『この部屋から脱出する方法はただ一つ。あなた方のどちらかが死ぬことです。
 特殊空間であるこの場所でならば、肉体的ダメージで死ぬことが可能となっています』
 一枚の白い紙にはこれだけが簡潔に書かれていた。
 どれだけ眺めていても文面は変わらないだろうし、あぶり出し等の手法によってヒントが得られるわけでもないだろう。もっとも、この場にいる二人はそれらを望んでなどいなかったのだけれども。
 顔を並べてその紙を読んでいたタクシーとパブリックフォンは、同時に顔を上げて互いを見る。距離が近すぎるため、互いの瞳には互いの顔が映っているのがよく見えた。こんな場所、こんな相手でなければ、さぞやロマンチックなものだったに違いない。
 だが、彼らはだだっ広いだけの部屋に閉じ込められていたし、相手は腐った性根さえも知り尽くしている男ときたものだ。ロマンスの欠片もありはしなかった。
 二人が互いを見たのは、およそ必要とは思えぬ意思確認を形式的にやってみせただけのことだ。何せ、彼ら二人には仲良くお手てを繋いで脱出する方法を考える、などといったしち面倒なことをする気などさらさらない。
 ご丁寧なことに、脱出の方法が記されているのだ。それに従わぬ手はないだろう。
 同じタイミングで口角を上げた二人の目には、明確な殺意が宿っていた。紙には片方が死ねばいい、と書かれている。つまり、これから始まるのは殺るか殺られるかの殺し合いで、目の前にいる血縁者は敵となるのだ。何とも単純明快な答えなのだろうか。
「残念だよ。
 お前と仲良く話ができるのも今日が最後らしい」
 パブリックフォンはわざとらしく肩をすくめる。嫌味を十二分に含んだ声色は常となんら変わりない。普段から交わされている軽口の延長線上だ。この先に待っているのが殺し合いなのだとは微塵も感じさせない。
「しっかし、こっちにきて、物理的に誰かを殺せる日がくるとはなぁ」
 首に片手を添え、歪な音を鳴らしながらタクシーは言葉を返す。
 彼らが住まう世界は、普通の人間が住まう世界ではない。強い欲望や願望、そんなものに塗れた魂が迷い込み、時に食われ、時に新たな生きかたを与えられる場所だ。
 この世界に堕ちる前のことは殆ど覚えておらず、おそらくは昔と違う体を得ているのだろう。タクシー達を含め、この世界に住まう者達は簡単には死なぬようにできていた。いくら血を抜かれようと、毒を食わされようと、体を砕かれようと、時が経てば元通りの状態に戻ることができてしまう。
 命を経つ方法は一つ。精神を完膚なきまでに砕いてしまうことだ。
 気狂いにするのではない。精神を空っぽにしてしまえば、あるいは生きることを全身全霊で否定させればいい。この世界において、肉体等というものはただの入れ物にすぎず、命を形作るのは精神なのだ。
 故に、記されていることが本当だとすれば、この部屋は異色だ。
 精神的なダメージでなくとも、誰かの命を経つことができる。心を殺すよりも、ずっと簡単にこの部屋から脱出することができる。
「相手がお前で、本当に残念だよ」
「そう思ってるなら、そういう顔をしておけ」
 彼らは互いに背を向け、距離を取る。三メートル程離れたところで、二人は振りかえり再び互いの顔を見た。
 パブリックフォンは指先で電話線を撫で、タクシーは足を軽く回す。
 二人の目蓋がゆっくりと落ちる。
 そして、同時に開かれ、彼らは床を蹴る。
 左右の手で電話線を伸ばしたパブリックフォンは上へ、圧倒的なスピードを持って相手を捕まえようとしたタクシーは前方へ向かう。
 間一髪のところでタクシーの手を免れたパブリックフォンは、手にしていた電話線をタクシーの首へ巻きつけようとする。武器が用意されていない空間では、己が元々持っている道具か、単純な力によってしか相手を殺せない。
 他者を殴り殺すだけの力が己にあるとは思えなかったパブリックフォンは、タクシーを締め落すしかないと考えた。どれ程の達人であっても首を締められれば死ぬ。
「もらった!」
 赤い電話線がタクシーの喉に触れる。あとは床に着地すると同時に電話線をクロスさせ、力任せに引けばいい。
「――甘いんだよ」
 あざ笑うような声がパブリックフォンの耳に届く。
 見れば、捕らえるために伸ばされた手とは逆の手がタクシーの喉元にある。
 タクシーの手が電話線を掴み、自身の喉から引き離すと同時にパブリックフォンを床へ叩きつけた。
 締め落そう、というパブリックフォンの作戦がばれていたのだ。伊達に人間であった頃からの付き合いではない。パブリックフォンが己を殺す為にどのような方法を用いるか、そのためにどのような行動に出るか、全て予測済みだった。
「ぐっ……!」
 受身を取る暇もなく叩きつけられたパブリックフォンの口から呻き声が上がる。衝撃で息もまともにできないらしく、苦しげな様子が見て取れた。
 殺しあいという状況でもなければ、苦しむ様子をじっくり見てやりたいところだったのだが、今はそんな場合ではない。タクシーはすぐさまパブリックフォンを蹴り飛ばす。
 成人男性の体がわずかに浮き上がり、一メートル程転がった。
 パブリックフォンは自身の力を考慮し、相手を絞殺しようという結論に至った。だが、タクシーはそのような手段を考える必要さえないのだ。
 残酷なまでの暴力。それによって命を屠ることができるだけの力を彼は有している。
「ここに刃物でもあれば、サクッと殺してやれたんだが、なっ!」
 転がったパブリックフォンに向かって軽く跳躍すると、自重に重力を加算して転がっている彼を踏みつけた。
「があぁっ!」
 鈍い音と共に悲鳴が上がる。
 体の構造が普通の人間と同じなのかはわからないが、肋骨のようなものが折れたのだろう。
「我慢しろよー?」
 平然とした様子で言いながら、タクシーは何度もパブリックフォンの腹を踏みつける。一度、二度、三度。並みの力ではない脚で何度も踏まれているからか、彼の腹はおかしな音を立てていた。
 パブリックフォンも抵抗の意思を見せ、電話線を持つ手を動かそうとするが、与えられる激痛が動きを阻害する。
「く、そっがぁ……。ガハッ」
 五度目以降にもなると、タクシーの足がめり込むたび、パブリックフォンの口から赤い血が吐き出されるようになった。
 失血死か、吐血によって呼吸が止まるか、あるいはもっと違う死因になるのか。細かなところはわからなかったが、近いうちにパブリックフォンの命が潰えることは確かなのだろう。
「腹ばっかりってのも飽きてくるな」
 不意に、タクシーが的を変える。
 腹よりも上、顔面だ。
 顎が砕ける音がした。
「お前、まだ生きてるのか。
 とっとと死んだ方が楽だぞ」
 激痛に全ての感覚が支配されている中、あまりにも平素通りなタクシーの言葉だけは鈍ることなくパブリックフォンへ届く。
 命の有無が精神によって決まる世界に慣れすぎたパブリックフォンは、今さら自身の死を望むことができない。肉体的な死に関しては己でどうこうできる問題ではない。
 そんな気持ちを込めて、タクシーへはてめぇが死ね、という言葉を投げつけてやりたかったのだが、生憎とそんな余裕も器官もすでに存在していない状態だ。
 痛みに軋む脳内で、パブリックフォンは予想そのままの結末に唾を吐く。
 始めから無理のあるゲームなのだ。脚力でも腕力でも、パブリックフォンはタクシーに勝てない。速さは比べる必要すらない程にタクシーが圧勝している。どこにパブリックフォンが勝てる要素があるというのだ。
 それでも諦めず、自身が成せることをした。だが、結末は変わらない。生き残るのはタクシーで、パブリックフォンは無残に殺されるのだ。
「フォン、大丈夫だからな」
 酷く、優しげな声が聞こえた。
 何が大丈夫だというのか。パブリックフォンは怒鳴りつけてやりたかった。
 間違いなく自身は死ぬし、現在は痛みで頭が朦朧とするし、目などはもはや明暗しか認識しない。
 けれども、パブリックフォンは体から力を抜く。心の何処かが、大丈夫なのだと納得してしまった。理由も理屈もわからないが、そうなのだろう、と。
 そうして、明暗のみを判別していた視界が、暗に染まっていく。じわりじわりと侵食してきた暗闇に視界が全て飲まれ、パブリックフォンは痛みから解放された。
「……死んだか」
 タクシーは足を止める。
 原理はわからないが、部屋に出口が出現したのだ。向こう側は真っ暗で何も見えない。出口を越えたところにあるのが見知った世界なのかどうかもわからない。だが、タクシーは不安気な顔をすることもなければ、先へ進むか否か迷う素振りさえ見せない。
 どの道、この部屋に留まるつもりなどないのだから、先に何があったとしても頓着する必要はないのだ、といわんばかりだ。
 タクシーは床に横たわるパブリックフォンの隣に膝をつくと、開いたままの目を閉じさせる。しかし、容赦なく蹴りつけたため、虚ろな眼球が見えなくなった程度では死顔の悲壮さは薄れない。それでもタクシーは満足したのか、ふっと笑みを浮かべた。
 次に、彼は力ない体をそっと横抱きにした。パブリックフォンの手がだらりと垂れ下がり、酷く抱えにくい。
「オレは地獄のタクシーだからな。
 お前みたいな碌でなしでもちゃんと運んでやる。
 何処にだって行ってやる。
 遠い昔からそうしてきたように」
 そう言ったタクシーの顔は穏やかだ。
「助手席はいつだってお前だけが乗ってたわけだが、これからはオレの車に乗る奴がお前だけになりそうだな。
 流石の連中も、お前が助手席に乗ってたら乗車拒否してきそうだからなぁ」
 歌うように言葉を紡ぎ、出口へ足を進めていく。
 タクシーが通った後には、パブリックフォンの血が点々としており、それが一本の赤い糸のように見えた。
「お前専属のタクシーってのも、悪くないな」
 そうして、二人は部屋から出て行った。

END