人付き合いもよく、顔もいい。そんな弟者に双子の兄がいることを知っている者は少ない。中学時代あたりから、人前に出るのを嫌うようになり、高校受験をしたものの結局数回しか行かずにやめてしまっている。
中学時代も、友人の多かった弟者とは対照的に、兄の兄者は友達が少なかった。それどころか、イジメの対象とされていた。
「弟者、そういえば兄者どうしてるお?」
偶然、町中で出会った友人と喫茶店で昔の話をしていた。友人は、兄者の存在を知る数少ない人物だ。
「――兄者?」
女達から黄色い声を上げさせる優しい笑みを浮かべる。
なのに、それが表面上だけにしか見えた。笑っているのは口元だけ。瞳からはどす黒い何かを感じる。ずっと見ていたら、見てはいけない深淵を覗きこむことになるだろう。
弟者と向かい合う形で座っていたブーンは、その瞳に恐れおののき、思わず立ち上がる。
「どうした?」
座れよと促してくるが、再び座る気にはなれない。
「……何でも、ないお。もう帰るお」
自分の分の代金をテーブルの上に置く。
「なんだ。つれないな」
「すまんお」
目は合わせないで会話をし、そそくさと喫茶店を後にする。
「またな」
ブーンはあのどす黒い瞳が自分の背中を見ているのを感じた。もう二度とあの深淵に触れぬようにしなければならない。隠しきれていない闇が恐ろしい。
喫茶店からずいぶん離れたブーンは携帯を取り出し、一番よく使う短縮ダイアルを押す。
「あ、ドクオ」
しばらくのコール音の後、目的の人物が電話に出た。
『何だ?』
「さっき、弟者に会ったお」
『ああ、中学以来か……。オレも会いたいな』
ドクオの声は、旧友に会いたいと思う極普通の調子だ。だが、弟者相手にそれは危険だとブーンは告げる。
「会っても、絶対に、兄者の話はしちゃダメだお」
真剣な声に、携帯の向こうでドクオが目を細める。
「怖いお。あの目は、普通の目じゃないお」
『……わかった』
友人としての時間の長さか、ドクオはブーンの口から詳しく話を聞かなかった。その口調だけで、どれほど恐ろしいものを見たのかはわかる。
ブーンは電話を切り、喫茶店のある方向を振り返る。
弟者はもう家に帰ったのだろうか。それとも、大学に向かったのだろうか。どちらにせよ、兄者自身が知らぬところで、その身に不幸が降り注いでいるのだろうということは明らかだ。
中学時代の兄者を思い出そうとしてみるが、うまくイメージできなかった。ただ、いつも不良に蹴られ、殴られ、パシられ、ろくな学校生活を送っていなかったことだけは確かだった。そして、それを弟者は助けようともしなかった。
「あのころと、何も変わってないのかもしれないお」
自分達が気づけていなかっただけで、弟者は昔から危ない奴だったのかもしれない。これはあくまでも仮定であり、推測にすぎない。なので、結局ブーンは気づかないフリをするしかない。
早く忘れてしまおうと思いながら、ブーンはバイト先へと足を運ぶ。
家賃は安めだが、ボロさは一級のアパートに、常にカーテンが締め切られている部屋がある。
「兄者、帰ったぞー」
「……お、とじゃ」
玄関の扉を開け、弟者が部屋に入ると、兄者が顔を出した。
たった一つしかない部屋。そこにあるテーブルの上にパソコンが置かれている。その前は兄者の指定席となっている。
「今日もずっと家にいたのか?」
「う、ん……」
兄者の体は病的に白く、細い。髪の毛は弟者が定期的に切っているのか、さっぱりとしているが、どうしても暗い印象を受ける。
「たまには外に出ろよ」
大学の入学が決定したとき、弟者はすでにこの小さなアパートの一室を借りていた。そこに兄者を連れて家を出る主張したのだ。当然両親は猛反対したが、弟者は自分の意見を譲ろうとしなかった。
「ごめ、んな」
いつの間にか対人恐怖症の域まできていた兄者は、弟者と以外言葉を交わさない。そのためか、声帯機能が弱っている。喉から出てくるのは掠れた音だ。
同じ身長のはずなのに、兄者は弟者を見上げている。
「兄者の食費だって、タダじゃないんだからな?」
優しく頭を撫でながら言う言葉は辛らつだ。胸を突き刺す言葉に兄者はうつむく。
こんな言葉は何度も聞かされてきた。自分をアパートに連れてきたのは両親のため。食費はタダじゃない。パソコンをつかう電気代もタダじゃない。太陽に晒されていない肌は気味が悪い。かすれた声は聞き取りにくい。
「今日も大屋さんに言われたよ。お兄さんはどうしてるんですか? って」
こんな言葉は嘘だ。大家と会うことなんて滅多にない。だが、兄者にそれを知る術はない。
時折やってくる勧誘の声にも、兄者は返事をしない。ただじっと、人が去ってくれるのを震えて待っている。弟者が帰ってくるのと待ち遠しく思う。
「ごっめ……ん、なさ……い」
自分の悪いところを突きつけられ、体を震わせる。出てくる声は今にも泣きそうだ。
「ああ。そういえば今日、ブーンに会ったよ」
知っている名前に、兄者は顔を上げる。あまりいい思い出がある時代のことではなかったが、自分が外へ出ていた時代の話だ。わずかな光が見えた気がした。
「――兄者はいつまで経ってもダメな奴だって、言ってたよ」
見えたような気がした光は、底が見えない暗闇だった。
涙が溢れる。ただの傍観者ではあったが、イジメというものをしなかった数少ない人間からの暴言は、あまりにも痛かった。
「うっ、あっ……っ……」
引きこもりで対人恐怖症。双子の弟のヒモのような現状。それが正しいこととは兄者も思っていない。だが、外へ出る勇気は出ない。人と話すところを想像するだけで吐き気がする。
どうにかしなければいけないという思いと、どうにもできない現状に、兄者は涙を流してうずくまる。
「なあ、いつも言ってるだろ?」
温かみを帯びた声が聞こえたとき、兄者の体は抱き締められていた。
「オレだけは、兄者が好きだから」
耳もとで囁いてやると、兄者は弟者の背中に手を回して弱々しく服を掴む。
たった一つの光だった。この光に頼っていてはいけないと思いながらも、それを突き放すことはできない。この光を見ている間だけが幸せなのだ。
兄者からは弟者の表情は見えない。弟者はその表情を兄者に見せることはない。
薄暗い、独占欲に満ちた暗い笑み。
気づいたときから、兄に家族以上の気持ちを抱いていた。それが悪いことだとは思わなかった。自分だけを見ていてくれたらどれだけ幸せなのだろうかと思っていた。
幼い頃の気持ちは大人になるにつれ、黒さをおび、自分以外の何者も瞳に映さなければと思った。
「見てくれよ」
そっと兄者の拘束を解き、兄者と目をあわせる。涙に濡れ、赤くなっている目に映っているのは弟者だけだった。
「弟者……」
幸せそうに笑う。
この笑みが欲しかった。それだけのために、人生を費やしてもいいと思える。
兄者が虐められるようにしかけてみた。
傷つく兄者を眺めていた。
無理に笑う兄者を慰めた。
兄者を助けようとする者を排除した。
二人っきりになるために部屋を借りた。
外へ逃げれぬように傷つけた。
傷を癒せるのは自分だけだと言い聞かせた。
「明日も、明後日も、オレだけは、兄者の傍にいる」
「ありがとう」
二人だけの世界。二人だけの部屋。
END