朝、弟者が目を覚まして朝食を食べているときも、兄者は姿を見せなかった。どうやら、昨日から帰ってきていないようだ。心配する妹者と母者をよそに、弟者は学校へ行く用意をする。
「学校で会ったらちゃんと帰ってくるように言うのじゃ」
「はいはい」
一生帰ってこなければいいのに。
笑顔の裏側で汚いことを考える。
「弟者」
真っ直ぐな声は、母者のものだ。
「帰ってきたら話があるからね」
昨日のお説教だろうか。面倒だと思い、適当に返事をする。
「いってきまーす」
兄者の姿を見ない朝は気持ちがいい。今にも鼻歌でも歌いだしそうな弟者は、昨夜兄者がどのような目にあったのか知らない。
「おはようございます」
「おはようございます」
学校が近づけば、生徒達が弟者に挨拶をする。
一人一人に丁重に挨拶を返し、校門をくぐり、まっすぐ教室を目指す。
「おはよ」
いつも通り挨拶をすれば、教室にいた友人達が次々に挨拶を返してくる。平和で、いつも通りな風景。弟者は自分の席に荷物を降ろした。
「よぉ。おはよう」
席についた弟者に声をかけてきたのは、友人ではなかった。
この学校では珍しい不良と呼ばれる人種。何度かカツアゲや暴行について他の生徒からどうにかして欲しいとの要望がでたことがある。弟者は始め、口頭で注意したのだが、結局それが改善されることはなかった。
なので、暴力には武力という単純な対策がなされたのも、しかたないことなのだろう。
「……おはよう」
弟者に完膚なきまで叩きのめされてから、この不良はあまり表立った行動はしてこなかった。また、プライドも傷つけられたのか、同じクラスでありながらも弟者と関わりを持とうとしなかった。
何か裏があるのではないかと、警戒するのも当然のことだ。
「お前が何で袋にされないかずっと疑問だったんだけどよぉ」
絶対的正義である弟者ではあるが、敵も多い。主に叩きのめされた不良共だ。
いくら強いとはいえ、力にそれなりの自信を持った者達だ。全員で袋叩きでもすれば勝てるだろう。だが、誰もそれをしなかった。単に不良共が強力するということを知らなかったというのもあるだろう。しかし、一番の理由は、昨日の夜わかった。
「兄貴がお前の代わりだったんだな」
いやらしく笑って、弟者に言葉をつきつける。
弟者の前にいる不良はどうしようもない馬鹿だ。今まで、そのことを誰も知らなかったのは何故か。それを考えていない。
「……な、に?」
細い目を見開き、言っている意味がわからないという表情をする。
「お前と同じ顔だもんな。あんまり声を出さねーのが難点だけどな」
弟者の表情に気をよくしたのか、不良はつらつらと言葉を並べる。
「ありゃあ、やられ慣れてる感じだったな」
「まったく。できの良い双子の弟ってのも不便だなぁ」
「今頃どこにいんのかねぇ?」
周りのクラスメイト達が弟者の様子がおかしいことに気づいても、不良は何も気づかない。
「――れ」
低く、地を這うような声が聞こえた。
「あ?」
聞き返した不良の顔は、素早く伸ばされた弟者の手によって歪められた。
「黙れ!」
修羅。そんな言葉を誰かが紡いだ。
冷たく開かれた目と、燃え盛る怒気。握られた拳は神のいかづちのよう。
「貴様ごとにが、兄者を語るな。
汚らしい声に兄者を乗せるな。
腐った目に兄者を映すな。
醜い容姿を兄者に見せるな。
その手で兄者に触れるな」
静かにまくし立てられる言葉に、不良がたじろぐ。
「それで、貴様は、兄者を、どこで、どうしたんだ?」
不良を殴り、マウントを取る。
「早く答えろ。十秒以内だ」
一つ。二つ。と、早くもカウントが始まる。このまま黙っていた場合の予想は、誰もがついていた。ついていながらも、誰も弟者を止めることはできない。
「昨日の夜……vip通りの路地で、ボコリました……」
身の危険を感じて、不良が自らの罪を自白すると、弟者はニコリと笑う。
「そうか。
じゃあ、死ね」
力のかぎり殴ったらしく、不良は一撃で気絶することとなった。こうなってしまえば、弟者の力は武力ではなくただの暴力でしかない。
「ごめん。今日休む」
「……あ、ああ」
断ることができる奴がいたならば、それは勇者だ。
路地裏で目を覚ました兄者は、昨夜自分が購入した物が消えていることにため息をついた。
体も痛むし、買ったばかりの物を盗られたという精神的疲労も大きい。日ももう昇っていて、これから家に帰って学校に行くというのも面倒だ。
「……サボるか」
決意を口に出し、何とか体を持ち上げる。
ここにいれば、そのうち誰かがやってきて警察やらのお世話になるだろう。それはできれば避けたい。
「どこ行こうかなー」
家へ帰るという選択肢はない。
ふらつく体をどうにか動かしながら、兄者は人のいない場所を頭に浮かべてそこへ向かう。
途中、何人かとすれ違ったが、誰も声をかけてはこなかった。やはり都会は冷たいのかもしれないと、一人嗤ったが、この辺りは山も多く、都会とはほど遠い環境だ。
「あー。さすがに堪えるなぁ」
たどりついたのは、山の中間部分にあたる場所で、わずかに突出しているために日当たりもいい。知る人ぞ知る名スポットとなっている。
「ここにくんの、何年ぶりかな」
適当な岩に腰をかけて町を見下ろす。それほど高い山ではないので、あまり遠くまで見ることはできないが、兄者達の通う学校くらいならばよく見える。
今頃、弟者は学校で友達と朝の挨拶を交わしているころだろう。自分がいなくなったことに対してどう思っているのだろうか。
「少し、寂しいと思ってくれてたら……って、ねーよ」
自分で思って、自分で否定する。あの弟者が自分の不在に関して喜び以外の何かを感じている姿を想像できない。
あまりにも悲しい自分の思考回路に、兄者は軽く落ち込んだ。
「昔は仲良かったんだけどな」
ここにも二人でよくきていた。母者に怒られたときなどはここへきて、二人で夕日を眺めて帰ったものだ。
あの頃は、弟者の才能もまだ開花しておらず、兄者と弟者は本当によく似た双子として扱われていた。今の状態が不満というわけではない。弟が立派なのは喜ばしいことだ。劣等感はあれど、嫉妬心はない。
それが、いつの間にかこんなことになってしまっている。
できのいい弟と比べられるのは嫌だった。周りのできそこないを見るような目が嫌いだった。
弟者も、できの悪い兄を恥のように扱っていた。お互いに、お互いを嫌煙しあい始めたのがいつだったかは、覚えていない。
考えれば考えるほど、悲しくなった。
弟者のことは大好きだ。弟なのだから当然だ。それでも、どうしようもない劣等感がある。せめて少しくらい兄らしいことをと思い、購入したものも奪われた。
校則違反を犯してまでバイトをしたのに、何とも情けない結果に終わっている。
「結局、オレは兄でいることなんて、できないんだろうか」
広がる青い空を見上げる。
巨大掲示板で見たように、ちくわでも咥えてみようかとも思ったが、ちくわを買いに行くのも手間なので、やめておく。
ただぼんやりしているだけだと、時間が過ぎるのは遅い。早く夕方になってしまえばいいのにと思う。簡潔に言ってしまえば、暇なのだ。
「見つけた!! 馬鹿兄者!」
必死な声に振り向けば、そこには自分とよく似た顔がある。
「……おと、者?」
今日は休みではない。時刻はそろそろ一時間目が始まるころ。どう考えても弟者がここにいる理由がわからない。
「酷い、顔してる」
兄者と距離を置いて、弟者は言った。
「あっ……」
自分の顔がどんなことになっているか知らないが、ろくなことになっていないのはわかっている。とっさに顔を隠そうと、腕を前へ出す。
今の状況も何も把握していないが、よくないことになると予測した。
兄者の方へ近づいてくる足音だけが耳に届く。殴られるのかもしれないと覚悟をする。
「何で、言わないんだよ」
顔を隠そうとした腕にも傷が見えた。
「え?」
腕を戻すと、悲しげな弟者と目があった。こんな目を見るのは久々かもしれない。
「オレのせいで絡まれたり、してたんだろ」
「聞いた、のか」
不良が口を滑らしたのだろうと考えがおよんだ。
「そんなことはどうでもいいだろ!」
肩を掴まれ、強い口調で言われて、兄者は肩を揺らす。誰かに殴られるよりも、この声が怖い。
「今まで何度やられた? 何で黙ってた?」
まくし立てるような言葉にも兄者は沈黙で返す。
「答えろよ!」
「……いいじゃないか」
吐き捨てるかのような言葉。
「別に、オレがどうなっても、いいだろ!」
怒鳴りつけられ、弟者は一歩後退する。
「できのいいお前! できの悪いオレ!
お前の代わりになれるんなら、上出来だ。お前だって、オレのこと嫌いだろ。恥だと思ってるだろ。
儲けたと思っとけ。お前に被害はないだろ」
兄者の言っていることは間違いではない。
「……あ……に……」
だから言い訳が浮かばなかった。
「――――すまん。言いすぎた」
顔を青くした弟者に、兄者は背を向けて謝る。
やはり自分に兄は勤まらないと、苛立ちに似た感情を覚えたが、表情には出さない。
「兄者は、悪くない」
声は小さく震えていた。
「殴られる理由はオレだ。家族なのに恥だとか思ったのはオレだ。
本当に、ごめん」
兄者が振り向く前に、弟者は走り去っていた。
「弟者……」
絡まれていることがバレれば、こうなるだろうと予感していた。ここまで隠し通してきたのに、隠し切れなかったことが悔やまれる。
「ごめんな」
今まで騙していたことに対する謝罪。
騙し切れなかったことに対する謝罪。
傷つけたことに対する謝罪。
そして、これからすることに対する謝罪。
弟者は山を降りて、家へ向かった。今から学校へ行く気にはなれない。
「……ただいま」
母者に怒られることも覚悟の上だ。
「……おかえり」
意外にも、いつも通りの声が返ってきた。
「ちょっとおいで」
怒っている雰囲気ではない。
本当は部屋に篭りたい気分だったのだが、母者の言うことは絶対なので、素直に従う。
「何……?」
母者が座っている椅子の向かい側に座るよう促され、これまた素直に従う。
「兄者はここ数ヶ月、バイトしてたんだよ」
「昨日、バイト先で会った」
「何でバイトしてたか、わかるかい?」
わからなかったので、首を横に振る。
「もうすぐ、あんた達の誕生日だろ」
ぼんやりと、今日の日付けと自分達の誕生日を思い出すと、たしかに後数日で誕生日だった。
「弟者に新しい腕時計を買ってやるんだ。って、あの子言ってたよ」
目を丸くして、母者を見る。こんな嘘をつくような人ではない。
無意識のうちに、腕につけている腕時計に触れる。古いこの腕時計は兄者がくれた物だった。
正確には、父者が兄者にプレゼントした物を弟者が欲しがり、兄者は笑って譲ってくれた物だ。
「じゃあ……」
本当に、何から何まで自分のせいだと知った。
何も知らなかった自分が憎くて、唇を噛み締める。薄っすらと血が滲み出ているが、気にしない。
「兄弟喧嘩なんて久しぶりだね。仲直りの仕方、ちゃんと覚えてるかい?」
二人の間に大きな壁と溝ができてからは、兄弟喧嘩なんてものはなかった。
また、首を横に振る。喧嘩の仕方も、仲直りの仕方もわからない。母者の呆れたようなため息と同時に、電話の音が鳴り響いた。
「もしもし?」
『あ、ニュー速高校の者ですが、流石さんのお宅でしょうか?』
「はい」
『実は流石兄者が――』
続けられた言葉に、母者は一瞬だけ笑い、すぐに表面上だけの謝罪を口にする。
電話を切り、弟者を見て楽しげに言った。
「兄者が暴れたそうだよ。用意しな」
学校へ向かう途中、弟者は昔のことを思い出した。
弟者が虐められたら、絶対に助けてくれたのは兄者だった。勉強も運動もできない兄者だったが、唯一人並み以上にできることがある。
「……久々、だな」
武力ではなく暴力。一方的なそれが兄者は得意だった。
学校へつくと、生徒達が怯えた目で弟者を見てきた。兄者と間違えているのか、あんな乱暴者の双子の弟だと思うと怖いのか。
「失礼します」
校長室へ入ると、例の不良と兄者がいた。
不良はボコボコ。兄者は小声で何かを呟いている。
「兄者君のことですが――」
「あ、ちょっと待ってください」
口を開いた兄者の担任を遮り、弟者は兄者へ近づく。
兄者の呟きに耳をすませてみると、殺すなどの恐ろしい単語と、腕時計という単語をひたすら呟いていた。
「兄者。兄者。しっかり」
暴力を奮う時の兄者はいつもこうだった。リミッターを外しているためか、まともな思考回路を持たない。元に戻すには、肉親の声か母者並みのパンチが必要だ。
「……あ、おとじゃか。
すまんな。もうそろそろ、せいぎょもできるかとおもったんだがな」
弱々しく笑う姿は、元の兄者になった印。
普段、あれほど大人しいのは暴れるときのために、力を貯めているのではないだろうか。
「それではですねぇ」
始まったのは喧嘩の理由と、お説教。元々、非は不良側にあったので兄者は厳しく言われることもなく、数日間の停学ですんだ。もちろん、不良が盗った腕時計は兄者に返却された。
「……少し早いけど、誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
帰り道、母者は買い物に行ってしまったので、二人っきりだった。弟者が学校へ残らなくてよかった理由はわからない。
「あの、さ」
「ごめんな」
弟者が切り出す前に、兄者の謝罪が入った。
「ずっと黙っててごめん。暴れてごめん。恥かかせてごめん」
「……兄者」
謝罪を聞き、弟者が返す。
「気づかなくてごめん。暴れる原因をつくってごめん。酷いこと思っててごめん」
仲直りの方法なんて簡単なものだった。
「いいよ」
「いいよ」
謝って、いいよって言う。それで全て丸く収まる。
END