「お前の兄貴、引きこもりなんだって?」
友人から言われた言葉。何も言い返せない。いや、むしろ出てきたのは肯定の言葉だった。
「ああ。そうなんだよ」
兄者は好きで引きこもっているわけではない。人間が怖いのだ。昔は普通だったのに、どんどん外へでなくなり、オレが高校に入ったときには完璧な引きこもりになっていた。正直、恥ずかしい。
「引きこもりニートとかどんだけお荷物なんだよ」
人の兄のことだというのに、この友人は笑ってのける。だからオレも笑った。あんな兄者のことを庇う気にはなれない。早く出てくればいいのに。ここ最近は、家の中でもあまり顔を見ない。
「本当に、死んで欲しいよ」
こんな冷たい言葉があっさりと出た。しばらく顔をあわせない間に、オレは薄情になったらしい。
それからオレは友人と引きこもりやニートの不要性について語った。罪悪感なんてなかった。出てこない兄者が悪い。いつまでオレが待っても、兄者はあの扉の向こうから出てきてくれないんだ。
ちなみに、この話をしたのが数日前。
今、オレはリビングで漫画を読んでる。母者が二階から降りてくる音が聞こえた。兄者の食器を片付けに行ったんだろう。部屋の前へ食事を置き、母者がいなくなったのを見計らって兄者がそれを取る。しばらくして二階へ行ってみると、部屋の前には空の食器がある。そんな生活が続いている。
「……あれ?」
だけど、母者が持っているお盆の上にはまだ食事が残っていた。手は全くつけられていない。とうとう物を食べることもやめてしまったのだろうか。
「どうしたんだろうねぇ……。
今日は朝も昼も食べてないんだよ……」
母者が心配そうに言った。兄者が引きこもる前は、母者は絶対的に強くて、オレと兄者はよく叱られていた。そんな母者も今ではこの通りだ。
こんな風にしたのは兄者だ。オレは無性に腹がたって、二階へ駆け上がった。
「兄者! おい、出てこいよ!」
扉を力任せに叩いて兄者を呼ぶ。
返事はなかった。それどころか、物音一つしない。
「いい加減にしろよ! いつまでも逃げてんじゃねーよ!」
やはり物音一つしなかった。
そのことが余計に頭にきた。
何だよ。オレからも逃げるのかよ。双子の弟であるオレからまで……!
ためしにドアノブを掴んで回してみると、意外にも扉は開かれた。いつもはしっかりと鍵がかかってるのにどうしたんだろうか。ゆっくりと扉を開ける。部屋の中は電気もついてなくて、真っ暗だった。
仄かに香る匂いに気づくが、今さら扉を閉めることができない。頭の冷静な部分が、見ないフリをしろと言っている。
「……あ、に者」
扉が完全に開くと、廊下の光で部屋の中が照らされる。部屋の中は綺麗に整頓されていて、引きこもりらしくないなと感じた。そんな部屋の隅に、大きなダンボール箱があった。
部屋の電気をつけて、ゆっくりとダンボール箱に近づく。そこからは青いブルーシートの端が見えていた。たぶん、ダンボールの中に敷いてあるんだろう。
「……やっぱり」
驚くほど冷静な自分に、ちょっと引いた。
覗きこんだダンボール箱の中には兄者がいた。小さく丸まってて、手首から真っ赤な血を流していた。口元は笑っていて、幸せそうに見える。
ダンボール箱は簡易ゴミ箱みたいに見えた。ゴミ箱の中で兄者はゴミみたいに死んでいる。きっと、ゴミみたいに燃やされて、空へ逝くんだ。
こんな所で手首を切ったのは、部屋を汚して家族に迷惑をかけたくないから。
幸せそうな顔をしてるけど、本当は滅茶苦茶怖かった。今にも助けを求めたかった。
見渡して見たところで、遺書は見当たらないが、パソコンの中にきっと遺書みたいな文が入ってる。
わかるさ。双子だから。
なのに、オレはわからなかったんだ。
兄者が外に出れなくてどれだけ苦しんでたのかとか、兄者がいつのまにか死んでしまっていたこととか。何も、知らなかった。わからなかった。
涙は出てない。ただ、自分が情けないと思った。
「は、はじゃ」
きっと、母者は叫ぶだろう。そして泣くんだ。父者は黙って泣く。妹者は泣き喚く。姉者は馬鹿だと言いながら静かに泣くだろう。
…………オレは? オレは泣くのだろうか? 今もこうして何処か冷静な部分を保っているオレが?
それから、ことはオレの予想通りに進んだ。
兄者の死体を見て、母者が叫んだ。その声を聞いて、妹者が走ってきた。そして泣き喚いた。次に姉者がきて、しばらくしてから父者が帰ってきた。
死体は燃やされた。ゴミみたいに。
オレはやっぱり泣かなかった。
双子なのに、片割れなのに、家族なのに、泣かなかったんだ。
兄者が引きこもりだったから? 恥だと思ってたから?
わからない。わからない。朝、目が覚めたから顔を洗う。今日は学校を休んでもいいらしい。ちょっと特した気分。
『弟者』
呼ばれたような気がした。
『ここだよ。ここ』
声の聞こえるほうを見てみると、そこには兄者がいた。昔みたいにヘラヘラ笑ってて、どこか人懐っこい雰囲気だった。
「なんだ、死んでなかったのか」
『当たり前だろー』
そうか。だからオレは泣かなかったのか。兄者は死んでないから。まだいるから。
みんなは気づいてないだけなんだ。兄者はここにいる。
『なあ、しばらくはあのままにしとこーぜ! 後で驚かせてやるんだ』
本当に兄者は悪戯が好きだな。後で母者に怒られても助けてやらないからな。
『えっ……。それはちょっと……』
久々に兄者と話す。やっぱりオレは兄者が好きだ。引きこもりだって、ニートだって構うものか。だって、兄者はオレの、たった一人の兄貴だからな。
幸せだ。オレは今幸せだよ。
『さて、今日はどうしようかなー』
「またブラクラでも踏むのか?」
『失敬な!』
そんなこと言っても、いつも踏んでるじゃないか。
兄者と話していると、姉者がきた。
あー。バレちゃったなぁ。残念だったな兄者。
『むぅ。まあ、しかたないな』
ふくれっ面が面白くて、思わず笑うと、姉者は心配そうな顔をしてくる。
「弟者……? あんた、どうしちゃったの?」
「いい歳した兄者のふくれっ面とか、もう笑うしかないだろ?」
笑いながら言うと、姉者の表情が強張った。
「…………冗談でしょ?」
何を言ってる? 姉者がおかしいぞ。
『そのようだな。ところで弟者』
冷たい声だ。
『何で、オレはこんなところにいるんだ?』
兄者は、鏡の中にいた。
「――――」
返事ができない。何で、鏡の中に? 何で?
「あんた、やっぱり兄者が死んで、おかしくなっちゃったんじゃ……」
違う。オレはおかしくない。兄者は死んでない。死んでないんだ。
「だって、オレはまだ話したいことがあったんだ。
学校のこととか、近くにできたゲーセンのこととか、妹者が作ってくれた焦げたクッキーのこととか――」
ほら、こんなにたくさんあるんだ。兄者、聞いてくれよ。
「あ、に……じゃぁ……」
涙が溢れてきた。
なあ、オレはどうしたらいいんだろうな?
END