分が存在していなかった世界で、人々はスタンを恐ろしい魔王だと言っていた。ロザリーを勇者として尊敬していた。どちらもルカの知っている二人ではない。
 本当の二人は、少し間抜けな魔王と、短気な勇者だ。
 それが正しい世界だ。そして、今ある世界だ。
 ルカは胸の辺りを握り締める。
「大丈夫。ボクは、ここにいる」
 既に存在は戻った。各地に散らばっていた仲間達も集まった。わかっているはずなのに、不安が付きまとう。静かな世界と、真っ暗闇な世界のせいだ。何も見えないことが恐ろしくてしかたがない。
 部屋に戻って眠らなければ、と思いつつもルカはその場にうずくまってしまった。
 恐怖心が現実的な重みを持って彼に襲いかかっている。
「何をしているのだ」
「――え?」
 唐突に降ってきた声。
 ルカは驚いて顔を上げた。
「こんなところで何をしているのだ、と聞いている。
 さっさと答えんか。貴様は主の言葉を無視するのか?」
 そこにいたのはスタンだった。
 ぺらぺらの体を揺らし、向こう側を透けさせている。ルカのよく知るスタンの姿がそこにある。
 さらに見上げれば、先ほどまで空を覆っていた雲が晴れている。今日は満月だ。月の淡い光が雪原を照らし、ルカの足元に影を作っている。
「ちょっと、風に当たりに来ただけだよ」
「このクソ寒いのにか」
「うん」
 力なく笑うルカに、スタンも思うところがあったのか、特に追求はしてこなかった。
 ただ、いつものようにすぐに影に戻ることもしない。月の光によって作られた影を伝い、地上に姿を見せたままだ。
「……スタン」
「何だ」
「スタン」
「何だと聞いている」
 名を呼べば返ってくる。
 ルカは笑った。
「貴様……。余を呼んでおいて笑うとはどーいう了見だ!」
「ごめんごめん」
 あの日、ルカがどれだけ呼んでもスタンは現れなかった。足元の影に縋り、涙を流しても、影は影でしかなかった。
 だが、今は違う。影はただの影ではない。
「ボクはキミの子分?」
「当たり前だ」
「ずっと?」
「一生だ」
 ルカは宿屋へと足を向ける。
 心の内にあった不安は消えていた。
「一人にしないでね」
 そう言うと、月明かりの届かぬ宿屋へと身を入れる。
 スタンからの返事は聞かないことにした。
 少し恥ずかしいのと、答えはわかっているから。

END